○竪山
参考人 竪山でございます。
八十七
号条約の
批准の問題は非常に長期間にわたっておるわけでありますが、一体なぜこれが
批准されないのかという点を局外から見ますれば、特に疑問に思うわけでございます。この
理由は言うまでもございませんけれども、八十七
号条約を純粋に取り上げてない。これは率直に申し上げますれば、
政府が
提案をいたしましても、これにからませまして
国内法の、
組合側からいいますれば改悪というものをは一緒にのまそう、こういうところがこじれている原因じゃないかと思います。そういう一方におきまして、これにひっかけまして、またほかのところで問題を広げていくというところに問題があるように私は思いますので、この取り扱い方ということについて基本的に私たちは反省する必要があるのではなかろうか。そういう点で、ぜひ八十七
号条約それ自身を純粋に取り扱っていただきたい、こう思うのです。それでなければ、国際的な視野から見ました場合に、われわれは国内事情だ、国内事情だといっておりますけれども、外から見ましたら最も明確な
条約批准が、なぜ一体このようにこじれていて
批准されないのか、もし今
国会におきましてこれがだめであるということになりましたら、たいへんな問題じゃなかろうか。われわれ国内で
お互いに事情をよくわかっている者の感覚からいいますれば、ああだこうだといいますけれども、外から見た場合にはきわめて単純率直な権限が
承認されてないということでありますので、この点は、態度としまして、ぜひ
批准しなければいかぬ、こういうふうに思うわけであります。
しかし、それと同時に、なぜこれが
批准されないか、あるいはおくれたかという原因といたしますれば、この問題はもっと大きな根本問題をかかえている。言いかえれば、本来がそれが問題でないのだとあるいはいえるのじゃないかと思います。さきのお話にもありましたけれども、三十二年に首を切られた幹部をいただく
組合というものに対しまして、
団体交渉権を拒否いたしました。だからこの問題の根源は、
公務員や公労協
関係の
労働組合に一切争議権を認めないということ、その結果解雇される、解雇された三役が
組合の主要な指導者として残る、そういたしますと、これに対して
団体交渉を拒否する、そこで今度は、その
職員でない身分の者も
組合の中に保有していかなければならぬという
組合側の立場になります。そこで
改正する必要があるのが八十七
号条約だ、こういうような
順序にきている
日本の特殊な問題の立て方でありますので、私たちはこの問題をそしてはいけない、正面から
団体交渉権並びに争議権の問題についてはこの際考えなければならぬのじゃないかというように考えるわけであります。
そこでいろいろ議事録を拝見しますと、法理論やいろいろなお話がございますが、双方ともほんとうの問題を表に出さない、紳士的というのか何かわかりませんけれども、そういうことじゃなかろうかと思います。それでぜひお考えを願いたい点は、おそらく双方とも、
日本の労働運動の
あり方とか
労使関係の
あり方あるいは
政府のもとにおきます
労働関係というものをどうすべきかという根本問題に突き当たっているのだと思います。この問題は、やはり率直に相互に
意見を交換していかなければならぬのじゃないか。ことに四・一七ストは回避されましたけれども、内容からいいますればきわめて重大でございます。
政府はこれに対しまして違法ストライキだと、こういっている。しかしおそらく
労働者の多くはそれがやむを得ないものと考えている、こういうような鋭いところまでまいっております。しかも、あれが回避されないで実行された場合には、私は方法、手段としましてはきわめて先鋭なものだと思います。政治的革命的なものになってしまうようなところまできております。
ところで、そういうような境地に
組合が置かれました事情は一体何か。百もご
承知のことでございますけれども、その指導者の人でも、かつてはそういった違法な行為というものを避けながら、どうして
組合の主張を進めていくかという点に非常に苦心した人たちでございます。社会党から出ておられる議員の中で国鉄
関係の方がおられますが、これらの人たちが、
昭和二十五年あたりの大会の議事録をお読みになればわかりますが、
政府が仲裁裁定を実行しないと言った場合には一体どうすればいいのか、これは非常な事態であるから、非常な事態においては救済する方法としてわれわれはストライキもやらざるを得ない、これは合法的である、こういう合法的という立場に立って理論づけ、何とか
組合としての主張を伸ばしていきたいという苦境に立っております。それがいつの間にか慣習化してまいりました。そういう点で、
公務員なり公労協
関係の
職員、
労働者というものに対しまして、一切そういう
組合員に力を与えないということでは、この問題は解決しないと思います。
そういう
意味におきまして、実は八十七
号条約がこじれます面は、問題の焦点はそこにない。ひょっとしましたら、あれは
改正しなくてもいい、言いかえれば、
在籍専従がやれるようなそういう
職員の身分を持った人たちの
組合だけでもいきたい、しかし解雇の問題があるから実はあれをはずさなければならぬというふうなジレンマに立っているんだと思います。そういう点で、根本問題はやはり
公務員におきますあるいは官業におきます
労働関係を根本的にこの際取り上げなければならぬだろう。しかも四・一七ストに見られますような状況が考えられるとするならば非常に緊急である。しかもその上に民間の場合にはいろいろな争議がございまして、批判を受けるようなものもございました。けれどもその民間の
労使関係に比べて一体
政府関係の
労働関係は進んでいるのかどうかということになりますと、非常な立ちおくれというものにあるんじゃないかと思います。そういう点ではここに大いにこの
労働関係立法の
検討が要るんじゃないか、こういうふうに思うわけであります。
それから、いろいろ論議の過程で私たちはこういうことを感じます。言いかえれば、この
労働関係のものは
労使関係自体の
慣行あるいは労働運動の発展の段階、進め方、こういうものを基礎にして
判断すべきものだ。したがいましてそういった
慣行やら労働運動自体の自主的な動きというものをば助成する、その中においてこれを法定化していくというふうな
順序が必要なんじゃないか。それをば形式的に外から持ってきまして、こうあるべきだという規制の態度は、労働運動やら
労働関係を扱う態度としますれば逆ではないか、こういうように思います。
それから第二に、同じようなことでございますけれども、労働運動としますれば、何としましても民間の産業
労働者とそこにおける
労使関係というものが一つのモデルだと思います。出発点だと思います。しかしながら近代国家におきましては
政府の役割りも国家の役割りも非常に拡大してまいりました。したがって被雇用者の身分にあるこれらの人たちはそういう点で共通面がある。だから近代国家としますれば民間における
労働関係、それを規制した労働立法をできるだけ、
公務員やらあるいは官業
関係におきましては内容からいいますればほとんど同じでございますから、そういう点については
権利を確保してやろう、しかしその条件は必ずしも一本ではございません。確かに
公務員とか官業の場合とか公益事業とかいろいろございますから、具体的な姿におきましてはいろいろな相違がございますけれども、根本の考え方はそういうものをば適用していこう、これをば援用していこうという態度からきているわけでございますから、それを忘れましてそこに条件がないとか、あるいはこうあるべきだという考え方もいけない、と同時に、すべてこれは被雇用者であるから
労働者である、こういう一般論で
権利を
規定するのもまた間違いだと思いますが、とにかく立場としますれば民間における
労働者に与えた権限をば、
公務員の場合でももちろん、官業の場合におきましてはもちろんでございますが、どういうふうに適用していこうかという視野でもって問題を解決しなければならぬのじゃないか、こういうように考えているわけであります。
そういうふうなことと、特に
ILO八十七
号条約につきましては、私たち外から見た場合に、
日本の姿がどうであるかということをよほど考える必要があると思います。国内では
お互いが許し合ってかってなことを言っておりますが、外から見たらどのように見られるかという点について、言うなればナショナル・インタレストというものがあるのじゃないかと思います。対立し抗争をしながらもそこにナショナル・インタレストがあるのじゃなかろうか。あるいは少なくとも国内で自主的に解決できる分野、しなければならぬ分野と、国際的に連携していかなければならぬ分野とについて
日本の
労使双方がしっかりしたけじめをつける、言いかえれば、こういう
国内法改悪とか
改正の問題につきましては、
日本の
労使慣行の中から
日本自体が自主的に解決するという必要があるのじゃないかというふうに思います。そういったことから考えてみますと、私の結論としますれば、八十七
号条約は、今
国会がどのような事情にあろうともぜひこれは
批准していただきたい。これは
日本全体の問題だ、
日本全体の運命の問題だ、こういうふうに思います。けれどもこれで問題が解決するのでなくて、むしろこれは敵本主義といいますか、敵は本能寺だという形でこれは振り回されておるわけでございます。そういう点でさっき言いました団交権あるいは罷業権、争議権、こういったような基本問題につきまして、言いかえれば全体としての
公務員の
あり方とかあるいは
政府の
労働者の
あり方あるいは
労働関係というものをこの際こそ抜本的に解決すべき段階だ、こう思います。そういう点で私は、今
国会ではぜひ八十七
号条約は、いかなる問題があろうともこれを
批准するということ、次いで、これで終わりというわけではなくて、実はこれは出発点なのだ、その点で根本問題を直ちに解決するために罷業権まで含めました
労働関係の
あり方について直ちにひとつ御
審議願う、進めるという方法にしていただきたいのが私の結論でございますし
いま、一般論でそういうことを強調いたしましたが、これから個々の問題につきまして
意見を述べさしていただきたいと思います。そうしますと、
関係国内法の中で、
公労法の
四条三項あるいは
地公労法の
五条三項というふうなものを削除すれば、
ILO八十七
号条約の問題の
批准は同時的にできるわけでありますからこれだけを上げていただく、これを決定していただくということでいいのじゃないかと思います。
公務員の場合におきましては、さきにもお話がございましたけれども、いままでの
あり方に合わせまして適用解釈をするということになっている程度でありますから、今回はこの新しい
あり方に適用解釈されるということで解決はつくのじゃないかと思います。そういう点で今
国会では八十七
号条約の
批准と
公労法及び
地公労法関係の、そういった直接
関係のある部分だけを少なくとも上げてしまうといいますか、
批准して決定をしていただくということが大事なのじゃないかと思います。そこでこれに関連しまして抱き合わせしてといいますか、問題をこじらせました
理由は、こういう
法律を認めれば
組合の
権利が非常に強くなるあるいは
組合だけが得をするという感覚があるのではないかと思います。そういう点で
在籍専従の問題とか、チェックオフの問題に問題が発展してきていると思います。
ところで、この
在籍専従をどう考えるかという問題でございますが、今回もし八十七
号条約が
批准されて、さっき言いました点の削除がなされました場合に、もしある官公庁の
組合あるいは官業の
労働者が従業員だけの
組合をつくった場合はどうなのでしょうか。従業員だけの
組合をつくってならないという
規定なのかどうか。もしそれがつくり得る可能性があるということだとしますればどうなのでしょうか。そうしますと従業員だけで、
職員だけで結成する
組合は
専従職員が持てないということになります。これはこの趣旨であるかどうかということになるわけであります。そういう点で私は、組織の形態をどういう形にするかというのは
組合側の自由な選択によるのではないか、
職員外の人を入れる組織形態もあり得るし、従業員だけで結成する組織形態もあるのだ、どちらが理論的で、どちらが将来の
方向を代表するかという問題につきましては、私自体もやはり
職員外の者を入れていくような横断的な各国の
組合の姿をとらなければいけないと思います。けれどももし今日の段階におきまして
職員だけでつくるというふうな
組合があった場合には一体これは認めないのでしょうかどうか。そういう
組合を認めない、
在籍専従を認めないとすれば、
組合活動はできません。もしそれを認めるということでありますならば私は認めなければならぬのじゃないかと思います。そうだとすると
在籍専従の問題はやはり
労使双方の一つの
慣行、考え方というものにゆだねるべきであって、ここで
法律に
在籍専従を禁止するとか、あるいは三年くらいはいいが、あるいは五年くらいはいいがというふうな論議はおかしいのじゃないか。しかもそういう
専従制度が各国にも一応あるとすれば、あるいはさっき
松岡先生のお話にありましたが、ショップ・スチュワードの運動とか工場における従業員集団というようなものの役割りはたいへん大きいわけであります。その場合におきましては、それは従業員でなければ、ショップ・スチュワードの運動も工場
委員会の運動もイタリアの内部
委員会の運動も可能ではございません。そういう点においては、その段階においては認めるべきだということが必然になってくるとしますれば、これはやはり相互の
労働関係、
日本の
使用者と
労働者がどういうふうな慣習として確立していくか、その自主的決定にまかすべき問題ではなかろうか、こういうふうに考えるわけであります。特に
日本の
組合が、多くは企業別の従業員
組合であるという組織形態をとっています。したがいまして、さっき言いました削除すべき条項も、ある
意味では、
政府からもし弁明するとすれば、民間の大部分が、労働協約によってそういう形をとっているから、それをばここでまあきめたにすぎないんだという弁明もなされるような状況でございます。そういう点で、民間の
労働組合におきまして、従業員が
組合を結成する、従業員でなくなりますと、身分を失うという事実もあります。そうなれば、
在籍専従が自由な意思によって選ばれておりますから、それを官公庁の場合だけがいけないという
理由がなかろうと思います。そういう点で、私たちは、これは
法律でもって規制したり上から決定するよりか、
労働慣行自体や労働運動自体の手にゆだねるべき問題だ、こういうふうに思います。
チェックオフの問題につきましても、私は同様のことが言えるのではないかと思います。労働運動の筋からいいますならば、やはり少数を組織してだんだん拡大していく、やがて全従業員が入るようになっていくというふうな発展方法をとるわけでございます。その中間の過程におきましては、
組合費はみずから
組合が集めるというのが当然の成り行きだと思います。しかし何千何万というような大量の組織を持つような今日の段階になってまいりますと、これは
労使の
交渉によりまして、その制度をも認めるというやり方をしていますから、官公庁の場合におきましても、認めるか認めないかということは、むしろそこにおきます
労使関係の中で自由に決定さしてしかるべき問題であって、
法律上こうあるべきではない、あるいはこうあるべきだというふうに規制しておくべき問題ではない。そういう規制をしますれば、むしろ八十七
号条約の精神とは違反するという形になるのではないかというふうに思います。そういうふうなことと、もし今日の
日本の
労使関係を真剣に
政府もお考えになっているんだということになりますれば、こういう
在籍専従の問題でも、チェックオフの問題でも、簡単に規制したり禁止するということがどういう結果を及ぼすか。私はもう
労使関係や労働運動はどうなろうとかまいません、とにかく合理的に考えた場合に筋が立っているということを期待するんだ、これは非常に正当な感じがいたしますけれども、しかしそういう人たちに限りまして、むしろこれが
組合に対しまして打撃を与えるのじゃないか、あまりに強い力になっているからこれは打撃を与えるのじゃないかというねらいがあるという感じがします。そうだとしますれば、たてまえとねらいとは非常に違う、こういうふうな立て方が、やはり今日の問題をこじらせておる主因ではないか。率直にやはり考えていただきたい。
労使の
あり方を私は
組合のほうにもお願いしたいのであります。これは既得権であるということでもってそれに甘んずるという態度はとるべきでない。しかし今日の労働運動の実情や組織の実情からいいまして、そうすることが
組合運動を前進させるのじゃない、順調に発達させるのではなくて破壊的な結果になるんだからというふうな認識から主張するのはいいと思いますけれども、既得権だという名において、あらゆるそういうものをば獲得すれば、筋が通ろうと通るまいとどうだというような態度をとるべきではないと思います。そういう点からいいますれば、これはもっとフリーに
組合も考えるべきではないかと思うわけであります。そういう点で、筋はひとつ通してもらいたい。しかしそれを決定する場所は
法律ではない、こういうことを申し上げてみたいと思います。
それから私たちが、非常に本来の趣旨から問題が離れてからましている、この際一緒に抱き合わせをすればあるいは通る可能性がある、こういうような
意味で一番大きく問題になっている点は、何といいましても
人事局の設置、
人事院の権能のほとんどのものをそこに移行するという問題じゃないかと思います。これはだれの目でも明らかだと思います。これは八十七
号条約批准に直接
関係がある問題ではなくて、明らかに新しい
公務員制度の根本的な確立といいますか、あるいは従来の
公務員制度をば根本からゆるがす一つの変化措置だと思います。こういうことをばこの際一緒に一括
審議ということが許されるかどうかということでございます。私は、この
人事局の設置というものは、今日の
人事院の設置、運営のしかたというものが妥当であるかどうかという点については非常に疑問を感じます。あるいは
組合の諸君からいえば、そういうものはなきにひとしい、
政府の息がかかって
独立性がない、こういう
意味でこれを軽視する傾向がありますが、しかしそれは逆に
人事院を隔離して、ほんとうに趣旨に沿うような運営のしかたに進めるということが必要でありまして、
人事院の設置の原因は、何といいましても中立性あるいは全体に奉仕する
公務員という立場を、これを保障していくというために必要なものでございますから、これをばゆるがすということになれば、
人事院総裁が全力をあげて
反対しておりますように、明治的な
公務員制度、官僚制度というものにもう一ぺん返るのだというだけの重大さを持っていると思います。これを八十七
号条約をからませてこの際解決してしまおうということはいかがかと、こう思うわけであります。したがいまして、
人事院の今日設置されたものは、一つは
公務員に対しまして、本来の
団体交渉権もなければ、もちろん争議権がないという事態を救済するという
意味を持っておりますが、しかしこれ自体は新しい一つの人事機関として、いろいろ各国でできておりますが、それにならった一つの装置でございますから、これを生かすことに全力をあぐべきじゃないか、こういうふうに考えるわけであります。もしこれをあえてされるとすれば、
公務員における
労働関係を、
政府の論理からいいましたら、これはきわめて大きい対立
関係に置く。しかも
政府の
人事管理をきつくやるかわりに、あるいは政党内閣でございますから、そういう点で
人事管理を徹底してやる、こういうことだとすれば、そこから保障を得る方法は、すなわち
労働組合——
職員組合があって、
団体交渉権を付与して、そして争議権を裏づける、こういうものが必要だという論理になるのじゃないかと思います。局は設置したが、
職員団体のほうの権能はかなりうやむやであるということでは、これは進みません。そういう点で
人事局の設置とは、
政府が
公務員に対して、民間における被
雇用関係と同じようなそういう政策をむしろやらんならぬのだということになります。よくわかりませんが、いわゆる
倉石案というものが出ているようでございます。これを見ますと、その
方向に行きかかったような感じがいたしますが、これは論理的な必然だと思います。だから
人事局を設置して、
人事院の機能をばほとんどそこへ吸収するという大方針を立てられるとすれば、当然争議権、
団体交渉権が要求されてくる、これは論理的必然の結果じゃないかと思います。もしそうでなくて、現状におきまして
人事管理あるいはその公正を守る、中立を守るということを
人事院に期待するならば、むしろ
人事院自体の確立、運営のしかたという点に焦点を向くべき問題ではないか。そういう段階におきましては、あえていま直ちに
公務員に罷業権を与えよ、こうは申しません。また
団体交渉権あるいは協約を与えよとは申しませんけれども、しかし根本の精神としますれば、さっき申しましたようにやはり民間の
労働者に与えるような三権をば援用していくのだ、しかしその条件ありやいなかという問題はわれわれは
審議しなければならないと思います。当事者能力のない状態において、形式はそうなりましても、内容は結局限定されたものにならざるを得ないということは事実でございます。その点で私たちは
公務員とは何か、全体の
奉仕者というものもありましょうが、民間の企業と
公務員、あるいは官業とがどこに相違するのか。運営においてどういう特質があるのかということについて、もっと私たちは突っ込んだ考え方をしなければならぬと思います。そういう点でマッカーサーが
公務員法
改正をやりました。しかしこれはポリシーによって大きく随意にやっております。曲げられております。しかし理論づけとしますれば、
公務員の雇い主、雇用者は国民である。国民の総意を代表するものは
国会である。
国会とそういった
政府との関連、そしてそこから民間のような
団体交渉制度というものは、そのまま適用しようと思っても適用されないのだ、こういう理論づけがございます。また主権というものを行使していくわけでございますから、民間の工場で何を生産しているか、場合によってはその工場はつぶれても、これは全体に
響影はないということとおのずから異なると思います。そういう点のこまかい
規定といいますか、具体的な条件は
検討していかなければなりませんけれども、
方向としますれば、私はそういう
公務員の位置もやはり適用できる場面は適用するという精神の中で、これを具体化するという問題になるのじゃないかと思います。
その他
管理職員と非
管理職員とをという問題があります。たてまえとしますればいかにもっともらしくて、むしろこちらのほうが
組合運動化じゃないかと思われるような
規定でございますが、そのねらいがどこにあるかということが一つと、私はこの点を、各国の労働運動は
自分の体験から、みずからそういう区別をしていったわけでございますから、この際無理に
法律規定でもって区別をして、結局
組合側から言いますれば、
組合の分割になるのだというふうなやり方は避けていただきたいと思います。
最後に一番大きな問題は、何といいましても、日教組の場合の
管理職及び
中央交渉の問題だと思います。私はそういう
観点から、
方向としますればやはりそういう何らかの
交渉の場、
話し合いの場があるということは望ましいことだと思います。しかしそれは同時に、やはり
日本の
労働組合の組織にも
影響があると思います。企業別であり、雇用別である。したがって
団体交渉締結の相手はその企業である。それを模倣して、各官庁もそういう形になっている。こういうような姿が根本問題でありますし、その
中央交渉の問題について難点がある
理由であろうと思いますので、やはり
労働組合の
あり方を今後はどうするか、そういう条件が熟さない中においては
中央交渉の
議論が十分確立しない、こういうふうに思うのであります。
最後に申し上げておきたい点は、さっきのお話にもございましたけれども、
労使関係をほんとうに正常化していくというためには、相互の理解、
話し合いの場というものが必要だと思います。そういう点で
公労法の八条にありますように、次のようなことを
団体交渉できるのだという、その前文のところで、管理運営事項についてはこれは外だというふうにわざわざ否定的な形で挿入してある点はむしろ、ホイットレー
委員会の問題もありますが、そういうような状況をかえって積極的に阻止しているのじゃないか。そういう点で
団体交渉の
範囲はこれこれであるという形で、ああいうただし書は要らないのじゃないか。むしろある
意味におきましては、
労働条件に関連のある問題は
話し合いつつやっていくという
姿勢を持たなければならぬ。しかしこれは、最後の問題に
労使お互いの、不信である、あるいは今日のゆがめられた労働運動の状況という点が根本にありまして、口では言わないけれども、譲ったらたいへんなことになる、また一方は、もぎ取れという戦法である、こういうこじれた状況が最後にあると思います。そういう点で私はそのこじれをなくするためには、やはりすっきりした労働三権の確立をやっていく。
公務員の場合にもどの程度採用できるか。根本的には相互信頼を取り戻す。信頼ということが無理ならば、相互認識を取り戻すというふうな一つのチャンスじゃないか。そういう点で私結論として申し上げますけれども、八十七
号条約の問題をそのような根本問題とからませて、そしてこれをだめにしてしまうということは、ぜひやめていただきたい。そういう点でさっき言いましたような
公労法四条三項と
地公労法五条三項の部分の削除と八十七
号条約の
批准、そのあとの問題につきましてはもっと
審議して、緊急な事態の中で根本的に
検討するというふうにお願いしたいというのが、私の
意見でございます。(拍手)