○小川
政府委員 それでは、重複する部分もあるかもしれませんが、私から一応の
理由から経緯にわたりまして御
説明をいたしたいと存じます。
現在までございました川崎の入国者収容所は、昭和三十一年に開設をされました。その当時は環境、施設とも収容目的に適合しておった次第でございますが、その後周辺にいわゆる石油化学工場が続々と建設をされまして、それらの工場群から排出をいたしますところの悪臭、刺激性ガスまたは騒音等がひどくなりまして、被収容者、これはもちろん外国人のうちで、旧川崎におりました者は大体欧米人並びに中国人でございます。朝鮮人につきましては、別に九州の大村に収容所がございまして、大体そこへ収容されておるわけでございます。そういった被収容者に与えます影響もはなはだしくなってまいりましたので、これらのいわゆる公害につきまして、数回にわたって川崎市の衛生部等々に
調査を依頼いたしたのでございますが、なかなかこれらの公害を完全に排除することは不可能という回答を得た次第でございます。そこで、どうしてもこの収容所の環境を改善する余地が乏しいというふうなことに
結論がなりました結果、所在地をそのままにしておくわけにはまいりませんので、新たな適所を探しまして、そちらのほうへ移転することを決意せざるを得なくなった次第でございます。
そこで、適当な移転先はなかなかむずかしいのでございますが、やはり入国者収容所のたてまえからいたしまして、適所を探すことがむずかしいという条件が数々ございます。特に、一般的に申しまして、刑務所等と同様な性格を持つ拘禁所というふうに考えられておりますことと、従来のいろいろな経験と申しますか、被収容者の騒擾
事件というふうなものもございまして、一般的にこれをすなおに受け入れてくださる地域というものは非常に少なかったわけでございます。しかも、この被収容者の中には船員でございますとか、その他港との
関係もございますし、また在外公館との
連絡もございますので、いろいろな点で適当なかわり地を探すということに困難を来たしておった次第でございます。
ところで、昭和三十五年の六月ごろでございますが、かねて新収容所あっせんを依頼しておきました神奈川県の
当局から、横浜市内本牧の地区に約六千坪の土地がございます。そのほかにも提供された土地はございましたが、
調査の上で、この本牧地区の六千坪の土地が一番適当であるというふうな
結論に到達したわけでございます。また一方におきまして、旧川崎収容所に隣接しておる川崎化成工業という会社がございますが、これは可塑剤、塗料その他合成繊維の原料を製造している会社でございます。この川崎化成におきまして、自己の工場拡張の必要等から、もしもこの収容所が移転した場合には、その敷地、建物等を譲り受けたいというかねがねの申し出もございまして、わが方におきまして、この会社の
内容も十分取り調べた結果、随契の相手方として適格と認められましたので、新しい入国者収容所の建設を、いわゆる建築交換と申しますか、庁舎等特別取得費によります建築交換の方式によって入手したいというふうに考えたわけでございます。
その
内容は、川崎化成におきまして、ただいま申し述べました本牧の土地約六千坪をまず取得いたしまして、これは国土計画興業という会社の所有になっておった土地でございます。その土地六千坪を取得いたしました上に、その地上に新しい収容所の施設、この収容所の施設は、収容所庁舎と、それからそれに付属いたします宿舎の設備双方を含めた
意味でございまして、入国警備官等々もいわば二十四時間勤務でございますので、従来とも収容所のすぐそばに職員の宿舎を持っておる次第でございます。この庁舎、宿舎を合わせました新収容所施設を建設いたしまして、国は川崎化成からその土地、施設を譲り受ける一方、同社に対しまして、現在の川崎入国者収容所の敷地並びに施設を譲り渡す、これがいわゆる建築交換の方式でございます。
ただ、この建築交換の具体的な実施計画を立てます場合に、予算等の
関係もございまして、これを二
段階に分けたのでございます。まず第一契約といたしましては土地交換契約を行なう、そうしまして、川崎化成の取得いたしました本牧の土地と、われわれの川崎入国者収容所の敷地の一部を交換する土地交換の契約をいたしました。大体私どものほうの敷地のうちの四千坪は、将来の拡張予定地としておりまして、直ちに使用する必要がなかった部分でございます。それと大体価格においても見合う坪数でございまして、まず土地交換を行なった上で、第二次契約といたしまして、先ほど申し上げましたような建築交換の契約をいたすというふうな考えを持った次第でございます。このように、契約を二回に分けて行なうこととした
理由でございますが、これは、もちろんただいま申し述べましたような予算等の
関係もございますが、大体本牧の土地そのものが、周辺が住宅地として開発をされておりまして、そのために、近い将来に地価の大幅な高騰が予想されておったわけでございます。もちろん、この土地は、横浜市が本牧・根岸風致地区として指定をしております地区でもございますし、いろいろな
関係でこれを早急に確保する必要に迫られておった次第でございます。先ほど申し述べましたように、川崎の土地の一部分も直ちに使用する計画もございませんので、まずほぼ見合う土地交換を第一次として計画いたしまして、そのような措置をとった次第でございます。
ところが、非常に不幸な結果になりましたのは、いよいよ新しい施設の設計もほぼ完了いたしまして、契約の締結を待って工事を実施しようという運びに至りました
段階におきまして、昭和三十六年の十月ごろでございますが、にわかに地元民による設置反対
運動が起こったのでございます。この地元民の反対
運動につきましては、実はこの風致地区に指定してございます地域の建築許可の申請を出さなければなりませんので、その申請書を横浜市のほうへ提出したのが、ちょうど昭和三十六年の十月の初めてございます。その申請に対しまして、地元民の反対
運動が起こってきたわけでございます。これは、昔、川崎に移転する前に、横浜の山下町に横浜収容所というものがあったのでございますが、これがたいへん粗末な建物でございまして、もちろんこれを改造いたしましたのが昭和二十六年でございますから、とうていりっぱな建物ができなかったわけでございます。そこで、そういった建物に収容せられました被収容者の騒擾
事件というものがございまして、それを記憶しておる人々がおそらくこの反対陳情に立ったのではなかろうかと推察される次第もございます。いずれにいたしましても、こういった陳情がございまして、その陳情に対しましていろいろと折衝をいたしたのでございます。もちろん収容所の性質その他につきまして、十分納得のいく
説明を加えまして、また急速に解決をはかりますことによってかえってまた反対を助長するというふうなおそれがあることも考え合わせまして、実はたいへん時間がかかったのでございますが、翌昭和三十七年の二月に、横浜市におきまして
関係者、すなわち法務省側、横浜市側、県会、市会その他地元の代表者が参集いたしまして、この新しい収容所設置について地元側の付帯条件を考慮する、この付帯条件と申しますのは、
関係代表者間で風致地区の管理
委員会を設けて、そこで収容所の建物あるいはその周囲の風致地区にふさわしい美化施設というふうなものについていろいろと相談をするという管理
委員会でございます。それで、ようよう円満な解決を見ましたのが昨年の二月でございます。このために約四カ月足らずの時間が結果から見ますとここで空費されたということに相なった次第でございます。この反対陳情に対する措置を終わりましたのが、ただいま申し上げましたように二月の半ばでございますが、そこへ持ってまいりまして、まずくいくときはさらにまずくなるものでございますが、肝心な川崎化成の会社のほうで、当時設備資金の引き締めの金融政策が
強化されましたために、最初計画をしておりました工場増設に対してたいへん打撃をこうむらざるを得なかったのでございます。それのみでございませんで、川崎化成のただいま申し述べました主要製品でございますところの無水フタル酸の値段が暴落をいたしました。その当時の数字は省かしていただきますが、そういうふうな金融引き締めにより資金難におちいりましたと同時に、製品価格の暴落によりまして、経営がたいへん困難になった次第でございます。
そこで、同社といたしましては、第一次契約に引き続きまして第二次建築交換契約をやる手はずをちゃんときめておりまして、
相当に準備をして、誠意をもってこの計画を遂行するためにあらゆる努力をしたということは、われわれとしても十分認められたのでございます。たとえばその一例といたしましては、この本牧の土地に、土砂くずれを防ぎますために、擁壁と申しますか、土どめの工事なども第二次契約に入る前に実施をしているというふうな点から考えましても、当時川崎化成に誠意がなかったというふうには考えられないと思うのでございます。
そこで、金融引き締めその他の
理由により会社経営が困難ということだけで最初の約束をキャンセルされるということになりますと、われわれとしても非常な困難におちいりますので、何とか金融の道をつけて、見通しを立てた上で第二次契約をしてもらいたいというふうに鋭意折衝を続けたのでございますが、それに対しましても、一応は努力をしてみるということで、ただ最初の予定よりか数カ月以上おくれておりますので、その間土地の値上がり等の事情もございまして、川崎の収容所の残りの土地と庁舎の再評価をお願いいたしたのでございます。第一次土地交換のときの価額は坪当たり大体二万円余でございましたのが、再評価をお願いいたしましたときには、四万円以上の評価が出てまいりました。おそらく会社側といたしましても、この値段ではとてもお引き受けするわけにはいかないという事情に相なったかと存ずるのでございますが、はなはだ不幸にもそういった
理由が重なりまして、昨年の秋に、正式に第二次契約については御辞退申し上げるという申し入れが参ったわけでございます。そのころになりましてまた新しい建築交換の相手方を見つけますことは、これまたすこぶる難事であります。その主とする
理由は、やはりこれだけの建物を建築いたしますためには、最小限度七カ月を要するということでございましたのでわれわれといたしましてもやむを得ず一年延ばすと申しますか、建築交換の方式を放棄いたしまして、新たに国の予算で新築をするという方針に切りかえざるを得なかった次第でございます。そのために、とにかく附則の一年を二年に延ばさしていただきたいという法律の改正案を提出いたした次第でございます。