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安藤参考人 私は現在の職務の
立場から、この制度について端的に私の
研究の結果を申し上げて、御
参考にしていただきたいと思います。
私は
東京教育大学におきまして
教育政策、
教育行政、
教育制度、そういうものの
研究と学部及び大学院の学生に対する講義を担当し、かつ比較
教育学、比較
教育制度学、比較
教育行政学等、世界各国の
教育制度の比較
研究をいたしておるのでございます。そういう学究者の
立場から
意見を申し上げたい、こう思うわけでございます。この問題については午前中の
参考人の方のように、直接その制度の運営の利害
関係、また責任、そういう
立場におりませんものでございますから、わからないところがあるかと思いますけれ
ども、しかし多少広い視野から考えることができると思いますので、大学の学問の自由と
研究発表の自由の
立場から率直に述べたいと思うのであります。
第一に申し述べたいことは、この問題は
教育問題であるということであります。まず日本の
教育をよくし、子供の幸福と国家社会の発展の基礎になる
教育の問題であるということを確認して考えることが必要だと思う。したがいまして私の
立場から考えますと、
業者の
立場が第一に考えられるべきではない、もちろん
業者も国民の権利として
企業の自由な
立場から
利益を徴されることは当然でございますけれ
ども、
教育の
立場から考えるべきであるということをまず申し上げたいと思うのであります。したがいまして私はきわめて画期的な制度の実施でありますので、この制度の実施が問題になります当初から
意見も
開陳し、文書でも発表し、また新聞その他にあらわれているものは、数種の新聞をたんねんに見まして切り抜きを全部保存しておりますし、社会党のほうの御
意見も自民党のほうの御
意見も、活字で出ておる限りはほぼ目を通しているつもりであります。きわめて主体的な――アメリカのできごとではない、ソ連のできごとではございませんので、単なる
研究家という傍観的
立場ではなく、主体的
立場で考えておるわけでございます。
そこで問題をしぼりまして、まず
法案に直接
関係して
意見を述べ、立法自身の実施に伴うわが国の
教育行政、あるいは
学校制度の全般のことにも関して
意見を述べたいと思うのであります。言いかえますならば、これは単に
教科書を国が買い取って、そして
無償で配布するということではないのでありまして、そうあってはならない、こう思うわけであります。
学校給食の問題がありまして、一万九千校の実施校に対して、牛乳だけは配給したい、これも非常に画期的でございますが、それと本質的に違う。もっと内面的、精神的な問題であるということと、人間の心の、また基本的人権に関することであるということをまず確認して、
関係する人がそれぞれの
立場からこれを育成し、そのおちいりやすい欠点はいろいろなくふうをして是正して育て上ぐべき問題と思うのであります。
第一点は、やはりこれは技術的なことが非常に議論になっております。もちろん
無償の実施の精神は先般の法律で成立いたしております。そのときに十分論議されておると思いますから、したがって今回はそれを実施する措置が
中心になっておることはもちろんであります。しかし私はやはりその基本に流れておる、要するに
教科書無償制度の根本を絶えず忘れないようにすることが必要であろうと思う。そこで
無償の制度が問題になるときに、私はこれには賛意を表したのであります。これは憲法の精神から当然行なうべきことでありますから、賛意を表したのでありますが、いままで
無償で配布しておったものとは根本的に違った発想法であるということを主張したのであります。言いかえますならば、いままでは社会保障的な性格のものであります。ただそれが全
児童生徒に普及したと考えるのは、これはきわめて近視眼的考察であります。言いかえますならば、全く違った原理が出ておるということであります。そうなりましたときに憲法の第二十六条の第一項で出てくるのか第二項で出てくるのかということは、これは学界でも
意見がありますが、私は第二項で出るべきものと考えるのであります。第一項は、すなわち「すべての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく
教育を受ける権利を有する。」したがいまして、これは
義務教育々々々々といいますが、権利
教育ということをまず考えるべきだと思うのです。
教育権ではありません。よくことばをルーズに使う皆さんは、権利々々というが、
教育権というだれのことやらわからぬようなことを言っておりますが、これは
教育を受ける権利であります。これを称してすなわち教養を受けるべき権利、
教育を受ける、学習権などというちっぽけなものではありません。それは
教育ということが人間の能力を最高度に発揮し、そうしてこれが自分の力量を最高度に発揮して、そうしてまず自分の幸福の基礎を築き、社会国家に奉仕するそのエネルギーとなるわけでございますから、そういう機会を与えらるべき権利と解すべきであります。このことを確認することが、あらゆる教員組合運動にいたしましても、あらゆる教師の活動にいたしましても先決問題だと思うのであります。ところがどうも巷間は、二十六条の第二項の就学させる義務、そういうほうから
義務教育、
義務教育というのであります。これは保護者の義務でありまして、まずこのことを考える必要があります。
それから
義務教育制度のとかく忘れがちなことは――
小学校、中
学校に関しては市町村の
学校設置の義務、特殊
学校に対しては都道府県の設置義務、第三の義務構成は
児童を使用することによって、その
教育を受ける権利を妨害してはならぬ、これは
教育妨害禁止の規定、これには罰則がついておりますが、この
三つが
義務教育制度をなすのであります。こういう構想の
立場で考えて、絶えずこれは子供の
教育を受ける権利を保障するために保護者に義務を課し、市町村、府県に
学校設置の義務を課し、また
児童を使用する者に対してそれを保障する責任を持たせる。したがいまして、保護者は権利は持っておりません。それだのに両親権だとか教師の
教育権だとか言われるのは、これは憲法二十六条を解せざるものだと私は考えます。したがってこの
教科書無償の問題も、広く考えれば
教育無償制の一環として考えるべきものだと思います。私は
研究室で大学院の学生その他を
指導いたしまして、数年来
教育無償制の問題の比較
教育学的
研究、世界各国の
研究をして、昨年の日本
教育学会広島大会で発表いたしたわけであります。これもそういう
意味で考えるべきだということでございます。したがって従来は
無償を
授業料を取らずということできたのでありますけれ
ども、さらに一歩進めまして、
教科書の
無償ということにしたということであります。しかし
教育の
無償制は、
授業料を取らない、
教科書を
無償にするということでとどまるべきと解すべきではない。もっと大きい
無償制の構想を立てて、その現段階においては
教科書の
無償というふうに理解すべきである、こういうふうに考えます。これが第一点であります。さらにもっと全体的
教育政策の構想においてこの問題を考える――御質問に応じてまた
あとで答えたいと思います。
次は、直接
法案に関してでありますが、
教科書政策を考えますときに、詳しくは申し上げませんが、
三つのタイプがあるわけであります。
一つは社会主義国または全体主義国といっても私は間違いでないと思う。これは、戦前の日本の
国定なんというどころではないのでありまして、全く国営であり全部国家公務員であり、そういう
立場でやっておる最も統制――国家権力の最大限にあらわれた行き方であります。これに対してイギリス的は、直接は放任、国家権力は
教科書に関しては放任したようなかっこうでありますが、社会的――たとえば大学のほうで入学試験というようなことできまってまいりますから、いわば社会的に、
教育界自体の制約としておのずから
教科書が、その前段階の
学校の
教科書がきめられてくる、直接国家は介入しないというようなことであります。だから表面的、近視眼的に見ただけではだめでありまして、全体のメカニズムの中でどういう
教科書が使われているか、選ばれているかということを見ないといけない。私のような者が多少でも皆さんに御
参考になるというのはそういう点からではないかと思うわけでございます。
そういう点から考えますときに、いろいろこまかい点については、運営上また実施上注意すべきことがあります。その点については
あとで要望申し上げたいのですが、一般的に考えますときに、この法律を、文字どおり、揣摩憶測、不信の念を持って見ない限り、大体私は民主主義国家では、あるいは現段階では適正だ、こう言っていいと思うのであります。これは大体であります。しかし
あとでいろいろ各方面に注文を申し上げたいと思うのであります。
その
一つでありますが、選定と
採択、これは一連の事柄であります。言葉が選定と
採択というふうに使い分けてありますが、これに対して運用上大きい問題があると私は思うのであります。その県の段階において選定し、そして具体的に市町村
教育委員会において一種
採択するということは、これは当然とるべき適正なことだと思う。ただその場合に起こってくる問題について申し上げたいのですが、その一点は、数種ということ。これは、二つでも数でありますし、十でも数であります。これにつきまして、私は、県の段階ではできるだけ多くのものをあげるべきだと思う。それにつきましても、さらに
義務教育諸
学校といいますが、
小学校と中
学校はやはり違った発想法でいくべきだ。
義務教育という点から考えまして、小、中をいつも一緒に考えるくせがある。これは文部省をはじめそうであります。しかし文部省も、行政的には、中等
教育課と初等
教育課といっておりますが、どうも
地方へ行きますと、
義務教育課とか高校
教育課、――
義務教育ということは、就学の義務が強制されておるというだけでありまして、
学校段階的には、初等
教育、中等
教育――中
学校は中等
教育前期、
小学校はその基礎の初等、これは使い分ける必要があろうと思うのであります。その点から考えるときに、まだ中
学校はほんとうの中
学校になっていないのであります。教員養成しかり。
学校施設の基準もありません。そういう点で、
教科書に関しましても、
小学校は基礎であります。ここはそんなにバラエティーのある
教科書をやる必要はないと思う。これはほんとの基礎であります。農村でも
都市でもおよそ日本の国民である限り、基礎的なものをしっかりと学ぶということでありますから、同じ数種といってもやや少なくてもいいと思います。これに反して中
学校は、高校進学も多くなりましたけれ
ども、やはり
相当数の生徒は就職をいたします。ここで初めて
地域性というものを
教科書採択において考える必要が出てきますから、この場合には
小学校に比してやや多く選定する必要があろう。したがって各
教育委員会、市町村
教育委員会がこれを
採択する場合に、幅を、自由の
余地を残すということを申し上げたい、これが第一点であります。
次は選定
委員会の構成であります。公正なる――公正なるということは、社会的圧力に屈せずということでありますが、適正ということは
教育的概念であります。公正適正に行なう、こういうことになりますと、選定
委員会の構成はきわめて重要なものであります。これは
政令できめられることになると思いますが、
教科用図書分科審議会会長から文部大臣に出されました建議によりますと、そこに、
教科用図書選定審議会の組織について、としてあがっております。ここに市町村立
小学校または中
学校の
校長及び教員――この教員という場合に、私は国民という概念のようにあいまいに使ってはいけないと思う。一人々々の教員が選ぶべきものではないと思う。これは公
教育の建前上、教員の代表――ちょうど主権在民といいましても、皆さんのように、選ばれて、委託にこたえて主権を行使されておるのと同じであります。ところが一方の人たちは、国民の概念をもってきたり
教育の概念をもってきて何だかわからぬことをいっております。国民による国民のための
教育、何のことだかもう少し聞かねばわからぬ。その場合に、人民であったり――人民と国民とは違うのであります。字が違うように。国民でも、国民という言葉は使うが、とんでもない概念、これが戦略でありましょうけれ
ども、それは別にいたしまして、私は教員の代表をもってこれをできるだけ多く加える。何も個々の
学校が自分がやらなくても、
自分たちの信ずべき代表を多くするということであります。あまり行政
関係者は多く入らぬ方がよろしいと思います。それから最後に広く
教育に関し学識経験を有するものとありますが、いままでありませんが、私は学識のつもりでおります。
教育学に関しては、日本で十本の指くらいに入っているようにプライドを持っております。実際は入っておりませんよ。うぬぼれと何だかはだれにもある。うぬぼれのないところに責任を持って行動できませんから、私を入れよとは申しませんが、学識経験者じゃないんですね。学識、経験者であります。経験というものは、特殊的
状態における
状態でありますから、学識はその字句を越えたところに理論を持つのが学識の、私は努力すべき目標だと思う。内閣はその責任があると思うのでありますが、そこでぜひ、ここにあるところの学識経験者をもっと比重を持たせる。これは文部省の
委員会、池田総理大臣の人づくりのお相手をすると申しますか、
意見を述べる方を見ましても、どうも私は経験者は多いのでありますが、
教育について、
教育史的比較
教育学的に
研究している人がどうもあまり重んぜられないのは、日本だけのように思うのであります。その
意味で、私ごとき者がしゃべる、こういうようにたいへんに愉快でたまりませんし、感謝をいたしておりますが、機会あるごとに学者を活用していただきたい。これはひとつ私は各方面に、
参考人の場合にも、さらにもう一人くらい加えていただきたいと、日本の学者にかわってお願いをいたしたい、こう思うのであります。これが選定であります。採決に関しましては、私は非常な疑問を持ちます。これを改善する必要があると思う。このことは市町村
教育委員会と一口に言いますが、その設置単位がまちまちであります。
指定都市の問題も出ましたけれ
ども、これは私は
教育委員会制度がかつて改正されたときに、根本的に検討すべきだということを文書をもって、また私の昭和二十四年に書きました
教育行政学の中にも、
教育委員会と、
地方分権の設置単位に対しては疑問を投げかけておりますが、全然改正されておりません。これはひとつ今度はこの際にこれが成立した暁に重大なる
関係を持ちます。これのみではございませんが、
教育委員会制度の、特に市町村
教育委員会制度の規模に関しては、ひとつ検討をしていただきたい、こう思うのであります。小さい市町村で、はたして
採択委員が適任者が得られるかどうか、私は非常に困難な問題があると思うのです。そういう点で選定及び
採択に関しては、今後
政令できめられることでございましょうけれ
ども、また運用の点で
教育行政にあたられる方に要望をいたしておきたい、こう思うわけでございます。
それから次の問題でございますが、今度のことは
発行者の
指定、それからその取り消しとかいうことであります。この
趣旨は
教育用の図書でございますので、その基礎の安全性ということでございますけれ
ども、その運営に関しては、私はやはり先ほどから伺っておったのでございますけれ
ども、いい
教科書が出てくるということを絶えず考えて、行政
指導をされることが必要であろうと思うのであります。結論的に言いますならば、
検定制度の短所はこれは是正しなきゃなりませんが、
検定教科書の長所を育成していくようなことであります。もちろんそれを
法案は目ざしておると思います。
検定教科書を私は支持するものであります。と申しますのは、競争のなきところに上達はないのであります。ただどういう程度、野放しの競争か、制約された競争か、そこに行政的英知をもって判断する必要がございますけれ
ども、競争をするということがない限りいい
教科書はできないと思うのであります。そういう点で
検定制度を堅持する。しかし戦後のごとき野放しの
検定制度は、これは是正すべき点があろう。
それから
採択に伴う汚職でありますが、これは広域でも小さい域でもそれに
関係ありません。結局
関係者の良識に待つより
方法はないのであります。民主主義というのは法律で縛ることではないのでありまして、一人々々の心の中にその社会秩序なり、制度運用の基礎を個人を信頼して、また個人は責任を持っていくという
立場であります。でありますから、法律で規制すべきという性質のものではないのでありますから、私は
関係者の自粛ということばでは、精神主義ではございません、民主主義は自粛の原理であります。他人の権利を尊重するとともに自分の権利を尊重する。自分の義務を、権利を正しく行使するのが民主主義でございますから、そういう
意味でこれは広域、狭域のいかんにかかわらず、現在でも汚職の危険性はあるのであります。そういう点で結局
関係者がまかされた権利と義務を正しく行使していく、こういうことをとるべきだと思います。
時間がきて恐縮でありますが、御質問に応じましてお答えいたしたいと思います。失礼いたしました。