○
三木(喜)
委員 私はなぜこういうことを聞いておるかといいますと、
一般に市販されておりますところの三月八日の朝日ジャーナルに、
文部省のお役人も出て、
道徳教育のこの
資料につきまして説明が載っておる。これを読みまして、もしもこういう
考え方で
文部省教研がどんどん進めていかれるということになるとこれはたいへんなことだと思うのでお聞きしておるわけなのです。
問題点だけ出しますと、この見出しは「
道徳教育と
指導資料」「新しい人間をどうつくるか」この討論のやりとりを見たのですが、私の問題としたいのは、
文部省の初等
教育課長がどのような
態度でこれを言われているかということです。もうお読みになっておる方は感じておられるだろうと思うのですが、
道徳教育と
指導資料については別に論議するとして、これに出ておられる人は、東京都世田谷区三宿小
学校長金沢嘉市さん、
文部省初等
教育課長西村勝巳さん、東京都練馬区谷原小
学校教諭渡辺五郎さん、横浜市老松中
学校教諭小宮隼人さん、それから東大教授、東大付属高中
校長宮坂哲文さん、この五人ですが、このうちで小
学校長の金沢さんは大体司会的な役割りをつとめておられる。西村さんは役人であり、渡辺さんはこれについていろいろ問う側に立っておられる。小宮さんと東大教授の宮坂さんが
道徳教育についていろいろな意見を述べておられますが、これに対するところの
文部省の役人の方の受け答えというものが私は非常に気になった。教研の
内容については今後この文教
委員会でお聞きしたいと思うのですけれ
ども、こういうやり方でやられるということになると教研というものがますます高圧的になりはしないか。
〔南
委員長代理退席、
委員長着席〕
先がた二つの要素を私は申し上げましたが、自主性を尊重しなければならぬということと、それから学力テストとか入学試験とかいうことによって逆に、
道徳教育だとかあるいは
研修とかいいながら、子供たちは成績をよくするために不正をやってもいいというような退廃的な環境を
文部省自体がつくっていないかという問題。第三には、こういうような押しつけがましいところのやり方、われわれはおまえたちを
教育してやるのだという
態度でやられたら、私は
現場の
先生はますます
研修ということに対して
意欲を失うのじゃないかと思うのです。これを一ぺん読んでみます。
道徳教育指導資料が生まれるまでの大体の経過は最初に金沢
先生がいろいろ説明されて、今日道徳
資料が出たという必然性、いきさつを言っておられる。その次に「
現場の実態はどうか」という問題で「
指導要領が十分具体的でなかったり、
指導計画の作成が困難であった。」これはそのとおりです。「
一般社会の倫理感の動揺や、思想的な対立などから自信も勇気も薄れて、」「古い公式論や権威ありそうな人の
考えを借りないと大きな声でものが言えない」これを
文部省のほうから役人が言われておる。小宮
先生はこれに対して、
資料に対して不信がある。
資料を見つけてやってみた。しかし子供は受け付けない。たとえば、リンカーンとかガンジー、そういう問題を出してみますと、子供たちはこういうことを言っておる。「一生懸命働き、そこで生き抜いていくだけです。」そういう人が出ても〕、そういう人を見習うというのではなくて、生き抜いていくだけです。「かなり割り切っているということ。もう
一つ大事なことは、受験体制がここ三年ばかり強化されて、
文部省の学力テストが行なわれて、いろいろな学力テストの点数が、極端にいうと一切を支配する。悪い点を取ると
教師も
学校もそれで評価されるということで、とにかく
自分のクラスの子供たちの点数を上げることに懸命になる。それで道徳の時間がテストの答え合わせに使われているという始末です。」「
資料がほしいという時期は確かにありましたけれ
ども、いまはそうではない、」こういう話をすると、
文部省の課長さんは、おまえは
全国の事情を知らないからだ、こういう答えなんです。こういうような受け答えを、こういう
一般に売られておるところのこういう座談会の中でやられては、これは
現場の
先生は、いろいろな意見を言わなければならぬという座談会で、ここで課長も言われておるように、
自分の思っていることを言い、そしてこれは是なりと思うことを言い切ることがいま大事だということを最初に説明されておるそのあとでこれを言うと、これは
全国の事情を知らないからだ。1これは事情を知らないからにしておきましょう。
その次にこういうことがあります。「日常生活との結びつき」です。道徳というものについていろいろな
問題点が出されてきて、そうして、宮坂
先生というのは東大の教授ですが、道徳というものは集団の中での生き方を教えるものだ。西村
先生は、社会の中で個人というものがどう生きるかだけではない。人間というものの
意味を見詰めることが大切である、このように説明している。そこで司会者が、「
文部省は個人の内面へ向けた道徳を相当強く言っているのじゃないですか。」そうすると西村さんは、「社会生活を尊重することは当然ですが、これは単に社会生活が外面的にできればよいというものでなく、一人一人が何がゆえにそういうことをしなければならぬか、そういう価値の自覚に到達させるのでなければほんとうの道徳というものは生かされてこない、生きた道徳ではないという
考え方に立っています。」宮坂
先生は、「それはそのとおりです。」「社会生活なり集団生活の中での友だちなり
先生なりに対する
態度というものが内面的に深められていかなければならない、そのことが集団の中でこそ問われていかねばならない。社会生活を実践していく中で内面的な倫理性をどう育てるかということです。」それに対して、「そういう迫り方だけが道徳の
指導のすべてではない。」こういうぐあいに言っておられるわけです。そうして、あとは時間的に読むことを省略したいと思いますが、今度、小宮
先生と西村
先生とのやりとりの中で、
道徳教育というものは
学校全体の中でやるべきであるという、そういう主張をなさっておるわけです。たとえば愛国心という例を引っぱり出してやってみても、中
学校の一、二年では最初におとなの不道徳をあげてくる、それをなくすることのほうが愛国心ではないかという
考えが出てきた。それから二年、三年では「人間の顔と国土の顔」その中でこういう説明がしてある。私もこれはまだ少し見てないのですが、ここに書いてあるとおり読みますと、「二年、三年生になるともっとこまかに疑問や意見を出してくる。たとえばあの文中に人間の顔と国土の顔と同じだというようにいっているが、それは違うという意見、あるいはかつて日本は朝鮮、台湾を管理し、国土開発をしてやったとあるが、あれは日本の侵略だという意見がある。それらは子供たちの
主体的な疑問や意見なのだから、一々解明していかなければ
指導にならない。」このように言っておりますが、それに対して
文部省の役人は、そういうへたな
指導をするなというような言い方です。そうするとよいところだけをこういう問題については見せるのかという疑問がその次に起こってくる。それから一番問題になるところは、いろいろ討論の末「学級づくりへの期待」という点が出てまいります。小宮
先生がやはり言っておりますが、
資料だけでやっていくという
道徳教育は、「
教育における人間不在を引き起こすと思います。子供の内面、つまり彼らの人間的な願いや要求や関心あるいは生活意識に迫っていかない限り子供の道徳的な成長は期待できない。」このように言っておりますが、いろいろなやりとりはのかしますから誤解があるかと思いますけれ
ども一、一番しまいに
文部省の西村さんは「道徳について何もわかっていない、たいへん遺憾である」——私はここに出ている人は道徳についてわかってい、ない人が出ているとは思いませんのに、こういうきめつけ方がなされておる。そして一番しまいに東大の宮坂さんと西村さんのやりとりの中で、いろいろ話の
内容はありますけれ
ども、結論だけ申し上げますと、西村氏は大きな誤解で無責任以外の何ものでもない、こういうように言われております。この中で私は非常に気になりますことは、「なぜ
文部省が
道徳教育の副読本なり教材、
資料を直接つくってはいけないか、その理由はいろいろありますが、
一つは国が
学校教育の教材を直接つくって与えることは、戦後の民主的な
教育行政の基本原則に抵触します。
教育基本法第十条には「
教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行わるべきも一のである。」「
教育行政は、この自覚のもとに、
教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」と書いているのですから」云々。「それからもう
一つは
現場の心理的な問題。
文部省が幾ら創意工夫を説いてもむだでしょう。たとえ手間ひまがかかっても
現場の
教師たちの
道徳教育への多様な取り組みを大切にすることが結局近道であり、それがまた新しい道徳の建設という民族的な営みを促進することにもつながるのではないかと思います。」ということに対して、それは大きな誤解と思います。その次に言ってあることは、これはこの
教育委員会月報を見ますとそういうことが如実に出ておりますが、これは私は問題はあろうと思います。「
教師の
教育権などというものは全く根拠がない。そういう意見を主張される方は国民全体に対して責任を負うと言われるが、だれが国民全体なのかはっきり説明した人は一人もいません。どうやって責任を負うのか、その
方法も一全く説明がない。それは
ことばだけのことで無責任以外の何ものでもありません。そして大事な国民をだれかが
意図する方向にかってに
教育するのに都合がいい、そういう
教育課程の自主編成や
教育権などという論理はだれも了解できないと思います。」これについては
教育委員会でずいぶんと念のいったところの説明がしてある。私たちはもちろんこれについては
教師は
教育委員会に所属して、
教育委員会が国民に責任を持っておる、間接的に
教師が国民にそこで責任を負う、こういうことが私はあり得ると思う。そこの論議は別問題にして、そういうことがないということを今村さんがこの
教育委員会月報の中にるる述べております。それをここで言われたんだろうと思いますけれ
ども、行政官が国民に責任を持ったというような、いままではそういう説明をしたものがない。だれが国民全体なのか、こういうことを言われるということに私は問題があると思う。私はこれを読んでみましてまだ
問題点はたくさんあったわけですけれ
ども、
文部省教研というものがこういう感覚でやられるということになりますと、これはたいへんなことになる。だからこそ
教育会館をあなた方がストレートで信用して、
教育会館というものは
サービスのためだ、
サービスのためだといっておきながら、こういう思想が一方では流れておる、こういう点はどういうぐあいに思われますか。