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賀屋国務大臣 保護司に対します私の
考え方のおもな点を申し上げたいと思います。おことばを返すようですが、私は、力は及びませんが、決して無
責任な
考えは持っていないのであります。私は、
日本の社会的
発達を
考えますと、これは外国でもそうでございましょうが、
子供のときから社会事業に事実上関係しておる、こういう方面にいわゆる篤志で報酬を得ないで働かれる方、こういう面で、
日本の保護司と社会事業は違うかもしれませんが、民間の方が国家、社会、
国民のために働くという機運が、だんだん起こってまいりました。それから国家といたしましても、専門の、職業的に俸給を給して専門的にやってもらう者のみでなく、そういう民間の方が働いてもらうのが適当である、それがまた必要であるという場面が、ずいぶんあると思います。そういうことから、保護司の制度でも、民生委員の制度でも、いろいろなものが、農村において、たとえば婦人の面でいいますと、食事の改善とか生活改善、いろいろな意義があると思いますが、これがあるいは国がお願いしているもの、また自治団体にいろいろなものがあるんじゃないか。そういう
発達というものが社会上どういう
意味があるかというところに、実は非常な関心と興味を、知識はあまりございませんけれ
ども、持っております。それで、保護司に対しましては、私は法務省にまいります前から若干自分も関心を、何の役に立つような構想はいたしておりませんが、ほかの人よりは持っておったつもりでございます。そういう観点で見まして私の
考えますのは、そういうふうに報酬は
考えない、ほんとうに篤志でやるんだ、これは非常にうるわしいことですが、そういうことは、ある
意味で社会の
発達の幼稚性であるのではないか。篤志でやるといっても、そうそう非常な、わかりやすいことばで言えば、身銭を切ってまであらゆる人が働くことができるかどうか。非常なお金持ちが篤志で保護司になっていただいて済むものかどうか。少なくとも保護司であることが、生活の足しにはならぬでも、そのために一家の
経済上の犠牲は払わないでいられるだけの金ぐらいは出すという
考え方にしなければ、何も道義的というか、身銭を切って、手間も払う、骨を折って金も出す、そういうことのみしていては、実際の社会にそぐわないではないか。いわゆる実費だけは出す。場合によれば多少報酬的なものを加味するというふうにする必要が
相当あるのではないかということを、痛切に感じておるのであります。法務省に参りまして、そういう感じを持っておるわけでありますが、少なくとも二百八十円、三十八年度の予算では四十円増して三百二十円だ。とんでもない。いま東京なんかでいえば、ちょっと用があって自動車に乗ってみましても、すぐ何百円という金を使わなければならぬ。それから仕事は、私はよく知りませんけれ
ども、想像すれば、場合によれば観察をする相手方の者を自分のうちに呼んで、菓子の
一つも、そばの一ぱいも、食べさせる必要も起こるでしょう。また、人を呼びにやるために人を使うような場合も起こるでしょう。
考えると、いまの世の中で三百二十円、これは何だというような感じが私はいたします。私も、根拠はございませんが、せめて千円くらいにしたいものだと思ったのでございます。今年度の予算の編成にも、その
意味でいろいろ交渉もいたしましたが、大蔵省の言い分によれば、去年四十円増したばかりじゃないか、こういうのですけれ
ども、私はなかなか引き下がらない。それじゃ少なくとも最後の譲歩に、それにもう百円足しなさいと言ったのが、また譲歩いたしまして、まあ大蔵省のほうでも譲歩したのですが、四百円という、八十円増しになったようないきさつでございます。これは私は非常に不満でございますが、やむを得ずこれに満足しなければならない理由が二つあったわけです。
一つは大蔵省のほうからの理由で、それはお前さんのほうでは保護司、保護司というが、ほかに民生委員もあるぞ、何々委員、何何委員とうんとある。どれも気の毒な
状態である。それをみんな増したらたいへんなことになるのだが、どうするのだ。減税もしなければならぬ、いろいろなやらなければならぬことが一ぱいあるのだから、保護司ということから
考えれば無理だけれ
ども、まあこれでがまんをしてくれ、こういう言い方も、言われるとある程度われわれも是認しなければなりません。それからもう
一つは、この前の機会に申し上げたのですが、私は
法律扶助制度というものに非常に重きを置いております。重きを置いた理由は、私は、憲法二十五条の生活保護、
国民は健康にして文化的な生活を営む、これに対して、その実行に数年前から非常に不満を持っております。明文はあるけれ
ども、それが実行できないのではないか。生活保護が何だ。私はおそくて、はなはだ自分でもおそ過ぎると思うのですが、
昭和三十五年に検討してみました。内容をすっかり分析してみました。これが何で健康にして文化的な生活か、分析してみますと、
一般消費者の消費
水準、いわゆる第一階級という所得の少ない、消費程度の少ない階級の、ずっと近年の消費
水準の増加を見ますと、なかなかよく増加している。これは私はけっこうだと思うのです。もっと増加してもらいたいと思う。それに比して、生活保護基準というものは非常に劣っているのです。追いついていないのです。はるかにかけ離れている。これも私一人じゃありません。同じ
考えの人が多いので、それから四
年間に、不満足ながら三十五年から見ると八〇%の基準増加をして、そのほか生活保護制度に
相当の改善を加うるべく私も協力した一人でございますが、それはそれとして持っていかなければならぬが、正しい裁判を受けることは、法治
国民、立憲
国民、文化
国民としての権利だ。それは憲法も認めておるが、実行はどうかといえば、刑事裁判には国選弁護人の制度がある。これは戦前の官選弁護人の制度以来引き続いてございますが、民事訴訟には何らの国の手助けがないわけです。貧しさから訴訟を起こすことができない。そのために権利を主張ができない。不当な要求を受けて権利を防御することができない。しかも、そう言っては悪いかもしれませんが、比較的善意の、温良な、しかも豊かならざる
国民が、そういう点におちいっているということを痛感しておりまして、それには在野法曹等が熱心に
法律扶助協会をつくられてやっておりますが、国はわずかにこの数年来一千万円しか補助してない。そんなことではしようがないではないか。しかし、実績が少ない。少ないというのは、こういう制度があるということすら
国民が知らないのではないか。だから、これはうんと増して、一億円くらいにまず増していきたいと思いましたが、急にそうもいかないで、私はこれを五千万円に今年したのです。五千万円は少ない金額ですが、一躍五倍にいたしました。大いにこれを宣伝して、
国民が正しい権利を主張することができるように、ささいなことですけれ
ども、それをやりますと、たまたまこれがいわゆる
関連をするような
一つの仕事になりまして、そこに少し金をよけいとられますから、おまえさん、ここで無理を言って五倍にもしておるのだから、ほかのほうは少しがまんしなさいと言われると、ほんとうに私も不本意ですが、まずまず八十円増しで泣き寝入りしなければならぬ、これが偽らざる今年の予算編成の過程でございます。今後も、法務当局がこの増加に非常に熱心に努力する方針でございます。私は、いまでも、犯罪の増加がございまして、ことに少年犯罪なんかございますと、この保護司の観察制度とかいうものがもっと
発達しなければならぬと思います。いままでの、いわゆる篤志家的に、おまえこれじゃいかぬ、よくなれというような、われわれの古い人間の
考え、旧式のお説教でなく、これを一方には鑑別制度とかいろいろなものも進歩させまして、いわば近代的に、科学的に、病理学的にも、その保護を受ける少年などの精神
状態もよく
考えて、もっと進歩した補導をしなければならぬ。これは観察所の当局の役人もおりますけれ
ども、実際に当たるのはこの保護司の
人たちですから、これがもっと進んでもらわなければならぬ。それには始終自腹を切らせてはいかぬので、実質的のそういう向上を望むと同時に、まずまず何とか自腹を切らぬだけの手当を差し上げたい、こういう気持ちが一ぱいでございまして、これは私のみならず、法務当局としても、今後も努力するつもりでございます。今回の生存者叙勲にも、人数は少ないが、非常に多方面の人がやられましたが、数人の人がこの関係の中に出ましたことも、法務当局でも一生懸命にそういう
人々に対しまして藍綬褒章の
お話しもいたしました。薄いといえば、これが手厚くいっておりますなどと決して私
ども申しませんが、今後極力努力するつもりでございまして、保護司の使命、職責な
ども、社会の進歩に応じましてますます進んでいかなければならぬし、それには、それに対することも、私
ども政府側のほうでも
考えていかなければならぬと、切に
考えている次第でございます。