○和田
参考人 私は専門が
憲法と
行政をやっておりますので、そのほかには大学教授としての立場もありますが、大体そういう点から申し上げたいと思います。
初めに、八月一日から
実施されています現在の
風俗営業法の一部
改正でありますが、これは附帯決議にもありますように、
法律的に見ますと、形式、内容の画面からしまして、かなり何といいますか、応急的なあるいはもっとことばをきわめて申し上げますと、びほう的な
改正のような
感じがいたします。そういうふうなこともございまして、おそらく附帯決議が衆議院と参議院と両方から出たのではないかと思うわけです。しかしそれはそれとしまして、あの時点においてああいう
改正をなされたことは、少なくとも二歩の前進ではあると私は
考えまして賛成しております。
第二に、先ほど来永井さん、松田さんもおっしゃられたことと同じなんでございますが、やはり青
少年の非行
対策の基本問題は、単に取り締まるということだけでは解決できないのではないか。彼らの持っている若さ、エネルギーというものを、どういう
方面にこれを活用させるか、開発させるか、展開させるかということを広い視野に立って
考えるのが、問題の最終的な決着だと思います。その場合にはこまかい問題としましては、たとえば私はちょうど三年前にアメリカにおったのでありますが、家庭環境、なかんずく住居の構成、居住条件、こういったものが非常に大きな問題のような気がいたします。犯罪者その他非行青年の温床といわれている家庭をごらんになりますと、全部とは言いませんが、かなり家庭ないし家族構成あるいは居住条件の狭さ、偏狭さという問題が出ていると思うのです。さらにそういう点に関連しまして、社会全体あるいは政治全体の立場からするとるべき施策、設備の
提供というような
考え方、これも当然出てまいると思います。そういう意味で、まず
規制をする、
取り締まりをするということだけに全精力を注がないで、それは当然の前提でありますが、むしろ問題は、今度は前向きの方向に向かって彼らの持っている若さというものをいかに健全に有効に開発し、発展させるかということを
考えるのが本筋だと思います。以下、そういう前提におきまして、二、三述べてみたいと思います。
この
風俗営業法の
改正を全体としてながめた場合に、私は基本的に二つの分野に問題が分かれるように
考えます。
第一は、
法律技術的な
問題点であります。これはむしろ法に内在的な、あるいは法体系的な問題でありまして、
法律の技術の点で十分な考慮が今後払われる必要があろうかと思います。
第二の点は、二十三年の
風俗営業法制定のその後の
規制対象が非常に広範に、思いもよらないようなものがどんどん出てまいりました。その
規制対象の
実態に対する
問題点が多数あるわけでありまして、これが先ほど松田さんも言われたような
トルコぶろとかヌードスタジオあるいはボーリングという問題を、
風俗営業法の中でまかなうかどうかという問題になるかと思います。
最初の
法律技術的な問題から申し上げますと、きわめて初歩的なことでありますが、普通戦後の、最近の
法律を見ますと、第一条には本法の目的というものが大体書かれております。この点がこの
風営法の場合には、二十三年のときも当然でありますが、現在の
改正でも触れておりません。この法の目的規定を書かないということは、法を運用する立場からしますと、非常に困惑するだろうと思います。さらに、
条例を制定する場合も困惑するだろうと思います。その点のあいまいさが
条例の制定の段階において、さらに法の運営の段階においてあとを引くというように私は
考えております。
それから、第二番目には、
風俗営業の概念規定が出ておりません。
風俗営業の定義という形でありますが、これは第一条にあります。しかし、これがむしろ
風俗営業として列挙された分類事例ではないかと思うのです。
風俗営業そのものの概念要件は何であろうかということについては明確ではございません。ただ第一条その他から見まして
考えられることは、おそらく
風俗営業の概念要件の中には二つの要素があるのじゃないか。
一つは、男女間の性的享楽ムードというものが
風俗営業というものの概念の中に入っているようであります。それから、第二はギャンブル性、射幸性、賭博性という問題、これも
風俗営業と呼ばれているものの概念要件になっているようであります。この辺のところを将来もっとはっきりとした形で明文化する必要があるのではなかろうか。むろん、ギャンブル性も性的な享楽的なムードも、現実問題としてはかなりミックスしております。からんではおりますが、一応そういうふうに
考えていいんじゃないか。それを二つの法文の中で将来整備することが、法技術的な点では
考えられるというよりも期待していいのではないかと思われます。
そのほか、こまかい問題を二、三あげますと、
憲法二十二条の
営業の自由という問題、これもいままでの議事録その他で拝見しますと、あるいは訴訟なんかのことも聞いておりますし、出ておりますが、これはすでに専門のさまざまの論文その他でありますとおり、私は
憲法二十二条の中には「公共の福祉に反しない限り、」というのがありますので、その点公共の福祉なるものの内容、中身を十分に、コンクリートに、具体的にそれを推し進めて、それが十分に納得のいくものであれば、
営業の
制限というものは
憲法上、理論上は十分に可能だと思います。この点はさほどここでは問題にしなくても、すでにいろんな方がおっしゃられております。
それから、さらに私が一番問題としたいのは、
法律事項にすべきか、
条例の事項にすべきかという問題です。先ほど松田さんが、
法律ではっきりと画一的にやってもらいたいというふうなことをおっしゃられました。そのお気持ちはわかりますが、私はこの点いささかちゅうちょいたします。その理由の第一は、
地方自治の本旨という問題が
憲法の中にございます。
地方自治の本旨ということからしますと、
条例でまかなうべきことを相当予定しておりますし、この点で
条例への委任が適当かどうかは別問題といたしまして、
条例事項というものは相当大幅になっておるわけです。これは地方公共団体の自主性の尊重ということからして言えると思うのです。ただ、その場合に、問題は、何でもかんでも
条例にまかせていいのかどうか、
条例に委任する限度、委任するしかたの問題だと思うのです。
一つの簡単な例をあげますと、
風営法の第三条、あるいは第二条にもありますが、第二条の例をあげますと、
風俗営業を営もうとする者の資格云々とあります。この
風俗営業を営む者の資格について、これは
法律では全然規定しておりません。これをやや関連のある古物
営業法、質屋
営業法を見てみますと、この中には
許可の基準として
法律で定めております。内容的に見ましても、
営業の自由というのはこれは言うまでもなく国民の権利でありますので、そういう国民の権利に関するものを、こまかい点は別として、いきなり
条例の問題に追いやるというやり方、これはむしろ
法律が
条例に委任した限度を越えておるもので、私は望ましくないと思うのです。各
地域によって差別があるからということで
条例にまかされておる点は納得できますけれ
ども、しかし、
営業を営む者の資格が
全国各
地域で異ならなければならぬという理由は私はないと思うのです。これは当然
法律の段階で統一してもいいわけですし、さらに先ほど言いました基本的人権の
制限という本質からしましても、少なくとも
営業の資格については、これは
法律で定めるのが筋ではなかろうか、こういうように思います。その他こまかい問題はいろいろあります。
それから
警察庁のほうの資料をちょっと見たのでありますが、いわゆるモデル
条例と申しますか、基準
条例というものをきっちりとっくりまして、各都道府県のほうへ流しておるようであります。この流し方は十分に各都道府県で
検討した上でこれを受けとめているのかどうか、私は少し疑問であります。つまり、
条例という画一的なものの基準を流してしまうと、今度はいきなりそれならば
法律であったほうがいいんじゃないかということになりますと、流し方の問題もありましょうが、受け取り方のほうに、もう少し慎重に
検討してもらわないと、やはり
条例でするよりも
法律で全部やれ、そうするといわば中央集権的な方向にすべて法の体系を追いやるということになりますので、この点もちょっと注意すべき問題ではなかろうかと思うのです。
それから、これは
関係法令の問題でありますが、刑法、売春防止法、あるいは
公衆浴場法、
興行場法、あるいは
食品衛生法、
旅館業法、そういった各法規との関連の
状況がまだ十分行なわれていないのではなかろうか。これは
風俗営業法の
改正だけでなくて、関連法規の
改正という問題はあろうかと思いますが、この点も
感じた点であります。
以上が
法律の技術的な体系の問題として
感じている点でありますが、次の問題は
規制の
実態の問題であります。附帯決議でも出ておりますように、
トルコぶろ、ヌードスタジオ、ボーリングというものを明示してあります。私はこれをすぐ
風俗営業法の中に閉じ込めて、そこでこれを取り締まるというふうなことをやる曲に――それも最終的には必要な場合もあろうかと思いますが、それをやる前に、さしあたり既存の
法律を十分に整備する、あるいはそれの運用をもっと適正厳格にするということのほうをさしあたりの問題としては
考えるべきではないかと思うのです。たとえば先ほど松田さんも言われたのでありますが、
トルコぶろという問題について、私もいままで
実態は見ておりませんし、その他さまざまな点はほとんど聞いたりした資料しかありません。しかし、この
風俗営業等取締法の問題にかかる前に、たとえば
公衆浴場法の第二条には、
公衆浴場の
営業許可としまして、「その構造設備が、公衆
衛生上不適当であると認めるとき」は
許可しない、こういうようになっておるわけですが、この場合に公衆
衛生上不適当ということしか書いてありません。
風紀上と書いてありません。したがって、かりに
トルコぶろの問題をもう少し
考えてみますと、これは現在
東京都
条例なんかで見ますと、どうも
トルコぶろは特殊
公衆浴場になっておるようです。狩殊
公衆浴場ということの内容がはたして公衆
衛生法あるいは
公衆浴場法の概念、法の趣旨とマッチしているのだろうか。私はこの点は非常におかしいと思うのです。本来
公衆浴場法の
規制は
個室、これはいわば密室になっておりますが、密室をも包含するような形でのものと一体
公衆浴場法は予定したのだろうか。だとすると
公衆浴場法の予測を越える
条例がつくられているきらいもあるのじゃないか。そこでどの程度まで
法律が
条例に委任していいか、委任の適正な、妥当な限界を越えたものとして、現在特殊
公衆浴場法の中の
トルコぶろというものがあるのじゃないか。この辺になりますと、どうも私は何でもかんでも
条例にゆだねているというやり方に非常に疑問を持つわけであります。こういう点で既存の
法律そのものをもう少し再
検討して、その線でその運営なりあるいは必要とあれば
改正なりを
考えて、しかる後にどうしてもまかない切れない場合に
風俗営業その他の
規制に盛り込むような手はずが正しいのではないかと思います。同じことがヌードスタジオあるいはボーリング等についても多かれ少なかれ
関係があると思うのですが、何せ既存の
法律、あるいは監督官庁というもののそういう問題に対する対し方、姿勢というものが、ちょっと何といいますか、十分にまじめな態度で取り組んでいるかどうか、私なんかは疑問に思う点があるのであります。そういう点を私が申し上げる前提は、およそ
法律というものは、本質的な面と生理的な面と、現象的な病理血とあると思うのです。
法律はいろいろな形で運用される過程において法の本質、生理、――病気でいうと生理ですが、しばしば法の現象的な病理面を惹起します。その点で病理面が惹起した場合に、たとえばいまの
トルコぶろでありますが、
公衆浴場法の病理面が惹起したからといって、それを
公衆浴場から離してしまって、そして
風営法に入れるというやり方を
考える前に、法の本質面にもう一回復元させる。そこに法のあるべき姿、姿勢というものを正させるというのが
法律の運営のしかたとしては妥当なのではないか、こういうふうに感ずるわけであります。なおこの点も十分な
実態調査を私がしたわけではございませんが、
関係官庁、
取り締まり当局にあたる
関係官庁、
警察庁、
厚生省あるいは、まあ文部省というようなものもありましょう。そういった
関係官庁の
規制のしかたが十分な連絡をとられているかどうか、若干そこにセクショナリズムがなきにしもあらずではないか、こういう点もいま主での運用の中でつぶさに
調べますと出てまいる問題ではなかろうか、こういうように私は
感じております。
最後に、こういった問題については冒頭に申し上げましたように、本質的には
風営法に対する対し方はおとな、子供を含めて、なかんずくおとなでありますが、個人の責任と、個人のプライドと、個人の自律性、これが確立されない限り、いかに
規制しても問題は永遠に残ると思います。ただし青
少年の場合には家庭の保護、あるいは青
少年の教育というふうな問題があるわけで、この点しばしば制定されております青
少年保護育成
条例の問題も出てくるわけでありますが、とりあえずおとなみずからが自己の生活態度を顧みて、はたしていまの若いものはどうもならぬというふうなことを言えるだけのことを毎日おとながやっているかどうか。そこに根本の問題が
一つあろうと思います。
それから先ほど申し上げましたように、禁止、
規制ということだけについ力んでしまいがちなんですが、これはびほう的、一時間な策では成功するかもしれませんが、巨視的にながめた場合には、やはりそれだけではだめだということであります。そういう意味で家庭環境、住宅事情、居住条件、さらに市町村の
地方自治団体の自主的な福祉教育的な環境設備という問題、さらに全体の市民のモラルという問題、そういうところまで問題は当然行き当たるわけなんであって、そういう意味で私は早急にいま問題になっている青
少年非行問題の
対策、これに対して即効薬というものは私はあり心ないと思います。あと十年、二十年たちますと日本の民主政治もおのずから落ちつくところに落ちつくだろうと思うし、そういうような長い目で問題を見ていく、そうして
規制と同時に向こうべき方向というものについて、もっと魅力のある家庭、魅力のある政治、魅力のある社会、これをおとなの責任でつくってもらう以外にないと私は思う。
これで終わります。