○田中(織)
委員 一般の民事
事件等の関係から参りますると、相当時間がかかるという関係から、やはり訴訟手続の進行ということが
裁判所あるいは弁護士会等で問題になっておるやさきでございますので、伺ったわけであります。やはりそういうようなことが同時に、最初に伺いました
簡易裁判所判事に対する
一般の信頼感の問題にも響いてまいろうかというような観点から伺ったのでありますが、大体状況がわかりました。
そこで
下級裁判所の関係についての私の
質問は大体終わったわけでございますが、
最高裁から総務局長なり人事局長が見えておりまするので、最後に
一つ伺いたい問題があるわけであります。
これは簡場
裁判所のみならず、やはり
裁判官の素質と言いますか、そういう問題に関連をしてくるわけなんです。具体的な事例といたしましては、いまから四、五年くらい前になりますが、いわゆる勤務評定、学校の先生方に対する勤務評定問題を文部省が強行してまいりましたことに関連をいたしまして、あるいは地公法違反その他の関係で、俗に勤評
裁判といわれているものが現に各地で係属中です。そこで、ごく最近は大阪の地裁で大阪の教組のいわゆる勤評
裁判について無罪の判決が出ました。ところが、昨年の十月の末であったと思うのでありますが、やはり同事実における和歌山の教組の
裁判については、和歌山地裁で、たしか中田
裁判長であったと思いますが、年配の方だったと思いますが、これでは一名を除きまして有罪の判決があったわけです。勤評
裁判は、そういう
意味で私どももその
裁判の逆行状況というものを注目いたしておるわけです。東京都の都教組に対する関係は、たしか無罪の判決があったと思うのです。それから佐賀が勤評
裁判のトップを切って判決が出たのでありますか、これは無罪の判決が出ておる。佐賀に続いて福岡の教組に対する判決が出ておりますが、一部有罪、大部分の者は無罪の判決が出ている。これは教組の関係の諸君が、御承知の日教組という中央の連合体の連動
方針に従いまして、それぞれやはり条例制定その他の問題に反対をいたしまして、休暇を申請して職場大会等を開いたという関係の事案で、全国各地の事実において若干の相違もございましょうけれども、大体同じような事案だと思うのです。ところが、いま私が申し上げましたように、佐賀、東京、最近の大阪のように、同一事案に対して無罪の判決が下っておるかと思いますれば、和歌山であるとかあるいは福岡の一部が有罪判決を受けた。こういうようなことを
国民は——少なくとも
裁判所は、
最高裁判所以下高等
裁判所、地方
裁判所と、検事のように一体の——検事一体の原則というものがあるようでございますが、もちろん個々の
裁判が
裁判についての全
責任を持たれておるわけでありますけれども、
国民の側から見ますと、同一事案に対して、ここの
裁判所では無罪、こっちの
裁判所では有罪の判決が出る。こういうことになりますと、はたして
裁判の公正と言いますか、そういうものが確保されているかどうかということについて素朴な疑問を持つのはあに私のみならんやと言いたいのです。こういう点について、ことに和歌山の中田
裁判長の
裁判の批判をここでやろうとは
考えませんけれども、判決
理由書を私も見ましたが、新しい
教育基本法によりまして、今日全く問題にならないところの、もう架空の
存在であるところのいわゆる
教育勅語を引き合いに出した形の判決
理由が示されておるというようなことになりますと、先ほど簡裁の判事の任用の問題について申し上げましたけれども、それぞれ厳密な選考試験の結果なにされ、ことに地裁でこの種の
事件を扱うところの
裁判長というものは、その点から見まするならば、多年
裁判所判事として練達たんのうな方だと思うのであります。それぞれ高裁で、あるいは検事控訴等の関係で、無罪の判決の下ったところもいま控訴公判中の関係がございますから、あるいは控訴審では何らか統一した——と言えば語弊がございまするが、これについての公正な判断が下されるものだと思うのでございますけれども、少なくとも地裁の判決の段階では、私、
国民が奇異の感を持っておると思うのです。こういう点については、もちろん個々の
裁判官の重大な
責任とその権威というものを尊重する点においては、私は決して人後に落ちないつもりでおるわけです。われわれ立法府の
立場においても、
裁判所の独立というものを認めないことには法治国としての体制が立たないという点を、私どもは立法府の一員であればあるだけに、三権分立のたてまえの
裁判長というものの権威がいやが上にも上げられる、
国民がその
意味で
裁判所の決定に従うことが行なわれなければ、法治国としての実体は確保できない、私はこういう観点に立っております。
実は勤評
裁判でそういう素朴な疑問を持っておりますので、この点については、その
意味において、
裁判官に任命されてから以後のいわゆる
裁判官のあるいは時代の進運に対する認識を深める、そういうことに対する——これは
最高裁判所といえども個々の
裁判所にそれだけの指導権がないのだといえばないのかもしれないけれども、私は、
裁判官諸君に、もし
最高裁としてのそういう
方針をおろすわけにはいかないということになりますれば、
裁判官諸君の研さんを大いに求めなければならぬと思うのです。その仕事の聖なる点を上反省する
意味においても、私は、やはりこれはわれわれが立法府の一員であるからこういう公式の場においてこれを申し上げるべきではないか、こういうふうに
考えて御
所見を伺うわけでありますが、何かその点は
裁判官会同等においても問題になったことがあるのかどうか。
裁判官会同というようなものはそういうような点についても触れるのか。私はこの点は、きょうの
質疑は、すでに
三田村委員の
質疑でこの
下級裁判所に
議題が変わっておるわけでありますが、いずれ来週以後において
暴力法の問題について私は
質問をいたしますけれども、その場合においても、
暴力法が大正十五年でありますか制定された当時のいわゆる立法
理由というものと、その後のこの
法律の適用がどうなっているかという観点から見まして、しかもそれは戦前と戦後とで大きく変わっておらなければならないものが、今日依然たる態度で出てくるという点が、これは
裁判官諸君の研さんに大いに得たなければならぬ問題を含んでおると思います。
このあとの部分については、いずれ来週以降において私もとっくり法務
当局なり提案されましたところに
質問をいたしたいと思うのでありますが、この
法案に関連をして、
裁判所
当局から
政府委員の諸君が御
出席願えるかどうかということもわからない段階でございまするので、私がこの問題を最後に取り上げた
意味は、やはり
裁判の公正、
裁判の権威、司法権の独立という点から見て重大な問題を含んでおる、私はこういう
考えで
質問を申し上げておるのですが、この点についての
最高裁の関係者の御
所見が伺えれば伺いたいと思うのであります。