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説明員(
兼重寛九郎君) どういうことが基礎
研究で、どこから
開発かというのは、これはいろいろむずかしいと思いますが、大学の中でもたとえば理学部の人
たちから見ますと、工学部でやっておりますことなんかは、はるかに応用に類することでありますけれ
ども、しかし、工学部の者――私は工学部の
関係者だったわけでございますが――から見れば、またその工学の中で大学でやるような基礎的な
研究はあると思っておりますし、またあるわけでございます。そこで、いま東大の生産技術
研究所でやってきましたことが大学でやるのにはふさわしくない。応用
研究であるかどうかというのは、これは見る人によっていろいろ
意見があろうかと思いますけれ
ども、あすこの
研究者たちが、いろんな分野の者が
関係しておりますけれ
ども、その協力もしませんでしたら、現在の
状況まで
日本はいかなかったろうと思うのであります。それで、私はいつも申しておりますのは、宇宙
開発といいますと、とかくロケットを
開発してそれをなるべく高く飛ばすことであるかのような印象が濃いことで、これは非常に残念に思っておるわけであります。宇宙
開発にはもっとやらなければならぬことがたくさんあるように思うのでありますが、ロケットだけが問題にされますので、そのロケットだけに
考えを詰めますと、東大の生産技術
研究所は
昭和二十九年ごろから小規模のものから始めてあそこまで育ってきた。それも、後になりまして、
科学技術庁がそれと似たようなことで始まったのでありますが、そういうときに、よく相談がありまして、お互いにどういうふうにして、この分をどちらが受け持つというようなふうになっておったらよかったろうと思うのでありますけれ
ども、私の知っておる限りでは、その辺は非常に不十分であったと思うのであります。時間をとって恐縮でございますが、
昭和二十七年平和条約ができまして独立を回復したときに、航空の
研究ができるようになりました。当時通商産業省それから
運輸省などから、かなり大規模の計画の航空に関する
研究機関をつくりたいという話が出ましたときに、同じつくるなら、できるだけいい性能の高いものをつくって、みんながそれを
利用することにしようではないかという話になりまして、大学の
関係者も含めて約二年あまり相談をし、調査団を出しまして、いま三鷹に航空技術
研究所というのができたのでございます。これは大学の人もちゃんと相談に乗っておりますから、たとえば駒場に航空
研究所という大学の
研究所がありますけれ
ども、たとえばそこでは、このごろ非常に高速度の気流を出すマッハということで、よくありますけれ
ども、マッハというとおそらくいま十五ぐらいじゃないかと思いますが、そういうものをつけますが、これは非常に小さなもの。ところが航空技術
研究所のほうは、もっと大規模のものをつくっている。そのかわりマッハはそれよりも少さいのでありますけれ
ども、そういう三鷹の
研究所にあるような大規模の
施設を使って
研究しなければならないものは、大学の人もそこに行ってそれを使ってやる。各省の人も民間の人も皆それを使ってやるというような相談のもとに進んでおりますので、その辺は、その後同じようなものがほかにできると、まことに……。ただし、これは現在航空の
研究所というのがあまり
日本では問題にならないからそういうふうにいってるのかもわかりません。これが宇宙
開発のように非常に注目を引くものであったら、なかなかそううまくいかなかったかもわかりませんけれ
ども、その当時そういうことをやった効果が確かにあった。ところが、いま宇宙
開発については、どうもそういうふうな努力がされていないのじゃないかという気がいたします。お前はそういうことをやるべき
立場におるじゃないかとおっしゃられるかもしれませんが、前の航空技術
研究所のときから、もう十年をこえておる。ですからもう次の人がそういうことをやられてもいいのだろうと、私はこう思っております。