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衆議院議員(高橋英吉君) 私のような者が
参議院に来て、よくまあこういうことをしゃべるというので、どういう
意味か、侮辱にも感じたり、また、えら過ぎるようにとられたかどうかわからないが、今のお話を聞くと、逆に私のほうから、あなたはよくも
選挙に出て
参議院議員になられたと思いますね。
議員になられたら、そういうわかり切ったことを御質問になるのはどうかと思うのです。政府なんかいじめるために言われるならともかくだが、われわれ同僚間で、何もかもわかり切っておることを言われるのはおそれ入ったと思いますよ。とにかく、
事前運動というものがいかに弊害があるかということは、あなたがよく引用されるマスコミ、世論、これはどういうふうにいっていますか。たとえば、この
審議会の答申案が出る前までは、どの
選挙の場合でも
事前運動が激しくなった、きびしく取り締まらなければならない。目に余る
事前運動というので、盛んに新聞が取り立てて事前連動を批判しているのです。もっともこれは
現行法で禁じているからそうでありますけれども、とにかく、そういうふうに
事前運動というのは根本的になすべからざるものという頭になって、それを無批判に受け入れておられたと思います。無批判というのではなしに、全面的に受け入れておって、そして
選挙の常識になっておったと思います。現に、現在
事前運動の問題が、こういうふうにいいか悪いかという問題が起こっている最中でも、ここ四、五日の新聞を見ると、
事前運動が激しくなるという、目に余る例があるから、検挙態勢に入ったとかなんとかいうような新聞記半が出ているわけです。同じ
事前運動でも、悪質なものもありましょうし、
演説会みたいなものもありましょうが、しかし、その区別は
一つもつけてもいない。要するに、
選挙というものは、
一定の
期間内に全力をあげてお互いに戦うものであって、だらだら年がら年じゅう
選挙をしているというようなことは常識に反するというのが、少なくとも日本の従来の常識ではなかったでしょうか。そういうふうな
意味で、何も
選挙演説でなくても、すべての政治に関心を持ち、政治家としてそれぞれ活動しようとする君は、
演説会ができるわけです。新人は新人で、時局講演会もできましょうし、時局批判
演説会もできましょうし、政府攻撃
演説会もできましょうし、いろいろな
演説会も開催できるし、われわれといえども、
国会報告
演説会もできます。しかし、
国会中に
国会報告
演説というものができるはずのないことは、御承知のように、
国会中は
国会に縛りつけられるというふうなことになっているわけですから、そういうふうなので、今さら
事前運動の弊害をここにちょうちょうする必要はありますまい。金がかからぬからといったって、現実においては金がかかります。私、この間
衆議院の
委員会で金がかかると言ったところが、参考人の早大の吉村さんが、われわれが
演説会一回やったって、そうたいした金はかからないと言われたのです。私どもは百回の
演説会を開けば、それだけでも、一回五千円要っても五十万円、三千円要っても三十万円、二万円要ったら百万円要るという金の話もしたわけなんであります。現実に千円で済むか五千円で済むか一万円で済むか、これはいろいろその人の
演説会のやり方によって違いましょう。
演説会は会場の借り賃や人夫賃だけではない、
応援演説に来てもらう人に対する旅費、宿泊料も要るわけでしょう。そういう工合で、目に見えぬものがたくさん要ることは御承知のとおりでございますから、したがって、金の要らぬ
選挙を目標とする以上は、
選挙期間はなるべく短縮して、金のかからないようにすべきだというふうな
一つの見解が、これがいいか悪いかというふうなことは、これはそれぞれ判断してもらえる人から判断してもらうわけなんでして、あなたは
事前運動野放しのほうがいいというようなお話たし、私どもは今のような議論なんで、決してこれがナンセンスであって、
衆議院議員として頭がどうかしているのじゃないかと思われるような
意見だとも思いません。こういう
意見もたくさんの人が持っておって、現にここへ持ってきているわけですから、これは議論が平行線となると思いますが、私どもはそういうふうに考えております。要するに、
事前運動というのは、
選挙界を混乱さすものであり、しかも、金のかかる
選挙にするものであり、また、現実に言いますれば、
国会の
審議にすら影響さすようなことになるものである。何も新人の進出を抑制するというふうな
意味ではなしに、何といったって現実に自分の地盤を荒らされているという、そういうものを目の前にしてはじっとしておられないということが、これが当然なことでありましょう。そういうふうな
意味から、何もそう無理までして金を使わしたり、国政の
審議に対して混乱、脅威を与えるような、そういうふうな
法律までこしらえなくてもいいのじゃないかというふうな考え方です。