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賀屋国務大臣 ただいまお話に出ましたあの訴訟についての判決でございますが、この内容につきましてはいろいろな点が盛られてあると思います。
その
一つの点は、あの広島、長崎に対する原爆の投下は国際法違反であるかないかという問題でございまして、あの判決では国際法違反であるということであったかと思います。これにつきまして、ああいう原爆の投下などということがないことをこいねがう、これはもう
日本人
一般の願いでございまして、もちろん
政府も私もこいねがっております。ただ、冷静な法律論としまして、国際法違反であるかないかということは、違反であるという説の人もあり、そうでないという説の人もございます。御承知のように、原爆というのが新しい問題でありましたために、条約で禁止するものもなければ、また慣習法的に国際法で違反と認められたものもない。一方では、無防備都市の爆撃が国際法違反ということは、陸戦法規でございましたか、きまっておるわけでございましょう。その精神から推して違反であるという議論もあるが、しかし現実の規定もなく、それにそっくり該当すると思えないというので反対論もあり得まして、これはいろいろな説がございまして、あの判決のとおりであると、これは冷静な法律論としては私
どもも同意いたしておらないところでございます。
それから、
日本の
国民が直接にアメリカ
政府と申しますか、大統領と申しますかに対して損害賠償の請求権はないのだということが
一つ盛られております。これは、冷静な法律論としてそうではないかと思うのでございます。したがって、
日本はああいう種類の請求権一切を桑港条約で放棄いたしております。しかし、
日本政府のその放棄が権利があるものを放棄したという意味でないから、
政府がアメリカ
政府にかわってというふうな観念から原爆の被害者に対して補償をするという法律上の義務はない、おそらくそういうふうな判決だったと思いますが、これも法律論としては正しいのじゃないかと思います。
それからなお、裁判官の意見でございますが、現在のように
日本が経済的にも回復したときに、戦争によって起こった原爆の被害者に対して相当な補償をするのがむしろ適当じゃないかというふうな意見もあったかと思います。この点に関しましては、私個人としては実に複雑な感情を持っておる次第でございます。私個人としまして、
国民の一人として、あの原爆の被害に対してほんとうにお気の毒と言いますか、痛ましいことに対する絶大な同情はもちろんございます。しかし、私は実はその点については三重の感じを持っておるわけでございます。
一つは、あの原爆の被害の起こりました当時の戦争開始を決定しました内閣の一員でございますし、私個人として、
日本のうちにおいてあの戦争の与えた
国民に対するいろいろな悪い、ほんとうに悲惨な、不幸と言いますか、こういうことに対して重大な
責任を負っている一員だと思います。それで引き起こしました原爆問題でございますから、私は、その点についてほんとうに被爆者に対してたえがたい痛惜と申しますか、念を持っておる次第でございます。
それから、
大原委員も広島県の御出身でございますが、私は広島市で生まれ、育ったものでございます。原爆のいわゆる落下の中心地点から一町余り、二町といわないところの家で生まれ、育った者でございます。むろん、その家屋な
どもこっぱみじんで、あともございません。死亡した親戚、知友等も多い次第でございます。そういう意味から非常に同情しまして、個人としましては、ほんとうに
国家補償でもあれかしというような希望、感じを持っておる次第でございます。しかし、これは
日本の
政府としてどう考ええるかということになりますと、単純に私の個人の感傷、感じで判断するわけにはいかないと思います。と申しますのは、補償をすれば、これは結局
国民の負担において補償をされることになるわけでございます。それからまた、他にも戦争による被害と申しますか、いろいろ問題がございます。相当に原爆の被害者に施設がしてありますが、それ以上のことをすることになりますと、ほかのそういうものに対しての権衡を考え、その権衡を得るようにそれを一切やれば、またそこに大きな
国民の負担も出てくるわけでありますから、
政府というものは、別に財源を持っておってやるわけでもないのでございまして、そういう点から、いろいろ性質論やまた国の
財政の点も考えてこれは結論を立てなければならぬ、こういう次第でございます。それではどうするかということになりますと、率直に申しまして、私は、
政府の中においてそういう救済であるとか
財政負担ということにつきましての直接の
責任者ではないわけでありますから、
政府でどうするかという感じについては、私の答弁は差し控えたほうが適当だと思います。ただ個人としては真に願わしいと思うような感傷を持っておるということだけは、個人の感じとして申し上げることができる、こういう次第でございます。