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小林武君 そういう例が適切でないということは、
文部大臣、責めませんよ、
文部大臣知っているわけでもないのですから。しかし北海道の
学校に行ったら、六割近いものが複式ですよ。そういうところに行って、今のような議論をしたって、だめなんですよ。だから、私は、ほんとうのことを言って、おおげさに、皆さんが、
学校の
教師のさまざまな工夫をかれこれ言うのは、ちょっと、おかしいと思うのですよ。現場に、やはり密着していない方の御
意見だということを、ときどき感ずるわけです。革命
教育をやるなんといったって、
一体、革命
教育なんというものが、どうやってやられるものか、週に二十何時間も、三十時間近い授業をやらされておって、しかも、それは、小
学校で毛、何から何まで、みなやらなければならぬ。あるいは
子供の発達段階では、もう話にならぬです。
そういうようなことで、少しあなた
たちの
考え方は、ほんとうにやはり現場に密着したものの
考え方じゃないのです。私は今、そういうことをここであなたと論争してもしようがないと思いますからね、これ以上やりませんけれども、やっぱりあなた、お
考え願いたいことは、
教師というものは、研究の意欲がなくなったものは、ほんとうはやはり
教師としては不適格だと思うのです。それは私ども、今の
人間の
教師としての
能力といいますか、何といいますか、実力といいますか、そういうようなものは、多少低くても、この
教師が、とにかく少しずつでも伸びていく、
子供と一緒に成長していくこいうような、そういう
教師であるならば、私は
教師としては資格があると思いますけれども、現状にとどまっているとか、逆にだんだんぼけてくるというようなものは、私は
教育者としては、これは一番不適格な
人間だと思うのです。そういうことから
考えたら、
教師の研修の大事さということは、一番これは、だれよりかも、やはり
教育行政をやる
人たちは、それに目をつけて、どうしたら研修がよくできるかというような条件の整備に、うんと力を入れてくれたらいい。ところが私は、残念なことに、条件の整備ではなくて、へんな研究やったら承知しないぞとか、こういう研究やってるのはけしからぬ、大体研究の妨害のようなことばかりやっているから、私は
日本の
教育は能率を落としていると思うのです。だから私は、あなたがあとのほうでひっつけた研究の
態度——何のことですか、この
態度というのは。私は
態度というのは、あなた
たちが言おうとするのは、こんなことじゃないかと思っているのですよ、実はね。
文部省の
考えているような
考え方に、こいつは同調するかしないか。しないというような
態度でやるような研究はけしからぬということを、
考えているのじゃないか。そういう
人間が研究した結果というものが出てきた場合は、
文部省のやり方に反対するというようなことが出てくるのではないか。あるいは日常の活動でもって、その成果によって実行に移して、われわれの
考え方を骨抜きにしようとするのじゃないかという、そういう
考え方に立脚しているところに、私は誤まりがあると思う。これでは研究の自由はないでしょう。先ほどから私が、るる申し上げているように、疑問を持たなければだめですよ。
自分が完璧にいいと思うようなことでも、
自分のやっていることにも間違いはないかというようなことを感じながらきわめるところに研究があるのじゃないですか。ましてや、過去の
教育において、権力がさまざまな間違いを起こしたということは
教育基本法にも憲法にも言っているじゃないですか。
文部省の
政府委員が
教育基本法を作るときに、官僚やその他の権力が
教育にさまざまなあれを、害を及ぼしたということを
答弁しているじゃありませんか。みずからがやった人が、みずからのことを反省しているじゃないですか。あなたはさっき、あなたの論法を聞いているというと、帝国憲法
時代だから、そういうことはあったけれども、今の憲法のもとでは絶対あやまちがないような何かものの言い方をしようとしますけれども、とんでもない話だ。いつの
時代でも、権力というものは政府
行為というようなものの中にも、とにかく批判の目を向けて、そうして憲法や基本法の精神にしたがった方向にいかなければならぬというようなことは憲法や基本法の中に書いてあるじゃありませんか。
だから、研究というものは、どこまでも自由な
態度でもってやらせるということが必要なんです。
教師の私はそれは権利だと思うのです。
権限だと思うのです。それなしに
国民全体に
責任を負うとか、
日本の将来に
責任を負うというような
教育はできないですよ。上からくることは、はあはあそうですかといって、どうして
一体、それだけのあれが持てますか。幾ら荒木
文部大臣ががんばっても、私は
教育の、今五十数万、六十万というような教員のやっている
教育の
責任を一身にこの荒木が負いますといったところで負えませんよ。だれも許さぬですよ。今起こった
教育の問題を後ほど批判するというようなことが起こり得ることもあるんですからね。そのときに、あのときは荒木さんが
文部大臣であったから、荒木さんのところへ文句を言いに行こうなんという人は一人もおりません。
先生は何を教えてくれたんだということを言いますよ。そういう
立場で、
教師の
権限というものを認めるのでなければ、私はだめだと思うんですよ。あなたはしかし、まあ、腹の中に日教組の問題や倫理綱領の問題があるので、なかなか
答弁がしにくいようですが、私もまた、それに触れないように質問するということは、これはまた容易でない、やれば大体このくらいの話に終わってしまうわけですけれども、まあ、ここではあなたの
答弁は必要としません。とにかく
教師にそういう権利を持たすのは当然だということを私は申し上げたい。
それからもう
一つ、私は今の
教師の問題を
考えるについては、やはり教員組合というものを抜いて
考えることはできないと思います。これはあなたは、どうお
考えになっておりましょうか。私はある国の
——日本じゃないです。ある国の大学の教授という人に訪問を受けて、いろいろ
教育上の話を聞いたら、あなたは、
——私に
——これから進歩的ないろいろなことをやるなら、教員組合をお作りになったらいいでしょうということを言われた。
文部省へいったら、別なことを言われた。教員組合を作りたらいけませんよ。教員組合でなくて、
日本でいえば研究団体のようなものを作りなさい、こう言われた。私は
文部省の
考え方について、やはりそういう点が心配なんです。教員組合運動というようなもの、もう世界どこの国へ行っても認められたことなんですね。教員組合を作るということが
教育上に非常に悪影響を及ぼすなんということをいう、そういう議論を言う
時代ではないんですよ。あなたはこの前でしたか、私の前で言ったんですね、アメリカの教員のつめのあかでもせんじて飲んだらどうですかというような演説を僕ら聞かされた、ということは、アメリカの教員は、教員組合なんというものを作らないということをあのときは大衆に訴えたと思うのですけれども、私はそういう見解でも、ずいぶん狭いと思うんですね。確かにアメリカの教員組合というのは数が少ないんです。しかし、アメリカ大使館からもらった情報によりますというと、去年、ニューヨークの教員が、その少ない教員組合に
自分たちの問題をまかせるか、それとも非常に大きな
教育団体であるNEAですか、それにまかせるかという投票をやった。ニューヨークの教員は結局教員組合にまかした。これはたいへんなアメリカの
教育界の画期的なできごとであるというような
意味のことが、そのアメリカの大使館からもらった情報の中に書いてありましたね。ほんとうにアメリカの
教育をよくするためには、ニューヨークの教員は四万何ぼとかあるそうですけれども、それらの
人間がほとんど投票したそうですけれども、教員組合運動というものに、
自分たちのあれをまかせようということをやったそうです。私は、そのことのいいとか悪いとかということを今ここで述べるわけではありません。とにかく常識ですよね。世界の常識ですよ。だから、私は、教員組合運動というものについて、
日本の
教育を
考える場合には、あなたに質問をしておかなければならぬと思うんですよ。
お聞きしたいことは、
一体どうでしょう、
教師の自主的な
立場に立って、教員組合という集団を作って、そうして教員が
自分たちの問題を解決し、その
自分たちの問題というのは、やがて
教育と全く関連のないことではないのです。教員の政治的な、あるいは経済的な問題を解決していくということになりますというと、社会的、経済的地位の確立というようなことを考にてやっていった場合に、これは
教育と無
関係ではない。そういう団体ができて、そしてまたその目標の中に、
教育もよくしていこうという
考え方を持った場合、こういう
一体教員組合の結成、そういう集団の存在というものは、あなたの
考え方からいってどうでしょう。そういうものはけしからぬという
考えでしょうか。やむを得ないと
考えられますか。当然だと、好ましいとお
考えになりますかどうですか。そういう点についてのご
意見を承りたいのです。