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国務大臣(
吉武恵市君) お
手元にたしか届いておるかと思いますが、「
山陰地方集中豪雨災害調査団報告書」というのがございます。これによりまして
概略お話を申し上げますので、
あとはこれをお読みいただきたいと思います。
御
承知のように十九日日曜日の朝のテレビで、突然
島根県に
死者二十数名出たというのを私見まして、これはちょっと普通の
災害でないぞという
感じがいたしましたから、直ちに
警察当局並びに
消防当局を通じまして刻々の
現地の情報をとったわけであります。そうしますると、午後になりまするとだんだんに
死者がふえてまいりまして相当の数にのぼっておるようでございます。そこで、
災害の
規模は詳細にわかりませんけれども、
死傷者の数が多いということは、相当大
規模の
災害であろうということで、箱根の総理のほうにも早速
連絡をいたしましたところ、それはひとつ直ちに
現地に
視察に行ってくれないか、こういうことでございました。そこで翌日二十日になりまして、午前中に
内閣で
防災会議を開かれまして、その結果、
係官を連れて
調査団長として
現地へ行くようにということでございましたので、さっそく
防衛庁の
飛行機を依頼いたしまして、
防衛庁の
飛行機をもって午後一時に羽田を出発したのでございます。
係官は、ここの一ページの終わりから二ページに書いてございまするように、各省の
係官を帯同して
飛行機で参りました。
飛行機中で気がつきましたことは、うっかりすると、おりても水のために
現地の
視察がしにくいかもわからない。そこで、まず
低空飛行ができるならば
低空飛行で
現地の
概略をひとつ見てからにしようじゃないかということで、四時ころ
松江の上空に差しかかりましたので、急に
操縦士に依頼をいたしまして、
低空飛行で約四十分くらい
宍道湖周辺を回りました。回ってみますると、
松江の郊外はすでに
水浸しでございます。もう
農地は全部
水没をしておりました。それから隣の
斐川に参りますと、
斐川のほうも
農地はほとんど
水没をしております。それからその次にひどかった
加茂町の
付近へ入りまして、上から
堤防の
決壊の
状況、さらに
決壊によるその
付近の
農地の
水没の
状況というようなものを見まして、さらに
出雲市に出ました。
出雲市から
平田市、これは
斐伊川の下流でございます。ここへ参りますると、左岸は全部
農家が
水浸しでございます。水の中に小さな森がぽつぽつ見える
程度でございます。森が見えるのは何かと思ってよく見ますと、
防波林でございまして、
防波林の中に
農家が一軒ずつある、それがみんな
水没しておるという
状況でございます。これはたいへんだなという
感じを受けまして、それから美保の
飛行場に着陸をしたのでございます。この点は二ページのところに書いてございます。
飛行場に
鳥取県の
知事が来ておりまして、
鳥取県の
状況を
飛行場で聞きまして、特に
米子市
付近が
水浸しになったということで、その
付近を見ましたが、もうすでにそのときは
米子市は水が引いておりました。
それから引き続き
鳥取県に入りまして、
県庁の
対策本部に六時過ぎに参りました。ここで、
知事は不在でございまして、伊達副
知事以下幹部の
方々と会いまして、
災害の
状況をつぶさに聞きました。そうして同時に
地元の
要望を、これは手回しよく印刷にできておりましたので、その一々について御
要望を承ったのでございます。これは
島根県庁からの
陳情書がおそらくお
手元のほうにも届いておるかと思います。いずれももっともな
要望でございます。
そこで一応聞きまして、七時に
県庁を発しまして、おそくはございましたけれども、
現地視察に出かけたのでございます。
松江から次は
斐川村というのが隣にございます。この
斐川村に行く途中の道路は
水浸しでございまして、ようやくジープが通れる、車輪が隠れる
程度でございますして、両側のたんぼは全部
水没でございまするので、御想像いただけるかと思います。
斐川村におきまして
斐川村
当局の
方々及び先ほど申しました隣の
平田市、これは
農地が全部
水没したのでございます、この
市長も来ておりまして、
事情を承り、見舞いを申したのでございます。それからすぐ八時ごろに
出雲市に入りました。
出雲市に入りましてわかりましたことは、
死者の一番多く出たのがこの
付近でございます。
出雲市だけで約四十人の、
死者が出ておりまして、ここで
市長から
災害の当時の
状況を詳しく承ったのでございます。
どうしてそういうふうな
災害が出たかということは、五ページにその
事情を簡単に私書き抜いておるのでございますが、
死者は結局百五名、そこへ行くえ不明が三名、これは私が帰りまして
自分で筆をとった
報告でございまするから、その後多少、
不明者が
死者になっておるかもしれません。五ページでございます。これを簡単に申し上げますが、十五、十六日に非常に
梅雨前線の雨が終日続きまして、十七日にちょっと小やみになったので、ひと安心をしておりますと、十八日の日にまた朝から
どしゃ降りになりまして、特に夜分になりますと三百ミリ以上の雨が降り出しました。そこで夜のことですから
農家はみんな寝静まっておりますと、夜の零時半ごろから山くずれが始まって、あちらでも家がつぶれて
死者が出た、こちらにも
死者が出たという
報告がどんどん出てきて大騒ぎになったわけでございます。どういうふうにしてなったかと申しますると、山の土が
——あの辺の土質は花崗岩の風土化した土だといっておりますが、俗にいう赤土に砂のまじったような土でございます。それが連日の雨で水を含み切っておりますところへ
どしゃ降りでございますから、これがくずれ出して、山のふもとの
農家がつぶれて全滅した、
線路に落ち込めば、それが
線路を遮断しまして
交通不通、こういうことでございまして、そういう
地帯なのでございまして、特別に危険な
地帯に家があったということでなくして、そういう
地帯は、他にも
現地を翌日見てみますると、あるわけでございます。したがいまして、
農家の
方々は、まさか
自分の家がつぶれるとは思いません。夜中ににわかに山くずれになりまして、
一家全滅の方も相当ございます。また、中からようやくはい出して助かった人もございますが、そういうのがあちらにもこちらにもあるというので、一ヵ所でそれだけの多数が出たのじゃなく、どこの
山陰、あちらの谷間というふうなので、
出雲市だけで四十名、それからいま申しましたその
出雲地区全体で百五名にのぼる
死者が出たのでございます。まことに悲惨でございまして、
報告の途中、
出雲市長はむせび泣きまして
報告が一時とぎれたような
状況でございますので、その
地元の
状況というものは御想像いただけるかと思います。
そこで、前に返りまして、
地元の
状況を承って夜十時過ぎに一たん引き揚げまして、翌日早朝に
係官を集めまして、
陳情の次第を
一つ一つ私は詰めて聞いたわけでございます。
係官の
説明も、聞いてみますというと、
要望の筋はいずれももっともであって、何とかできるであろうということでございます。多少立法もしなければならない問題もあるかとは思いましたけれども、大体において、やればやれる
状況でございましたので、翌日八時半に再び出発をいたしまして、もう
一つの
被害の甚大であった
加茂町に行ったわけでございます。
加茂町に参りますというと、これが
被害の
中心地帯でございまして、ここはどういうことかと申しますと、
斐伊川という
宍道湖に流れる大きい川の支流に
赤川という川がございます。その
赤川の
——中小河川でございますが
——堤防が
決壊いたしまして、その
堤防のすぐ下にある
加茂町という約四百戸、二千人の部落が全部
水浸しになったのであります。この
地帯は、かつて一度下のほうが
決壊したことがございますので、
町民は、あらかじめ警戒はしておったようでございます。しかし、まさかと思っておりますると、だんだん水かさが上がりまして、
堤防を越えるようになったので、町長が十一時半に
避難命令を出しました。このときに
農協長が
有線放送を使いまして、全
町民に、早く
避難してくれ、あぶないからということで、中腹の小学校に全部を
避難させました。
避難が終わりました一時間後の三時過ぎごろに、その町の上手の
堤防が
決壊いたしまして、怒濤を巻いて流れ込んで、家も、それこそ三分の一近く流され、倒れ、水は二階家の上の屋根の
付近まで
水浸しになりました。平家は全部
水没をした
状況でございます。これは指揮よろしきを得たために
死傷者がなかったのでありますが、一歩誤ればおそらくこの町の婦女子は危険にさらされたんじゃないかと思いまして、ぞっとしたのでございます。そこで、
避難をいたしておりまする各学校の部屋々々を見て回って参りましたが、応急の
災害救助作業は、
町当局の行き届いた手で一応はできておったようでございます。これは
加茂町のみならず、
被害町村の、いわゆる
罹災救助地域でございますが、これは大体そういうふうな
報告を受けております。そこで、私は同時に、その町の中を歩いてみまして、
水没をしたその家々も訪問してみますると、大体この町は、
中小の店屋がたくさんございます。その他はサラリーマンの住宅でございます。で、町の
中小の店は、品物は全部
水浸しで、もうどろどろでございます。したがって、
中小企業に対する融資その他のめんどうを見なきゃならぬということを深く
感じました。と同時に、これだけのどろ水の、便所も何も一緒くたでございますから、うっかり水が引いたと思って入るというと、たいへんな
伝染病になる。せっかく命の助かったことであるから、
あとはひとつ思い切った消毒をして、
心配のない状態で入るようにということを懇々と指示いたしまして、ちょうど
保健職員も数十名来ておりましたから、その点を厳重に指示をして帰ったわけでございます。
ここで私は、もう
一つ皆様方に御
報告を申し上げたいと思いますことは、ここばかりではございません。ほかの
災害地域の話を聞きましても、大きい
河川は大体改修は行なわれておりますが、いわゆる
中小河川が、なかなか手が回らない。この
赤川も三年前の三十六年に一回下手が
決壊いたしまして、それを
災害復旧中でございます。まだ完成しない途上にあったのでありますが、こういった
危険地域における
中小河川につきましては、
格別の
復旧強化をしないというと、同じことを繰り返すおそれはないかという点を深く
感じた次第でございます。
一応、以上の点がおもな点でございまして、
自治省といたしましては、
要望のうち、いわゆる
交付税の繰り上げ
交付を急いでくれ、
地元町村はちょうど夏枯れで資金のないときであるからということでございましたので、私は帰りまして直ちに繰り上げ
交付の
指令を出しております。なお、
地方税の減免につきましても、早速
関係市町村に対して
指令を出したような次第でございます。
なお、
鳥取県のほうへは、
現地視察団の各
係官を出して
調査をさしてまいった
状況でございます。
ごく
概略でございますけれども、以上御
報告申し上げます。