○藤井
参考人 藤井でございますが、ただいま
委員長からの御説明の趣旨に沿いまして
新聞界、ことに
全国日刊
新聞八十七社の
意見を代表しまして総括的な
意見を述べたいと思います。
わが
民間放送界、もちろん
NHKもあわせまして、わが
放送界は異常な進歩を遂げました。標準
放送から
短波あるいはVHFによる
テレビ放送と進歩いたしまして、また近く
FM問題あるいはUHF帯によるところの
電波の開発という問題を控えまして、非常に大きな問題に直面いたしてまいりました。郵政当局におかれてもこの大きな問題を処理するには、現在の
放送関係法ではたして処理し得るかどうかという問題も含めまして、一昨年秋十月に臨時
放送関係法制調査会というものをおつくりになりまして、民間識者を集めて、
意見を徴され、その答申に待つということになりました。われわれ
新聞界といたしましても、高い次元の論評的
立場も含めまして、この今回の
放送法改正には無関心ではあり得ないのでございます。私は、これをいつもこういうふうに一つの例証で説明しておりますが、
放送法という一つの着物といいますか、洋服と申しますか、それがその着物を着せる実態に合わなくなった、言いかえれば
放送の実態が非常に発達をして、すでにその洋服なり着物では身幅も身たけも合わなくなってしまった、いわゆる
現実と法制にずれが出てきたのではないかと
考えておる次第でございます。
そこで今回
放送関係法の
改正という
——改悪では困るのですし、また改定でも困るのですが、
改正という点につきまして、先ほど例をあげましたように、着物の仕立てがえのときにその着せる実態というものをしっかり把握して、ぶかっこうな着物、あるいは腕や足がにゅっと出てすぐ仕立て直さなければならない着物では困るので、この際
放送電波の
あり方というものをまずしっかり規定していただかなければ、すぐほころびを生ずるというふうに危惧するものでございます。
国会におかれても、百年といわずとも、少なくとも十年や十五年は手直しをせずに済むりっぱな着物、
放送関係法を制定していただきたい、
改正していただきたいということを念願する次第でございます。
そこで議論を進めまして、
電波行政と申しますか、
わが国における
電波政策がはたしてどうなっているだろうかという点でございます。われわれは
わが国民
生活に重大な影響を持つ
電波というものがはたして
日本の国策として一貫して処理されてきたかどうか、
電波行政が一貫して行なわれてきたかどうかということについて大いなる危惧を抱いておるものでございます。
電波が
国民の
生活に大きな影響を与えるということは、賢明なる国
会議員諸公におかれても十分認識のことだと思います。一時は一億総白痴化といわれ、あるいは青少年の非行問題が取り上げられて、その影響するところ甚大でございます。そこで私たちがこれを高い角度からながめてまいりましたときに、ことばが言い過ぎかもしれませんが、政党政治が行なわれる国で、その政権を担当する政党にはたして一貫したりっぱな
電波政策があったかどうかということを危惧するのでございます。
今回
放送法の
改正という段階に参りまして、各政党の政調会あるいは政審会の中に小
委員会ができまして、これを検討されるということは、おそまきながらもまことに邦家のために慶賀にたえないと私は信じておるのでございますが、ふだんその政権を担当する政党に、これほど大きな影響を与える
放送電波政策というものが欠けるために、時の
郵政大臣が郵政監理当局の一つの行政
方針その他によってややもすれば個人的判断で行政が処理されてきたのではないかということについても、大いなる危惧を持つのでございます。そしてその結果往々にして、
電波は利権ではないかといわれるような一種の誤解さえ与えるような
状態がなきにしもなかったと言わざるを得ないのでございます。今回の
放送電波界の大事に際しまして、その点特別の御配慮をお願いしたいということを念願するのでございます。
そこでさらに問題を進めまして、われわれ
新聞社が
放送電波に関心を寄せている
立場について御説明いたしたいと思います。なぜわれわれは非常に深い関心を持つかという点でございます。われわれは、簡単に結論を申せば、
放送電波というものも、言いかえれば
放送機関というものは、報道、言論機関の一つであるという
考えを持っております。したがって、
放送関係法の
改正はマスコミ全般にわたって大きな影響を持つという
立場から深い関心を払わざるを得ないのでございます。われわれ
新聞社はニュースペーパーを
媒体として報道、言論活動をいたしております。
電波はウエーブを使って、手段的差異はあっても、同じ
目的を果たすために、もちろん技術的に幾多の制約を受けますけれ
ども、同じ任務を果たしているのだとわれわれは信じているのでございます。そして同じ
社会公共的
使命を果たしていると自負しているのでございます。
新聞社はこの
電波を
媒体としてりっぱな報道、言論機関であるという
立場から、大正十四年に
NHKが創立されまして、
日本で初めて
放送局というものが誕生し、そして
放送活動が行なわれましたときに、
新聞社はニュース報道の面でこれに協力し、あるいはそういう御記憶のある方があるかもしれませんが、ニュースの時間にはそれぞれの
新聞社のクレジットをつけてニュース的協力をいたしておりました。また受像機、当時は受信機でございますが、受信機の普及のために
番組を紹介し、あるいは
番組を解説して、
国民、聴視者の関心をそれに寄せ、そして
日本のりっぱな
放送文化の確立に協力してまいりました。これは紙面的にも、先ほど申しましたニュース提供の面においても、協力してきたのでございます。そうした紙面活動というものが、今日各
新聞社の紙面にその尾てい骨として残っているといっても過言ではないと私は思います。
さらに
日本に民間
商業放送が
免許されるという機運が起きますや、各
新聞社はいち早くそれぞれの
新聞社の中に
研究機関をつくりまして、
放送局の申請をいたしました。これも一にニュース的
媒体としての
電波というものが、いかに重要であるかという認識の上に立ったものでございます。またそうすることが、
新聞社の本来の
使命と自覚しての上のことでございます。もしあの時点において、
電波の
媒体というものに対して私たちの先輩たちが無関心でいたならば、それは
公共的
使命を忘れたというそしりを受けるでしょうし、また
社会的批判を受けるべきものであったと思います。
そして
日本の
商業放送の誕生は、一部の特殊なものを除きまして
新聞社を中心とし、そしておのおのの
地域社会の
経済的協力のもとに発足したのでございます。もちろん
放送局は報道、言論機関だと申しましても、その機能の中には、あるいは
放送内容の中には、それ自体
教育、
教養的なもの、あるいは
国民に一つの慰安を与えるといいますか、
娯楽的な機能をもちろん果たしているのでございます。それはあたかも
新聞紙において
——私はこれをニュースペーパーと申しますが、ニュース報道があり、あるいは解説があり、あるいは小説がある、あるいはお料理の記事や編みものの記事があるごとく、
国民の
社会生活の
向上に寄与しなければならない必要な資料を提供しておりますけれ
ども、それと同じように、もちろん
放送番組内容にもそういうものを含んでおるのでございます。しかし一番重要なことは、そうして一番重要な本質は、
電波が報道、言論機関機能を備えているということだと私たちは信じております。
放送電波がいかに重要な
役割りを果たしているか、また非常の際においてもそれがいかに重要な任務を果たしているかということは、賢明なる議員諸公におかれては万々御
承知の上のことだと思います。そこで議論を進めますについて、ただいま御説明申し上げました
放送電波が報道、言論機関であるという事実は、
放送の
あり方といいますか、
放送とは何ぞやというその
あり方が第一の条件だと私たちは思います。そしてさらに
放送の
あり方について議論を進めていきたいと思います。
ただいま申しましたのが第一の点であります。話を進めますその次の第一は、よく言われます
電波は
国民のものである、
電波は
国民の財産であると言われます。
日本の国土というもの、それはもちろん国有地もありましょうし、その他官有地もありましょう。あるいは個人の私有財産の土地もあると思いますが、埋め立てをしない限り
日本の全部の国土というものはそれ以上のものはない、限られたもの以上のものはない、言いかえれば
日本の国土全部はやはり
国民の一つの財産でございます。
日本国民の財産でございます。と同じように、
電波というものも、国際
会議で割り当てを受けて
日本にはこれだけの波を割り当てるという
立場から
考えれば、
日本国民の持っている限られた財産の一つでございます。たとえば現在のVHFにおける
テレビというものは十二しかないのだ、いわゆる一チャンネルから十二チャンネルまでしかないのだということは、かってに十三チャンネルにふやし、十四チャンネルにふやすことはできないと同じでございまして、
国民の財産であります。よく
免許に際してあるいは
免許申請にあたりまして、
国民の
電波だというふうなことが聞こえますが、それは利権ということではなく、私たちはその
国民の財産たる
電波を
考えますときに一番重要なことは、それがいかに
国民のもの的に
運営されているということだと思います。そこに大きな問題がある。
国民の
福祉の増進あるいは
公共の
利益のためにはたして役立っているかどうかという点だと思います。たとえて言うと、小さいことのようですけれ
ども例をあげますれば、
国民が一日の労働に疲れて、特殊な人を除いて、わが家で安らかなる眠りをとろうとする真夜中に
テレビが
放送されているということは、はたして
国民の
利益に合致するものでしょうか。
国民の
生活体系にはたして合っているものであろうかどうか。ことに農村地帯においてしかりでございます。そこで、そういうわれわれの日常の
生活体系そのものに合った
放送が
運営されているということが、
電波が
国民のものであるという意味で、
電波が
国民のもの的に
運営されているかどうかと言わざるを得ないのでございます。
番組内容においてしかりでございます。われわれもその
教育を受けました、われわれが子弟を養うときに家庭において、学校においてせっせと
教育をし、しつけをする努力をしているときに、
放送の
番組内容ははたしてその努力をぶちこわしてはいないかということを
考えざるを得ません。あまりにも現在の
放送は商業主義に徹してはいないかという危惧すら抱くのでございます。
次に
NHKと
民放の問題でございます。
わが国は、
放送局の
性格の面から見ますと公営的というか、
予算が
国会で審議される準
国営的といいますか、適当なことばがありませんが、われわれはそういうふうに了解するのでございます。そういう
性格、傾向を持っている
日本放送協会、いわゆる
NHKというものと純然たる民間
商業放送とが共存しておるのであります。そういう意味で世界に類のない国だと言わざるを得ません。
アメリカには
NHK的なものは存在いたしません。全部が
商業放送であります。欧州には一部を除いて
日本と同じような
NHK的なものの存在が多いのでございます。
NHKという強力な組織を持つ公営
放送局と、あだ花のごとく咲き乱れた
商業放送局とが共存しておるというのが
日本の実態でございます。そこで、その議論を進めましても時間がたちますので、そこでわれわれとしてこうした
性格の違うものをどう扱うか、これが大きな問題だと思います。
われわれ、先ほど申しました日刊
全国八十七社の
研究会における結論といたしましては、現状においてこの
NHK的なものと民間
商業放送局との
併立を認めるべきだ、併存、共存を認めるべきだという
立場に立っております。この問題は、
日本に初めて
商業放送が許されるときに、その時点において一体どういう議論が行なわれただろうということをわれわれはいつも思うのでございます。寡聞にしてそのことの詳細なデータを持ちませんけれ
ども、今日ややもすれば
NHKは
民間放送を強力な相手とし、民間
商業放送は
NHKを強力な相手として大いなる論争を展開しておられますけれ
ども、この根本は、初めて
日本に
NHKと併存させる
商業放送を
免許したときに問題があるのでございます。しかし、いま
日本には
NHKを廃止して全部
商業放送にしろとか、あるいは
商業放送をもっと制約しろとかいうふうな議論は、現状においてはほとんど不可能に近い、言いかえれば両方が積み重ねてきた実績というものは、この際それを御破算にするということはほとんど不可能です。またそれを行なうだけの政治力というものが
日本にあるだろうかという点について、大いなる疑問を持ちます。要は
NHKと
民間放送とがそれぞれの
使命と特性を生かしつつ共存共栄していくことを認めていくよりほか手はないと思います。またそうさすべきではないかというのがわれわれの
考え方でございます。したがって、先ほど申しました着物の仕立てがえ、仕立て直しのとき、言いかえれば縫製にあたっては、
NHKと
民間放送とが併存しているという
現実の上に立って立法さるべきであると
考えるのでございます。現在の
放送法は、ほとんど
NHK的なものを
対象としたものであって、
民間放送的なものは非常に少ないのでございます。これは私たちは
法律の専門家ではありませんけれ
ども、しろうとが見ましてもそういうふうに感ずるのでございます。
さらに、今度は主体性の確立ということについて御説明申し上げます。
私は、今回の
放送法改正にあたって、行政指導に名をかりて
放送局、言いかえれば報道、言論統制を行なうことは避けられたいということを
希望したいのでございます。もちろん
番組内容の低俗化とかいろいろな問題がありまして、とかく世評はきびしゅうございますけれ
ども、あくまでも
放送局自体の自主的規制、自主的反省、あるいは自主的審議というもので規制さるべきだとわれわれは信ずるのでございます。もちろん先ほど申しました
電波技術というものには、幾多の技術的な点において、混信る避ける、あるいは規定のパワーがはたして
放送されているのかどうかという点、いろいろの点がございまして、技術的には大いなる規制、監督は必要でございましょうけれ
ども、
内容につきましてどこまでも自主的規制に待つべきである、そうして
放送局はそれぞれ主体性を確立し、
教育効用的機能、
娯楽的機能と並んで、そして報道機関としての機能をさらに一段と大きく進展さすべきときではないかと信ずるのでございます。これが、概略申し上げまして
放送とは何ぞやということについての説明でございます。
次に触れたいことは、ファクシミリという問題でございます。ファクシミリとは御存じのように模写電送と申しまして、文字や図版を無線または有線で遠くへ送ることを申します。
新聞界のわれわれといたしましては、もちろん将来の問題、明日の課題でございますけれ
ども、われわれのニュース報道、言論報道の伝達輸送手段の技術的
発展の方向として、ファクシミリによって
新聞紙面を読者に送達するというビジョンを持っております。印刷技術の改革あるいは輸送手段の改革、とわれわれはニュース報道本来の
使命を果たすために、一刻も早く
国民、読者へ世の中の政治現象、
社会現象あるいはあらゆる現象、事象を伝達するという目標に向かって研さんを積んでまいりました。そして技術革新に努力してまいりました。たとえて申しますと、この写真現像はいかにすれば五秒縮まるか、秒を争うような努力を続けてまいりました。現に国
会議員諸公の皆さまも御存じだと思いますが、
国会の記事は
国会のわきにあります各社の記者クラブの部屋から、漢字電送と申しまして、タイプライターのようなものでございますが、漢字と略称しております。その漢電をたたけば、その末端に自動モノタイプが連結をしておりまして、それがそのまま活字になります。一つの例をあげますと、大阪にある
新聞社でも、九州にあります印刷所でも、この
国会の記者クラブで打った漢字電送のタイプが、そのまま電気的速度をもってそれぞれの印刷所で活字になっているのであります。こうした技術革新、技術改革ということに日夜腐心してきたのでございます。これはとりもなおさず、
新聞報道の本来の
使命を達成するための努力であります。
しかし、しょせんはこれはニュースペーパーの製作工程におけるスピードアップの問題であり、その解決にすぎないのでございます。もっと大きな問題が残っている。ニュースペーパーというものは、いかに早く印刷されても、それがそこに積まれている間は何らの価値のないものでございます。そのニュースペーパーが
国民読者に配達され、その目に触れなければならない。そこでただいま申し上げました問題は、いかにして
新聞社の印刷発行所から読者の手元、言いかえれば発送の窓口から読者のポストまで、そこに横たわる時間と空間をいかにして克服するかということでございます。現在は自動車あるいは列車、自転車、脚力という人力によってこれは配達されておりますけれ
ども、この問題を、この
国民、読者との間にある時間と空間を克服する一つの手段について幾多の
研究をしてまいりましたが、ここに開発されてきたのが
電波でございます。
昭和三十四年六月、現在のマイクロウェーブを使いまして東京−札幌間に
新聞の一ページ大の紙面を電送し、それを北海道でオフセット印刷と組み合わせることによって大規模なファクシミリが行なわれました。一九五六年、
昭和三十一年でございますが、世界で最初に紙面を電送で送ったのは、ニューヨークタイムズがニューヨーク、サンフランシスコ間で一時的に実施した以外、
日本が最初でございます。
日本の
新聞の製作工程は大きな革命期に入ったのでございます。しかも世界的成果をあげつつあるのでございます。現在、東京−札幌あるいは東京−富山あるいは東京−大阪と、逐次マイクロウエーブを使うファクシミリ輸送が行なわれております。このことは、
電波を使っておりますが、ある意味では印刷革命だと言う方もおります。しかし、われわれは読者と
新聞発行所の間をつなぐ時間、空間を克服したところの一つの輸送革命だと
考えているのでございます。
そこで、近く開発を予定される、現に実験
放送が行なわれておりますけれ
ども、
FM放送には、このファクシミリの通信ができるという可能性を持っております。
FMにはそうした機能を内包しているわけです。そしてもしわれわれのビジョンが達成されれば、各家庭に受信機を置いて、その
放送されるファクシミリ、家庭ファクシミリと名づけますか、何といいますか、まだ名前はありませんけれ
ども、それを受信することができる、そういう性能を
FMは持っているのでございます。もちろん、現在の
中波でもやれないことはありませんけれ
ども、その間他の音声
放送を中止しなければなりませんが、
FMの場合は音声
放送、立体
放送を行ないつつファクシミリ通信ができるという性能を持っているのでございます。
そこで私
どもは、この家庭ファクシミリともいうべき模写電送がはたして現在われわれの
考えている
放送というカテゴリー、
放送という概念の中に入るものであるかどうかということについて、大いなる
考えをいたすのでございます。現行の
電波法施行細則あるいは
放送局の開設根本基準などに規定し、または定義づけている中に、ファクシミリ
放送ということばがございます。これについて、かかる観点から非常な大いなる疑義を持つのでございます。手段としては確かに
放送的かもしれないが、
内容と効果は現在われわれが聞いたり見たりしている
放送とは全然別個のものでございます。したがって、
放送業務を規定して、機械的
放送法制の統制下にファクシミリ
放送を置くことはどうかと
考えるのでございます。長い歴史とともに確立され、そして民主主義のもととなった
新聞の自由をくつがえし、
社会的機構としての
新聞の存在を危うくするのではないか、またかくすることは
社会的損失を招くのではないかと
考えざるを得ないのでございます。われわれは、活字や写真を電送して記録性、保存性を
目的とするファクシミリ通信業務が、音声もしくは映像の瞬間的送達を
目的とする
ラジオ放送、
テレビジョン
放送の
放送業務とは全く異質のものであるということを強調したいのでございます。
国会におかれましても、十分その機能、またその
社会的影響力、あらゆる点を御考慮くださいまして善処されんことをお願いしたいのでございます。
次に、
新聞社が
放送局を
経営することについて若干の説明をいたしまして、私の概論を終わりたいと思います。
つまり
新聞社が
放送局を
経営するということは、
電波媒体を使ってニュース報道活動をするということでございますが、当局は言論の
地域的独占を排除するという理由をもって
新聞、
放送両
事業の兼営を禁止し、資本、役員の
制限を行なってまいりました。この
制限は、
日本に初めて民間
商業放送が許された当時、もちろん
ラジオでございますが、その当時かかる
制限はなかったのでございます。
テレビ局の大量
免許に際しましてつけられたものでございます。大量
免許の際には、
免許の技術として、当時の事情から推してあるいは理由のなきことでなかったかもしれないとも思います。しかし、すでに
ラジオ放送、
テレビジョン
放送について、
NHK、
民放が
全国にネットして全土をカバーし、また世界に類のない
新聞界の発達している現状から見まして、マスメディアの独占、あるいは言論の独占などは心配する必要のないのが現状ではないかと思うのであります。
特にここで私がこの問題を取り上げましたゆえんのものは、こうした暴論と言っては少し激し過ぎるかもしれませんけれ
ども、暴論とも言うべき議論をもとにして、これからの
電波行政の実際にあたって、
放送業務から
新聞社を締め出してしまえという議論が一部にあるのではないか、そういう議論を立てる人が一部にいるのではないかということから、私はこの問題をここにささげたのでございます。
先刻も申し上げましたように、大衆情報伝達方法、手段というものは、科学技術の発達とともに変遷、躍進してきたのでございます。文字のない時代は口伝と申しまして口から耳へ、口から耳へと伝わったのでございます。あるいは、さらに進んでかわら版となり、その後技術革新に基づいて発達してまいりました。しかし活字
文化というか、印刷技術の開発によって今日の
新聞ができまして、報道活動を活発にしてまいったのでございます。その活字
文化といいますか、いま言いました印刷技術とともに、また写真技術も発達いたしまして、先ほど申しました今日の
新聞、いわゆるニュースペーパーの発達普及となったのでございます。また、その間ムービングピクチャーが開発されるや、いわゆるニュース映画を製作し、そして動く写真として、大衆情報手段としてわれわれは
活用してきたのでございます。
そこで、
電波技術の開発は大衆情報伝達手段に一大革命をもたらしました。いわゆる
電波化時代とでも申すべき時代でございましょう。もちろん、先刻申し上げましたように、
放送電波は
教育教養的機能や
娯楽的機能を果たす手段としての働きは持っておりますが、最も重大な報道、言論機能を持っているのでございます。マスメディアとしての
電波をわれわれ
新聞社が使用することは、報道機関本来の任務を遂行することになるのでございます。
新聞社は、ニュースペーパーも
媒体として使うが、ニュースウエーブも当然使わなければならないのでございます。そうしてこそ報道、言論機関に課せられた天来の任務を遂行することができるのでございます。われわれは百年に近い歴史を持ち、そして長い体験の中から自由と責任を自覚し、
公共的報道の
使命と技術を身につけております。
繰り返して申し上げるならば、
電波を持たずして報道、言論機関としての重要な活動はいまや期し得ない。また
新聞、
放送両
事業を兼営しても、もはや言論の独占支配というものはあり得ない。さらに三つ目としまして、新しい
放送界には、より高度の
社会的信頼感と
公共意識もある新しいにない手の出現を必要としているのではないか。したがって、
放送関係法制の
改正にあたって
新聞界を締め出すがごときことのないよう、十分考慮されたいことを要望してやみません。
私が一般論として述べましたことは以上のことでございます。きょうはそれぞれの代表が見えておりますので、引き続きお話しを願い、皆さまの質疑にお答えいたしたいと思うのでございます。