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大谷藤之助君 実はこれが、当時の録音の、郵政大臣に提出された現物でございます この録音の速記も手元にあるわけでございますけれども、これをいまお読みし、あるいはお聞かせする時間もございませんし、その内容の問題点について、ひとつ
質疑を行ないたいと思います。
言いますれば、この録音、単なる一巻のものでございますけれども、これのとりようによっては、生殺与奪の権も持っておるテープだと申してもはばからない言論の暴力だと、強く指摘される方もあるわけでございますけれども、またあらためての機会に、御
承知ない
委員の皆さん方にお聞きを願っておくことが、これは一党派の問題ではないと思うのでございます。
実は、この放送の当日は、大野副
総裁の遺体は、荼毘に付するために、御
承知の高輪の自宅を、家族と訣別して密葬に行かれる当朝でございます。むろん遺族、
関係者はもとより、この故人の遺徳をたたえてあの門の内外、あの沿道には、何千といういろいろな各層の人が涙とともに送っているさなかに、この放送があったわけでございます。しかも、これはいわば悪口雑言の限りを尽くして、しかも、事実を曲げて故人を誹謗し、この場で私は申すことも実ははばかるわけでございますけれども、あるいは大野副
総裁を指摘して、政界を毒し国を毒する一種のキノコだ、あるいはガンだ、あるいはウイルスだ、あげくのはては、その
政治活動一切のものは博労の取引のような、袖から袖へというようなことばも使い、さらには、恥部と言いますから恥ずかしい部分ということだろうと思いますが、人は隠すけれども、この恥部を頭に置いて、恥部を副
総裁としていただいて云々と、こういうような、実は故人のみならず、この
国会なり、あるいは
政治の場全体に対する強い刺激のことばも吐いておる。最後には、大野副
総裁がなくなったことは、国のためにはお祝いすべきこと云々、かようなことまで、いまだ密葬も行なわれていないそのさなかに、かような放送がされておる。その非情性、非人間性、言語道断だと私は
考えます。この放送を聞いた縁のない町のおかみさんが、聞くにたえないといってスイッチを切ったということを、実は私も直接その人から聞いておるわけであります。まあ前後に例を見ないこの放送を聞かれた悲しみの遺族さんの心情を思いますれば、これはもう察して余りあるものが実はあるわけでございます。
かようなことがはたして言論の自由に該当するものであるかどうか。事実さえも曲げて、故人の名誉を誹謗棄損し、あるいは侮辱する。さらに、あるいは
政治に携わる者、いな
国会、
国民全体を侮辱冒涜し、人が
政治を破壊すると言っていますが、
自分から口の下で、この放送を通じてむしろ
政治に対する不信を
国民にあおり上げたいと、さような意図すら実は勘ぐられるようなこの放送は、もしこれを見のがすというようなことがあったら、これは、その人の
政治感覚を私は疑う。また、これに憤激しないような人間であるならば、私は人間でないとさえ申し上げたいわけであります。私は、決してこの低級なそういう一部の評論家個人を名ざしてどうこう
考えておるものではございませんが、むしろ直接行動、あるいは力の物理的な暴力よりも、なおおそろしい害のあるこの言論の暴力に対して、その真相というものは徹底的に糾明し追及しなければいけないと、かような見地から実は
質疑を申すわけでございます。
最初に、まあ総理は、その放送はお聞きになっておりませんから、放送から私どもが感じますムードは、やはりこれは言うたことばよりも、それはテレビの大事な点でありますけれども、まず言論の自由という問題について、ひとつ総理に
お尋ねを申し上げたいと思います。
もとより私どもは今日
政治の場に携わっており、あるいはまた党派が違い、あるいは思想が違い、イデオロギーが違い、いろいろ
立場が違う方々がおるわけでありますけれども、しかし、事実を事実としての反論やら、あるいは
批判は、たとえ、これは
立場が異なっておりましょうとも、私どもは謙虚に耳を傾けて、そうして進んで反省の資料とするなり、また、明日へのよりよき
政治へのかてとすることは申すまでもないことでありますけれども、かくのごとくに、言論の自由に名をかりてその乱用、これはあたかも評論家の特権であるかのごとく、全
国民の上にバチルスをまき散らすような、かかる評論家のあり方は、強く指摘し、自由の中にもやはり社会的な節度もございます、限度もございます、秩序もございます。いわんや、事実を曲げて人権を侵害し、名誉を傷つけ、死者を冒涜し、
政治の不信をあおる、これほどの言論の暴力は、とうてい黙過できない。私ども、今日、言論の自由の殿堂だと言われる、人が言っておりますこの
国会の中におけるわけでございます。何をしゃべっても刑法には引っかからない、おこられることはないといいますけれども、やはり私どものこの言論の行き過ぎは、あるいは失言として懲罰を加えられ、あるいはまた、極端になれば陳謝どころか、除名されて、その
政治的生命を断たれるということもあるわけでありますけれども、評論家の言論の自由や、その行き過ぎ、乱用については、これは天下の公器であるテレビやラジオを通じて害毒をまき散らしても、これが何ら取り上げられることのない、指摘されることのない、対処されることがないということであって、はたしていいものか、私は総理の御見解を承りたいと思います。