○
山本(勝)
委員 これはあとでILOそのものの権威、価値、これが過大に評価しても過小評価してもいけない、どの程度に評価すべきかということは、最後に問題といたします。いまは略しますが、しかし国内事情に沿うてやるという場合に、日本の国内事情というものをどう受け取るか、労働
関係について考慮すべき国内事情というものをどういうものを考慮するかこいう点であります。これについて私の
考えをちょいと申し上げて御意見を承りたいと思います。
私は今日の日本人の職業に対する
考え方というものは、かなり西欧諸国あるいはアメリカなどと違うと思う。日本人は職業を生活だと
考えておる。だから、職業において人生の意義を見出そうと
考えておる者が多い。したがって、就職を頼みにくる者は、将来性のある一生の
仕事を探しにくる者が多い。われわれのところに頼みにくるのはそういうのが多かったし、今日も多い。ところが対照的なのがアメリカであります。アメリカの場合は、
仕事というのは生活費をかせぐための手段である。ほんとうの生活は、
仕事が終わった瞬間から始まると
考えている。午後の四時なら四時に
仕事が終わった、これからが生活だ。それまでは実は生活費というものをかせぐ手段にすぎない。したがって一ドルでも高いところがあれば、きのう就職してきょうやめても、だれもふしぎには思わない。大学を出てくつみがきをやっておる者があるが、それもだれもふしぎには思わない。これは極端な例ですけれ
ども、日本人の職業に対する
考え方が違う。日本人の場合には、職業というのは
一つのつとめだと
考えている。つとめというのは、
仕事をつとめと言うと同時に、おつとめといって、朝起きて供養をする、お経をあげるのもおつとめなんです。ですから単に労働力を売るのだ、買うのだというのは、それはいろいろ学問をした人が向こうの本を読んで
考えるのであって、ほんとうの日本人においては、雇う者も雇われる者も、労働力を売る、買うというふうには
一般には
考えていない。ですから日本には、時間給というものはほとんどありません。時間の切り売りなんということは、向こうでは平気です。平気よりも、それが原則であります。これが日本人の
仕事に対する
考えで、おつとめ、つとめだ。だから子供がおとうさんどこへ行ったと言ったら、おとうさんほおつとめと言えばもう幼児でもそれで納得する。だからこれはある
意味において、単なる労働力というものの売買
関係以上に、もちろん生活費をかせぐのですけれ
ども、そこに人生の意義を見出し、非常に道徳的で、むしろ宗教的である。そういうのがいいか悪いかは別問題ですけれ
ども、私は必ずしもそれが悪いものだときめてかかるならば反対である。西欧の、あるいはアメリカのやり方が近代的だ、それがいいんだというふうには、私には
考えられない。現にアメリカにおいても西欧においても、いき過ぎが反省されて、労使
関係は単に労働力の売買ではなくて、人間
関係であるということで、そうしていかにしてほんとうの人間
関係をつくるかということに非常な苦心を払ってきておるのは、御
承知のとおりであります。
それから第二に、私は教師というものに対して、人を教えるという、この教師の職というものに対する日本人の
一般の
考え方は、かなり特徴的だと思います。よほど身分の高い人でも、自分の子供を預けておる先生に対しては、ほとん
どもう常識もないような先生にでも、先生、先生と言って、出会ったら、おはようございますと、父兄のほうから先におじぎをする。だから教師の職は、これは
一つの聖職というふうに
一般には
考えられておる。いいか悪いかは別問題ですよ。しかし、とにかくそれが
現実であります。ですから教師が、わが輩は労働者であるというようなことを言いますと、父兄が反発する。なぜ反発するかというと、自分たちがそれをたっとんで、尊敬しておるものを傷つけられたという感じで、よごされたという感じで反発をする。教師自身がそういうことを言うけれ
ども、先生を労働者であるというふうには父兄は
考えたくないの、であります。これが私は日本の労働
関係法を
考える場合に、教師、これは
地方公務員とか、
公務員でないとかいう議論がだいぶやかましゅうありましたけれ
ども、それは
公務員たる教師であろうが、あるいは
公務員でない教師であろうが、同じことです。およそ人を教育する
立場にある人を尊敬する、その職を尊敬する。そうして、その人は模範的に行動してほしい。それはむずかしいことだけれ
ども、人の模範となって行動してほしいというのが、日本の父兄の願いであります。これを私は考慮せにゃならぬというのが第二点。
それからもう
一つ、日本の労使
関係に
関係した特色は、
使用者とそれから労働者との
関係であります。いい悪いは別問題。この間大野さんがなくなりましたけれ
ども、大野さんが非常に大衆に受けるというのは、親分子分という、これは日本は昔から親子の
関係というものを——いいか悪いか、昔から親子
関係というものが
一つの社会の軸になってきておる。ですから、
一般の雇い主は預けられた若い娘さんに対しても、親から遠く離れて預けられたのだという
気持ちがあるのです、これは十人のうち九人まである。それだけに、夜おそく活動写真から帰ると文句を言ったりするのは、そこなんです。そういう弊害も起こってくる。弊害も起こってくるが、親がわりに、間違いのないように育てていこう、時間があればお花も教え、裁縫も教えて、結婚のりっぱにできることを願う。この間、外国の見た日本、というので、読売新聞に、日本の会社では上役が社員の結婚の世話で忙殺されておる、これが外国人にはわからぬという記事がありました。社長が社員の仲人になって祝辞を述べるというふうなことは、これは日本においてはあたりまえのことなんです。上役が下僚のために嫁を世話をする。そうして、外国にない例は、会社が、できることなら社宅をつくり、労働者の寮をつくり、また運動場もつくってやりたいというのが、日本の雇い主の願いであります。なかなかそういきませんけれ
ども、できればそうやりたい。外国に見ないほど厚生施設が発達したということ、これは日本の雇い主というものが、労働者と階級闘争をしているとか、あるいは労働力を売買しているという
考え方に立っていない、いわゆる人間
関係として受け取っておるという証拠だと思う。これもいろいろその結果弊害もありましょうけれ
ども、必ずしもこれを前時代的なものとして排斥すべきではないというのが私の
考えであります。社会党にすらも、聞くところでは、親分子分というのがあるという話である。外国で言うボスというのと、日本で言う親分というのは違う。親分子分というのは、外国で言うボスの
関係ではなくて、親の
気持ち、子の
気持ちという、この日本の社会の
一つの親子
関係というものがそこに反映してきておる。だから、労働者が親方と言い、おやじと言う。インテリはそういうことを言いません。頭が古いと言いますけれ
ども、ほんとうの大衆はそう言う。だから、ほんとうの日本人らしい、泥くさい日本人といいますか、日本のはえ抜きの労働者に労働
関係というものを聞いたら、おそらくメーデーに親方を、社長を呼んできて、そうして祝杯の音頭をとってもらい、乾杯の音頭をとってもらうということを喜ぶと思います。そういう
関係を今日の労働
基準法や労働
組合法にあるいわゆる不当労働行為なんと言うのは、少なくとも日本の伝統からはえ抜いて出てきた
考え方ではなくて、翻訳にすぎない。翻訳が悪いとは一がいに申しません。
〔
委員長退席、森山
委員長代理着席〕
しかし、社会党にすら親分子分がある。いわんや自民党なんかにはありますが、そういうのが日本の社会である。この労使
関係を
考える場合に、雇い主とそれから雇われる者の
関係というものが人間
関係である。だから、労働法というものは、戦争法規のようなものにしないように、対等の
立場で戦う戦争法規のようなものにしてしまって、そうしてこまかいことまで、こっちがやるならこっちもやる。こっちがやるならこっちもやるで戦いをやるのではなくて、平和的に協調補足していく
関係で、これを両方とも
承認したならば、私は、
団体交渉とか中央
交渉 それを
承認するなら、会ってはいかぬというふうなこともおかしいし、あるいは事務所を貸しちゃいかぬというのもおかしい。対立闘争でけんかするという前提だから、事務所なんか貸すなということになりますが、あいているから使いなさい、いや、ありがとう。おやじ、今度子供ができたから、ひとつ来て
名前をつけてくれ、こういう調子ならば、私は、場所があいておれば貸してやったらよいと思う。専従なんかでも、けんか腰になるから専従なんかいかぬということにならざるを得ないのですけれ
ども、なごやかに、本来の目的が私の申し上げたように平和的協力、補足の
関係ということになれば、そういうことは問題でなくなる。ただ、遺憾ながらいままでの行き方が、とにかく対等の
立場でけんかをするのだ、不断の戦いあるのみということでやってきたものですから、戦いならば必ず敵を弱くしていく、味方を強くするという
考え方が起こってくるのは、両方とも当然なことになってくる。それを、いやなものですから、
使用者のほうでは、労働法は労働法でありましても、実際は自分の好きな流儀でやっていく人が出てくるんだと思うのです。
それからもう
一つ、日本の特殊事情を私は申し上げてみたい。
それは、日本は非常に進んだ工業国、先進工業国になっておりますけれ
ども、先進工業国の中では、土地が狭くて資本の蓄積が少なくて、労働力が多い国である。土地、資本、労働と、これが生産の三要素といわれておることは御
承知のとおりでありますが、この三つの要素の中で、土地が狭くて、資本蓄積が少なくて、労働力が比較的よその国に比べて多い、こういう国におきましては、これは土地が狭いから、必然的に地代が高くなる。それから資本蓄積が少ないから、金利が高くなる。労賃がそのわりに低くなるということは、私は自然の法則だと思います。労働の移動が自由ならば、世界各国、アメリカでもイギリスでも自由に移って働けるなら労賃の格差というものはおのずからなくなります。高いところへ、高いところへ流れていきますから。そうして、人口の密なるところと粗なるところはできますけれ
ども、水が自然に流れれば、労働報酬の格差というものはだんだんなくなっていきます。
労働条件は均衡化するにきまっている。しかし、今日国境というものがあって、労働者が自由に動けないというものにおいて、国際分業の世界で生きていくためには、土地が狭くて天然資源が少なくて、資本蓄積が少なくて、労働力が多い国においては、よそよりも比較的に安い労賃で働く以外に国際分業でその
地位を保つことは不可能だと思います。土地が広い、天然資源が多い、資本が多い国、そして労働力の少ない国——アメリカを
考えますと、資本も多い、土地も多い、労働力は比較的少ない。そういう国と比べまして、これは代表的な
一つのコントラストでありますが、資本が少ない、土地が狭いのに、労働力は同じというふうに
考えたら、これは国際分業の世界では生きる余地はありません。しかも、そういうところでは、率から申しますと、労賃率というものは低い、金利は高い、地代は高い。それは地主の収入が多いというのではありません。ただ一反歩当たりの、一坪当たりの地代とか、百円についての金利とか、あるいは一日とか一時間当たりの労賃というふうな点から比較しますと、地代が高く、金利が高く、労賃が低いということはやむを得ない。国鉄労組の一九六一年二月二十日付のILOへの申し立ての中に、「日本の労働者は全体として外国の労働者に比し低い賃金を支払われていること」云々というようなことを書いておりますが、これは、もし外国と同じような労賃を支払うということになったら生きていくことはできないということになるので、砂漠の中で住んでおる者も、国際分業に参加することが、せざるよりは有利であります。しかし、ただ参加した場合に、生活程度は低いというところに甘んじて国際分業に参加したほうが、分業に参加しないよりもなおいいということになると思うのです。この点。
それから、その次の日本の特殊事情は、これは社会党の諸君がちょっと気に食わぬかもしれませんけれ
ども、案は労働運動の指導者の中にマルクス・レーニン主義者が多いということです。今日、自由国家の先進国の中では、日本級の中では特異の例だと思います。口を開くとアメリカ帝国主義がどうのこうのという。あるいは金融資本がどうのとか、独占ブルジョアがどうとか、こういうマルクス・レーニン主義者が多い。そして階級闘争史観といいますか、労使は階級の敵として不断に戦っていかなければいかぬのだ、戦いをゆるめたらいかぬのだという
考え方。したがって、やむを得ざる破れとして争議を認めるのではなしに、ノーマルなコースですから、ことしのうちから来年の春のストライキまでスケジュールを組む。これは異常なるやむを得ざる行為として認められておるものをノーマルな行為、正常な行為として
考えるからスケジュール闘争というか、春闘だの秋闘とかいうので、ちゃんと半年も一年も前から計画してやるということになると思います。このマルクス・レーニン主義者が多いということが
一つの特徴だ。これも自由国家における労働法というものを
考えていく場合には
一つ念頭に置かなければならぬ。よそにないことです。よそ並みではいけない。イギリスとかアメリカとかドイツとかいうものと同じように、せめて同じようなことをきめたいといいましても、その人間が違い、
考えが違うのですから、これは同じように扱っていったらたいへんなことになる、こういうふうに思うのです。
だから、
公務員というものに争議権を奪還せねばならぬというので非常に御熱心だ。しかし
公務員にストライキを権利として認めておるような国は、おそらく先進国にはないと思います。それはたとえば西ドイツの場合には、これは申し上げるまでもないのですけれ
ども、ワイマール憲法では
団結権というものは認めておりました。しかし、条文で認めておっても、判例で
公務員の争議は公法上の忠勤義務に反するということで全部否決されておる。今度
公務員法をつくるときに、ボン憲法の三十三条で
公務員に関することは従来の伝統、伝来の慣行に即して
法律できめるとこうきめておいて、そして
公務員法をきめたときに、
政府原案には
公務員のストは禁止するという一項がありました。それを審議の過程で削った。削ったときの理由が、
公務員のスト権がないことは自明の理であるから削れということで、削るには削ったけれ
ども、スト権を認めるというので削ったのではなくて、自明の理だからというので削った。これは西ドイツの例です。フランスなんかでは、ドゴールが出てくるまで
公務員は
組合を結成する自由すらなかった。ドゴールが出てきて、今度は
法律上はいろいろ出てきましたけれ
ども、それでも
一般の人が
公務員のストライキを権利と
考えて認めておるようなことはありません。アメリカも御
承知のタフト・ハートレー法ではっきり法文で禁止しておる。だから、
公務員も労働者という概念
規定から出発をして、そしておよそ労働しておる者、ないしは賃金俸給をもらっておる者を全部その概念で包括していろいろ議論が行なわれるようでありますけれ
ども、
公務員というのは、憲法第十五条にも、
公務員を罷免する権利は国民固有の権利であると書いてある。国民固有の権利として
公務員を罷免する権利を憲法が認めておるということは、
一般の労働者、勤労者の場合にはおよそ
考えられぬことであります。
一般の労働者の場合には、いかに国民が固有の権利を有しましても、罷免する権利を持っておりません。しかし
公務員については罷免することすらも固有の権利として認めておる。ですから、これは
一つのことばの概念
規定で、概念にはまるかはまらぬかでやっていくものですから、しまいに概念からはみ出るところができるから議論が紛糾して、答えるほうもわからぬし、尋ねるほうも結論が出ない。議論が紛糾するのはその概念
規定から出発していくからだと思う。
もともと概念
規定から出発しないで、事実から出発する。
公務員なら
公務員というものの実体から出発する。
一般の労働者の実体から出発する。そして
学校の
教員の実体から出発する。労働者の概念や、あるいは労働権という概念や、
団結権という概念
規定から出発しないで、事実から出発していったら、私はこんなに議論は紛糾しないと思う。
これらの、まだあげればたくさんありますけれ
ども、日本の労使
関係についての特色といいますか、についての私の
考え方、大体において御賛成いただけるか、いかがですか。運輸大臣どうですか。
〔森山
委員長代理退席、安藤
委員長代理着席〕