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森長参考人 ただいまの
神崎さんの
お話を受けて、私はまず
最初に
明治四十四年一月十八日に
判決があってから
再審請求に至るまでの
経過、それから
再審請求から今日に至るまでの
経過、外面的な
経過をごく簡単にかいつまんで申し上げます。
死刑が執行されたことは
神崎さんの
お話にありましたが、十九日に
無期に減刑された十二名の人のうち、五名はそれぞれ監獄で首をつったり、気違いになったり、病気になったりして死んでおります。そして大正十四年
飛松与次郎を先頭に、
昭和九年
坂本清馬を
しんがりに仮
出獄をしております。つまり正名は獄死、
あとの七名が仮
出獄ということになります。そして
爆発物取締罰則の
有期懲役の二名はそれぞれ満期
出獄したようであります。そこでこの仮
出獄の七名のうち
戦争後まで生き残ったのは四名であります。三人は
昭和二十年までになくなりました。そして
終戦直後、
坂本氏と
岡林寅松、この二人の方が
高知県におりまして、自分はいま
無期懲役の仮
出獄のままだ、
選挙権もない、ぜひ復権させるようにしてくれという
依頼がございまして、その復権の
申請をいたしましたところ、
昭和二十二年二月二十四日に、この二人については将来にわたって刑の効力を失わしめるという
特赦がありました。次いでほかに生きてないかと思って方々さがしましたところ、九州に
飛松与次郎、それから三重県に
崎久保誓一が生きていることがわかりまして、これもそれぞれ
本人の
依頼によって
特赦申請をいたしましたところ、
坂本、岡林同様に、
昭和二十三年六月二十六日に
特赦になっております。
その後、
昭和二十五年六月ごろになって、
神崎さんと私のところへ
坂本氏から、
再審請求をしたい、また
坂本氏は八千二百七日の
拘禁を受けておる。この
拘禁に対して
国家賠償を請求したいということを言ってきたのであります。私
たちも、やってよかろうと賛成の意を表明したのでありますけれども、何ぶん当時私
たちのほうも貧乏で、すぐ
高知県まで飛んでいけない。また
坂本氏は私
たちよりも一そう貧乏で、どうにもできないというような状態でぐずぐずしていたのであります。その直後、
東京での
大逆事件当時
弁護人でありました
今村力三郎先生がまだ存命でありまして、
今村力三郎先生からもこの
坂本、それから
崎久保に対して
再審請求をしたいという呼びかけをしており、この両氏も、
飛松氏をまじえて、
今村さんに
再審請求したいというようなことを言っておるのであります。そして
昭和三十年になりましたところ、
今村さんはその前年になくなり、また
飛松、
崎久保もなくなり、結局そのときから
坂本氏一人
生存者ということになった次第であります。そしてなおぐずぐずしていたのでありますが、
昭和三十五年二月に、前の
参議院議員坂本昭氏が
坂本清馬氏と
同郷関係からこの
事件に取り組むようになり、その御努力によって「
大逆事件の真実をあきらかにする会」というのが生まれ、それが
再審請求の
推進役となりまして、
弁護人十人も
坂本清馬氏の意向できまり、一年間の研究の後、
昭和三十六年の一月十八日に
東京高裁に
再審請求を出すようになったのであります。このとき
請求人はもちろん
坂本清馬氏となっておりますが、ほかに
岡山県にいる
森近栄子さんという婦人の方、これは
死刑を執行された
森近運平の妹でありますが、ぜひ
再審請求を
坂本氏と一緒にやりたいということで
森近栄子さんも
請求人となったのであります。
そこで
東京高裁ではその後どうなっておるかと申しますと、私
たちが
請求書を出しましたが、なかなか
担当の
裁判長がきまらなかったのであります。約三月ぐらいかかったと思います。その間、
東京高裁の
裁判官会議がこの
事件のために数回持たれたということを聞いております。そして結局刑事第一部の
長谷川裁判長の
担当となったのであります。そして同時に
裁判官会議のいろいろの
検討協議の結果、この
事件は五名の
構成でやるべきである、
普通高裁の
事件は三名
構成でありますが、五名の
構成でやるべきであるということになったのであります。
五名構成の根拠は、現在の
裁判所法の
内乱罪に関する規定によりますと
五名構成となっておりますが、それに準じたのか、あるいは旧刑訴法の
裁判所構成法で、こういう
大逆罪のような
特別法廷事件は
五名構成となっているのでそれによったのか、どちらかわかりませんが、ともかく
五名構成ということで
裁判官会議できめられたのであります。ところが、なかなかその後五名の
氏名がきまらなかったのでありますが、最近ではきまっております。そして
裁判所では、その後私
たちの出した
再審請求の書類、それから新
証拠、そういうものを読まれ、また
最高裁判所に残されておる
明治四十三年当時の
訴訟記録を検討されておるとのことであります。この
訴訟記録は、
最高裁判所には
予審の
調書と
検事の
取り調べ書、聞き取り書が十七冊残っております。しかし、現在
公判調書といわれている
公判始末書は
最高裁にも残っておらない。
終戦のどさくさまぎれに、どこかへいってしまったらしいのであります。また
証拠物の現物はもちろんのこと、写しも残されておらない、そういう
状況にあります。そして私
たちも
裁判所の方へひんぴんというほどでもありませんが、ときどき請求しておるのでありますが、
裁判所のほうも、この
最高裁に残された
訴訟記録、それから
再審請求の新
証拠を五人の
裁判官が全部読むのには相当の日子がかかる。それを待っておれないから八月の
休暇前に、あるいは
休暇直前に、まず
請求人の
坂本清馬氏を呼んで
意見を聞いてもよい。本来ならばこれは最終に聞くことになりますが、逆にして聞いてもいい。また
森近栄子は非常に
交通機関に弱いのでとても上京できないので、
裁判所のほうで他日
岡山県に出張して聞いてもいいというように言われております。大体こういう
経過をたどって今日にきておる次第であります。
そこで、この私
たちの
再審請求はどういう
法律の条文に基づいて行なったかと申しますと、旧刑訴四百八十五条六号、現在のいわゆる六号というのと同じであります。明らかな新たな
証拠物件という号によって請求しておるのであります。そして六十五点の新
証拠を提出しております。この六十五点は、
手紙とかあるいは本とか、きわめて多様なものであります。
それを分類してちょっと申し上げますと、第一には、当時の
取り調べ検事のその後に書かれたものであります。
一つは先ほど
神崎さんが
お話しになりました
平沼騏一郎の「
回顧録」あるいは「改造」に出た「祖国への遺言」、そういうものの中に
被告人に有利なものを含んでおる。それからもう
一つは、
小山松吉の「
日本社会主義運動史」というものがありますが、この
小山という人は当時
神戸地方裁判所検事正でありましたが、この
事件の前、
東京でいろいろの
社会主義事件に
関係していた
経験者ということで、
神戸を留守にして
東京へ来てもっぱらこの
事件を調べたようであります。その人が
昭和四年ころに
司法部内で
講演をされて、それを印刷して
マル秘で部内だけに配った。そういう種類のものでありますが、この中にも非常に有利なものがある。これによって
でっち上げの
経過が非常に明瞭になるばかりでなしに、先ほど
神崎さんが言われた
明治四十一年十一月の
幸徳と
森近、それから
松尾、あるいは
大石、そういう人々の間の
共同謀議というものが空中分解するようなことをこの中に書いてあるのであります。非常に有力な
証拠だと私は思っております。そういう
取り調べ検事の
調書や、後に書かれたものが第一。
それから第二に、当時
政治上の重要な地位にいた方が書かれたもの、たとえば
原敬日記。
原敬日記によって、
山縣有朋ですかが無
政府主義者をせん滅しようという気持ちを持っていたということが出ている。それから
河村金五郎という当時
宮内次官であった人ですが、この人が
山縣にあてた
手紙を見ますと、一月十八日に
裁判があったのでありますが、すでに
判決の
内容をどういうわけか承知していて、一月十五日ごろから
宮内大臣あるいは
桂首相、
山縣の間に盛んに往来して、事後の措置、
判決が出た後に
特赦するとかというようなおぜん立てあるいは筋
書きをもうつくっていたということが、この
河村金五郎の
手紙によって暴露されるのでありますが、そういうことをこの
手紙で立証する、そういうような
証拠もございます。
それから第三には、当時の有識者、たとえば
石川啄木の書いたもの。
第四には、
事件当時の
被告人の友人とか知人とか、
被告人を知る人の書いたもの、たとえば
荒畑寒村の書かれたものなどもあります。そういう
証拠が第四であります。
それから第五には、
吉田石松事件でよく行動
証拠といわれたそれに相応するものでありますが、
被告人らの
判決後の行動によって無罪を立証しようという新たな
証拠であります。
坂本請求人は、大正三年の九月ごろにすでに原
判決が全く事実に反しているということを綿々と書いた上申書を尾崎行雄に与えております。その原稿が残っております。また、
昭和——あるいは大正十年代の終わりか、もう
一つ昭和四年ごろと、
坂本氏が石川三四郎という
社会主義者に対して、
再審請求をしたいから協力を求めたいというような
手紙を出しております。
坂本氏は吉田石松氏と同様に、五十年間無実を叫び続けた男なのであります。
次に
死刑になった
森近については、
死刑判決から執行されるまでに数通の
手紙を書いておりますが、その
手紙によると、
死刑は全く意外であった、自分は
判決後すぐ釈放されて郷里に帰れると思っておった。郷里に帰って農事の改良や、あるいは村の開発のためにいろいろ計画を描いて努力していたのに、全く意外な
判決を受けたということを
手紙の中に書いておるのであります。そういう
手紙も新たな
証拠として出しておるわけであります。しかし
死刑執行された者は、その後五十年の行動によって、
坂本清馬氏のように行動によって無実を証明することができない。そのかわりに当時の
弁護人であった
人たちが
死刑でなくなった人にかわって無実を主張しておる。一人は平出修でありますが、この平出弁護士は大正三年に死んだのでありますが、死ぬまでの間に大部分の
被告は無実であるということを訴えた
書きものを残しております。また
今村力
三郎氏は大正十四年ころに「芻言」というものを書いて、そうして五名のほかは全部無実である、有罪であっても不敬罪だということを言っておる。
今村氏は戦後も同じことを繰り返して書いておる。そして生き残った
人たちに
再審請求を進めておる。またそのほかに鵜沢総明氏もやはり大部分の人が無実であったことを戦後に語っております。そういう
弁護人の行動
証拠、
死刑被告にかわる
弁護人の行動
証拠もまた新
証拠としてわれわれはとっておるのであります。そういう
証拠を六十五点出しております。
そこで私
たちのこの
事件に対する態度、態度というのは
幸徳秋水とか、あるいは
宮下太吉とか、そういう者をどうするかという態度でありますが、私
たちは
幸徳、
宮下それから
新村忠雄、
管野スガ、古河力作、そういう
人たちは、当時の
法律としてはやむを得なかったのではなかろうかという大前提を置いているわけであります。そうしてその他の者はすべて全くの冤罪である、
でっち上げによってやられたのであるという態度をとっております。
さらにもう
一つ私
たちがこの
再審請求において立証する中心点はどこに置いておるかということでありますが、先ほど
神崎さんがあげられた
明治四十一年十一月の謀議とされるもの、それをくずすということに主力を置いております。これをくずすならば
大石関係の大阪三名、紀州七名、また
松尾卯一太
関係の九州の四名、そして
森近、
坂本は他の立証を要せずして無実になってくる性質の
事件なのであります。この点について
大石は
死刑執行せられるときに、教戒師にこういうことを語っております。先ほど
管野が語ったことを
神崎さんがここで述べられましたが、
大石はこういうことを語っておる。冗談からこまが出るということわざがあるが、この
事件はまさにそのとおりだ、こういうことを言っておる。冗談からこまが出るのこまを
死刑と置きかえるならば、まさにこの
事件の核心を突いたことばのように私は思うのであります。全く冗談から
死刑になった
事件、
明治四十一年の十一月というと、赤旗
事件でたくさんの
社会主義者が重い処罰をせられ投獄せられていたときであります。そして
社会主義者の刊行する
社会主義新聞はすべて発行停止あるいは発売禁止になって、もう手も足も出ないようになっていた。そういうときに集まれば憤慨談もあったでしょう。また大言壮語もあったでしょう。また冗談話もあった。こういうことをすればおもしろかろうという話もあった。そういう話を作文して
共同謀議としたものが、この一月十八日の
判決なのであります。つまり、結局は茶飲み話とも言われるものであり、冗談とも言い得るものであります。この冗談が
死刑になっておる。この冗談をくずすということが私
たち弁護人の任務であるというように思っております。
以上です。