○松尾
参考人 実は、単
営期成同盟のほうで今度の
意見書を
印刷に取りかかりましたところが、
印刷の手違いでお手元にきょうは届きませんでしたけれども、後ほどお届けいたします。
それで、きょうは時間の節約上、それを全部読み上げている時間もないと思いますので、割愛させていただきますから、不徹底なところがございましたら、御質問していただければそのときにお答えさせていただきたいと思います。
まず、単
営期成同盟といたしましては、わが国の
放送は将来いかにあるべきか、ということを国の
基本方針として確立していただきたいと思うわけであります。
それで五つほどありますけれども、
内容はやはり割愛させていただきます。
一つは、民主主義
政治制度に対する奉仕を
放送でやってもらいたい。もう
一つは、公衆の啓発であります。三番目は
国民の諸
生活、諸活動に対する奉仕であります。四番目は文化の育成であります。五番目は
娯楽の供給、これを国の
基本方針として
放送にやらせてもらいたいという点であります。
それから、
放送法制の目的とその
基本原則ということになりますが、
放送法制を設定していただきますときに、三つばかり
基本原則というものをきめていただきたいと思います。
一つは、
放送の民主化ということを原則的にきめていただきたいと思います。これは後ほど述べます独占排除という点で繰り返しになるようなところが多うございますので、ここでは省略させていただきます。第二番目の原則としまして、
放送の自主性と自律性の確立ということでございます。
放送は、その表現力をもちまして健全な民主主義への貢献を目標とする
放送主体に、民主国家の根底をなす
言論表現の自由が確保されなければならぬという
基本的なことは、きわめて当然なことでございます。特に、
政治的
意見を表明する自由、これは民主国家の本質と直結するものであり、表現の自由の中核ともいうべき存在であります。しかしながら、
放送局は、その設立の際に、官庁の
免許を必要とする
関係上、行政権からの干渉に対しましては、もともと抵抗性の乏しい体質にあるように思います。それで、まずこの種の
政治的な統制ないし圧力が加わることのないように、法制上十分な
配慮をしていただきたいと思います。すなわち、
放送の自主性の確立というものは、政府側に課せられた制約だと思います。
第三番目の原則といたしましては、
放送の真実及び公正性でございます。
放送の持つ強力な
影響力と、
電波の特質からくる事業の独占性などを
考えますれば、
放送の
内容が一党一派に偏したり、特定階級の独占的な支配を受けたりした場合の
社会的弊害につきましては、莫大なものがあると思います。
放送の自主自律性は、常に公正な
立場を貫き、かつ真実を語るという
社会的責任感をもってあがなうべきであることを、法制上明確にしていただきたいと思います。
これで
基本問題に関するものは終わります。
次に、実際問題といたしまして、まず、
放送の民主化という点の実際的な問題でありますが、わが同盟では、過去三カ年間
マスコミの独占排除を訴えてまいりました。
マスコミ独占の弊害を端的に申し上げますれば、自由な
言論の流通を麻痺させるという点であります。つまり、メディアが特定の
主体に集中された場合に、その
主体に属する者の表現の自由のみが保障されて、他の者の表現の機会が制度的に制約される。そして
国民は、多くの
意見に接する自由を奪われ、常に画一的なもののみを与えられるという現象があらわれるのであります。
そのような弊害対策として、自主的に伝達の公正を期すことになっているという反論があるかもしれませんが、しかし、その
内容は、あくまでもメディアの自主的判断に基づく公正であって、絶対的な公正ではありません。もちろん、絶対的公正などというものが現実的に存在するわけではありませんが、それと同様に、メディアが固有の見解を保ちながら、同時に自己と対立あるいは相違する見解を忠実に伝達すると
考えるのも、はなはだ現実性を欠いた話であります。
この点に関しましてきわめて卑近な実例をもちまして御説明いたしたいと思います。
現在、
関係御当局では、あげて
放送法の
調査検討がなされており、近くわが国の
放送の進路が規律されようとしております。また、最後のメディアといわれている
FM放送、UHFテレビの実施も間近に迫っております。これらの
放送問題は、要するに国政の
基本原理である代議的民主性の根底をなす自由な
言論の表現方式を扱った問題であり、その去就によって
国民が受ける将来の
影響を
考えれば、その重要性は、目下検討されている憲法改正問題に比べて、何ら遜色のないところと思うのであります。しかるに、憲法問題に対する世間一般の深い関心、とりもなおさず
マスコミュニケーションの大きな扱い方に比べると、
放送法改正及び
FM放送問題は相当冷く扱われております。
放送、
新聞関係者によって、
電波は
国民のものだなどと言われていながら、
国民は、その
電波が将来どのように規律されようとしているのか、だれがその使用権を握ろうとしているのか、はなはだしきはUHFだの
FMだのというのは一体何であるのか、ほとんど関知しない状態に置かれているありさまであります。
もっとも
新聞、
放送の冷静なのは、表面だけの話で、内面では、各社とも社をあげて
FM免許問題に取り組んでいるようであります。この表裏の矛盾を
関係者はどのように説明するのでありましょうか。邪推かもしれませんが、自己の私的利害のからむ問題だから遠慮しているのだという説明でも聞かないうちは、納得いたしかねるように思うのであります。つまり別のことばで言えば、
マスコミが共通の私的利害
関係を持つ問題に取り組んでいる間は、その問題が
国民にとっていかに重大な
意味を持つものであろうとも、
国民はそれを知る
権利さえ無視されてしまうということであります。しかしながら、
新聞社が
FM放送に関する自己固有の
意見を発表する場合は、やや事情を異にして、わりあい熱心なようであります。いわく、
自分たちこそ情報と
意見の正確な伝達者である、
自分たちこそ
電波媒体の新しいにない手として最適格者である、
言論の独占支配などということは空論にすぎないと力説いたしております。そのかわり、
新聞社の
意見と対立あるいは相違する
意見は、紙上から完全に締め出されているのであります。たとえそれがいかに公の場における
意見でありましょうとも、
新聞社は沈黙いたします。したがいまして、
国民大衆の目に入ります
内容は、かつて大本営報道部が行なっていたと同じように、常に
新聞社が自己を語ることばのみに限られているのであります。が、このような身がってな
やり方が、まぎれもない民主主義体制下におきまして、自由な
新聞と自負する
人たちの手によって行なわれているということが、はたして許されてよいものでありましょうか。そこにある自由は、要するに
新聞社の独占物にすぎません。すなわち、前述いたしましたように、メディアが自己固有の見解を保ちながら、同時に、自己と対立あるいは相違する見解を忠実に伝達するのは困難であるという何よりの証拠であります。
およそ、表現の自由の成立には、対立者の表現も自由に流れるという条件が必要であります。したがって、その表現
手段がごく限られたメディアの独占物にすぎないときは、対立する
意見は閉じ込められるよりしかたがなく、その場合、閉じ込められた
意見は、次の三つの
やり方によって解決をはかるよりほか方法がありません。
第一の手は、表現の自由を私物化したメディアと同等の
印刷機を備え、販売網を組織して自己の
意見を流通させることであります。それが不可能なら、第二の手として、抗争方式を討論の段階から暴力の段階へと転落させて戦うことであります。暴力をふるうのは気が進まないという善良な市民には、第三の手があります。すなわち、メディアの独占性に対する抑圧を別の力の持ち主に依頼することであります。その力が国家権力以外にはないというなら、そのとき善良な市民は、自由な
言論と引きかえに、権力の痛棒に依頼するよりほかにしかたがありません。その代価がいかにも高過ぎたと気づくころはすでに手おくれで、残念ながら民主
社会に訣別を告げるわけであります。
以上、三つの解決策は、いずれもごめんこうむりたいというのがわが同盟に
マスコミの独占排除を主張させる動機づけであります。
独占排除の具体的な方法は、
独立したマスメディアを可能な限り数多く存在させることであります。そうすれば、第一に、その数だけメディアの自主的判断に基づく公正基準の数がふえ、それだけ表現の画一性及び偏向性が防止できると思うのであります。第二に、そのふえた数だけメディア内部に権力が介入する可能性が少なくなる。要するに、自由な表現のための安全装置の数がそれだけ多くなるわけであります。
われわれが
マスコミの独占排除を唱えるときに、常に念頭にあるのは、独占傾向を持った
マスコミ界の終着駅であります。そこには、あるいはすぐれた芸術、充実した
娯楽があるかもしれません。しかし、同時に、
一つの巨大なイデオロギーに奉仕することを強制する
言論もあるはずであります。
言論活動がこう盛んになっている現代、そんな終着駅はとても想像できないという人に対する回答は、
昭和十年代の
新聞に書いてございます。すなわち、普通
選挙をめぐってあれほど活発に働いた
新聞が、次々と軍門に下り、自己の生命ともいうべき
言論の自由を放てきして、ラジオとともに第二次大戦への一大合唱を展開するに至りました。
この歴史を振り返れば、われわれの
希望している安全装置の数は、幾ら多くても十分だとは言えないように思うのであります。ただ、確率的に申しまして、
独立メデアィの数が五倍になれば危険性は五分の一に減ったと
考えてよいと思います。故緒方竹虎氏は、満州事変当時の
言論統制時代を回顧いたしまして、
新聞が早い時期に本気で決意したなら戦争への破局は防ぐことができたかもしれない。もちろんこれは
言論の自由の確保が前提である。次の世代に忠告したいことは、
言論の自由を死守せよということであると述べておられます。
ところが、
放送問題に対する
新聞社の一方的な
言論統制は、みずからの手によって
言論の自由を侵そうとするものであります。また、
新聞社が
放送事業を兼営することそれ自体が、自由な
言論から大きく後退することを
意味いたします。なぜなら、
電波メディアはもともと官庁の手によって制度的に制約されているので、この
方面からの攻撃に対しては、本質的にひよわな
要素を内蔵しております。もし万一、
放送メディアにそのような危険が襲った場合、
新聞は、
言論の自由のために最後のとりでとしての任務を引き受けてくれなければなりません。しかしながら
新聞社が
新聞社の
放送局化をねらっておりますのは、その任務に対する耐久力を弱めることになるのであります。
次に、
民放連の主張しております
NHK・
民放機能分担論について申し上げます。
これは
放送時間の有限性ということより
考えまして、必然的に
民放番組から
教育教養的な
要素を追放することになります。この種の
番組に関する限り再び往時の
NHK独占体制をもたらすことになります。これはみずからの手によって
言論の自由に
ワクづけを施す行為であり、企業繁栄のためとはいえ、あまりにも時間の商人的発想といわざるを得ません。この際、
新聞、
民放を問わず、既存企業の商業的な都合は一応抜きにいたしまして、大きく世界の動向に目を据え、わが
国民の将来を
考えながら、
マスコミの独占排除の意義につきまして深く御
配慮を願いたいと存ずるのであります。
次は、
番組改善につきまして、単
営期成同盟といたしましていろいろアイデアを出しておりますので、それについて申し上げたいと思います。
番組改善には二通りの方法がございまして、
一つは法制による
番組改善でございます。まずそれから申し上げます。
民放における
番組俗悪化の原因は、一般的に私企業の営利性によるものであると
考えられております。そして
放送事業が私企業の形態をとる限り、高度の公益性を持つ
番組は望めないと信じている人もかなりあるようであります。しかし、このような
考えは危険であることをまず明らかにしたいと思います。すなわち、そのような前提に立てば、第一に、
放送の私企業形態を許すかわりに権力による強制も容認しなければならなくなります。戦前は公共の福祉という名のもとに表現の自由がたびたび侵害されました。第二に、
放送の経営は国またはそれに近い事業体にやらせるよりしかたがない、こういう理由になります。それは全体主義に奉仕しやすい
放送をつくることになります。
世間には営利と公益を調和さしている私企業が数多くあります。なぜ
放送事業においてはそれができないのかという問題ですが、それは現在の
放送運営は表現の自由に名をかりて、実は自由放任主義に近い状態にあるからであります。この際
免許の基準はもとよりのこと、運営上における自由と行き過ぎとを区別するための行動の基準を明確に定めていただくことが必要であります。
そこでまず第一番としまして
免許基準の明確化ということについて申し上げます。
放送事業の運営は、事業者の自主自律をたてまえといたしますので、だれに
免許を与えるかという問題が最も重要であります。その第一は、前節で述べましたように、
マスコミ独占排除の見地から、既存マスメディアがさらにこれ以上
放送局を支配することをかたく禁ずる法律が必要であります。第二は、
免許人の資格基準とその判定方法を明確にされることが大切であります。
次に、
番組改善のために経済活動に対する規制のことについて申し上げます。そういう規制は
放送の
内容を制限したり、統制するものであってはもちろん困ります。反対に責任ある
言論の流通を促進するようなものでなければなりません。大体世間から非難されているような
番組を持つ
放送局の
経営者は、ほとんど一様に次のように答えます。いわく資本の本質が利潤を追求する、いわく
スポンサーにきらわれれば企業が破滅する、といったたぐいです。したがって法律の任務は、これらの
経営者を資本や
スポンサーの手から解放することであります。すなわち、
経営者が株式の利己的な
利益を
一定に押えて、公共の福祉のために馬力をかけることを正当化するような法律、あるいは
経営者がいかに自主的にふるまっても、
スポンサーから文句が出ないようにするような法律を設定していただきたいと思うのであります。この具体的な方策は次のとおりであります。
第一は、編成権と資本の分離であります。要するに、
経営者に対する資本の支配力の削減であります。株式の分散あるいは議決権なき株式の発行などの法律化であります。
次に第二は、メディアの行動と
広告主の容喙とを絶縁させることであります。それは
広告放送の価値を、常に売り手市場的に地位づけることによって果たされます。
次は、どうすれば売りば市場的に地位づけることができるかの問題でありますが、その一は、質的にすぐれた
番組で
大衆を引きつけ、
スポンサーがその局と
関係を持つことを誇りとするようなメディアすることであります。将来このような
考えは、夢のような話にすぎないとされてきましたが、シカゴの
FM単営
放送局の事例により、民衆のための奉仕を唯一の目標とする
経営者さえ得れば、可能であることが実証されました。これに関します
参考資料は別紙にしましてお届けしてあるはずでございます。W
FMTという資料でございます。
その二つ目の方法でございます。これから申し上げます方法は、既存のラジオ、テレビには通用しないことをまずお断わりいたします。
FM放送、UHFテレビなど、これから一斉に設立する
社会が、本項で述べる法的制約を受けて初めて成功する方策であります。
結論を先に申し上げますと、
電波料金と販売時間の規制による方法であります。
広告単価の逆数、すなわちサーキュレーションに対する
電波料金の割合を便宜上単位当たりの
広告価値と呼ぶことにします。
広告価値の大小は
電波料金と受信者の数の相対
関係できまり、
スポンサーが小切手にサインするかどうかを決定する条件もまさにこの
広告価値のいかんであります。
広告価値が高ければ売り手市場となり、低ければ買い手市場になります。したがって、
広告価値の低い時間、つまり買い手のつきそうもない時間を売り込もうとすれば、何らかの方策を用いて単位当たりの
広告価値を高めなければなりません。
その方法として、
一つは
電波料金を引き下げることであります。これはメディアの
経営者が自己の管理的責任において行なえば済むことであります。もう
一つは受信者の数をふやすことですが、これは相手のあることであり、その簡単にはまいりません。つまり普通にやれば聴衆百人ぐらいがせいぜいの演説会に、一挙に千人以上の聴衆を集めるにはどうすればいいかという問題であります。量をふやすこと自体は決して悪いことではありませんが、同時に質の転換も余儀なくされるというところに因った問題があるのであります。すなわち、その解答は、人間の持つ興味のうちで最も普遍的なもの、いわゆる最も本能的なものをねらえということになるのであります。そのときに自由な
言論の使者が、時間の商人へと転落するわけであります。
メディアがこのような状態に陥るのは、少しでも収入を上げようといういかにも企業
経営者らしい動機から、ある時間の
広告価値を高めるのに受信者の数を多くするという方策を採用したからであります。したがって、あらかじめ
電波料金を割安にすることを法制によって定めて、単位当たりの
広告価値を高めておけば、その時間は売り手市場の状態にあるわけですから、あえて
スポンサー迎合政策をとらなくてもよいことになるわけであります。
さて、いままで申し上げましたところは、AMに対する
FM局間における
FM局の
広告価値の法制的操作によって、
FM局を常に売り手市場に置くという方策でありました。
次は
FM局相互間の販売競争が受信者数増加による
広告価値の引き上げ政策、いわゆる
スポンサー迎合政策でありますが、これへと転落せざるようにあらかじめ法制的な処置を講じなければなりません。この要点は、過度の販売競争が行なわれる余地をなくしておくことであります。つまり
スポンサーが喜んでつく時間、言いかえれば
広告価値を無理に引き上げなくても十分売れる時間のみを法律によって販売時間と定め、残りの時間は自主
番組として義務づけることであります。
電波料金と販売時間の法定化は、そのほかにもなお多くの特典を持ちますが、ここでは時間の都合上割愛させていただきますが、ただ
一つだけ申し上げておきます。
それは
FM局が幾ら売り手市場にあっても、販売時間が押えられておりますので、既存AM局の市場を荒らすことはないということであります。したがって、
FM免許をとらなければAM局は壊滅すると言っているAM
放送関係者の憂いは、全く杞憂にすぎないことになるのであります。
さて、しからば
電波料単価及び販売時間の限界をいかほどに定めるかという問題でありますが、これはメディアの運営計画と関連させて
考える必要があります。
次に新企画の促進ということについて申し上げます。
放送事業のごとく新しい企業におきましては、運営方式の改良余地が多分にあります。こうした場合の法律の任務は、胸襟を開いて自由な
言論の流通をはかっていただくことであります。かりそめにも企業の新しい息吹きを萎縮させてしまうようなことがあってはならないと思います。たとえば
FM単
営期成同盟では、
番組改善と経費節減のために共同
機関の設立計画をすでに申し合わせております。これも別紙計画書でお届けしてあるはずでございます。もちろん共同
機関の設立は、企業経営の必要条件というわけではございませんことをお断わりいたします。共同
機関がなくても十分やっていけるだけの自信はございます。
さらに、当同盟の中では収入面の改革につきまして全く新しい試みが計画されております。これによれば編成権の自主性はもとよりのこと、経営の安定性も十分に確保できるというアイデアでございます。
以上は法制による
番組改善策でございましたが、次は法制を用いない、いまの状態のままで
番組を改善する方策はないかということを
考えた問題であります。これはフィードバック的手法ということを
考えております。このフィードバックということばは、もともと電気工学から出たことばでございますが、最近サイバネティックという学問の学者がこのことばをオートメーションのような機械に使うことになりまして、大体まだ一般的になっておらないかもしれませんが、自律神経というような
感じでいいのじゃないかと思います。
最近、
番組の自主規制という問題に対しまして、第三者的
立場を持つ
番組審議
機関の設置という構想が話題を呼んでおります。しかし、これは事の大小にかかわらず、当該
機関が効力を発するということになれば、それはすでに他律的な行為にほかなりません。
放送の自主自律の原則から一歩後退することになるのであります。もし、この場合多少でも命令権によるものであるとするならば、それは
言論統制に転化する危険が
感じられます。したがって、こういう方法でやるのはあまり感心いたしません。
そこで、フィードバックを用いる
番組改善の方法でありますが、結論をまず申し上げますと、Aメディア、これは別にAと限ったわけではございませんが、便宜上Aメディア
放送によるBメディア、Cメディア等の
放送業務におけるフィードバック回路を構成するという方法であります。これにつきましても、別冊「
放送改革論」という小冊の中に記してございますので、なお詳しくはそれをごらんになっていただきたいと思います。
大体、現代の
放送業務は、その機構上におきまして重大な欠陥を容しております。それは、一般の企業におきましては販売部の倉庫が市場の判定と次の品質の方向づけを物語っております。そしてそこで
消費者と製造者を結びつける回路が構成されておりますが、
放送におきましては文字どおり送りっぱなしでありまして、メディアは対象のなまなましい反応をつかむことができません。聴視率
調査というのがありますが、これはさながら大量通信の大海におろした一本の釣り針のようなものでありまして、ほとんど実態を語ってくれません。このようにして、
放送は元来が
スポンサーに
影響されやすい下地を持っております。しかし
スポンサーの
希望と
大衆の
利益とは必ずしも合致いたしません。すなわち、
スポンサーのねらいとするところは、
大衆に飽きられないことでありまして、
大衆から尊敬されることではありません。また、できるだけ多くの対象をつかむことではありますが、対象に満足を与えるということではないのであります。つまり
大衆とメディアとの間の回路はもともと切断されており、その間隙に
スポンサーが入り込んでいるというのが実態であります。このようなBメディア、Cメディア等と
大衆との間の断層を埋める役目としてAメディアを登場させるというのがわれわれの新構想であります。Aメディアは受信者市場におきまして、一般商品市場における自然淘汰的な自律調整作用の特性とできるだけ類似した制御力を備えたものとして活動をいたします。要するにAメディアは、受信者市場におけるBメディア、Cメディア等の判定と、その送り返しによる次の品質の指図、かくのごときフィードバック回路を構成する機能として存在するわけであります。なお、この任務は次のとおりであります。
まず第一に、全
大衆の必要と関心という観点から、絶えず他のメディアの
仕事を監視、
調査してその結果を
放送いたします。第二番目、全
大衆の声として、他メディアに対する判定と要求を
放送いたします。第三番目、前二項サービスに際しまして妙味を発揮いたしますのは、それが
放送によって行なわれるという点であります。すなわち、
大衆に対して、他メディアに関することを語る際には、同時に他メディアもこれを聞く、反対に他メディアに対して
大衆に関することを語る際には、同時に
大衆がこれを聞いているわけであります。そこに自然とフィードバックの忠実度を高めざるを得ないような条件が働いてくるわけであります。なぜならば、この
仕事にとっては、真実と公平ということが存在価値のすべてであります。もし独善あるいは偏見による判定の
放送を行なえば、それはフィードバックという名に値いたしません。したがって、他のメディアからも
大衆からも相手にされなくなるわけであります。ここにみずからが尊重しなければならぬ自律性が生まれるわけであります。
以上の
仕事は、どれ
一つとして相当の覚悟を必要としないものはありません。大それた企てだと言われるかもしれません。ことにこの
仕事で一番むずかしいのは判定の
仕事を担当するスタッフを選ぶことであります。初め、この
仕事は、他のメディアの機械的な排斥を受けることになりましょう。しかし、そのうちこの
仕事が他メディアと
大衆との間に、いままでよりずっとすぐれた相互理解の
関係が生まれるように尽くしているのだということを了解してもらえるときがくると思うのであります。そして近い将来、この
仕事はすべての
放送局、全
国民、政府などから感謝されることと思うのであります。これが法制による
番組改善の方策であります。
次は、
FM放送はいかにあるべきかという問題について申し上げます。これはいままで大体示唆的には申し上げたわけでございますが、項目的に抜き出して申し上げますと、
一つは国の五つの
基本方針の実現であります。第二は民主的置局、自主性の保障、真実と公正の順守、この三原則を守った運営であります。第三は、
マスコミの独占排除の見地から単営局にやらしていただきたいという点であります。第四番目、
番組を俗悪化しない方策としまして、先ほど申し上げました法制による時間と
電波料の規制、法制によらざるフィードバック、こういう方法を新しくできます
FM放送に勇敢にやらせていただきたいということであります。第五番目は、AM
放送のように無性格であっては困ると思います。個性的な
放送にしまして、常に固定的な聴衆をつかむということに留意しなければならないと思います。そして一度ダイヤルを合わせたら、あとは動かす必要がないという
放送が理想的ではないかと思います。しかしこの場合も、機能分担論のごとく、法律によって定めるべきではないと思います。自然にそうなるというような
やり方が望ましいと思いますが、そのためには
免許の判定をいたしますときの考慮、事業者の自覚、販売時間の制限などによってできると思います。六番目は、
マスコミュニケーションというものは現在
日本に非常に
発達しております。現在
日本にありますのは、
マスコミュニケーションとパーソナルなコミュニケーションだけでありまして、中間のコミュニケーションというものがほとんどございません。ある階層、ある分野に偏してはいけませんが、しかしながら、それが
政治的な色彩でない限りは、やはりある階層、ある分野のコミュニケーション、いわゆる中間のコミュニケーションというものも存在するわけであります。これは
FM放送のような小回り運転のきく
放送にやらせたらどうかと思うのであります。
次は
FM放送の経営問題について、一言申し上げます。従来
FM放送の経営は単営局ではむずかしいというような風評が立っておるようでありますが、われわれの計画いたしますところによればそういうことは絶対にございません。大体企業の予算を立てますときに、この
仕事がうまくいかなければやれないというようなことであるならば、最近の
技術改革によりますスピードは予測というものを困難にしておるわけでありますから、どういう
仕事も予測を立ててやるということになれば、できないわけであります。私企業のいいところは、結果ははっきり計算はできないけれども、とにかく人間がやるんだ、人間の能力でやるんだという前提がまずあるところであります。そこで人間がやるということになってまいりますと、そこに計画というものが必要になってまいりますが、この計画は、先ほど申し上げましたように、万事は予測どおりにはいかないというところに端を発してつくられるわけであります。予測どおりにいくようならば、計画は必要ございません。そこで予測というものが現在から出発しておるのに対しまして、われわれの計画というものは将来から出発しております。将来
FM放送はかくあらねばならぬという想像から出発しまして、現在じゃ何をきめるかというところに計画の重要性があると思います。この計画あればこそ、いままで不可能が可能となったわけであります。可能が保証されなければ何もできないということならば、世の中は進歩いたしませんし、
民間放送も生まれていないはずであります。
民間放送の始まる当時は、空気でも売るのではないかというのが大方の見方でありました。テレビの場合もそうでありますが、予測というものを問題にしておりましたら、何もできないと思うのであります。
そこでわれわれは
FM放送はかくあらねばならぬという計画を立てまして、これを計画書によりまして十分実施をいたしております。もしこの計画のうちで検討を受けねばならぬものがあるとしましたら、それは仮定を前提にいたしておる点がありますので、その仮定が適当であるかどうかという点であります。この点に関しましては、喜んで批評を受けたいと思いますが、それもやらずに
FM放送ができるとかできないとかというのはおかしいと思うのであります。
計画につきましてはいろいろあります。それでそういう計画を立ててまいりましたところが、
FM放送は単営局でやるのが最も適しておるという結論を得たのであります。最近
民放などが単営局では困難だというようなことを言っておりますので、それも二、三調べてみましたところが、何の根拠もないということがはっきりいたしました。つまり単営局が困難だという既存
民放の言い方は、既存
民放の
やり方をそのまま
FM放送に持っていって単営局は困難だということを言っておるようであります。われわれは既存
民放のような
やり方を
FM放送に利用しようとは思っておりません。
FM放送には
FM放送に合致したような経営の方法があり、計画があると思うのであります。
それから、まず既存
民放で言っておりますことで非常におかしいと思いますことは、設備とか人員のことをあげまして、単営局にはこれがないからいけないということを言っておりますが、どこの世界の企業でも、設備も人員も整えずにやるところはないと思うのであります。