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大沼参考人 経営的に、
企業的に
各種学校が採算とれているからそれでいいんじゃないかというおことばなんですが、そういうことでなくて、やはり
教育と名のつく以上は当然私自身の
考え方、あるいは今日まで実践してきたことでもそうなんですが、なるべく大ぜいの
人たちによりすぐれた
教育環境の中で
生徒の負担を最も軽減して行なうのが
教育だというふうに私は
考えております。当然
生徒の負担がどんなに高くてもいい、あるいは
教育環境がどんなに悪くてもいい、そういうことでは
教育は成立しないのではないか。したがって、少しでもよい
教育環境をつくりたいし、少しでも
生徒の負担は軽減したいというその二つの矛盾したことを
学校経営者というのはやっていかなければならないわけです。そのためにはいろいろな方法あるいは努力を今日まで重ねてきているわけですが、
各種学校が
経営的に採算がとれているかと申しますと、たとえば私どもの
学校ではここ十数年来
学校会計はほとんどとんとんないし赤字でございます。それを
一つの収益事業部門を別に持ちまして、そこの利益金で補てんするというような形をとっております。そこで学生にはむしろサービスすることが多くて、学生の
授業料はその中で最小限度に押えるというふうな方針をとってきております。そこでまた当然
各種学校であるということにおいては、先ほど申し上げましたとおり、大きなりっぱな
学校には行けない、それでも何とか実務的なものだけは身につけておきたい。そうした
勤労青少年ないしはむしろ
社会の底辺に近いところに存在する
人たちが
勉強する場でもあるわけでございまして、したがって、高額の
授業料ということは当然望むべくもございません。おそらく私立の他の
学校に比べたら、半分あるいは何分の一というふうな
授業料ないしは学生からの収益で行なっているわけでありまして、それがたいへん利益が上がるというふうな事実はないと思います。それだけに
施設の
改善——先ほど理工科系の
設備がたくさん要ると言われましたけれども、やはり
生徒を収容する教室、土地というようなものがその中でも最も大きな経費を要する部分でありまして、そうした
教育環境を整備するという
角度だけからとらえれば、理工科系もその他の
学校も差別なく、当然そういうことが必要でありまして、そうした
意味で、むしろやりたいのがやれないというのが
各種学校の
実態ではないかと思います。もう少し
教育環境を整備したい、あるいは教室をよくしたい、
設備を充実したいといっても、そうした条件下に置かれてほとんどできない。できないからつまらない
学校じゃないかというふうな言われ方をしているのが実情ではないかというふうに思います。
それから、
各種学校の将来あるいは今日までいろいろなことに対する
考え方なんですけれども、前段でも私申し上げましたとおり、
各種学校がなぜ置き忘れられていたかというところに非常に大きな問題があるんじゃないかと思います。そのほかの
産業、あるいはそのほかのものについては、比較的そうした
政府のあらゆる形の
融資、あるいは
融資でない場合でもさらに進んだものについては
助成というふうな形がとられてきたわけですけれども、なぜかその
学校教育の中の
各種学校については、私
たちはいわゆる自主的にしかも公共性を持った
一つの
学校として運営をしてきているのですが、むしろそれが正当には評価されなかった。たとえばどういうことが正当に評価されないかというと、
政府やあらゆる
関係機関で、率直に言って非常にまま子扱いにされた。たとえば
学校教育法に入っておりますので
学校教育であると言いながら、いわゆる国鉄の定期等の
一つの差別待遇、あるいは税法上の
取り扱いの差別待遇、そうしたことが
各種学校にはあるわけであります。これは
学校らしくないからそういうことをするのだということであります。ところが今度労働行政のほうにまいりますと、失業保険等になりますと、一条の
学校に入ると失業保険は当然打ち切られます。ところが
各種学校も
学校であるから打ち切る。ですから、都合の悪いところは
文部省の所管の
学校だから全部そっちでやってもらいたい。今度逆になってまいりますと、
学校らしくないから税金は取るぞというふうな、両面から今日まで攻められてきたことは事実なんであります。ですから
各種学校に対する
政府の態度もおそらくなかったのでしょうし、
各種学校に対する
考え方というのはおそらくどこでも確立していなかったのでしょうが、行く場所場所によって全部ばらばらな
取り扱いを受けてきたということは間違いのない事実でございます。そういうことであって、なおかつ今日までの
各種学校が伸展を見せたということは、それだけ
社会的の重要性があったからにほかならないと思います。それだけの必要性があったからこそ百三十万人の学生を擁する
一つの大きな
教育機関として発達してきたし、また
社会的に容認されない、あるいは
産業界から全然認められていないという形になるならば、おそらく
各種学校は一気に雲散霧消していたはずなんですけれども、今日なおある種の強い基盤を持っているということは、それだけにそれが
社会一般大衆からは大きく容認され、認められ、その上に築かれてきたというふうに
考えているわけですけれども、
政府の施策の上ではほとんど置き忘れられた、全く片すみに追いやられた
一つの存在として今日まできたという感はいなめないと思います。したがいましてわれわれといたしましても、そうした青少年の要望にこたえるためにも、こうした
各種学校の
あり方をはっきり自覚して、
教育環境の整備、あるいは
内容の充実、
社会的な
地位の明確な確保ということをはっきり望みたいと思います。また、それを遂行していくための
政府のあたたかい手を特に待ちあぐんでいるわけでして、
学校教育の
一つの底辺と申し上げるよりも、むしろそうした
社会の重要な
地位にありながら、今日まで何ら
政府の施策にあずかること——全然あずかっていないとは申しません。税法上の若干の恩典もあるわけですが、さらに拡大された形で、少なくとも一条の
学校と同じような、あるいは、力が弱いわけですから、むしろそれ以上にあってもいいのじゃないかと思うのですが、そうした施策を特にお願い申し上げたいと思います。