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清澤俊英君
沿岸漁業に対しての
考え方は、
提案説明にあるとおり、
沿岸漁業で不振であるというのは船に乗って魚類をいろいろな方法で取るやつ、これは不振だと、こう書かれている。その反面どうにかやっておって、なおこれから幾らか伸びていく見込みのある、こういう
漁業は、それは
漁業権漁業による
沿岸の養殖等を
中心にしたものが
考えられているのです。このことは本
提案説明だけでなく、前にもそういう説明を承っております。しかるに本法では、これから伸びていく養殖等の
漁業権漁業それ自身に、この
法案では漁民の主体性をはずしておる形が出てきて、
漁業権漁業自身に何かしら影の暗い思いがします。また再び網元のようなボスが資本の形で支配し出すような形が出てきているのであります。すなわち
漁業行使規則を作ったり、入漁行使規則を作ったりして、漁民自身の自主性をなくしていく方向がうかがわれます。この規則はどういうものができるのかしりませんですけれ
ども、そのうちだんだんと弱いやつは振り落とされていくように
法律ができているように思われます。たとえば現在
免許された
漁業権で漁民自身がやってきた
漁業が、このたびの法
改正では協同
組合が
中心となり、協同
組合の作る
漁業権行使規則や入漁行使規則が主体となっていくのであります。その上協同
組合の正
組合員の資格が
改正され、強大ないぶ無資格者が出てきて正
組合員からはずされる者が出るでしょう。すなわち振り落とされる者が出るのであります。そういった反面、法
改正によって正
組合員資格者として就業員三百人以下を使用する経営者であるとか、総トン数三百トン以下の船を持っている大経営者などが正
組合員とし、
組合員資格が与えられたのであります。就業者三百人以下の経営者と申せば御木本のような真珠業者や、三百トン以下の船持ちとすれば、
カツオ・
マグロ業者の五十トン、百トンはもちろん、
遠洋級の百トン、二百トンもの船主経営者も正
組合員となり、
改正法の表からすれば
漁業権漁民の仲間入りができるのであります。そこで私は、零細漁民が振り落とされ、大資本家が仲間入りをしてきている点を問題にして取り上げたいのであります。
現行法の十四条の九項は、今やっておりまする養殖
漁業等にも
関係ある歴史的な入漁権、
漁業権を認めた条項だと
考えるのであります。第十四条の九項は
改正案では削除されましたが、九項の持つ意義は、町村
組合やその他が制度的に権利を持つことがいい悪いは別として、漁村、漁民とその地先が離すことのできない経済的に長い間の両者の
関係を持つくいることを表現している浜と漁民の深い経済
関係の形じゃないかと思うのです。それがこの
改正法で削除される。そういった浜と漁民の深い歴史的
関係が保持されてきたそういったものは、今度の
改正で
漁業権行使規則であるとか、入漁権行使規則であるとかという新しい規則で
規定づけられて、そうして別な形に変わっていく、そこに私は問題があるんじゃないかと思っている。弱い漁民の権利が一枚々々はぎ取られていくように見えます。この点に関しまして水産研究会の浅野長光という人が意見を吐いています。その意見などを聞きましても、私の
考え方と同じ
考え方がだいぶ浅野氏の意見の中にあるだろうと思います。浅野氏はこういうふうに言っておられる。「
現行法第八条の各自
漁業を営む権利を
改正案では廃止しているが、その理由が私にはわからない。」第八条の各自の行使権というものを廃止しておられるが、それが私にはわからない。「この「各自行使権」の背後には、
沿岸漁場の小商品生産者的利用
関係が歴史的に形成されてきた。」、この歴史的形成という浅野さんの
考え方、それが先ほど私の言いました十四条九項などのような
現行法の背景となった実情を言っているんじゃないかと思うのです。「歴史的に形成されてきたという事情がある」というのだ。「そうした利用
関係を一挙に払拭し、白紙に物を置くように資本家的生産を形成せしめようとする意図ならば問題は別である。決してそうは行かないであろう。」そういうばかなことはでき得ない。「そうした空想的
発展図式からすれば、小生産的利用権を認め、その中から大規模な
漁場利用と、経営の形式、成立をはかるという方法は、より緩慢な
発展テンポということになろう。しかし、
沿岸漁業の構造改善は単に資本に投資先を作ってやるということでおわるものではあるまい。」と、このように浅野長光氏は言っている。「
沿岸小漁民そのもののために生産
発展のコースを整備することが政策のポイントである」と
考えられる。「彼らの内部的成長が基本なのである。「各自行使権」を与えてそうしたコースの
発展を保証すべきであると
考える。「各自行使権」に関する
漁業制度調査会答申は、その廃止を決して主張していない。」「一部の
漁業にあっては各自
漁業を営む権利の性格が明らかでなく運用上、解釈上に疑義を生じている」という
部分を「廃止せよ」とするのは拡大解釈である。「「各自行使権」が廃止されるとすれば、
組合員は
組合に対し単に行使規則の履行を請求しうる一種の社員権者たるにとどまり」、社員権たるにとどまってしまう。「
組合員は
法律的ないし実質的には
組合から行使規則に基いて
漁業権の貸付をうけたことと解せざるを
えなくなるのではなかろうか。
組合員が
漁業権侵害排除の請求をなしうる対世権は否定されることとなり、又一方
漁業権の貸付を禁止している法の趣旨に反する結果ともなるのではないか。漁民の主体性を保証する上からいっても「各自行使権」をいかす方向において立法上の工夫を願いたい。」、こう言っている。それから同じく、日大教授の原暉三博士の意見は、「「各自
漁業を営む権利」なる観念を削除することと、この種
漁業権たる特定
区画漁業権、
共同漁業権又は入漁権につき、
漁業協同
組合はその権利の行使に関する規約(
漁業権行使規則)に従って、当該
漁業を
組合員に営ませなければならないとする新規に「
漁業権等行使規則に関する
規定を設ける。」とのことで、これをもってするときは、一見法の形式からいえば、第一次明治
漁業法の定め方に還ったかの如くである。即ち、
組合員は
組合に対して行使規程の履行を請求しうる一種の社員権たるに止まり、第三者が侵害した場合にその者に対し直接に侵害排除の請求をなしうる対世的効力を有するかは否定しなければならないのであろう。第二次明治
漁業法以来、
組合員の各自
漁業を営む権利の概念が
発展固定しているのにかかわらず、これを削除するのは甚だ疑いがある、ただ、各自
漁業を営むとの各自が広きに失し実情に副わないきらいがある。しかし、諸般の事情によりこれを制限せんとする理由のあるときは、旧法の「
組合規約」
現行法「定款」の定める所により規制することが可能であった。」できたんだ、「この管理
漁業権を二分し総有的体系にあるものは各自
漁業を営む権利に配し、より市民法的な個人的な行使による
漁業権を行使規則によらしめるも一方法であろうが、かくては最も価値のある権利について賃借権にも劣る極めて曖昧な権利体系におくのはなおさら疑問である。ここでは定款とあるのを行使規則とするのも彼此差異がないであろう。元来当初は、
組合規約による特則は個人的権利を
組合が信託的に取得した結果その個人の地位を
組合規約で留保したことから
発展したものであること既述のとおりである。ところが、時の経過によりこの特則を否定せんとする傾向と併せて
組合優先
免許主義なる施策により多くの
漁業権を
組合が取得し専用
漁業権又は入漁権以外は貸付の目的としていたのが旧法時の事象であった。
現行法においては、
漁業権は貸付の目的となし
えないことを前提として
組合が殆んど全部の
漁業権を取得した上、その権利の大半を管理
漁業権に組み入れた。そこで本来市民法的な個人的権利を総有的体系の法の下に規律することは確かに不自然にして実情に副わない。かくみるとき、
漁業権行使規則はその実質は
漁業権等貸付規程に脱落するのではないかと思う。ここにも
組合の
漁業権を取得する妥当性並びにその限界について再吟味すべき課題であると思う。
こういうふうに言っているわけです。わしはそんな
法律家でもなければ、明治時代からずっと
法律がどうだのあるいはこうだということは知りません。明治二十三年に生まれているから、だいぶ前に生まれておりますけれ
ども、今の浜とは確かに違います。今の浜とは確かに違っております。そうして同時に、われわれの小学生時代に修学旅行等に参りまして、浜の人たちと接し、そうして浜の様子を見て参りました概念と、今の
改正せられたるこの八条の概念というものは全く遊離せられた妙なものができ上がっている。こういうふうに私は
考えるんです。専門家でもなければ、わしは
法律家でもないんだから、何の権利とかかんの権利とか言わないが、観念的にそういうことが
考えられる。
あと戻りしているんだ、こういうことが言われる。