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政府委員(
瓜生順良君) 公式には、
二重橋という言葉、名称がどれをさすかというようなことを、
告示をされたり、あるいは特に登録をしているというようなことはないのでございます。しかし、沿革的にいいますと、
二重橋というのはどれかというと、まあ現在かかっている
鉄橋、あれが以前に
二重橋といわれておったところの橋なものですから、あれが
二重橋だというふうにわれわれは
考えて、この
提案の際にもそういうふうに書かれておるわけであります。
いろいろ昔の記録などを見ますと、ちょうどあの鉄の橋は
徳川時代には
西丸下乗橋というような別名があったのであります。なお、
江戸時代からの文献によって見ますと、この
明治のころにかけかえる前の
木造の橋は、下のほうに
一つ橋がありまして、その橋の上にもう
一つ橋脚を建てて、その上にまた橋があるようになっていますが、これはその当時、あの堀が相当深かったものだから、そう下まで木の脚を持っていけなかったためだろうと思います。それで、下のほうに橋を作り、その上にまた脚を建てて木の橋を作る。そうしてみますと二重になっておりますから、それで
二重橋というような呼び名があった。で、
明治になってその木の橋をこわしまして、鉄の橋にいたしましたときには、その形態は踏襲はしていないわけであります。ではありますが、前の橋が
二重橋だったものですから、それで
二重橋というふうにあとでできた
鉄橋を言うこともあったのです。しかし、
一般の
世間では、いろいろ
二重橋という場合に、今
先生がおっしゃったように、下のほうに
石橋があり、上のほうに
鉄橋がある。ちょうど
二つの橋が見えるから、それで
二重橋だというふうに言うのだという人もおりますし、しかし、また人によると、下の
石橋のほうが眼鏡のようになっておりますから、あれが
二重橋だというふうに言うこともございます。たとえていいますと、麹町区の歴史を書いた麹町区史というのがありますが、その中に、
宮城正門前の
石橋を
二重橋と呼ぶのが
一般の習慣になっているが、本来の
二重橋はもう
一つ奥の橋なのである、というふうに書いてあります。
この
呼称については区々まちまちでございます。公式には、先に申し上げましたように、何も
告示をしたり登録したりしたものはないわけであります。
国有財産の台帳の記載を見ますと、単に「
種目橋梁、
細部鉄骨造り」と書いてあるだけで、
名前は書いてございません。ただいま問題になっております
二重橋のほうは、下のほうの
石橋は「
種目橋梁、
細部石造り」と書いてあって、これも
名前はない。いろいろ宮中の行事の際に使います場合には、橋のことを書く必要はない。
正門からお入り下さいということで、
正門ということは必要ですけれ
ども、橋の
名前はきちんとする必要がなかったもので、そういうふうにあいまいになっておりますが、今
先生がおっしゃるように、どうするのかという問題になりますと、まあ一応
考えられるのは、今の
二重橋といわれているのは
正門内鉄橋といいますか、それから下のほうの石の橋は
正門前の
石橋というふうに称すべきじゃないかと思います。しかし、
世間で
二つ重なっているから
二重橋というような通称がございますが、それは尊重していいのじゃないか。ちょっとその
あたりのところで、
二重橋はどれだというようなことのはっきりした点が、公けには必要がないものですから、
呼称については尊重するという程度ではなかろうかと思っております。