○
赤松委員 ただいま
大臣から非常に明快な
答弁をいただきました。まだ公判記録を読んでいない、また、
死刑執行については慎重に扱う、こういうことでございまして、ぜひそういう
考え方で問題を処理していただきたい、こういうように思うわけであります。
そこで、私非常に不愉快なのは、
平沢が私に電報を打ったそうです。
仙台に来たという。それから、何か大野伴睦さんにも手紙を出したそうですね。御
承知のように、監獄法では発信の自由が認められている。ただ、発信の自由といっても、無制限ではございません。御都合の悪い点は墨で消せばよいのですから、どうもありがとうございました、お世話になりましたくらいのことは残しておいてよいと思うのです。それが全然私の手元に来ていないということです。それから、聞きますと、
仙台の
刑務所は施設が悪くて非常に寒いそうですね。近く
予算をとられて新しいのをお建てになるようでありますけれども、
東京拘置所から見ると問題にならぬほど施設が悪い。松川の諸君などもそれで健康を害したと言っている。ある人は、そんなことはないと思いますが、どうも
平沢は
死刑にするよりも病死させるために
仙台へ移した、そういうことを勘ぐる向きも実はあるわけであります。こういう点、再び
東京拘置所に帰せといいましても、いろいろな事情がございましょうが、やはり獄中で病死をしたということになりますと、一そう
疑惑が深まりますので、そういう点につきましては、どうぞ十分な
配慮をしていただきたい、こう思います。
そこで私は、新しい事実としてぜひ
法務大臣にお
考えを願いたいことがあるわけであります。これは今まで外へは出しませんでしたが、本
委員会において明らかにし、かつ、あなたも有利な材料があればぜひ提出するようにというお
考えのようでございますから、ここで私は、ぜひ
再審をしていただきたいということの
理由の
一つとして申し上げたいと思うのであります。
大臣、これはお調べになるとわかりますが、「ライト」という雑誌があります。朝日
新聞社出身の武藤貞一さんの動向社という雑誌社の発行の三十七年十一月号、ここに、
平沢事件が発生しました当時警視庁の主任捜査官をやっておられました成智英雄、これは元警視庁の警視です。この成智という人が書いている。そのうちの重要な点だけをぜひ国会の記録にとどめておきたいので、また
法務大臣の耳に入れておきたいので申しますが、「昭和二十三年一月、
東京の一角で所謂帝銀
事件という大量殺人
事件が突発した。私はその時、この
事件の合同特別捜査
本部長、藤田次郎警視長直属の
秘密主任捜査官として特命を受け、殺人工場といわれた関東軍満第七三一部隊の解明に専従し、
平沢貞通が犯人と確定するまで、実に半歳余に亘って多数の元隊員を捜し出して取調べ、また元幹部の積極的協力を受けた。この結果、数千人に及ぶ生きている健康な
人間を細菌、凍傷、毒物等の実験に使用して殺害していたという戦慄すべき業務が明かにされ、技術的にみると帝銀
事件の犯人は同隊出身者でなくては、不可能な殺人と認められた。」さらに「青酸加里実験と帝銀
事件」という項の中で、「第七三一部隊第一部では、謀略用として青酸化合物による中毒死研究を、マルタを使用して実験した。各国の文献によると、青酸加里の人体に対する極量は〇・二五〜〇・三瓦の範囲内になっているが、この計算は小動物の実験によって、体重比例で算出されたものである。同種のモルモットでも、産地、風土、飼料等の相違によって著しい抵抗差があるので、このように極量に差異があるものと認められていた。
人間が多量に嚥下すれば、一分の何分の一という早さで窒息死に致らしめる猛毒ということは、自他殺死体によって実証されていたが、
人間に実験することは許されないので、その正確な致死量の限界を知ることができなかった。昭和十六年頃、
人間の最低致死量を知るために、十人のマルタを使って実験された。第一回は〇・三瓦を投与したが、その結果は身体的異常は認められなかった。漸次増量して反覆実験して研究したところ、年令と体重によって限界量に差異があって、成人の場合は、〇・六〜七瓦ということが発見された。この量を嚥下すれば、頭痛、めまい、動悸がはげしくなって胸苦しいと云う初期中毒症状が起きるまでには、一分から一分三十秒を要し三四分後に呼吸が乱れて苦痛を訴え、次次に全員嘔吐して脈搏は徐々に弱少となり、痙攣を発して意識を失い、死亡することを発見した。このデータは厳に秘匿された。終戦後は戦犯の捜査が開始されたので、研究員たちの口はさらに堅くなった。」そうして「帝銀
事件への
疑惑」という項で「帝銀の犯人は赤痢予防薬と称し、行員十六名を一カ所に集めて、各自の茶椀に一人約五瓦の青酸加里溶液をピペットで注入して持たせ、刺戟か強すぎて歯をいためるから、仰向いて喉に流込むように、ぐっと一息で飲むように……と注意を与え、同種の溶液を自分で飲んでみせた。それから、さア、一緒にぐっと飲んで下さいと指示したので、十六人が一斉に飲みほすと、一分後に第二薬を飲んでくれと云って次々に茶椀に水を入れて、時計を見ながらその場に引き止めた。約一分後初期中毒症状が現れ、次々に倒れて意識を失った。犯人はその間に現金十六万円と、安田銀行板橋支店払の額面一万七千四百五十円の小切手一枚を奪って悠々と逃走した。この時行員十二名か死亡したが、四人の生命を取り止めたので人相着衣が判明し、小切手を現金に換えた者の人相ともほぼ一致し、裏書きの住所氏名も犯人の筆跡と推定された。
調査の結果、前年十月十四日午後三時頃安田銀行荏原支店へ、厚生技官医学博士、松井蔚の名刺を差出して支店長に面接し、集団赤痢が発生したので消毒にきたと言った男と同一人物と確認された。松井蔚というのは当時の厚生技官で、実在しておりましたね。「そのとき支店長が不審に思って巡査を呼んだが、赤痢が現に発生していて、巡査と十分ばかりも話し合って、帳簿や窓口を消毒して帰っていった。少くとも十数名の記憶に残る犯人なので、逮捕は時間の問題と
考えられたが、暗中模索的捜査に終始し、迷宮の色が濃くなった。この部隊研究員の意見を総合すると、」部隊研究員というのは細菌部隊ですね。(一)犯人自ら毒物を飲んで見せたことが事実なら、致死量の限界を知っている者だけに出来る殺人犯と思われる。(二)使用した青酸加里溶液は最低致死量と認められる。この場合は初期中毒症状が発生するまで一分乃至二分を要するので、現場に引き止め策として第二薬と称し、単なる水を飲ませているということは、実験の経験者か、その実験報告を検討した者だけが知る
秘密である。(三)最低致死量を五瓦の水に溶解すると混濁するし、ピペットの持ち方と飲ませ方が、軍で予防薬を飲ませたときと、大体同じである。(四)冷静沈着に行動したらしいかそれは殺人の実験者特有のものである。(五)従ってこの犯人は第七三一部隊出身者の疑いが濃い。」これが当時の主任捜査官が、警視庁の捜査
方針が決定しまして、石井部隊を洗え、満州において五千人の生きた
人間をペスト菌、コレラ菌その他によって殺した、この石井部隊を洗えということになった。あとでまたさらに事実を明らかにしますが、その際に石井部隊の隊員からこの主任捜査官が聞いた結果、これは殺人経験者でなければできない、こういうことを言っております。さらに「毒物研究と帝銀
事件」という項で「満第七三一部隊では、あらゆる毒物の研究が行なわれた。殺人を完全に実施するには、中毒症状が発生するまでの、何の反応もない経過時間が長くてはならないし、毒物特有の臭い、刺戟、味などのないもので、投与が容易なものでなくてはならなかった。最初に発明ざれたのは皮下注射液であった。特務機関や憲兵隊では、昭和六年柳条溝
事件の頃から嘘発見薬と称し、満洲の広野に咲き起れる白い花の気狂ナスの実を煮つめた液を飲ませて取調べたが、その
効果は極めて顕著であった。だが、多く飲ますと死亡するので製薬化の必要があった。研究員はその実からエキスを抽出して殺人用注射液を発明した。この毒物の特徴は注射後何の異常もなくて、七十二時間後に百%急死し、死体を解剖しても死因が全く不明であったが、注射しなくては
効果がないので実用には適さなかった。ついである種の謀略殺人には青酸を使用したが、帝銀
事件のような嚥下させる
方法ではなかった。あらかじめ室内に酸液を入れた痰壷をおいて、消す必要のある人物を招聘して、青酸を投入して席を外すことだけで
目的を達したが、この死体の処理に困った。同十六年になって理想的な恐るべき完全殺人薬が発明された。その致死量はケシの実一粒位の少量で、無臭、無刺戟、無味で飲ますことによって、痛くもかゆくもない日が七日間も続いて頓死するものであった。この外、凍傷の病理的実験の吉村研究員によって反覆実施をし、静脈に空気注射、婦人に梅毒を人工感染させて実験に供した。同年八月二十三日、居木井警部補の一行は遠く北海道小樽市に出張して、一応詐欺被疑事実で
平沢貞通を毒殺犯人として逮捕し、意気揚々と帰京した。
平沢は九月二十七日になって犯行を自供したが、拷問、自白の強要、誘導尋問等は全くなかったので、その供述の真実件は高く評価された。私にとっては正に晴天の霹靂であった。取調べが進むにつれて
平沢の青酸加里に対する無知が一層明白になり、その入手先も確認できず、犯行時の目撃者十数人に面通しをしたが、この男であったと言う者は一人もなかった。あまつさえ
平沢は、十月二十三日になって一切の犯行を否認し、すべて捜査機関のデッチあげだと言いだした。
平沢は犯行の前には千円の金に窮していて、犯行のあった翌日に十数万円の大金を入手していたが、その出所を明らかにすることができなかった。この金の問題と、小切手の裏書きの筆跡が八〇%似ているということがキメ手になって一、二審とも
死刑の
判決を下し、衆高裁は上告を棄却したので遂に
死刑が確定した。あれから十四年六月を経過しているのに、未だ刑が執行されないので、世に真犯人かどうかの
疑惑がもたれるのも当然と言えよう。とも角、金の出所さえ判明していたら無罪になったであろうと思われる後味の悪い
事件になった。これが当時の警視庁の警視、すなわち主任捜査官の書いたものであります。
それならばその金は一体どこから入ったのか。これは当時
平沢は、無罪になって、そして簡単に
社会復帰ができる、つまりあの絵の
社会に復帰できるというように
考えておったようであります。従って、その入手先についてはこれは否認をしておったそうです。だが、その後明らかにしておるが、このことはあまり問題にされていない。だれからその金を得たかといえば、当時飯野海運の村長のおめかけさんに春画を売っている。その金が入っている。当時彼はすぐに
社会復帰ができると思って、そして彼も有名な絵かきさんでありますから、そういうことを
世間に発表することを避けたのでありますけれども、今やその事実が明らかになってきている。
もう
一つ、ぜひ
法務大臣の耳に入れておきたいのは、これは今、読売
新聞に現におられる記者であります。当時読売
新聞の
社会部次長をやっておられました大木という人ですが、こういうふうに言っておられる。「帝銀犯人が銀行員に毒薬を飲ませたやり口を検討すると、どうも支那式の乾杯の酒のつぎ方を連想させる。支那で毒薬を相手に飲ませる場合、ビンの中に酒より重い比重の毒薬を入れると薬だけが下部に落ちついて上部は無毒のものがたまる。そこで主人側は上部の無毒の部分をコップにつぎ、相手方には底部の毒薬の入った方をつぎ主客ともに乾杯する。そして盃の底を見せるという方式である。それが帝銀
事件の犯人のやり口ととてもよく似ている。しかも大陸育ちの人のような不敵なやり口である。犯人は中国
関係の特務機関にいた男ではないか……」五千人の生きた
人間をペスト菌、コレラ菌によって殺して、人体実験をやった。そうしてあの終戦のときに、その五千の死体を隠すのに困って焼いたわけです。焼いてもなかなか一挙に焼けないということで困った。すでにこのことが明らかになっている。GHQの
調査によって明らかになっているわけです。さらに続けて読みましょう。「大陸育ちの人のような不敵なやり口である。犯人は中国
関係の特務機関にいた男ではないか……。この線を追って
調査していると、浮び上がってきたのが、関東軍の石井四郎軍医中将が率いていた防疫給水班である。これは細菌部隊であって、もともと対ソ戦に備えて研究していたものであるが、終戦直前、内地に引き揚げて米軍の日本本土上陸作戦に対する対米戦術として備えてあったが、ついに終戦となり、使用する
機会を失った部隊であった。この
調査には、
社会部の遠藤というシェパードのような敏腕記者を当てていた。やればやるほどいろいろおかしなことや興味ある状況がほぐれてくる。ところが、石井軍医中将に手をつけたとたん、警視庁藤田刑事部長から私(大木)に会いたいという電話がかかってきた。私は「いや、こちらから出向きます……」と返事してさっそく警視庁へ行ってみると、藤田刑事部長と、当時のGHQイートンさんと二世の服部中尉の三人が立って私を迎えた。この三人の話は「帝銀
事件調査から手を引いてもらいたい」との宣告である。私は「そんな命令はお断りするほかありません。私たち
新聞人は
社会の公器として読者の報道の義務を持っており、また取材は自由でだれからも制限を受けることはないと信ずる」と言うと、先方もちょっとあわて「いや命令ということではない、これは相談であり、要望であるが、まあゆっくり話しましょう」と、隣室からあちらもののウィスキーやブランデーを持ち込んで懇談に移った。GHQ側の
考えていたことは「石井部隊は米国側の対ソ戦に備えて現在保護を加えて温存しているわけで、おまけに石井中将は戦死したことになっているが、都内某所に手厚い保護を加えられてりっぱに
生活している。これを読売
新聞であばき立てられては非常に困る。帝銀
事件そのものから手を引けというのでなく、石井部隊を洗うことをやめてくれぬか、そのかわり司令部に入った
情報は全部読売に提供する」とのことであった。私も司令部と
けんかするばかりが能でないこともよくわかるので、諸般の情勢を加えて判断した上で、やむを得ずこの申し入れを承諾した。」これが当時読売
新聞の大木
社会部次長の話です。そうすると、先ほどの警視庁の主任捜査官のいわゆる石井部隊、細菌部隊の中に犯人がいるのではないかということ、それと今の大木
社会部次長の話とが期せずして一致してくるわけです。
そこで私は、これは
大臣の
答弁を受ける問題じゃありません。ありませんが、これほど当時の主任捜査官ですら、金の出所さえ明らかになればこれは無罪になるのだ、こう言っている。それから石井部隊を洗うというその警視庁の最初の
方針がどこで修正されたかといえば、これはGHQによって修正された。私はこの
事件をずっと調べていくにつれて、その背後
関係が実に重大なものであって、私の正義感が黙っておることを許しません。石井部隊の残党はなお全国至るところにおるでしょう。あるいは私に対して危害を加えるかもわからない。けれども、ここで
考えていただきたいのは、私は
法務大臣に勇気を持っていただきたいということです。と申しまするのは、一番安易な道は
死刑を執行することです。これは勇気は要りません。
死刑執行は一番安易な道です。ここでわれわれ政治家とし、またあなたが
法務行政に携わる
大臣として、私の要求する勇気というのは何かといえば、真実を発見するために何ものにもとらわれないでやっていただきたい、このことなんです。別にむちゃな要求をしているのではない。今法務省がやっておるところの
人権擁護週間にちなんで、その精神を法の上に生かしていただきたい、このことを私はお願いするわけです。
平沢が今どういう
心境にあるか、これはおそらくあなたじゃわからないと思うのでありますけれども、どこでも
死刑場というのはあばら家です。ずっと離れたところにあばら家のようなものが建てられておる。そうして目隠しをして、手錠をはめて、この板の上に乗るわけです。それから一方でボタンを押すと、その板がばっと両方に分かれて、そのままぶらんとぶら下って、それから青ばなをたらして死んでいく。下にはちゃんと棺桶が用意してあり、そこへすっと入れる。それから死体の解剖をやるわけですね、ですから
映画や芝居でやるようなものじゃないのです。いよいよ
死刑の確定
判決があって、そうして
刑務所の中におると、ことっという靴音だけでも非常なショックを受ける。きょう
死刑を執行されものじゃないか、あす
死刑を執行されるのじゃないか、その精神状態を
考えると、
——私は、真実にこの
平沢が十何人の
人間を殺したということになれば、憎んでも余りがある。私は
死刑をすべきでないという論者でございますけれども、ただ単なるセンチメンタリズムに陥っているのではないのです。ある場合には苛酷な刑罰も必要でしょう。しかし、こういうように
疑惑が持たれておるのであります。そして週刊誌なども一斉に書きました。あなたのことも書いている。私もここで読み上げるのには忍びない。あなたの場合には割合簡単に
死刑を執行されると言っておる。前の植木
法務大臣なとはじゅずを持って念仏を唱えながら
——ずっと読んで御紹介すればいいのですけれども、同県人でもあるし、郷土においては、あなたは非常に良識のある政治家として前途を嘱望されておる人なんだから、あえて私は週刊誌の批評を引用しようとは思いませんが、植木
法務大臣などは、
死刑を執行する前に十分に上申書も読み、あるいは
判決書も読んで、そうして自分自身が
納得がいっても、なおかつあの二名の
死刑を執行するときには、念仏を唱えて、そうしてじゅずを持って
死刑を執行し、なおそのあと、その
死刑を執行いたしました人に対する祈りを続けたということがここに書いてある。これは
唐澤さんの場合でも同じだということが書いてある。
人間の生命というのは尊厳です。人一人を殺すか生かすかということは非常に重大なことなんです。だから私はさっきから言っておりますように、十何人に対して青酸カリを飲まして殺した、その罪は憎んでも余りあります。私は苛酷な刑罰をもって臨むべきだと思うのです。しかしながら、今言ったような事実が出てきておるのであります。だから、この点につきましても、これは裁判のことでございますから、
法務大臣とは別でございます。ただ私は、こういう発言を通じまして裁判官の良識に訴えると同時に、法務当局の良識に訴えたいと思うのであります。
先ほども申しましたように、昨日から
名古屋高等裁判所で
吉田石松老人の例の巌窟王といわれたあの
再審が受理されて、そうしてきのうは電話をかけてみますと、おとといからきのう一日テレビ、ラジオ、
新聞は一斉に書いている。そうして町では同情の動きがずっとわいて、
裁判所の措置に対してみんな感謝する気持が
市民の間にみなぎっている、こういうふうに
新聞は報道している。私は、真実に法を守る精神というものはこれだと思う。いたずらにものを隠し、これは検察庁の非常に悪い点でありますけれども、自分が一たんこうだときめれば、その構造、機構が一本でありますから、非常にえこじにその
方針を変えないでいく。私はこういう点は、検事をやっておられる限りは、その
人間性というものはよくわからないと思う。もし検事をやめて、
ほんとうにどん底に陥って食うや食わずの
生活をして、
人間同士がはだで触れ合うような
生活をしたら、私はその
人間性というものを初めて会得することができると思う。どうぞ法の運用にあたりましては、冷たい気持でなしに、たとえば
平沢が感謝の電報を一本打とうとする、それさえも発信を停止させてしまう。そんなむちゃなことは、大きくいえば憲法違反です。ここで私はそういうことを申し上げませんけれども、ピンからキリまでこういう過酷な扱いをするということは、私はどうしても
納得がいかないわけであります。どうぞそういう点につきましてぜひ御考慮をお願いし、今非常な寒さでもって健康を害しておるようでありますが、もしあそこで病死をするようなことがありますと、あらぬ疑いも当局がかけられますから、それはわれわれとして忍びませんから、やはり万全の対策を講じていただいて、なおそれでも病死する者は、これはやむを得ません。どうぞそういう点にぜひ御考慮をいただきたいと思うのであります。
なお、
刑事局長の先般の私に対する文書の回答につきましては、先ほど申し上げましたように、本日は
刑事局長自身の御都合で旅行中でございますので、次回の
委員会におきまして私の疑問点を明らかにしたいと思うのであります。
それでは
委員長、ちょっと
条例の承認を求めておいて下さい。