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説明員(
千代健君) お答えいたします。
昭和三十六、七年ころからかと思うのでありますが、港に入っております船と
陸上との
通信を始めようというような世間の、巷間の要望が非常に強くなりましたので、当時、細々と
神戸と
横浜に
岸壁電話を
——岸壁に
停泊中の船と
陸上の
一般加入電話との間の通話を始めたわけでありますけれ
ども、なるほど、
岸壁につく船というものの数は非常に
——船の中で全部が
岸壁に終始ついておるものではない、あるいは
沖がかりで
荷役をやっておるというような船のほうがむしろ多いというような点もございまして、この点ではすでに、港の中の
ブイに
停泊いたしました場合に、
ブイまで有線で持っていっておいて、そこから
電話をつけたらどうかという、いわゆる
ブイ電話というものが戦前から研究されておったわけでございますが、なかなかこのほうははかどりませんで、むしろ超短波の
無線でやったほうがいいんじゃなかろうかというような
結論に達したかと思うのでありますが、そういった点で、
昭和二十六年、二十七年
あたり、
神戸、
横浜二ヵ所でいろいろテストをやって始めたわけでございます。現在では、それがその港の中の
停泊中の船、これと、一部の
海域では、すでに
航行中の
船舶というものと、やっております。たとえば東京から出て大島へ通います船、あるいは
神戸から出て別府へ通います船、長崎から出て五島へ通います船、こういったいわゆる多数の人が乗る
客船等、こういったほうまでだいぶ広がっております。そういった
関係で、もちろん定期的に出入りするものも
相当多うございますが、船というものは四六時中入ってまいりまして、いま、この
ブイが
あいだがら、こちらへつけろ、そういった場合に、二十四時間中、のべつまくなしに入る、あるいは出る、こういった
体制が、残念ながら
公社では、いまのところでもそうでございますが、当時からとり得なかった。船が入りまして二日間の
荷役をやって夜中に出ていく、そういった場合に、
船舶の
相当知識がございませんとできなかったというのが、非常に大きな
理由でございます。
それから現在、沖についておりますけれ
ども、その
岸壁があいだから
岸壁に入る場合、
岸壁から
沖乗りに変わる場合、こういったように、われわれのほうの
知識と経験では非常にやりにくい
仕事が多い、こういった
体制が
公社になかったということが一つでございます。
また、これはそういった
専門家がやったほうが、より能率的だと——たとえて申しますと、
外国の船が入りまして、そこへ
無線機を積むという場合には、私
どもも数年前から
改正してもらうようにいろいろ頼んでおるわけでございますけれ
ども、無
為替輸出と申しますちょっと煩瑣な
手続をして、それから船へ持ち込む。それから今度ははずすときには、無
為替輸入という
かっこうではずす。そういったことが
外国船の場合には非常に多うございまして、そういった
手続を、私
どもの、全
職員と申すと非常に大げさでございますが、
一般に
電話局、
電報局で
電話、
電報の
仕事をやっております
人全員に覚え込ます、あるいは、それに熟練さすということは非常にむつかしい、こういった点もございます。
それから夜っぴていつでも入ってくるというようなものに対する
体制が非常にやりにくかった、こういうことが大きな原因でございます。
それから船上の
作業というものは、
保守業務でも、あるいは取りつけ
業務でも、やはりなれた人のほうが非常に能率的に
仕事ができる。私
どものほうの、かりに千なら千の
職員を訓練しましても、
全員がそれができるような
体制にするということは、非常に非合理的なことでもございますし、そういった
関係から、経済的な能率的な
運営というものをはかって、そこで、むしろ、そういったことで
合理化を行なって余力は回したほうがいいじゃないか、こういった
観点から、この
会社が二十七年末につくられ、二十八年の八月から
公社の
業務を
委託されて発足した、こういう
経緯でございまして、この
会社に
業務を
委託しております
理由というものは、今日も実は変わっておらない状況でございます。