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参考人(
山下博明君) 私は、
大正七年に
東京の
商船学校を卒業しましてから、長く
郵船会社に
船員として
第一線に立っておったわけでございます。その後、
昭和十四年に
横浜の
水先人となりまして、ただいまも電車の中で
考えますると、約四十六
年間を
海上の
第一線で活動しているものでございます。それで、きょうのお招きは、昨日お電話をいただいたようでございまして、非常に時間がなく、少しも勉強しておる間がありませんものですから、何を申し上げていいかと迷うことでございますけれ
ども、ただ、この
経験と、現在
海上に働いておる者の常に
考えておることにつきまして、
一言何かの御
参考に申し上げてみたいと思います。
戦後、船が非常に
大型化したということは、新聞その他において御
承知のことと存じますが、実際にどんなに
大型になっているんであろうと、こういうことは、実際に取り扱ってみないとおわかりにならぬと存じますけれ
ども、
戦前一万トンの貸
物船というものはほとんどなかったのでございます。また、有名な
浅間丸とか
龍田丸とか申しましても、せいぜい
総トン数一万七千トン
程度だったわけです。ところが、戦後になりまして、
総トン数一万トン以下の普通の
貨物船が建造されない
ばかりでなく、
タンカーとか
鉱石専用船は、ついこの間まで二万トン、三万トンといっておりまして、
川崎における
築港許画は十二
メーターの
水深で二百二十五
メーターの船長、約五万トンの船を
標準にして完成したのでございます。ところが、まだ完成し終わらないうちに、五万トンの船ではだめだ、これが七万トンになり、八万トンになり、十万トン、あるいは十三万トンと、日に月に
船型は大きくなっているのでございます。それと申しますのも、いろいろの問題でもって
日本は
欧米に追随していたのでございますけれ
ども、
スエズ運河の
河口水深は十一
メーター半でございます。
パナマ運河は十二
メーターでございます。それでございますから、欧州でも、アメリカでも、
南米の
鉱石を運ぶに
パナマ運河を通らなきゃならぬ、
ペルシャの油を運ぶには
スエズ運河を通らなきゃならぬというので、大体十二
メーターを最大の
喫水といたしまして建造され、現にその趨勢であるのでございます。
日本は
南米から
鉱石を運ぶに
パナマ運河を通る必要もない。
ペルシャから油を運ぶに
スエズ運河を通る必要もない。でございますから、
幾らでも大きい船がつくれるのでございます。この点は船の経済上非常に重要なことでございまして、私
ども第一線にある者は、
日本の
産業のために、この
立地条件の
有利性を生かしまして、
欧米にできないような大きい船でたくさんのものを経費を安く運ぶ、これは私
ども海の
一線の者に課せられている、
日本の
産業に貢献する唯一の道ではないか、こう
考えておるのでございます。しかしながら、このことは、言うはやすくして、実際の実行は非常に困難でございます。何となれば、この間も、御
承知かもしれませんけれ
ども、出光興産で建造されました
日章丸——十三万トンでございますけれ
ども、その長さは
東京ステーションよりもはるかに長いのでございます。それで、そういうものを一体いまの港で、いままでのような
衝突予防法、いままでのような
港則法で安全に着けられるか。いままでのそういう港の諸
設備あるいはルールは、みんな一万トン以下を
標準にしてつくっておるのでございます。ところが、急激にこう船が大きくなりましたから、要するに
子供の服をおとなに着せるようなもので、すべてのことが間に合わない。しかし、これを何とかやらなければならないというのが、いま私
ども及び
日本の
海運界の置かれた運命でございます。で、私
ども一線にある者はできるだけこれをやろうと思いますから、ひとつ
港湾の建設とか、あるいは
港則法、
海上取り締まり、あるいはこれはインターナショナルにわたりますけれ
ども、
衝突予防法、そういうものも、この
大型船の
運航に差しつかえないように官民一致協力していただくことが、
欧米ではとにかく、
日本の
海運のためぜひ必要なことではないかと、こう
考えるのでございます。
きょうも、来ながら、事務所でもって書類をさがしましたときに、ことしの二月二十日付のロイドのガゼットには、ハンドリング・ビッグ・
タンカー・イン・ザ・テームズというサブジェクトで、八万五千トンのバージバーゲンという船が十二
メーターちょっとの
喫水でテームズ川に入ったということを大きく報告しておりますけれ
ども、たとえば
東京タンカーの
星光丸は九万六千トンで
喫水は十五
メーター・一八あるのでございます。これをすでにわれわれは入れ出ししているのでございます。またアポロは
総トン数十一万五千トン、ドラフトは十六
メーターでございます。これも
千葉の
出光桟橋には入れ出ししておるのでございまして、そのやっておることにつきましては
欧米のそれに劣っておるものではないと、こう確信しておる次第でございますから、ひとつ
大型タンカーに対してはどういうふうにやっていったらいいかということについて、お役所も、また
関係者も、そうして私
どもみたように
一線にある者、協力してこの難局を解決したい、こう思うのでございます。
いろいろ申し上げてみたいと思いますけれ
ども、ただいまも申し上げましたように、
海難の
防止を
大型船ということについて申し上げましたが、ただに
大型船で
操船が困難
ばかりでなく、きょうもちょうど出かける前に
裁決がありまして、NHKの記者がなんか来ていろいろ言っておりましたが、一昨年の十一月十八日に第一
宗像丸及び
ブロビグ号の
衝突がございまして、きょう
裁決があったのでございますが、私
どもは、いくら大きな船、あるいはある
程度狭い所でも、
自分だけの択船ならばあまり心配してないのでござまますが、この
大型化と同時に、
港湾における
海上の
輸送量が非常にふえた。それで、
小型タンカー、
小型船、このトラフィックが非常にふえた。でございますから、あの
海難を起こしました当時の
川崎運河の
通航量というものは、一時間に三百隻の
大小小型船がその地点を通過しているのでございます。ですから、一分間に五隻の船が通過する。そこを縫って歩かなければならぬ。それで、これではとてもだめだということで、あの事件から、この四月一日に、
運輸省でもお
考えくださいまして、
港則法の改正ができ、そしてあそこの
航路の規制というものもだいぶ進歩しまして、大いに、きょうも申し上げましたけれ
ども、
海難はだいぶもう減るだろう、楽にはなりました。ああいう大きな犠牲をただそのまま新聞種にして過ぎ去ることは、非常に残念なことである。今後もこういうようなことについてまだまだ
研究することが多々あると、こう私
どもは存じておるのでございます。
それから、これは、いまの
港湾の問題ですが、こう申し上げておるわけですけれ
ども、いままで
大正時代、あるいはその前、
昭和の初め、
戦前につくりました
日本の港は、ほとん
どもういまの
大型船には役に立たないんじゃないか。どうもいろいろ
考えますると、
港湾の
施設とか、そういうことに対して、
日本人のやることは、目の先だけのことで、永久的のことをやってない。われわれが
自分のうちを建てるには、たとえ十坪のうちを建てても、
子供がふえたときとか、孫が生まれたときとか、どういうふうにこれを建て増ししようというようなプランのもとに建てますけれ
ども、
日本の
港湾は、そのときどきでもって完成して、先のことを
考えてない。だから、すぐ行き詰まってしまう。たとえば、まだ船を入れておりませんあの
田子の浦の港にいたしましても、最初は千五百トンぐらいの船が入ればいいのだといってスタートとし、三千トンになり、五千トンになり、まだ船が入らぬうちに一万トンになる。一万トン以下の船はほとん
どもう
外国航路にはなくなるものですから、一万五千トンだ。一万五千トンに広げるには、だんだん広げていって東海道の
鉄道線につかえてしまう。これではどうもならぬ。もし
田子の浦の港の
設計を、前々からこの
大型船になるということを見通して、一万五千トンあるいは二万トンというふうに計画しておいたならば、入り口をつくって奥がなくなるというようなへまなことにはせなかったのではないか、こう思います。同じようなことが、
日本の各港になされております。もう戦後十年ぐらい前につくった
千葉の川鉄の
ピアにしましても、いまの
大型のオア・キャリアにつきましてはもうどうにもならぬ域に至っておるのでございまして、この辺をひとつ、
港湾の
設計には御協力をしていただきたい。そして運用の面から、
港湾はどうつくるべきであるか、
航海の安全、
操船の安全の面からどうあるべきかというようなことを考慮していただきたい。ただ、
ばかにここの港は
水路が広いなと思えば、埋め立てをするのに土が足りなかったから
水路を広くした、
ばかに狭いなと思えば、これは土が
幾らでもあるから
水路を狭くしたというような港のつくり方では、どうも
航海の安全ということに御協力されていないじゃないか、こう思うのでございます。
さらに、この
大型船の
操船の難易とかいろいろの点でいま
横浜でも問題になっておりますことをひとつ申し上げまして何とか御
参考にしていただきたいと思いますが、
開港検疫は、これは悪疫を防ぐためにぜひ必要なものでございます。ですから、これはもちろん厳重にやらなければいかぬのでございます。ところが、先ほど申し上げましたように、
船型が大きくなる、そうして狭いところにもう入ってこられないということになりまして、たとえば今度つくりました
根岸の日石の
ピアに
星光丸を入れるのに、普通だと一度
横浜の
検疫錨地まで持ってこなければならない。その
検疫錨地も、船が一ぱいいるから、ずっと奥でなければならぬ。そこに
検疫官が行って
検疫して、それからまた外のほうへ出て行って、そうして
根岸の
ピアに入れるのだということでは、非常に時間がロスする。かつ、その狭いごたごたしたところでこの大きいものをああ取り扱う、こう取り扱うということから、非常に危険が伴う。しかし、もちろん
伝染病を防がなければなりませんけれ
ども、
ペルシャなら
ペルシャから来た船には船医が乗っておりますので、必ずしもこういうことをする必要があるかどうか。もしこういうことが必要ならば、
飛行機もどこかにとめておいて
検疫せなければならぬけれ
ども、
飛行機の人はどんどん蒲田でおろしてしまう。船の
人間だけこういうめんどうなことをする。もしこういう船を一時間ロスいたしますると、約二十五万円から三十万円のロスになります。それで、こういう大きい船は
喫水が
一ぱい一ぱいでございますから、われわれは、ハイ・
ウォーター——潮の上げたときよりほかに取り扱うことができないという問題がございまして、
喫水一ぱい一ぱいに来て、これが間に合わなければ翌日に回されるわけであります。そうしますと、
検疫をするために、少なくても、安全にいっても、五百万円は損をするのであります。同じように、
クリーブランド号なんかにいたしましても、一時間二十五万円は、これが延びることによって損をしておるのでありまして、この辺は、
検疫をどういうふうにするかということで、実際ある
船会社その他において、何とかせなければいかぬということになっております。
現地横浜の
検疫官は、実際やってあげたほうがいいんだと思うけれ
ども、
検疫の
人間が少しも多くならない、
検疫のボートも多くならない。そういう特殊の船のために特殊の
検疫をすれば、一体
一般の船がどうなるのだ、だからできないのだ。要するに、
検疫官は
検疫官で、やりたいけれ
ども、
設備がないのだと言いますし、それから業者はもちろん不平はたくさんありますけれ
ども、
日本の
官庁は非常にこわいものですから、表からどうもやってくれなければ困るじゃないかと強く突っぱねていけば、次にかたきを討たれるというようなことで、これも泣いておるのでございまして、厚生省としましても、新しい港が非常にできていますから、新しい港の
設備のために、
横浜のような古い港はネグレクトされるわけであります。私
どもは
戦前七人で
水先業をやっておりましたのが、いまは三十人になるのでございまして、三十人でも忙しいのでございます。同じように、
横浜の港に出入する船は
戦前の三倍、四倍にふえております。ただ、一番大事な
検疫業務は、
戦前そのままでございます。これでもって間に合いようがないのは当然でございまして、新しい港の
設備を拡充していくということも必要と存じますけれ
ども、こういうような港の進運につれて必要なそういう
事業には、
十分予算を差し上げまして間を欠かせないようにすることはぜひ必要じゃないか、こう思うのでございます。
その他いろいろ申し上げたいこともありますけれ
ども、大体十五分になりましたから、終わります。