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徳本参考人 九州大学の
徳本でございます。
お答えいたします前に、二、三お断わり申し上げたいと思いますが、私も
加藤教授と同じように
民法の
専門家でございまして、必ずしも
鉱業法の
専門家ではないということが
一つでございます。それから第二点は、
加藤教授は
鉱業法改正審議会に入られて直接
審議せられましたが、私はそういう機会を持っておりませんので、必ずしもその内容について詳しく存じ上げていないということが第二点。それから、たまたま
鉱業法改正の
審議のなされておりました過程は、私、外国に留学しておりまして、勢いそういうこともあって、必ずしもその辺のやりとりがどういうふうなことであったかということについて正確な
判断資料を持ち合わせていないということ、こういうふうなことを一応お断わりしておきたいと思います。
そこで、まず御
質問の第一点は、
現行法を中心として
鉱業権と
土地所有権との
関係、したがってその前提としては
鉱業権というようなものをどういうふうに
考えておるかということだと思います。これはたいへんむずかしい御
質問でございまして、従来
鉱業権というものをどういうふうにとらえていくかということは、
わが国に
鉱業権制度というものができて以来の、ある
意味では学会の中心問題であると言ってもよろしいかと思います。
鉱業権についてはいろんな説があるわけでありまして、ただ単にそれは一種の鉱物を掘採して取得する支配権であるとか、あるいはそうじゃなくて鉱区というようなものについての支配権であるとか、あるいはさらには未掘採鉱物に対する支配権であるとか、こういうふうないろんな
考え方が出されております。それじゃ私自身は
鉱業権というものをどういうふうに理解するかということなんですけれども、
わが国におきます
鉱業権制度の発展、特に明治初年から一連の
鉱業立法が出てまいりまして、日本坑法だとか、あるいはその後の
鉱業条例だとか、さらに旧
鉱業法、その他いろいろありますけれども、そういう一連の
鉱業権の成立してまいります過程をひとつ
考えてみますと、結局その一連の過程というのは、
地下に存しておる未掘採鉱物というものが社会的利用が認められるしたがって、だんだんどういう
権能でもって開発せしめるのが最も合理的であるか、もっと率直に申しましたら、まだ不明確なようなものは、勢い
土地所有権というようなもので掘ってもよろしい。しかしながら、さらにそれが社会的な価値を持ってまいりますと、どうも
土地所有権というようなものにまかせておったのでは、うまく合理的に開発できない。そこで何とか
土地所有権とは違ったような
権能でもってこれを利用させようというようなことでもって、逆に振り返って見ますと、明治以後今日に至るまで未掘採鉱物の種類の増加の契機とその社会的要因というものを
考えてまいりますと、一応いまのようなことが申し上げられるのではないかと思います。そうして見ますと、結局いろいろ
学説によってニュアンスはありましょうけれども、そういう歴史的な未掘採鉱物の利用としての、あるいはそれとの関連における
鉱業権といようなものを
考えてまいりますと、結局
鉱業権というのは未掘採鉱物に対するところの支配権だというように言ってよろしいのではなかろうか。特に旧
鉱業法と違いまして、
現行鉱業法は非常に包括的な
土地所有権と、その点に対する未掘採鉱物に関する点とでもとって包括的な一切の未掘採鉱物に対する支配権、
権能というものは国に留保する。そうして次の
規定でもって
鉱業権が出願があった場合には、次のものについてはこれを
鉱業権を設定することができるというような
規定を置いておりますところを見ますと、
原則的に見て
現行法のもとでは、
土地所有権によって
鉱業権を支配するという
関係は一応抜きにして
考えなくてはならないのじゃないか。そうしますと、いま申しますように、
鉱業権というものは未掘採鉱物に対する支配権であるのだ、こういうことは、一応歴史的な
鉱業法の発展、あるいは
鉱業権制度の発展を
考えた場合に言い得ると
考えるわけでございます。同じようなことは、ただ単に
わが国だけじゃなくて、極端な例を申しますと、たとえば英米法においては未掘採鉱物につきましては、いわゆる
土地所有者取得主義と申しまして、
土地所有権の
権能によって行なわれている。ところがそれに対しまして、大陸法におきましては、むしろ
鉱業権制度というものでやっておるのですけれども、そういう比較法的な考察の結果からもそういうことは言い得るという気もいたします。
そこで
鉱業権というのは、そういう
意味で未掘採鉱物に対する支配権だということになるわけなんですが、一応それでよろしゅうございますでしょうか。
それから第二点は、これから作ろうといたします
鉱業法は、百八条の二以下でございますけれども、
鉱業と他の
事業との
調整ということをもうけるという観点に立っておるわけで、そういうもののねらいと申しますか趣旨が、
現行鉱業法に比べて新しいものを意図したことになるのかどうかという御
質問だと思うのですが、その点について
お答えいたします。
いま申しますように、
鉱業権というのは未掘採鉱物に対する支配権である。そういう
意味で特別の物権だと
考えるわけなんですが、そういうふうに
考えてまいりますと、地表に出ております鉱物の場合にも多少まだ問題は残りますけれども、そうでなくて、
一般に未掘採鉱物というのは、
土地の中に埋没されておる。そしてそういうものを開発し、利用するものが
鉱業権であるということになると思う。そうしますと、そういう
土地の中に埋没されておるようなものを利用するということにつきましては、たいへんやっかいな問題が出てまいります。
一つはどういうことかと申しますと、
土地の中にあるわけですから、何とかしてそこに入る方法がなくてはならない。つまり坑道を掘るなり、あるいはその他の設備をするなりして、その未掘採鉱物に到達する方法が前提に置かれない限りは、ただ未掘採鉱物を利用する
権利として
鉱業権を認めたところで、実際は開発できないということになります。
それから第二点は、かりにそういうことが何らかの方法でもって講じられたとしても、未掘採鉱物というのは、確かに地中に存する自然的な鉱物資源の存在ではありますけれども、同時に
法律的にそれがどうなるかということは問題としましても、それ自身が、つまり地表をささえておるといういわば英米法的な
考え方を申しましたら、地表支持権と申しますか、そういう機能を果たしているということは間違いないと思います。そこで
鉱業を実施するということは、いま申しますようにそういう
地下に入り込んでいって、それを掘る、掘るということは、同時にそれ自身が現実に果たしておる地表支持的な機能を喪失せしめるということ、この事実は否定できない。だから
鉱業権が未掘採鉱物であるということを前提とすることによって、特に
土地所有権との関連から申しましたら、いま申しましたように、その鉱物まで何とか行き着くための
一つの道というか、方法、これはどうするかという問題。
それからもう
一つは、地表支持的な機能である鉱物をとるのですから、地表支持的な機能が喪失をして、喪失することによって地表に何らかの
影響が出てくるという
関係が出てまいりますから、そこをどうするかという問題、これは
鉱業権制度、特に
鉱業権が未掘採鉱物に対する支配権であるのだという
考え方をとりますと、どうしても不可避的にそのことを
解決しなくちゃならない大きな問題だと思うのです。私は従来そういうふうな
関係で、特にそこの鉱物を取るためには、どうしてもその場所を利用しなくてはならないんだというような
関係のことを場所的支配の
関係と言う。つまりそういう形での
鉱業権と
土地所有権との抵触というような表現で実は呼んでみたわけです。
それからもう
一つは、ずっとそこに入っていって未掘採鉱物を取る。取ることによって地表の支持的な機能を失うということ。これは何もそこをどっちが使うかという問題じゃないだろうと思うのです。非常に深いところですから、おそらく
土地所有権が及ぶといってもいいし、及ばないといってもいいのですが、要するに地表支持的な機能を喪失するようなことの結果、多少地表に変化が出てくる。そうすると
土地所有権の円満性というか、建てらてる家が安定した地盤の上に建てられなくてはならないのに、不安定な
土地の上に建てられるという
意味での
土地所有権の行使の内容の変化、そういうふうなことを私は
権利行使の円満性と呼んでおるわけですけれども、そういう
土地所有権の
権利行使の円満性というようなものが、結局侵害されることになる。もちろんこれは
程度の差はあるのでありまして、第一の場所的な支配につきましては金属であれ石炭
鉱業であれ、ともに出てくると思いますが、特に後者の円満性ということにつきましては、あるいは鉱床の種類によっては出てこないかもしれません。しかし石炭、特にこういうふうな調節が問題になってまいります石炭というような場合を例にとりますと、これは
程度の差こそあれ出てくるわけなんで、したがってそれがどうしてもそういう円満性をめぐって、その両者をどうするという
関係が、私のような理論構成をやってくると出てくるということになると、したがって現実にはその両者の調節をどういうふうにしなくてはならないかということは、ある
意味で論理的な帰結でもありますし、同時にこれは単に理論だけの世界ではなくて、今日の現在的な実情でもあろうかというように
考えておるわけです。したがって従来そういうふうなことについて、特に調節の
規定がなかったわけなんですけれども、あらためてそれでは今度の
改正法において、そういうものを認めるということになるのかどうかということになるのですが、このあらためて認めるかどうかということの
意味を、文字どおり形式的にとらえまして、条文に書きあらわすということがそうなのかということと、かりに条文に書きあらわされようと書きあらわされまいと、
現行法の
解釈のもとにおいても、そういうふうなことがあり得たのかどうなのかということでもって、多少回答が変わってくるかと思いますけれども、もし
規定の有無にかかわらず、
現行法のもとでもそういうことは問題になるし、同時にそれに対処する法理論があるのかということになると、私のように
考えてまいりますと、
現行法のもとでもそういうことはあり得た。またなければ、現実において両者の調節はできないことになると思う。そうなれば上も困るし下も困るということで、実際には
鉱業はできないということになるでしょうけれども、そうでなくて、
鉱業をやってきたということは、それが理論的に説明されておったかどうか、あるいは
学者が取り上げておったかどうかということにかかわりなく、いわば生ける法と申しますか、現実にはそういう秩序
関係というものが存在しておるんだというように
考えております。
たとえば、
現行法でも、先ほど
加藤教授もおっしゃいましたけれども、制限の
規定、たしか五十メートルというような
規定がございましたが、そういうような
規定は、確かに直接には何も両者の調節ということに、そのことを意図して
規定されたものではないと思うのですけれども、私の理解しますところでは、それの現実的な機能と申しますか、事実的な機能としまして、やはりもう
一つの
土地の使用、収用の制度と相からんで、両者は、私の申します場所的な支配の
関係というものを帰一するところの方法であったというように
考えておりますし、それからもう
一つの円満性をめぐる場合の抵触というようなもとでも、あまり
学者は取り上げておりませんでしたけれども、私自身は、従来そういうことを多少
考えておりましたし、あるいはものにも書いておりまして、そういう調節の理論というようなものを、
現行法のもとでどうしたらよろしいかということは
考えておったことがございます。もしそうなると、むしろ従来全然なかったものを今度新しくつくったというよりも、従来、どちらかというと、行政的な運用なりあるいは
裁判所の
解釈なり、あるいはその背景になる
学者の
学説というようなものにまかされておった
部分、したがってそれは勢い不明確にならざるを得ない
部分なんですけれども、そういうふうなものをもう少しきちんとして、たれにでもわかるような形にするということが、
現行法の百八条の二以下の
関係ではないか。したがって、ことさらにこういう趣旨が新しく今次の
改正をめぐって出されたというよりも、
現行法のもとにおいて運用ないしは
解釈をしてやっておったことを、さらにすっきりさせる形でもって——もちろんすっきりさせる過程においては、いままでの不明確さあるいは不備、不純なもの、そういうふうなものをよりよくするということは当然あると思いますけれども、しかし趣旨においてはことさらにこれを新しく出したのだというようには私は理解していない。のみならず、おぼろげながら従来でもやってきておった、しかも今日
鉱業のほうもそうでしょうけれども、地表におきましては、われわれがかつて想像もしていなかったようないろんな工場その他のものが出現してくる。そうしてまいりますと、両者の
関係は、私のように理解してまいりますと、非常に緊張と申しますか、熾烈な
関係になっていくわけで、したがってそういうふうな社会的な背景もあって、同時にこれは明らかにされなくてはならない。その明らかという
意味は、無から有を出すというようなものではなくて、多少不完全なものから完全なものにするという
意味で、今日の時点で出てきたのではないか、そういうふうに
考えるわけでございます。
それから同時に、第三の御
質問で、それではこういうふうな制度が必要であるかどうかということですが、それはいま申し上げましたような一点、二点のことから、言うまでもないことだと思うのですけれども、私は非常に望ましいことではないかと思うのです。従来のように
解釈あるいは運用、つまり明文の
規定のないままでのその他の体系からの
解釈、運用あるいは
裁判所による操作ということになりますと、どうしてもそれを画一的に取り扱うということ、あるいは具体的な妥当性を持って行なうということは、場合によっては望まれないような場合も出てまいります。そこで一方においては、そういう法理論上の必要性、それから一方におきましては、先ほども申しますように、今日、地表
権益の利用の発展ということが大きくなればなるほど、その両者の
関係というものは緊張度を加え、したがってまた
解決の要を加えるということになるわけであります。したがって、そういう理論上、現実上の問題、そういうふうな
両方から見て、こういうふうな
規定——もちろんその内容にもよりましょうけれども、もしこの内容において妥当性を持ち得るものだということであれば、なおさらのこと私は、必要性という観点からいうならば、望ましいことだというように
考えております。
あるいは言い落したり、その他のことがあるかもわかりませんけれども、不備なところは後の御
質問に応じたいと思います。