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亀田得治君 これは、釈迦に説法のようなことにもなりますが、とにかく刑訴にしても民訴にしても、一つの事件について、前の段階で関与した
裁判官は、たまたまその後異動があって、もっと上のほうのクラスへ行ってその事件が来ると、当然これはもうその事件からははずされるわけですね。これはあたりまえのことなんです。前は下級
判事としてやったんで、今度は上へ上がってきたから、これはまた高い
立場で、おれのやったこと自身を上のほうで
判断する、そんなことはできるものじゃない。そんなことは当然の原理ですからね。だから、そういう点もひとつ、これは、訴訟法自体がそうなっているわけですから、これは一種の訴訟ですから、
処分、審判、さらに訴訟、こういくわけですから、どうしてもそれは矛盾が出てくるのですね、うまくやろうとしても、その
結論が。私が申し上げたような、そのかわりそういう第三者にまかすような
考えをとるのであれば、それは予算的にも、それから人的にも、これは世間が納得するようなきちんとしたものじゃなければいかぬです、積極的に。そういう点をひとつ、最初の
お答えでは、どうもしっかり
研究に取り組むという姿勢にもまだなっておらぬようですけれども、これはぜひ取っ組んでもらって、そういう
考えもひとつ参考にしてほしいと私は思うのです。
それで、もう一点ですが、従来
裁判所では、事前に注意をしてやれば、
処分までいかなくても済むのじゃないか、あるいは事後においてもいい、十分厳重な注意をして、そうしてなるべくやはり円満に処理していくと、こういう点で少し欠ける点があったのじゃないかという感じがするわけですが、まあ他の官庁ではずいぶんそれはやっていますよ。それはもう、局長が怒っていても、担当の係長なり
課長がまた中へ入るとか、いろいろやっておるのですよ。それは、問題が起きておるといいましても、何も、その問題自身が片づけば、必ずしもそのとき騒いでいるのが人間的に一番悪いとか、
公務員として本来不適格とか、必ずしもそういうことは言えないわけでして、だから、そういう点のですね。これはもう、
法律上も注意
処分というのがあるわけですが、あれも一種の
処分なんです。そういう努力が足らなかったのではないかと、例の、一番初めに出ました
昭和二十四年の解雇の問題ですね。あれなんかでも、最近行政事件の判決が大阪でありましたが、あの判決も私ずっと拝見しましたが、あの判決の理由の中にも明らかになっているように、
昭和二十四年
裁判官会議を開いて、乾氏その他を
処分するかどうかという場合に、やはりもう一度十分注意をすべきじゃないか、非常に強い意見がやはり出ておる。それで、まあその会議の模様等を判決を通じて見るのですから、これはおそらく大体正確だと見ていいと思うのですが、そういう問題を起こす前の、通常の勤務にあるときの状態につきまして、その詳記官を使っていた
裁判官の証言によれば、
裁判所に来て比較的年限は短いのだけれども、非常に
仕事はよくできたといったようなことも法廷で証言しているわけですね。そういったようなことも
関係があるのだろうと思いますが、ともかくもう一度注意をしてからにしたらどうだろうかと、もう一方の意見は、もうあんな者は注意してもだめだ、すぐやってしまえ、こういうふうな両論があったようです。どうもそういう点で、最近はよく注意
処分ということをやっているようですが、今までの
処分のあり方に多少性急なところがあったのじゃないかというふうな感じを私
たちしているわけですが、その点についての従来の状況なり、あるいは最近の方針なり、そういうものについてひとつ承っておきたいと思います。