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稲葉誠一君 きょうは時間がないから問題点の
指摘だけですけれ
ども、大臣考えていただきたいことは、いまの日本の裁判の中でほんとうに真実が発見されないとか人権が尊重されないとかということの一つの原因は、私は警察なり
検察官の調べというか、その調書のとり方に問題があると思うのですよ。調書は、実際にいろいろな問答をしているわけですが、その問答の
経過というものは全然出ないわけです。いかにも被疑者が
自分でべらべらしゃべったような形で調書ができるわけですね。この調書のとり方というか、調書の
やり方に問題があるわけですよ。いろいろしゃべったことを、検事は検事の
法律的な頭でまとめて、そして
自分でどんどん口でしゃべるわけです。しゃべって、それを書記官が書いていて、このとおり間違いないかと来る。そうすると、たいてい調べられているほうは
法律的には専門家ではありませんから、わからないから、そのとおりですと言う。そういう形で名前を書いて
判こを押してしまう。そうすると、それがあとになって証拠能力がある。あのとき自白したじゃないかということになって押えられて有罪の判決になる場合が非常に多いわけです。だから、一つの例は、たとえば人を刺した場合などに、それが殺人になるのか傷害致死になるかという、殺意があったかなかったかというようなことは、それは客観的な証拠によって判断すべきなんですけれ
ども、そうでなくて、
検察官のほうで、こういうところを刺したじゃないか、そうすれば場合によったら死ぬかもしれないということは当然わかっていたじゃないかと聞くわけです。そうですねというふうに答えると、調書にはそういうふうにはならないで、私がああいうところを突いたから、その相手方は場合によっては死ぬかもわからないと思いましたと、こういう調書になるわけです。そこで、未必の故意、殺意があったという形で調書ができるわけですよ。そうすると、あとになってそう言わないとか言ったとかという争いになったところで、実際には調書ができて名前を書いて
判こが押してあれば、それはやはり
訴訟法で言う特別に信頼すべき状況のもとにつくられたという形になって証拠にされているわけです。これは非常に大きな問題なので、
検察官の調書のとり方、あのとり方を根本的に改めないと、ほんとうの真実なり人権の尊重は発見できないと、こう思うのです。これはもっとよく研究しなければいけないことだと思う。私もこれは研究してやらなければいかんと思う。あの調書は、悪く言えば、
自分で問いを発して
自分で答えている場合の調書が非常に多いわけですよ、自問自答の調書が。警察官なり
検察官の手元で、あたかも調べられた人が話したような形でつくられている。結果として出てきている。あれを変えなければ、ほんとうの真実を発見できない。これは私は一つの問題だと思うのです。これはきょうここで結論を出そうと言ったって無理ですから、私も研究していこうと思います。
もう一つは、法廷の中において
検察官が証拠をたくさん持っているわけです、
自分の権力によって集めた証拠を。
検察官は公益の代表者なんだから、当然それを出さなければならない証拠であっても、
自分の有罪を立証するものを出して、ちょっとでもそれに不利である、情状の点でも不利であると、隠しちゃって出さないわけです。これは松川
事件の諏訪メモがいい例ですが、その他にもたくさんあります一そういう
やり方をしている限りは真実を発見できない。
いま、当面この二つの面を問題点として
指摘したいと、こう思っているわけです。いまここでお答え願うというわけじゃないが、十分大臣にお考え願いたいと思うわけです。