○松井(誠)委員 文書
違反の場合と
買収や供応の場合とは、
選挙法自体が同列に扱っていないわけです。法的な問題は別といたしましても、失格の問題を考えても、元来
選挙違反の中で
買収供応と、そういう普通の文書
違反とは同列に扱っていない。むしろ先ほども言いましたけれども、文書活動というものは本来制限すべきものではない。しかしいろいろな
理由で制限せざるを得ない。現実にたとえば参議院の全国区の候補ということになりますと、これは今の
選挙法のワクの中でやったら、
ほんとうに有権者に正しい判断の
資料を与えるということは、ほとんど不可能に近い。そういう場合に、いわば
法律の不備を補う
意味でいろいろな
紹介をするということは、むしろ本来はやるべきことだと思う。それと、どういう
意味ででも
買収、供応というものを是認すべきあれはない。そういうものを一方が組織的にやったから、何か本質的な変化をして、
買収、供応と同じようなたちの悪い
違反になるというようにはどうしても私は考えられない。ですから、なるほど、今非常に言論活動が不自由だ、しかしそうかといって何とか宣伝しなければ現実に
選挙運動というものはできない。そういう隘路を広げる
意味でやる場合と、そういう
選挙運動の本来の
意味なんというものは初めからもう認めようとしないで、とにかく物をくれてそれによって判断をごまかそうという、
手ぬぐいだってそうでしょう。
手ぬぐいに
名前を書いて流すということ自体が、一体有権者にどういう判断を起こさせるかということになると、これは
候補者が何者であるかという
名前を知らせるだけであって、その人がどういう考えを持っておるかということは、その
名前自体からはどうしても出てこない。そういうことで同じ文字が書いてあっても、
タオルだとかハンカチとかいうものに
名前を書いただけのものと、いわゆる文書として流す文書活動というものとは全く違う。やっぱり
手ぬぐいや
タオルを流すというのは、まさに品物によって判断をごまかそうという
意味で悪質だと思う。ところが現実にはそういう組織的な、計画的な文書
違反というものが
買収、供応よりもたくさんあげられる。
買収、供応というのは非常にこっそりやるからなかなかあがらない。しかし文書
違反というものは公然とやっておるからあがる率は非常に多い。点数はかせげるかもしれません。ですから新潟県のこの間行なわれたいろいろな
選挙で、そういう団体の文書
違反の数はおびただしくあがっておる。しかし
買収、供応というものはほかの県よりも少なかったと思う。一体、その
取り締まりの
方針というものは、そういうことでいいものかどうか。文書
違反をつかまえるということになると非常に楽です。従って、そういう
意味で点数はあげやすい。しかしそれが
ほんとうに
選挙を取り締まる趣旨からいってあるべき姿かどうか、どうでしょうか。