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八木(一)
委員 田原
委員に引き続いて御質問を申し上げたいと思います。
私は奈良県の生まれでございまして、水平社運動が発足した地域におりますので、部落の問題については私なりに相当研究をいたしておるつもりであります。そこで先ほど田原
委員に対する
防衛庁長官の御答弁ですね。この大半は非常にすなおに受け取ってけっこうだと私も思うのですが、少し心配があるわけであります。その点についてちょっと御
指摘を申し上げまして、また御意見を承りたいと思うのです。
このような部落差別の問題は絶対にあってはならないという
防衛庁長官の御意見はまさにそのとおりであります。しかしながら、このようなことがあることがほんとうにびっくりするくらいの問題であると言われました点については、いささかこの問題について、まだ御研究が十分でないと思うわけであります。関西が一番いわゆる部落の多いところでございまして、密度が多うございます。そこにおいては、残念ながら部落の差別が現存をしているわけであります。これは残念ながら否定できない事実であります。しかもそれがだんだん減ってくるのじゃなしに、場合によっては拡大をする傾向がございます。そういうものがどういうことから淵源しているかということをひとつ御研究をお願いいたしたいと思うのです。
この問題については、
昭和三十三年の三月の十一日に、当時は岸信介総理
大臣でしたが、衆議院の社会労働
委員会において、私が岸さんにいろいろと質問をいたしました。その前の二月の二十五、六日だったかと思いますが、予算
委員会において各閣僚に御質問を申し上げました。そこで総理
大臣と私
どもの間に意識の統一をしたことがございます。この部落の差別は、差別があって非常に貧困がある、またその貧困があるために差別がなくならなくて拡大再生産されるという問題については実に許しがたいことである。これをなくすためには、政府も、それからあらゆる人が努力して至急に根絶するようにやっていかなければならないという意識統一があったわけであります。その問題で、幾分歴史的な問題に触れております。
実は、この部落差別の直接の根源は、徳川幕府からまいっております。徳川幕府が権力を集中して固めるときに、政治の根源は経済的な問題でありますから、そのときの一番生産に
関係した人から、権力を持っている支配階級である武士階級がいかに収奪をするかということから始まっているわけであります。そのことは、いわゆる百姓をして食わしむべからず、飢えしむべからずということばで表現しております。百姓が飢えて、どうしてもやりきれなくて、たとえ武士の弾圧を受けて投獄とかあるいは殺されるというようなおそれがあっても、もうがまんがで芦ないというので百姓一揆をやる、そういうところまではしぼってはいけない。しかしそのすれすればまでしぼれということが、徳川幕府の基本的な政策でございました。それを、いろいろな点でそれだけではなかなかいかないので、それを補強する政策をとりたいというのが徳川幕府の政策であった。そこで経済的な問題と別に身分的な問題でこれを補強しよう、いわゆる士農工商という身分の制をとりました。士というのはさむらい階級で、そのときの支配階級であります。これが一番上位にいくのは、幕府でありますから、当然そこにいく。あと、各種の職業に従事している中で農民が全部の生産の大
部分を占めている。ここからしぼらなければならないかわりに、これには名誉を与えて、武士の次の地位を与えて、国の宝であるというような、はっきりいえばおだてて、ものをしぼろうという政策をとった。したがって、それよりも下級の身分をつくらなければ百姓の人が喜ばない。ですから、農工商、工といえば、これは大工さんであるとかいろいろの技術を持っている人、一般的にいえば農業をしている人と差別を受けるべき人ではございません。ございませんけれ
ども、それよりも農を上に置いた。商もそうであります。いろいろと商業をする人が徳川幕府の末期においては幕府をしのぐぐらいの実権は持ちましたけれ
ども、形式的においては、その中では一番はずかしめられた。それだけでなお足りずに、その次にえた非人という階級を置いた。そういうことで多くの生産に携わっている人たちの名誉心をもってこれをごまかして、そしてすれすれまで収奪したというところに徳川幕府の機構があった。それを強調するためにえた非人という階層を置いて、いろいろ戦国時代以前の戦争によって敗残した人たち、社会的に迭避したり、経済的にも大っぴらにそういうことをしないから状態の悪くなった人が、いわゆる戦国時代において実力時代になって、それが実際上なくなりかけておった。ところが徳川幕府が権力を確立するときに、それをさらに確立したわけです。三百年間、人間外の差別を法律的、行政的に行なっていった。それが明治時代に太政官布告で廃止になりました。廃止になったことはよいことでありますが、それが実際上は逆ともいっていいような状態になった。というのは、身分差別が一応なくなって、全部平民だということになった。しかし、その時代には士族という階級を置いた。しかもその上に華族という階級を置いた。したがって華族、士族というような敬意を表されなければならないようなそういう階層があった。その反対に、逆のほうはないがしろにされる、卑しめられるという
状況が歴然として残った。しかも華族、士族には位階勲等がみなつきました。勲等はあとでございます。そういうふうに身分制は、太政官布告はありましたけれ
ども、明らかに残った。
そこで徳川時代においては、そういうことをしたかわりに、徳川幕府に非常に巧妙な政策をとっております。そういうふうに身分差別、人間外の差別をしたならば、たとえその数は少なくても、その集団の人たちはがまんができなくなって一揆を起こすもとになります。したがって、そちらには別な方法をとった。いわゆる皮革その他に
関係の産業に従事している人が多かったので、それに対する経済的独占権を与えた。したがって、武士の所有の馬が死んだ場合、百姓の所有の牛が死んだ場合、武士及び百姓が、前は自分の家畜であったにしても、これに手を触れることを許さない。皮革の製造は近隣の部落の特権になっておったわけであります。したがって、経済的に恩典を与え、身分的に非常な差別を与えておる。百姓の場合は逆に身分的に非常に持ち上げて、経済的に収奪した。そういう両輪でやっておった。ところが明治以後は、観念的には差別は撤廃いたしましたけれ
ども、経済的な点については一切考えなかった。たとえば士族については秩禄公債というものを発行いたしました。これは現在の金にすれば非常に大きな金であります。しかも士族は大体身分的にいわゆる官吏になりました。開拓するときに一番いいところを与えられて。裕福な農民として自立する世話をされ、しかもその資金を秩禄公債で与えられた。また商工業に回るにしても、その秩禄公債の原資がありますから、そういうことができる。武士のほうにはそれだけのものをしておいて——武士というのは世襲的に俸禄があった。それがなくなったかわりにそういう手当てをした。ところが部落民には全然それをしなかった。ただ名目的に平民という名前で呼ぶというだけだ。しかしながら一般に新平民という名前で呼ばれておった。そういうようになっておった。経済的な特権がなくなったわけですから、皮革産業に近代資本主義が浸透いたしまして、その伝統的な産業が資本主義経済に圧迫された。伝統的な産業は独占権がなくなった。したがって非常な貧困が生まれた。そこで、働こうとする場合に都会に出て就職をしようとすると、依然として差別概念が残っておりますからいいところに就職ができない。それでは商売をしようか。町のまん中で商売をしたら事業上都合がいいとわかっておっても、差別概念がひどいからそこに土地を貸してくれない、家はもちろん貸してくれない。ですから商工業で成り立とうとする競争にも非常におくれたわけです。そういうことで経済的に非常に貧困になった。おまけに前からの差別概念は依然として残っておる。それが、だんだん民主的になったからなくならなければならないのに、非常な貧困な状態にあるために、人間的な差別概念に貧困な人に対する差別概念が混淆いたしまして、さらにこれが強くなったというかっこうであります。それで米騒動の与件が起こったということで、世の中にこの問題に対処しなければならないという空気が起こった。戦後の新憲法になってからも、この問題がほんとうの意味で対処されていないわけです。たとえば農地解放が行なわれた。それは小作権を持っていた人に、耕作農民に農地を与えておる。ところが部落農民は小作権すら持っておらなかった農業労働者だった。わずかに何十年の努力で小作権を持っておってもごく少ない農地である。また一番条件の悪い山のはたで、収穫ができない。川のそばで水が出たら流される、そういう悪い条件のものをごくわずか獲得したにすぎないのであります。それをもとに農地改革が行なわれたから、農地改革の恩典は部落農民には均てんをしておらないわけであります。資本主義経済の中においてはそのような失
業者群がいることが、非常に低賃金で収奪をするのにぐあいがいいわけであります。明治、大正以後、そういうことに対しては積極的に対処されておりません。新憲法になって労働法規その他ができていろいろなことが擁護されるわけでありますけれ
ども、それはおもに日の当たる産業であって、たとえばいまの臨時工、あるいは日雇い工、左官工という人の大
部分が関西以西においては部落の出身の人です。したがって、あらゆる点でそういう対処が行なわれておらない。そこで非常な貧困がある。もちろん子供は上級学校にいけない。もし中学校で一生懸命勉強をして就職をしようとしても、依然として就職に差別がある。というのは、民間の会社では身元調査ということで実際上差別がある。身元引き受け能力がない。何か事故を起こしたときに賠償能力がないというようなことで、同じ成績であってもとらない。ですから、その青年がそこで一生懸命ひたむきに生産に邁進しようと思ったところが、それがいけないとなったら一部虚無的になる子供が出てまいります。そういうことがずっとある、そういうことを申しております。そこで、この三百年の間に同胞がほんとうに非人間的な差別を受けた。しかも明治以後、より以上の差別というべきものを受けておる。その問題は許しがたい問題である。これは政党のいかんを問わず、まただれが一番大将であるとを問わず、徳川時代以降の歴代の政府の責任です。これを解決することは今後の政府、全国民の責任であって、それに対処するには歴代の政府が全力をあげてあらゆる面でやっていかなければならないということを、岸さんと私
どもの間で
確認をいたしたわけであります。
昭和三十三年の三月八日であります。それを受けて先ほど
教育局長が言うように、内閣の閣僚懇談会が三十四年にございました。幾ぶん問題が進んでいるが、あらゆる面でいたさなければなりません。普通の場合、民主主義が進展したならば、人権思想が進展したならば、これが直るというように観念的に考えている人が非常に多いのです。それだけではない。むしろ経済的な問題を根本的に——雇用の問題なり、生活の問題を解決しなければこれは根絶する道が進んでこないということを強調してございます。しかし、それと同時に観念的な差別概念が一掃されることが必要であることはもちろんであります。したがって
教育局長が言われたように、経済的な点についてあの当時の論議があまりにもなおざりにされておったために、これに重点が置かれておったけれ
ども、基礎として観念的な人間としての差別概念を払拭しなければならないことは、その大前提であります。ですから、こっちをやればこっちをほっておけばいいということではないわけであります。そこで、それから以後ずっと部落問題を集中的に取り上げられております。労働省との話し合いによって、雇用の差別についてこのような討議が何回も行なわれております。差別雇用をなくさなければならない。ところで民間のほうの事業主はさっき言ったような例で、うまくいかない。これに対して使用主教育をやらなければならない。家庭のいい子をとれば楽だというような間違った概念でやることによって、差別が温存される。そういうことをやるような使用主、差別雇用をするような業種には、いまのような労力不足のときにも新しい青年労働力を供給する紹介を政府はしないというような罰則をもってやっていくというようなことを論義されております。しかしながら、それ以上に先にやらなければならないことは、国家公務員であるとか、公共企業体であるとか、地方公共団体の職員であるとか、そういう国の威令が直接に行なわれるところにおきましては、断じてそういうことがあってはならないし、雇用の当初の問題だけではなく、雇用ができてからあと昇進その他についてそのようなことが一切あってはならないということが
確認されているわけであります。この問題について、たとえばそのようなことがあったら出世の妨げになる、そのような言辞があったように伺っております。こういうようなことが少しでも
自衛隊の中にあっては困る。
自衛隊の中では、政府がほんとうにやりたい、解決をしたいという意思が率直に反映し、そのとおりにされなければならない部門である。民間の企業にこのとおりやれといっても、これはやりたいけれ
どもすぐにはいかないが、
自衛隊は国家の機関である。だから
自衛隊においてはそんなことが断じてあってはいけないのに、このようなことが起こったことは非常に遺憾である。あと一問いたしますが、それについて
小泉防衛庁長官が、先ほど非常に真剣に御答弁になっておられますけれ
ども、そのような状態について御理解がまだ十二分でなかったと思いますので、この点について御検討をいただいて、いま言ったような趣旨で本格的に取っ組んでいただきたいと思いますが、それについての御答弁をいただきたい。