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1962-02-14 第40回国会 衆議院 予算委員会公聴会 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十七年二月十四日(水曜日)    午前十時十九分開議  出席委員    委員長 山村治郎君    理事 靑木  正君 理事 重政 誠之君    理事 野田 卯一君 理事 保科善四郎君    理事 淡谷 悠藏君 理事 川俣 清音君    理事 小松  幹君       相川 勝六君    赤澤 正道君       池田正之輔君    井出一太郎君       稻葉  修君    今松 治郎君       臼井 莊一君    上林山榮吉君       仮谷 忠男君    北澤 直吉君       倉成  正君    田中伊三次君       床次 徳二君    中曽根康弘君       中村 幸八君    羽田武嗣郎君       八田 貞義君    藤本 捨助君       船田  中君    松浦周太郎君       三浦 一雄君    山口 好一君       山本 猛夫君    井手 以誠君       稻村 隆一君    加藤 清二君       木原津與志君    楯 兼次郎君       辻原 弘市君    堂森 芳夫君       中村 高一君    永井勝次郎君       長谷川 保君    山口丈太郎君       山花 秀雄君    井堀 繁男君  出席政府委員         外務政務次官  川村善八郎君         大蔵政務次官  天野 公義君         大蔵事務官         (主計局次長) 村上孝太郎君  出席公述人         日本生活協同組         合連合会理事  竹井二三子君         法政大学助教授 高橋  誠君         一橋大学教授  村松 祐次君         日本大学教授  迫間真治郎君         一橋大学教授  田上 穣治君         静岡大学教授  鈴木 安蔵君  委員外出席者         専  門  員 岡林 清英君     ――――――――――――― 二月十四日  委員周東英雄君、石田宥全君高田富之君、山  中吾郎君及び佐々木良作辞任につき、その補  欠として稻葉修君、永井勝次郎君、中村高一君、  稻村隆一君及び井堀繁男君が議長指名委員  に選任された。 同日  委員稻葉修君、稻村隆一君、中村高一君及び西  村榮一辞任につき、その補欠として周東英雄  君、野原覺君、高田富之君及び門司亮君が議長  の指名委員に選任された。     ――――――――――――― 本日の公聴会意見を聞いた案件  昭和三十七年度一般会計予算  昭和三十七年度特別会計予算  昭和三十七年度政府関係機関予算      ――――◇―――――
  2. 山村新治郎

    山村委員長 これより会議を開きます。  昭和三十七年度一般会計予算昭和三十七年度特別会計予算及び昭和三十七年度政府関係機関予算につきまして、公聴会を続行いたします。  本日午前中は、日本生活協同組合連合会理事竹内二三子君、法政大学助教授高橋誠君の二人の公述人の御意見を承ることといたします。  開会にあたりまして御出席公述人各位にごあいさつを申し上げます。  本日は御多用中のところ御出席をいただきましてまことにありがとうございました。厚くお礼を申し上げます。申すまでもなく、本公聴会開きますのは、目下本委員会において審査中の昭和三十七年度総予算につきまして、各界の学識経験者たる各位の御意見をお聞きいたしまして、本予算審査を一そう権威あらしめようとするものであります。各位のそれぞれの専門的立場より忌憚のない御意見を承ることができますれば、本委員会の今後の審査に多大の参考になるものと信ずる次第であります。  御意見を承る順序といたしましては、まず竹井公述人、次は高橋公述人順序にお一人約三十分程度で一通り御意見をお述べ願いまして、しかる後御両人に対し一括して委員より質疑を行なうことといたします。  なお、念のため申し上げておきますが、衆議院規則の定めるところによりまして、発言の際は委員長の許可を得ること、また公述人は、委員に対しては質疑をすることができないことになっておりますので、この点を御了承を願っておきます。  それではまず竹井公述人よりお願い申し上げます。
  3. 竹井二三子

    竹井公述人 私が竹井二三子でございます。私は、日本生活協同組合連合会理事をいたしておりますけれども、三人の子供を持つ母親でございます。国家予算をきめるときにあたりまして、主婦がこういう場でそれに対して意見を述べ、それを聞いていただけるということは、ほんとうにうれしいことだと存じます。ようやく何か政治が国民のためにあるのだという実感が持てるようになりました。ほんとうにどうもありがとうございました。  まず予算編成にあたりましての池田さんの方針というものを、主婦立場から考えてみました。池田さんの方針として出されております国民生活の安定、福祉国家の建設、減税社会保障対策の充実、消費物資供給力の増加、流通秩序の改善、公共料金値上げ及び便乗的値上げの抑制、畜産物価格安定法の設定など、大へんたちにとってはうれしいような方針が出ておりますが、去年もおそらくこういった方針予算が組まれ、そしてまたいろいろその政策面で実施されて参りましたと思いますが、はたして私たち生活にどれだけ影響を及ぼして、国民生活安定向上というものが来たすかどうか、それはちょっと疑問なわけでございます。  そこで去年の私たち生活というものを一応振り返ってみたいと存じます。  まず、去年は、非常に経済が大きな伸びをいたしましたということでございますけれども経済の成長ということは一体どういうことなのかということを考えましたときに、それはとりもなおさず、国民生活の向上安定でなければならないというふうに考えるわけでございます。こういう観点で去年一年を振り返ってみましたときに、総理府が三千名の調査を行なった中で、一年前に比べて生活がよくなったという人が一四%、それから苦しくなったという人が三二%、変わらないという人が五一%だそうでございますけれども、こういった統計の数字はまずともかくおいて、私たちの実際の生活がどうであったかということを申し上げてみたいと存じます。  一番初めに、去年値上げされました国鉄運賃値上げでございますけれども、これが平均で一四%だといわれましたけれども、実際私たちが一年間どれだけ国鉄を利用して、それがどうであったかを顧みますときに、私たちの一番よく利用するのは国鉄の短距離であります。そういうものが十円から三十円に値上げされて、それは倍になっております。  それからまた電気代値上げでございますけれども、この値上げ理由の中には、家庭でも非常に需用がふえて、それに追いつくだけの設備投資をしなければならないからということで値上げをされたわけでございますけれども、私たち家庭にはブレーカーというものがついておりまして、契約量以上使うと電気が消えるようになっております。それからまた、はたして家庭需用がどれだけふえているだろうということで、私ども協同組合組織で、全国二百九十九の調査をやってみました。その調査によりますと、電気器具を購入したというのが非常にふえているわけでございます。総数といたしまして三百四十三個買っているという結果が出て参りました。それに対する電気使用量を見てみますと、季節的な使用の増はございますけれども電気器具を購入したための使用というものは数字に出ておりません。これを見ましても、結局主婦というものは、家庭電気器具がふえたから、どこかで倹約しなければ電気代がふえるということで、要らない電気を消すとか、螢光灯にかえるとか、いろいろな工夫をいたしておるわけでございまして、そういうものの現われではないかと思います。結局、需用増に対する設備投資だと言われますが、どうも私たちでなく、その原因がほかにあるのではないかということでございます。それが結局われわれの電気代値上げという結果になってきたということでございます。  それから東京では、ふろ代値上げされましたけれども、それはふろ屋さんが申しますには、公共料金だといわれて値段を抑えられているけれども、何らそれに対する政策的な裏づけがないから、われわれだってやっていかれないとおっしゃるわけでございます。それはもちろんその通りでございまして、われわれとしては、ふろ代というようなものは、ただ個人の企業というようなことにまかせておいて、そしてそれを公共料金で押えるという矛盾というものが感じられるわけでございます。  それから家計簿の中に出て参ります生計費の増を見ますと、パーマだとかクリーニングだとか、仕立てだとか、洗い張りとか、靴の修繕とか、そういった、人の手を要するものが非常に大幅に上がっておるわけでございます。こういうものも調査をいたしまして、その結果が出ております。  それから野菜、魚でございますが、これはやかましく言われておりますように、非常に急激に上がって参りました。そうしてその上がりがそのまま家計簿数字になって上がっているかといえば、そうでないわけでございます。生活費の中で、食料費が非常にふえたという方は、調査の中で九0%ございますから、決定的に食費というものは上がっているわけでございますけれども、それぞれの上がりがそのまま家庭支出増になっているかと見ますと、そうではないのです。一体それはどこに原因があるのかということで調べてみますと、それは栄養が低下しているのではないかという結論を得ることができました。それは、日本人の一日の平均食費というものが、去年で百十六円でございます。それが、私どものやはり仲間の灘生活協同組合で十一月に調査をいたしますと、食費を百四十一円から百六十円かけているというのが二五%、それから百六十一円から二百円かかるというのが二六%、これを見ましても、百四十一円から二百円までというのが過半数を占めているわけでございます。  それから、これは実際の数字でございますけれども、はたして今の物価で、二十一才から四十才までの成人男子の、これは重労働ではなく、軽い労働をする人が、一体どれだけの食料をとれば栄養に事足りるかということで検討をいたしてみますと、それは、食品の中で、赤の食品蛋白、黄の食品が澱粉、緑の食品がおもに野菜というように、赤、黄、緑に分けて、一日の必要量と今の市価とで計算いたしますと、最低百四十七円かかるというような数字が出て参りました。これを見ましても――これは決して平均ではございません。これは成人男子が生きていく上にぜひとらなければならない必要量でございます。それを今の価格で換算しまして百四十七円。それが平均で百十六円という数字ということは、どういうことでございますか。百十六円ということは、まだまだ低い人がいるということでございます。ですから、この最低百四十七円とらなければ健康が維持できないというのに、そういう結果だということは、私たちが知らない間に栄養失調になっているのではないかということでございます。  それから、それを野菜蛋白に分けてみましても、去年の十二月にやはり生協で集計いたしまして、幾ら野菜を買っているか、果物を幾ら買っているかということを調査いたしました結果、野菜果物で二千二百十五円という平均数字が出て参りました。それを一カ月、一人に割ってみますと五百三円、一日に割りますと十六円ということでございます。この野菜果物の摂取の家計簿に出た数字というものを、必要量と照らし合わせてみましたときに、これは四・四人の平均でございますけれども、今の物価で計算いたしますと、五玉五百四十四円かかるわけでございます。それを一日に換算いたしますと、四十二円という数字が出ます。それが集計の結果十六円という数字が出ております。こういうことから見ましても、非常に野菜のとり方が足りないのではないかと思います。  それから蛋白を見ましても、上肉から並肉、肉から魚へ質を落としたという人が一八%おります。それから同じ食品で冠を減らしたという人が三%、回数を減らしたという人が五%、それから安い店を探すという人が二四%、以前と変わらないという人が四八%、その他というのが二%で、実際食生活に非常に大きなしわ寄せがきているということでございます。  こういうことで、去年一年を振り返りましたら、池田さんが一・一%くらい物価は上がるだろうという見通しでいろいろなことをなすったようでございますが、結果として八・七%という大きな開きがきました。これらの見込み違いといいますか、そういうものの責任を一体だれがとって下さるのだろうということを私たちは感じるわけでございます。これがもし私たちに大きな力でもあったら、そういう見込み違いをされては困りますということを非常に大きな声で申し上げてみたいところでございますけれども、それが何でもなくそのまま通るということに、私たちは非常に矛盾を感じるわけでございます。  ことしのいろいろな政策を見てみましたときに、一番私たちを喜ばせたものが減税でございます。減税という呼びかけに対して、一体それでは実際どれだけ減税されるのだろうと思って、やはり数字を見ましたところ、今私たちが一カ月に払っている間接税でございますが、これがざっと酒、たばこ、味の素、砂糖電気、、ガスなどというものを合計いたしましても、二千八百五十七円五十六銭という間接税を一カ月に払っておるわけでございます。その中で、どれだけ減税されるかということを見ますと、お酒がようやく少し減税されますので、数字の中で百八十円というような減税額が出て参ります。たばこに至りましては、減税どころか、二%上がるというようなことでございまして、この減税を見ましても、実際に家計の中に響いてくる数字というのはそんなに大きくないということでございます。これは耐久消費財免税点が引き上げられることなど、いろいろございますので、それはそれとして大へんけっこうなことでございますけれども、どちらかといえば、直接毎日われわれの使っている必需品のようなものの減税ということには至っていないわけでございます。ですから、減税されるということになれば、まず、たばこ砂糖というものが一番先に取り上げられますならば、私たち生活が非常に楽になるということじゃないかと思います。  それからここで申し上げたいのは、電気ガス税というのはどう考えても悪税ではないかと思います。今電気はぜいたくだとか、ガスはぜいたくだということではなくて、これは国民生活の中でお米と同じくらい必要なものではないかと思います。そういう電気ガス税の撤廃というものは一日も早くやっていただきたいというふうに思います。  それから減税された分の行方でございます。これが今までの経験から参りましても、減税されたから必ずそのまま価格が引き下げられたかというと、決してそうではない。ですから、このことに対しまして、(「心配ない」と呼ぶ者あり)今お言葉にも心配ないとおっしゃいましたけれども、それをどのようにして指導して下さるか、私たちはちょっとわからないわけでございます。定価の中に幾ら課税されているかということを明記するようなことを立法化でもして下されば、消費者の方もはっきりいたします。業者の力もいいかげんなことはできないかと思いますから、課税分の明記をぜひ義務づけていただきたいと存じます。  それから文教予算の方を見ましても、教科書無償配付というようなありがたいことが出ておりますけれども、それは三十八年度からの実施のようでございます。それから先生方は、子供の今の義務教育小学校、中学校の現状というものを御存じかどうかと思うのですけれども、非常にすし詰め教室で授業いたしております。それで、生徒がだんだん少なくなったときに、それでは一組の人数が少なくなるのかと思えば、先生の数がどんどん減っていくわけでございます。それから先生がたとえば結核なとの病気で長くお休みになると、そのかわりに専科の先生で免状を持っている先生がそれに振り当てられるわけでございます。そういうふうな観点から、父兄の不満というものが非常にあって、私なんかも今度痛切にそういうような目にあって参りましたけれども、そういうような現状でございます。  それから要保護者だとか準要保護者などには教科書も無償できます。給食費もただのようでございますけれども、それ以外のすれすれの家族というものが大体一割いるわけでございます。そういう方は、もちろん給食費も払えないし、卒業の経費、文具代、それから旅行費というものが出せないわけでございます。それは一体だれが出すかというと、知らない間に父兄全体、私たちが負担しておるわけです。いわゆるピンはねと言いますか、給食費も払えない子供は、みんなの中から出して食べさしておるという現状でございます。  それから施設を見ましても、理科室では実験道具らしいものもなければ、社会科のお部屋に参りましても、それらしいものもない。家庭科のお部屋に参りましても、割烹道具もなく、お炊事一つ十分にできる格好になっておりません。そして毎月家計簿の中から出ていく教育費というものは、小学校で、前後することがございますけれども二千円くらいでございますこういうふうな現状の中で、ただ教科書無償配付というものがクローズ・アップしてきました理由というのは、私たちありがたいような何かわからないような割り切れないものがあります。それほど教育というものに重点を置いて下さるならば、もっと根本的に、今の義務教育現状教育が十分にできるようになっておるかなっていないかということを十分検討して、重点的な予算の組み方をやっていただきたいと存じます。  それから社会保障の力も、先ほど申し上げましたように五人世帯で今度一万一千九百二十円になるようでございますが、これを先ほどの一人の食費に当てて考えてみますと、社会保障の方では五十八円五十銭が一日の食費になっております。先ほどの百四十七円という数字とはだいぶほど遠い数字でございますので、この基準引き上げということをぜひ考えていただきたい。  また医療費でございますけれども、今はやっておるかぜにかかりましても、健康保険きく薬というものは制限されていまして、クロロマイセチンを飲んでごらんなさいということになれば、それは私どもでは上げられませんから薬局でと言われる。薬局へ行きますと、一錠百円ということで、なおすのに薬代で千円買わなければならぬということで、家族がみんなかぜをひいたら、五人家族ク口口マイセチンが五千円かかった。こういう笑い話のようなそうでないような現実がございます。そういう点もっともっと充実したものがほしいということでございます。  それから消費物資の方でございますけれども供給力を増加して下さるということは大へんありがたいことでございます。今のいろいろ経済伸びとともに大量生産されておるものがたくさんあるのじゃないかと思いますそれで実際には少しも小売値段が下がっていないわけです。オートメイション化されてたくさんできたものをどんどん下げて下されば、私たちは非常にたくさん買えるのじゃないかと思うのですけれども、やはりわれわれのふところの中というものには限界がございますので、幾ら生産がたくさんなされても、値段が下がらないと購買力というものはそんなにふえていかないのではないかということでございます。大量生産されたものはもっと安くしていただいて、それを私たちがたくさん買えるような指導というものはぜひお願いいたしたいと思います。  それから今度出ました畜産物価格安定法の運用でございますけれども、豚肉なんかを見ましても、卸の方では非常に安くなった、暴落したと言われるのですけれども小売の方に参りますと、それほど下がっていないわけでございます。ですから、この間の開きというものは一体どこで吸収されていくかを考えましたときに、やはり流通過程を徹底的に改革するというような方針がない限り、幾ら法律を設定しても、それを運用しようとしても、結果としてはあまりいいものが出てこないのではないかと考えます。それから流通過程民主化という中で、ことしはタマネギ価格を安定するために、テスト・ケースで五千万円くらいの予算を組まれたというふうに伺っておりますけれども、ただそういう政策だけで流通過程というものは民主化されるかということを考えましたときに、これは私、やはりなかなかそうはいかないのじゃないかというふうに考えるのです。こういうものをやはり民主化していきますには、消費者自身組織である生活協同組合というものを、もっともっと全面的に強化していただければ、おそらくこういう民主化というものは自然になされていくのじゃないかというふうに考えます。この生協に対する貸付金が、ことしは一千万円組まれたということで、去年よりは大へんふえてありがたいことですけれどもタマネギ一つ価格の安定をはかるにも五千万円のお金をお使いになるのなら、協同組合組織にもっともっと予算を組んで下されば、消費者自身でこの流通過程民主化というものに大きな貢献ができるのじゃないかというふうに考えます。  それからもう一つ、先ほど申しました卸売物価が下がっても小売物価が下がらないという中に、メーカーの系列化というものがやはり非常に強いのじゃないかということが感じられるわけでございます。協定価格というものが非常に横行いたしておりまして、薬屋さんのビラの中に、値段を割って売るお店があれば一一0番へというようなビラを出しているのを見かけたことがございます。一体一一0番というのは何だろう、警察が調べるのかなと思って、内容を見ましたら、それをしてはいけないということになっているから皆さん御用心下さいということで、価格をくずさないということを、そういうふうな言い方で出すわけです。こういうものが公正取引委員会の方で独禁法違反にならないのかどうかということで、私たちは疑問を持つわけでございます。ですから、そういう系列化というものがだんだん激しくて、バターなどは絶対に値段が下がらないようになっておりますし、化粧品ども、やはり値段が下がりません。それから化粧品などは、中身はほとんど同じだろうと思うのですけれども、入れものの外観が少し変わって、新製品だということで三割くらい値上げされてくるわけでございます。こういうふうな現状の中で、非常に大きい広告があちらにもこちらにも、テレビなんかの広告を見ましても、これに対する費用というものをだれが負担するのだろうと考えたときに、やはり私たちが負担して商品にかかっているのじゃないかということです。広告もある程度必要でしょうけれども、誇大の広告だの、それから懸賞をつけてお客を呼ぶというようなものを取り締まる法案が準備されているということは、大へんありがたいことで、ガムを一つ買えば何万円当たるとか、そういうふうなことは常識では考えられないことですけれども、やはり消費者というものは欲に目のない人はないものですから、スリル感と相待ってそういうものを買おうとしたり、それから化粧品なんかも、これは非常にきくとか言われると、やはり女というものは少しでも美しくなりたいということで、三割も四割も高くなった新製品を買っては、あとでぎょっとするというようなことは、家庭の中にたくさんあるわけでございます。  それから衣料品にいたしましても、何か流行おくれのものを身につけると恥ずかしいということで、去年買ったくつがもうことしはけない、去年こしらえたスーツがもうことしは色が工合が悪いとかいうことで、何か宣伝というものに私たちが非常に振り回されているというような現状でございます。これはもちろん消費者にも責任はございますけれども、そういうものを取り締まる法というものをやはり考えていただきたいと思います。こういうことは、アメリカあたりの非常に生活水準の高いところではいいかもしれませんが、日本のようなところでは、あまりむだをしないような消費生活の指導というものが一番望ましいのじゃないかと存じます。  大へん時間を超過いたしまして申しわけございませんが、これで公述を終わらせていただきます。(拍手)
  4. 山村新治郎

    山村委員長 次に高橋公述人にお願いいたします。高橋公述人
  5. 高橋誠

    高橋公述人 法政大学の高橋でございます。私は大学で財政学を少しばかり勉強しておりますかけ出しでありますけれども、日ごろ予算の問題について二、三考えていることがありますので、この機会に諸先生方の御検討をいただきたい、こう思って参ったわけであります。  初めに、この三十七年度の予算についての政策的な論議を行ないます前に、ぜひこういう予算委員会で、与党、野党ともに検討していただきたいと思う問題を二、三申し上げてみたいと思うのであります。いわば政策以前の問題であります。と申しますのは、ただいま委員長のお話にもありましたように、国会の予算の審議に対する権威を高くしなければならないということをおっしゃっておるのですが、全く同感であります。われわれ外から見ておりますと、あるいは書生的な考え方かもしれませんけれども、どうも最近の財政の傾向と申しますか、そういう財政の傾向、特に政府の金融的な活動、財政投融資とか政府の事業活動、今度の予算でも、財政投融資の規模は、一般会計ほどではありませんけれども、相当の増額を示しております。大体一般会計の三割程度になっています。それから政府事業につきましても、幾つかの公団、事業団が生まれております。こういうふうな、いわば政府の金融的な活動とか、あるいは政府の事業活動というものが、かなり大きくなりまして、これが現在の財政の一つの重要な傾向となっておるように思われるわけであります。そうした場合に、今までの国会の予算審議のやり方あるいは形式――ここでは特に形式的な問題になりますけれども、それらについてもう少し工夫をこらさなければならない点があるのではないかということを感ずるわけであります。どうもとういうふうな政府のおやりになるところの金融活動とか事業活動に対して、現在財政法等できめられております制度のワクの中では、国会は十分な規制をすることはできないのではないかということを心配しておるわけであります。  その問題を具体的に申しますと、第一点は、財政投融資計画というものについて、これをはっきりとした制度として、国会がやはりこれについて、できれば、それを議案として審議し決定する、そこまでいかなくても、それに準ずるような措置をとるべきではないかということを考えるわけであります。財政投融資の重要性というのは、私がここで書生的な議論を繰り返すまでもないと思うのでありますが、特に最近、三十七年度においてはそうでありますけれども、一般会計と財政投融資とは込みになっていろいろな産業活動政策とかあるいは社会政策、こういうものが行なわれてきておるわけであります。これはもう御存じの通りでありますが、そういうふうな状態であるのに対して、財政投融資計画というのは、これも御存じの通りに、政府が国会に任意に参考資料としてお出しになっておる。任意の参考資料でありますから、お出しになろうとなるまいと勝手だということも言い得るわけであります。そうしてわれわれが検討してみますと、どうも内容がはっきりしないところが非常にある。予算の上にもう少し明確に財政投融資計画というものを作っていただきたいと思うのであります。  こまかいことを申し上げるのはなんですから一点だけ申し上げますと、今度一般会計から国民金融公庫に対して二十億の出資がなされます。御存じの通りでありますが、その事柄の善悪をここで論ずるわけではないけれども、これが財政投融資計画ではどういう項目になっておるかと申しますと、これは御存じのことかと思いますけれども国民金融公庫勘定の自己資金等というところに計上されておりまして、二十億円は、本年度の財政投融資の規模という中から――八千五百九十六億ですが、その中からはずれて、そうして自己資金等という分類に入っておるのですが、やはり自己資金というのは回収金が主体になるものですから、やはり一般会計から支出されたものは一般会計の支出として明確に区別して、国民の方からよくわかるような仕組みにしてもらわなければ困る、こう思うわけであります。ほかにも二、三例がありますが、それは申し上げません。  いずれにしましても、こういうふうな形式上のあいまいさというものが免ずるのは、やはり現在の財政投融資計画が任意の参考資料だ、こういうところに問題があるのではないかと思うのであります。そこで、これについて国会で何らかの意見が表明できるような仕組みというものを考えるべきじゃないか。と申しましても、財政投融資計画に含まれるものについては申すまでもありませんけれども、歳入歳出予算あるいは政府関係機関の予算等を通して、予算上の拘束を受けておるものもあります。しかしながら、その運用の重要な部分は、歳入歳出予算外の資金というものからなされておりますし、また政府関係機関等におきましても、融資活動の大部分のものについては予算の拘束がないわけであります。それで予算ほど厳格に、それらの運用計画を規制するという必要は、これはなかろうかと思います。また同時に、それは資金という非常に変動性のあるものでありますから、そういう性格上、厳重な規制は無理かと思います。しかし、何らかの弾力性を付与して国会がこれに制度的に審議し得るような仕組みを工夫すべきではないか。申すまでもなく、その原資の大部分は、租税によることもありますけれども、社会保険、特に租税同様に強制的な性格を持つものであります国民年金制度が今後発展していけば、その割合がだんだん大きくなって参りますし、まあ郵便貯金にしましても、大衆の零細な資金を集めているものでありますから、こういう問題について国会が制度的にやはりコントロールし得るというふうなことを考えるべきではないか。  それに関連しまして、公団、事業団、つまり政府関係機関以外の諸機関というものに対する、国会の予算上あるいはもっと広く財政上の規制というものも考えるべきではないか。たとえば政府関係機関と、まあ便宜的にここでは準政府関係機関と呼んでおきまししょう、その準政府関係機関、公団、事業団あるいは特殊会社、こういうふうなものは、実質的にはあまり変わらないと思われます。特に政府の出資――額は変わっておりますけれども、公共性、その事業の内容、重要性あるいはその事業の大きさ、こういうことから、こういう準政府関係機関、公社、公団等についても、はっきり財政制度上国会が何らかの規制をし得るような措置を考えるべきではないか。もっとも、これは財政法の二十八条の七項にありますように、政府の出資する主要な法人については、その資産、負債及び損益に関する資料を国会に出さなければならぬ、こういうことが記載されておりますけれども、私がその参考書類を見ましたところでは、いささか財政法の規定を完全に満たしていないのではないかと思われる節があるわけです。ここで法律違反を問題にするつもりは毛頭ありませんが、つまり当該年度についての、つまり三十七年度についての資産、負債それから損益についての資料というのは不確定、要因が多いから省略する、こういうふうに書かれております。これはいろいろな御事情があることと思いますけれども、こういうルーズさではいかがなものかというふうに思うのであります。これはぜひ政府関係機関予算に準じて、国会がこれに対しても財政上の規制をし得るような制度を考えてもらいたいと思うのであります。ただし、政府関係機関は全額政府出資でありますが、準政府関係機関はそうでありません。従って、その場合にどの辺に線を引いて、つまりたとえば二割以上政府が出資している場合は、大体政府関係機関に準じた予算上のコントロールをやるというふうなことも一つの方法かと思うのであります。私が、特に今こういう財政投融資計画あるいは準政府関係機関というものについて国会が予算上のコントロールの措置をとり得ない、そういう制度上の措置が十分できていないということを心配しますのは、こういうふうな部門というのが、今後の広い意味での財政活動では非常に重要性を持ってくるのではないかというふうに考えるからであります。ぜひ御検討をいただきたい、こういうふうに考えているわけであります。  さらに準政府関係機関について申し上げますと、どうも予算上野放しの状態になっている。特に公団等が年々たくさん増加してきます。これはそれぞれ理由があって増加するのだろうと思いますけれども、はたして――今度阪神高速度の公団というのができました。道路ができるということは大へんけっこうでありますけれども、われわれしろうとの議論で、よくわかりませんけれども、道路公団というものがあって、また新しい幾つかの地域別の公団ができていく、そういう機構上の煩瑣というふうなものについてもう少し、これは阪神道路公団のことを云々しているわけじゃありませんけれども、全体として公団及び事業団、そういうものをもっと合理的に設置していく。そしてこれは厳重に統制することはできませんけれども、国会がそういうものについて、国民の代表機関でありますから、それを通して何らかのコントロールする措置が予算上、財政上とれるような制度的な工夫を考えていただきたいと思うわけであります。この点は、特に三十七年度の予算あるいはそれに関連した財政諸計画におきまして、こういう部門の政府の活動が非常に活発になってきている、また国民経済国民生活に与える影響が大きい、こういうふうなことからこの問題を出したわけであります。  次に三十七年度予算につきまして、残った時間で二、三意見を申し上げたいと思うのであります。私は、これもまた書生議論でありますけれども、一体財政というふうなものは、経済成長というふうなものにとってその先頭を切っていく、あるいはそれを誘導していくというふうな機構として役立つのではなくて、むしろそういう成長過程から出てくるいろいろな矛盾というふうなものを調整していく、言うならば、もし日本のそういう矛盾というものを二重構造というふうに名づけるとすれば、二毛構造を解消する機構、しかもそれは長期的な計画のもとに解消する機構、こういうふうなものとして機能させられるべきじゃないか、こう考えるわけであります。  そこで現在の財政の構造、特に三十七年度予算というものに関連させて考えますと、まず第一に問題になりますのは租税の問題であります。これは大蔵省のお調べになったところでありますけれども、直接税、間接税、地方税を含めた所得階層別の負担率というのは、必ずしも正確な調査ではないと思いますけれども、一万円の階層のところで一三%、それから少しずつ下がりまして、四万、五万円台からまた上がって、十万円のところで一四%、こういう数字が出ています。大蔵省が御発表になったのでありますから、われわれはそれを信頼したいと思いますが、今度間接税減税になりましたから、幾らかその関係は変わるかと思いますけれども、そういう所得階層別の税の負担率というものを見てみますと、非常に極端な言い方をすれば、租税構造自身が若干二重構造になっているのではないかというふうに思うのであります。二万円の所得の人と十万円の所得の人が、同じパーセントの税負担率をになうというのは、明らかに不合理であります。これは間接税の負担が非常に重いこと、あるいは地方税の比例税であることからきていることは申すまでもありません。やはり全体として、この租税構造の累進性をもう少し高めるように、単に所得税の累進性を高めるというだけではなくて、税構造全体の累進性を高めるようにしていくべきではないか。そういう意味で、租税構造が二重構造の解消の機構というふうになっていかなければならない、こう思うわけであります。そういう観点から、さらにそれにおまけがついていまして、例の租税特別措置法による減免税というものがあります。これも全部が全部理由がないものではないし、根拠のあるものはできるだけ本則の方に繰り入れて、早い機会にああいう例外措置というものはやめてもらいたい、こう思うのであります。いずれにしましても、租税特別措置法による減免税で、今の二重構造に近い租税構造は、一そうその激しさを加えている、こういうのが現在の状況であろうと思うわけであります。  そこで、三十七年度において行なわれました減税は、その方向においては私は合格点をつけていいと思う。つまり間接税というものと、それから下層の直接税というものを減税されたしわけであります。ただ、昨年は企業課税をやったから、今度はそれとのバランスの上でこういう形の減税をやったというふうなことも聞くわけでありますが、こういう方向を今後持続して進めていただきたいと思うわけであります。それは方向が一応正しいということを申し上げたわけで、具体的に申しますと、もう少し減税の規模を大きくしてよかったのではないか。少なくとも当初に見積もられている自然増収の半分くらいは、いつでも減税に回すというような、そういう考え方で行なうべきではないか。これは御存じのところでありますけれども、過去数年来の日本の財政の状況を見て参りますと、当初の自然増収の見積分、大体それを上回るだけの予算執行後の税等の増額が出ております。ですから今度の場合も、三十七年度において、この予算でどれだけ増加財源が出るかはさだかではありませんけれども、今度の減税で、自然増収の見積分の大体二0%減税された。しかし実際に予算の執行を終えたあとでは、増加財源等が、過去の経験では、大体見積分に近いくらいの増加財源が出ておりますから、そうしますと二0%が一0%になる。三十七年度について、ここで増加財源の額を推定することは困難でありますけれども、そういう減税のやり方というものは、どうも適切でないので、やはり当初の見積もりの半分くらいは少なくとも減税に回す。それを今申し上げましたような、つまり税の二重構造を解消する方向に向けていただきたい。さらに租税特別措置法を、できるだけ早い機会に本則に繰り入れたり、あるいは大部分のものは撤廃すべきだと思いますが、そういう措置をとって、税制自身のゆがみといいますか、そういうものを正すということを考えていただきたいと思うのであります。こういう点につきまして、三十七年度の予算は、幾らかその方向について萌芽的なものが見出し得るわけでありますが、もっとそういう点を大胆に進めていただきたかったというふうに思うわけであります。  最後に、直接二重構造を解消する措置として、税制のそういう整備を行なっていくと同時に、社会保障関係を中心にして、支出の面から二重構造を解消する措置をとっていかなければならないことは言うまでもない点であります。この点につきまして、三十七年度の予算というのは、大体これは事後的な補正にとどまったのではないか。端的に言えば、生活保護基準の引き上げというものも、物価高と、それから全体としての消費水準の向上、これをどういうふうに見るか別でありますが、大体そういうものに見合うというか、より積極的に現在の社会保障制度を進めるという点での意欲に欠けているのではないかというふうに受け取れるわけであります。  それにしましても、そういう積極的な社会保障制度を行なうためには、やはり資金の重点的な配分ということが、何といっても大事であります。予算編成方針では、これは毎年のことでありますが、補助金、旅費等の節減、合理化によりということを、いつも明記されてあるわけでありますが、一向に実現されたというふうには見えないのであります。たとえば、旅費につきましても、総額だけで見ますと、一六%くらいの増加をしています。もちろん、これは内容をこまかく検討しなければいけないのですが、補助金につきましても、削減のあとはうかがわれないのであります。こういうふうに、だんだん財政支出が硬直化してきますと、いろいろな意味で国民の税負担がふえるとか、あるいは政府が弾力的に重点的な施策を行なうことができなくなるというふうな点で問題が多く出てくると思います。そこで、むしろこういう点は国会が英断をふるって、不急不要あるいは必ずしも経済的に合理性がないと思われるような補助金等々の削減に、むしろ努力してもらいたいということを希望するわけであります。  時間が参ったようでありますから、これをもって私の公述を終わることにいたします。(拍手)
  6. 山村新治郎

    山村委員長 それでは、これより両公述人の御意見に対する質疑を行ないます。  質問の持ち時間は、答弁以外五分ということに制限いたしておきます。三浦一雄君。
  7. 三浦一雄

    ○三浦委員 私は、高橋教授にお伺いしたいと思います。今財政投融資、さらに公団、事業団そのほかの特殊法人につきましても、予算と同じような形式でもって、そして予算とともに審議するような制度を確立するということについての御意見を承りました。高橋さんのお話だと、参考資料として出したにすぎないというふうな印象のお言葉でございましたが、実質的には、当予算委員会等では十分に検討されているということでございます。私が教授にお伺いしたい第一点は、この公聴会のあり方でございます。実は先生方の名論卓説をここでお伺いしますけれども、実際には予算に反映できないという実情であろうと思うのです。というのは、現在の予算修正の関係も、増額の修正予算は大体許されない。減額であれば簡単にできそうではありますけれども、これは政府は予算を作りまして、与党とともに作案して出す、実際問題としてなかなかできがたい、こういうことでございます。それでございますから、先生方の非常にいい御意見でございましても、すでに三十七年度の予算として出した以上は、これを変更するのは事実上困難であるということであります。しかしながら、公述人等の御意見は、やがて来年度等の予算の編成には、おそらくは与党も何様でございますが、野党といえども取り入れまして、そして御研究になることは、これはあると思います。けれども実際問題として本年度の予算につきまして御意見を承りましても、本年度の予算にこれを具現するということは、事実困難であるということでございます。つきましては、本来ならば、制度上予算編成の前に予算委員会等を開きまして、そこで十分に先生方の御意見を承り、それを有権的に予算の編成に役立てる方式をとらざる限り、この公聴会のなには、委員長はこれを権威あらしむる、こう言っておりますけれども、実際はできない、こう思うのです。一体そこまでしたらどうだという意見はわれわれ持っておりますが、第一点としてこれについての先生方の御意見一つ承らしていただきたい。  第二は、先生は財政を専門としておられ、しかも新進気鋭の学徒としてわれわれは尊敬しておるのですが、きょうは、予算の上編成につきまして、投融資その他のことについて非常に傾聴すべき御意見を聞きましたが、今実際問題として非常に困っておる問題は、会計年度の問題でございます。というのは、日本は御承知の通り、今樺太、千島等を失っておりますけれども、いわば寒帯地帯から亜熱帯地帯まで狭小な地域を持っておる。そこで予算の実行になりますと、事実上予算が三月にかりに成立しましても、この実施計画を各官庁が発案するには五、六月までかかる。これは早くてそうでございます。実際は七、八月までかかる。いよいよ東北、北海道等に移します場合には、これは秋ごろになる。そうしますと、もう初秋の候になってくると、工事が遅滞する。いわんや一-三月等は、南方の地域でございますと事業は非常に円滑に進みますけれども、北方では許されない。従って、これを繰り越さざるを得ないということになってくるわけでございます。そこで四月一日から始まるこの会計年度が非常に不合理があるというので、間々問題になっておるのでございますが、これは財政の専門家としての御意見から何らかの御検討があろうと思うのですが、これについての御意見を承らしていただきたいと思います。すなわち、第一点は公聴会のあり方についての公述人先生としてのお考えと、それから会計年度に対するお考えを承り、お教えをいただきたい、こういうふうに存じます。
  8. 高橋誠

    高橋公述人 ただいま三浦先生から大へん有益な御質問をいただいたわけですが、第一点については、私はここで、この三十七年度についてすぐ制度を改正すべきだということを言ったわけではなくて、三十七年度について一言えば、現在のこの国会が持っている権限の最大限の範囲内で、特に財政投融資とか、あるいは政府関係機関、準政府関係機関等の予算及び財政活動について十分な審議をしていただきたいということを、国民の一人として希望するということを申し上げたわけであります。若干三十七年度の予算について私の具体的な意見を申し述べなければならないという本筋からはずれた点があったかと思いますが、この点は大へん遺憾に思う次第であります。それからできれば、そういうような審議等を通して、しかるべき制度化の方法というものを来年度の近い機会に考えていただきたい、こういうことでございます。  それから会計年度の問題でございますが、御存じと思いますけれども、大体今世界の諸国の会計年度は三つのタイプがございます。日本のような四月型、一月型、七月型とありますが、これはそれぞれ何か理論的な根拠があっては――暦年にするというのは、そういうものと会計年度が一致すれば便利だということもあります。それから麦の収穫の関係とか、米の収穫の関係とか、そういう歴史的な条件によって、いわば慣習的にきまっている制度であろうと思います。日本の制度もまたさようなものであろうかと思いますが、御指摘のように、特に地方財政に与える影響、北海道あるいは東北等の寒冷地と申しますか、そういうところに与える現在の会計制度からくる矛盾というものは、われわれも十分承知しているわけでございますが、しかし、今問題になっているように、これをたとえば暦年に直した場合に、また別な矛盾が出てきはしないか、あるいはそこからくるいろいろな政治的な煩瑣ということがありはしないかということで、どうもこれははっきり申し上げると、私自身もどちらがいいというふうには言えない問題だというふうに考えております。御質問をいただいて、明確なお答えができないことは非常に残念でありますけれども、比較的進んだ国では、そういう意味の合理性を買って暦年と会計年度を一緒にしている。しかしアメリカ等では依然として非常に古い型によっておりますから、どれも一長一短で、にわかに優劣をきめがたい。しかし、結局慣習というものは非常に大きな意味を持ちますから、どうもそういう方向で特にこれを変えなければ今の日本の財政は非常に支障があるというふうにも私は考えないのであります。そういう点は、むしろいろいろな財政の執行の制度を――もちろん国会の議決を経た範囲内でありますけれども、そういうところでもっと弾力的に運用できるような制度を考えて、そういう形で解決していくというのも一つの方法かと思います。
  9. 三浦一雄

    ○三浦委員 どうもありがとうございました。会計年度のごときも、これは理論的もしくは慣習的なものでとどまるべきことだとは考えません。しかし、きょう先生から結論を承るということも至難のことでございますが、一つ学問的にも御研究を願ってわれわれを御指導下さることを希望します。同時にまた、これに対する汗牛充棟の資料もあると思いますから、一つお願いしたいと思います。  同時にまた、最初にお答えになりました投融資もしくは関係機関の予算等は、これから一般質疑、さらに分科会等がございますから、御趣旨のような審議が進められると思いますが、制度上先ほど申し上げました公聴会のあり方についてはお答えがなかったのですが、率直に御意見をこの際承らしていただきたいと思います。すなわち、予算が策定されて、そして予算審議の過程で公述人のお話を聞くということになっておる。これはわれわれとしましても、部内でもいろいろ議論がありますが、何らかまた示唆があれば、国会方面でも研究したい課題でございます。もとよりこれはいろいろなことがございますから、これも画然たる御返事を聞くということもむずかしいかもしれませんが、常識的なお考えでよろしゅうございますから、一つこの点もう一度お願いいたしたいと思います。
  10. 高橋誠

    高橋公述人 ちょっと私、一番肝心なところをあれしましたので、もう一度おそれ入りますが、簡単に……。
  11. 三浦一雄

    ○三浦委員 どうも説明が不十分であったかと思いますが、こういうことです。  今公述人としておいでを願っておるのは、三十七年度の予算を審議するにあたっておいでを願っておる。ところが、お説を聞きましても、事実上、その御意見は三十七年度の予算に取り上げられるということは困難なんですね。これは不可能じゃないと思いますけれども、困難なんです。でございますと、せっかくお招きしてもそれを実現できない、こういうことになる。これを最も有効にするためには、これを変えなければいけない。そこで皆さんはお忙しいのにここに来ていただいておるのですが、この公聴会のあり方について、どうあってほしいというお考えがあろうかと思うのです。そういうことです。
  12. 高橋誠

    高橋公述人 私は、今回初めて公聴会出席したものでありますが、やはり予算編成前に、事前に何らかの形で持つというのも一つの方法かと思いますけれども、現在の制度で、委員会等の法律の審議に十分反映していただくというのが、まだその点についても十分行なわれていないんじゃないかという感じがするわけでありますが、それが十分反映されて、もう一つ進んだところで、ただいまの三浦先生のような、事前にやる等の問題が考えられてくるんじゃないか、こう思うわけです。
  13. 三浦一雄

    ○三浦委員 よくわかりました。これで私は終わります。
  14. 山村新治郎

    山村委員長 堂森芳夫君。
  15. 堂森芳夫

    堂森委員 ただいま公述を行なわれました竹井さんに二、三の点と、高橋先生に一点をお伺いしたい、こう思うわけであります。  ただいま竹井さんが公述されました中に、総理大臣は、当初三十六年度の予算を審議する当時は、物価は横ばいで、消費者物価は一%くらい上昇するであろう、こう言っておられましたが、八%以上、九%、一0%も上がったので、庶民の生活には非常に大きな影響を及ぼしておる。そして、政府は少しもその責任を感じておられないように考える、こういうふうな御意見であったと思うのであります。  そこで、あなたは日本生活協同組合の連合会の理事であらせられますから、こういう生活と密接に関係した問題については、いろいろ御経験も深いかと思うのであります。私も、先般、物価のいろいろな値上がりの問題について、政府にいろいろ質問をいたしたのであります。そこで、物価の値上がりで一番大きな影響を及ぼしているのは、生鮮食料品の値上がりではないかと思います。そして、政府も、流通機構に多くの問題があるから、従って、流通機構についていろいろ改善するとか、工夫をこらす必要がある、こう思う、こういう答弁でありました。そこで、あなたが日常お仕事をしておられまして、たとえば生鮮食料品なんかについて異常に値上がりを来たしておる原因一つである流通機構というものを、一体どういうふうにしていったらいいんじゃないだろうか、こういう御意見が私はあると思うのであります。そういう点について、御体験からお聞かせを願えるならば非常にありがたいのではないか、こういうふうに思います。  もう一つの点であります。間接税減税になる。そして、政府はいろいろな行政指導をやって、実際に減税分を値下がりになるように実現をしていきたい、こういうことをこの委員会においてもたびたび大臣が答弁をしておる、こういうことであります。そこで、あなたが協同組合理事としていろいろお仕事をしておられまして、必ず減税分が値下がりになるようにするには、どういうふうなことがされるといいとお考えになっておられるか、御答弁を願えるならば幸いである、こういうふうに考えるわけであります。  次は、高橋先生に伺います。  高度成長政策が推進される結果として、日本の経済、資本主義の持っておる本質的な問題であるアンバランス、不合理、こういうものがますます顕著になってくる、こういうことを指摘されました。これを是正していくために、租税政策というものが非常に必要なのである、特に租税特別措置法というものを整理すべきである、こういう御意見でございました。さらにもう一つは、社会保障の充実が非常に必要になってくるであろう、こういう御意見であったと思うのであります。私も、この第三の点の社会保障というものだけをとらえましてお伺いしたいのでありますが、三十七年度は五千億近い自然増収があるであろう、こういうふうにいわれておるわけであります。ところが、社会保障の三十七年度の予算の内容を見ますと、一般会計はうんとふえまして二十数%ふえておる。しかるに、社会保障のふえ方は非常に少ないのです。これはことしの予算の特徴であります。そこで、私の考えでは、そんなに巨額の自然増収があるときにこそ、社会保障の抜本的な躍進がなされるべきチャンスだと思うのです。たとえばILOの統計を見ましても――こんなことはいいことですが、たとえば五七年の統計で見ましても、国民所得に対する社会保障給付費の割合は、西独が一番高くて二0%、ところが、日本では五・六%から六%以内である。また、総消費支出に対する社会保障給付支出の割合は、五七年でやはり西ドイツが最高で二一%である。日本はたしかやはり六%以下である。そういうふうに非常に支出が少ない。来年度こそそうした巨額の自然増収がある年として、社会保障を躍進させる絶好のチャンスである。こういう意味で、私はこの間も総理以下に質問したのですが、いや大いに推進しておるのだ、こうおっしゃいますけれども、現実には、ではどこを推進しておるかということは、あなたも指摘されましたように、ただ事後的な処理に使われたのが、予算の増額の部分の内容であり、本質的な躍進はない、こういうことであります。そこで、先生は、社会保障の充実というものをどういうところに重点を置いて――重点的な配分というお話でしたが、社会保障の充実をはかるとして、どういう点にポイントを置いてわが国は金をつぎ込んでいくべきか、こういうお考えを持っておられるか、伺いたい、こういうわけであります。  以上であります。
  16. 竹井二三子

    竹井公述人 ではお答え申し上げます。  ただいまの先生の御質問の中で、流通機構の改善ということについてどのようにしたらよいかということでございますけれども、これは私がいつも考えておりますのは、生産者から消費者に来るまでの過程があまり複雑過ぎるのではないかというふうに考えられるわけです。かりに豚肉を一つ見ましても、五段階も六段階も通らなければ私たちの手に入らないということは、結局その中で何が行なわれているか、わけのわからないものがずいぶんあるのではないかと考えます。それをもっともっと簡素化できるような指導といいますか、措置、それがぜひ必要だということが一つ考えられます。それから消費者には、なぜ物価がこういうふうになるか、上がったか下がったかということが、何かわけがわからないということが主婦の実感でございます。そういうことのないような、もっとすっきりした流通過程が出てくると、そういうことがなくなるように考えます。  それからもう一つは、やはり流通過程民主化するということが原則だと思うのですが、今それとは逆に、非常に独占化というものがはっきりしておりまして、たとえば一つ製品を見ましても、それを売る商店が、問屋から、卸から、小売からずっと系列化されて、ほかの店で扱えなくなっているものがたくさんございます。ああいうことが、やはり流通機構の民主化の方向と反対の方向にいっているのではないかというふうに考えるわけでございます。こういうことを見ますと、協同組合の場合なんかは、少し値段を割って売ろうとすれば荷どめをされるというような現実がたくさんあるわけでございます。小売商の方でも、やはりそういう点で非常に卸値が上がってきて、小売と卸の価格の差がなくて、下げたくとも下げられないという現状があるわけでございます。ですから、小売商、中小企業、そういったものの対策をもっと何か予算の裏づけをもって徹底的に強化していただかないと、ますます独占の力というものが大きくなっていくのではないかというふうに考えます。これにはやはり独占の強化の是正ということを公取がやっていただく反面、中小企業、小売対策というものも、もっともっと予算の面の裏づけがなければ力が持てないんじゃないかというふうに感じます。それから、やはりこれはただ抑制とか指導とか、そういう消極的なことだけではなくて、消費者自身がその民主化に貢献できるということが、私は一番大事なことじゃないかと思います。ですから、やはり自由経済の中では、自由に競争ができるということが原則ではないかと思いますので、それをやっていきますには、ただ抑制だとか指導だとかいうことでなくて、やはり消費者自身の持つ組織協同組合のような組織をもっと育成すれば――これはおそらくアメリカあたりでもそうでございますし、イギリスはもちろんのことでございますけれども、ヨーロッパを見ましても、生協を抑えているというような国はないわけでございます。そういうものが自由に伸びられるようにする政策をとること自体が、やはり自由競争の中で流通機構を民主化できることではないかというふうに考えます。  それからその次に、間接税の引き下げの分を、実際どういうふうにすればすっきりと値が下がるかという御質問でございますが、これは、私は、やはりこの商品については幾ら課税されているかということが、はっきりPRされているということが大事なことだと思います。消費者自身がそれを知らないんです。これは私たちもいけませんけれども、お砂糖を買えば何ぼ税金がかかっている、お酒を買えばこの中の税率は幾ら、たばこは幾ら、それから入場料は幾らというふうに、やはり消費者自身がはっきり知っているということが、減税されたといえば、じゃ幾ら値段が下がるということがびんとくるわけです。それを下げないようなものに対しては、やはり消費者の方からいろいろ意見が出るわけでございますけれども、それをやりますには、やはり今の定価をつける場合に、これは課税分幾らということを明記することを義務づけていただきませんと、任意にされていたんじゃ、おそらくそういうことは行なわれないんじゃないかと思います。これは、やはりそういう課税分を明記する立法措置というものがぜひ必要ではないかということでございます。ほかにいろいろあるでしょうけれども、それがやはり決定版のような気がいたします。
  17. 高橋誠

    高橋公述人 三十七年度予算の歳出規模の全体の増加の割合に対して、社会保障費の増加の割合が、前者と比べて後者の方がより低いんじゃないかという御指摘でありますが、この点は全く事実もその通りでありまして、二四%増に対して社会保障は大体二0%ぐらいかと思いますが、この面で見ましても、今度の予算社会保障に全体として重点を置いた予算であるというふうには考えられない。しかも、御指摘のように、相当財源がたっぷり――まあ硬直性の問題はありますが、予算としては、かなりやろうと思えばやり得る財政状態であったかと思いますが、そういう状態で二〇%増、これも、大体今まで程度にきめられているものが当然増的に増加したという部分が非常に多くて、積極的に改善されたという分は非常に少ない。積極的に改善されたという分につきましても、おおむね事後的な補正にとどまったというふうに私は感じます。  さらに、第二の問題ですが、どこから重点的にやっていけばいいかという問題であります。やはりこれは、現在の社会保障制度の体系的な合理化というものを絶えず念頭に置きながら、低額所得者の部分に対するもろもろの社会保障制度から増額をしていく、そういう二重構造的のものを解消していく、こういうのが財政のあり方だろうというふうに考えますので、そういうところから重点的に手をつけていくべきではないかというふうに私は考えるわけであります。
  18. 山村新治郎

    山村委員長 淡谷悠藏君。
  19. 淡谷悠藏

    ○淡谷委員 竹井さんにちょっとお尋ねしたいのですが、いろいろ具体的な生活実感からのお話を伺いまして、大へんありがとうございました。大へん卑近な質問でございますが、豚の肉、卵及び果実としてリンゴとミカンの現在お買いになっております値段を、一つお知らせ願いたいと思うのです。  それから、あなたの生活協同組合でもしお扱いになっているものがございましたら、これらについて、一般商店と組合の値段開きなどがございましたら伺いたいと思います。
  20. 竹井二三子

    竹井公述人 今の淡谷先先の御質問にお答えいたします。  豚肉は、今私どもで買っておりますのが百グラム六十円でございます。これは中よりは幾らか上のところでございますけれども、これでヒレ肉を買いますと八十円でございます。カツなんかいたしますのにヒレを――私の方は山の手でございますけれども、品物は吟味しております。それからこま切れは私どもの方では四十円でございます。それから卵でございますけれども、私ここ二、三日ちょっと店をあけておりますが、卵は御存じのように、非常にその日その日で相場が動きますけれども、今は百グラム二十二円でございます。それからくだものでございますが、ミカンが、静岡ものは少しお安うございます。伊予とか広島とか、あちらの方のものでございますと、今  一キロ百円から百二十円でございます。それからリンゴが、今紅玉というのはあまりございませんで、一番庶民的なものは国光でございますが、それが一個十五円から二十円でございます。  それで、小売との開きでございますけれども、これは協同組合の場合は安売りをするということが主義じゃございませんので、なるべく市価主義といいますか、それで参りまして、そして上がった利益というのは、組合員のために還元するというようなことが基本的な考えでやっておりますが、うちの組合では今肉は扱っておりませんが、卵は扱っております。これは、やはり普通の肉屋で売る卵よりもずっと安い。いつも四百グラムで十円ぐらい安いのです。ですから、肉屋がうちへ御用を聞きに参りまして、生協であまり卵を安く売られると、肉屋の方がお手上げだから、もっと上げてくれと言われるような現状でございます。くだものについて申しますと、くだものは、いろいろ産地だの品種によって味が違いますので、値段が非常に違います。千疋屋に出ておりますようなものから、ほんとうに場末にあるようなものまで、一がいに申せませんけれども協同組合の場合は品質のいいもの、産地のいいものを選びまして、そして市価と同じに売れるわけです。ですから、組合員からは、八百屋で買うリンゴやミカンと協同組合のリンゴやミカンと味が違うという点で、非常に喜ばれるわけでございます。
  21. 淡谷悠藏

    ○淡谷委員 もう一点お伺いしたいのですが、野菜、くだものの価格が、生産者と消費者との間に大へん開きがあって、もう生産者自体も困っているわけです。しばしば生活協同組合とじかに取引したいという生産者側の要求もございますけれども、何しろ、おっしゃる通り、生産協同組合組織がまだ十分進んでいないものですから、あとの小売商からボイコットをされるという心配が生産地にだいぶございます。それから小売商の利益をちょっと分析してみたことがございますが、これはもうけておる形もございますが、一日に扱う母が非常に少ないものですから、小売商自体の生活費に食われまして、案外高くつくといったような事例もございます。これなども非常に小売商の問題のむずかしさがございますが、生活協同組合が大きくなった場合に、今お話があったような小売商との対立点ですね。小売商の商権擁護といったようなものに対する何か解決策がございますか、どうですか。一点お伺いしたいと思います。
  22. 竹井二三子

    竹井公述人 ただいまの生協が大きくなった場合の小売商との競合の問題でございますけれども、今の生協の供給高というのは、全国で総小売の一%なんです。これじゃもう力と力との比にならないということでございまして、これがようやく一0%まで上がったときのことを考えまして、消費者としての発言が非常に強くなれるということでございます。それを考えただけでも、小売商と生協の力といいますか、生協がどんどん伸びていった場合を考えても、自由経済の中では、それが小売商を決定的に圧迫するものではないというように私は考えるわけでございます。むしろ、小売商だの生協だのを圧迫していくものは、スーパー・マーケットとかデパートだとか――お互いに脅威を感じるのは、私たちでも、東横線の沿線でございますけれども、ちょっとしたものを買うのでも、みんな東横だの三越だの伊勢丹だのというのに出かける人があるわけです。それに対してどう対処するかというのが、やはり生協のあれですし、地元の小売商人の悩みでございます。ですから、信協が育成強化されていくという社会情勢の中では、私は、小売商との競合というより、むしろ、小売商の悩みというのがともに解決されていくのではないかというふうに考えております。
  23. 淡谷悠藏

    ○淡谷委員 商店の人たち生活協同組合の仕事に参加してくるような傾向はございませんか。
  24. 竹井二三子

    竹井公述人 それは生協の力が大きくなりましたら、ただ小売商が、ほんとに老後の小づかいかせぎとか、職場をなくしたからもう仕方がないから、小さな、間口一間の店を持ちましょうというような零細小売ですね、そういう人は、やはりその町の中で、生協の中の専門部を受け持つという形が大へん出てくるわけでございます。それは、月給でその人たち生活が保障されて、そうして八百屋なら八百屋の専門技術を協同組合の中で生かしていくということは、決して不可能なことではございません。
  25. 山村新治郎

  26. 永井勝次郎

    ○永井委員 竹井さんに二、三お尋ねいたしたいと思います。  一つは、先ほどの公述の中で、消費者の自衛の方法として生協組織を作り、それが伸びることを望んでおるということでありました。この生活協同組合に対して、伸びることに現在障害になっているものは何々であるか。業者間の競争の問題、あるいは問屋が生協に品物を扱わせないという圧迫の問題、こういういろいろなことがございましょうが、そういう点を一つ明らかにしていただきたい。  それからもう一つは、政府の行政面で、こういった消費者の自衛の組織に対して助長するあるいは伸ばすということについて・助けるという方向ではなくて、じゃまをするという方向があるのかどうか、そういうものがあるとすれば、具体的にそれをお示し願いたい。  第二点は、日本の国の行政の中には、消費者のための行政というものがほとんどないのではないか。たとえばにせカン詰一つ問題を取り上げてこれを解決しようといっても、もう各所にわたって足を運ばなければならない。運んだって、それをほんとうに取り上げてくれるところがなかったのではないか、こう思う。そういうふうに消費者のための行政というのはほとんど無視されておる。行政の中にない。従って、消費者がこれだけ問題になってくれば、いろいろ問題があれば、価格の面だけでなくて、品質の面もそれから広告の面も、各般にわたって消費者の正当な要求を、あるいは生活を守るという行政が確立されなければならないのではないか、こう思うのですが、そういう点についての御意見を承りたい。  それから第三点は、砂糖の問題ですが、砂糖は標準糖価一キロ百二十二円、こうきめられているわけです。その中で、関税が四十一円五十銭、消費税が二十一円、六十二円五十銭というものが税金で、砂糖値段の半分以上が税金になっているわけです。その上に砂糖の国際価格の基準を一トン九十ドルと押えて、それで算定しておるわけですが、今国際価格は五十一ドル何がしというふうに暴落しているわけですし、ここずっと七十二、三ドルから八十ドル内外というふうに、九十ドルの基準から見ればうんと下がっているわけです。しかし、消費者価格にはちっともそれは響いていない。先日ここで話しましたら、農林大臣は、国際価格は何ぼ下がっても、国内の砂糖価格は下げないのだ、下げないのが政府の方針だ、こういう答弁があったのですが、これに対しては、ほとんど中身が高い税金、そうして国際価格はこんなに半分近く暴落しているのに、消費者価格には全然響いていない。砂糖価格が一キロで一円違えば、百十万トン輸入ですから、これで十一億の値開きが出る。一キロで一円違ったって十一億違ってくる。こういう非常なもので、今のところは一キロで十四、五円原価だけで違っておるのですから、これで百四、五十億違う。百十万トンとすれば、百四、五十億の値幅がここでただもうけられているという形になるのですが、こういう具体的な一つの例、砂糖なんというのは家庭に一番響く問題ですから、御婦人の方々は、子供の関係や何かで大へん砂糖の問題には敏感であろうと思います。そういう点についてどういうふうにお考えになっているか、この三点について伺いたい。
  27. 竹井二三子

    竹井公述人 今の永井先生の御質問にお答えいたします。  第一点に、消費者の自衛方法として協同組合伸びるということはいいのだということに対して、それの障害になっている点の質問に対するお答えでございますが、これは政府ばかりの責任だけを私はもちろん追及しようとは思いません。やはりそういうものが認可されている以上、消費者自身が目ざめてくれば、みんなおのずから協同組合員になろうという意欲が出てくるわけでございますね。そういう盛り上がりと、それから生協の運営が非常に民主的にうまくいって、そういうものと相まって伸びていくということが原則であって、政府自体がそれに対してこうしろ、ああしろという性格のものでなく、むしろ、国民の方から盛り上がってくる運動である、私はそういうふうに思うのです。ところが、その盛り上がりを育成するというか、育てるためには、やはり行政面、予算面でそういうものがほしいわけでございます。今行政面でじゃまをしていると思われるような点とおっしゃいましたが、もちろん、積極的な援助というものはほとんどないわけでございますけれども生協法の中で、員外利用を絶対認めない、生活協同組合には員外利用を認めないということになってございますので、やはり町の中にある協同組合を、どんなものか利用してみて、買ってみて、そうしてなるほどと思ったら組合員になりましょうという人ができてくるわけでございますが、員外利用というのは、やはりある程度の比重を置いてでも認めていただかないと、こういうものは伸びていかないのではないかというふうに考えるわけであります。  それから、先ほどおっしゃいました消費者のための行政でございますが、最近消費者協会とか、東京都でも消費物資対策審議会とか、そういうものがようやくでき始めました。今まで政策が全部生産者側に向けられていた目が、最近どうにか消費者の方に目が向いてきたというのが実感でございます。それがただ目が向いてきたという点で、今度できました消費者協会でございますね、あれに対しても、私たちも非常に疑義を持っておりますし、それがはたしてほんとう消費者のための協会なのかどうか、外国の例を見ましても、非常に疑わしい点が多いということでございます。それから東京都なんかはようやく審議会が発足いたしまして、二回ぐらい審議会が開かれておりますが、ああいったものが東京都だけではなく、全国的に各都道府県にできませんと、ただところどころできただけでは、消費者の声が反映した行政ができるということではないと存じます。こういうふうに最近目が向けられてきたということに対しては、非常に喜ばしい傾向ですから、魂を打ち込むような行政措置というものをぜひ考えていただきたいと思います。  それから砂糖の点でございますけれども消費者の中には、砂糖がほとんど税金をなめているのだということを御存じの方も御存じでない方もあるわけです。これを知った場合に、なぜ、砂糖というような国民の食生活にとって欠かすことのできないものに、こんな大きな税金がかかるだろうという不思議が私たちには――まだいろいろあるでしょうけれども主婦立場から、その不思議が解決されないわけです。それから協同組合の方の立場から申しますと、砂糖と卵の価格というのは、その店の値段を診断するバロメーターになるわけです。小売商もおそらく同じだと思いますけれども、今一キロ百二十二円の相場の砂糖が一キロ百三十円でございます。こういう幅では、ちょっとはかり込んだりこぼしたりということになりますと、砂糖では利益が上がらないというのが現状でございます。ですから、この砂糖の消費税については、もっと根本的な御検討を願いたいと思います。
  28. 永井勝次郎

    ○永井委員 それから、今砂糖値段が国際的に五十一ドルというふうに下がっているのですが、その値段を下げないという政府の方針について……。
  29. 竹井二三子

    竹井公述人 その下がったか上がったかは、われわれにはわからないのです。砂糖価格というのはそんなに――キロ当たり少しの開きはございますけれども生協へ入ってくる卸売値段にいたしましても、年間通してそんなに大きな差がないわけでございます。ですから、そういう国際的な動きというのは、主婦には知るよしもないということでございますので、やはりそういう値段が下がった場合には、小売価格を下げていただくという基本的な考えは徹底していただきませんと、知った場合に、政府に対する不信といいますか、そういうものが消費者の中にだんだん大きくなっていくのではないかと存じます。
  30. 山村新治郎

    山村委員長 以上をもちまして両公述人に対する質疑は終了いたしました。  公述人各位におかれましては、長時間にわたり貴重な御意見をお聞かせいただきまして、まことにありがとうございました。厚く御礼を申し上げます。  午後は正一時より再開し、公聴会を続行することとし、暫時休憩いたします。    午前十一時工十四分休憩      ――――◇―――――    午後一時四十一分開議
  31. 山村新治郎

    山村委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  開会にあたりまして、公述人の皆さんに時間がおくれました点を深くおわびを申し上げます。  昭和三十七年度総予算についての公聴会を続行いたします。本日午後は、一橋大学教授村松祐次君、日本大学教授迫間真治郎君、一橋大学教授田上穣治君、静岡大学教授鈴木安蔵君、以上四人の公述人から御意見を承ることといたします。  再開にあたりまして、御出席公述人各位にごあいさつを申し上げます。  本日は御多用中のところ御出席をいただきまして、まことにありがとうございました。厚くお礼を申し上げます。  申すまでもなく、本公聴会開きますのは、目下本委員会において審査中の昭和三十七年度総予算につきまして、各界の学識経験者たる各位の御意見をお聞きいたしまして、本予算審査を一そう権威あらしめようとするものであります。各位のそれぞれの専門的立場より忌憚のない御意見を承ることができますならば、本委員会の今後の審査に多大の参考になるものと存ずる次第でございます。  御意見を承る順序といたしましては、まず村松公述人、次に迫間公述人の順にお一人約三十分程度で一通り御意見をお述べ願いまして、しかる後、御両人に対し一括して委員より質疑を行なうこととし、その質疑が終わりましたあとで、田上公述人並びに鈴木公述人の御意見を承ることといたしております。  なお、念のために申し上げておきまするが、衆議院規則の定めるところによりまして、発言の際は委員長の許可を得ること、また、公述人委員に対しては質疑をすることができないことになっておりますので、この点あらかじめ御了承を願っておきます。  それでは、まず、村松公述人よりお願い申し上げます。
  32. 村松祐次

    ○村松公述人 村松でございます。私がふだん勉強いたしておりますのは中国のことでございますし、きょうも中日関係について意見を述べろということでございますので、簡単に考えておりますことを申し上げまして、御参考に資したいと思います。  最初に、問題は非常に広範でございますから、一つ限定を加えさしていただきたいと思うのでございますが、日中関係と申しますときに、その日中関係という言葉を、日本と中華人民共和国との国際政治、経済関係、こういうふうに一つ限定さしていただきたいと思います。  まず、政治関係についてでございますが、一九四九年十月に中華人民共和国ができましてから、今日までの両国の間の政治関係を概観いたしますと、大体三つ時期があるのではなかろうかと思うのであります。一つは、一九四九年に新しい国が中国大陸にできましてから大体一九五二年ぐらいまで、あるいはそれよりも少しあとまでで切った方がよろしいかもしれませんが、大体一九五二年のサンフランシスコ条約の発効ぐらいまで、それからその次の時期が、その後一九五八年五月の日中国交断絶と申しますか、いわゆる日中関係のさまざまな政治、経済的な諸関係の急激な悪化以後でございます。この三つの時期は、あらためて申すまでもございませんけれども、ごく簡単にその特徴を申しますと、第一の時期における日中関係というようなものを、中国側の態度、中華人民共和国側の態度というものに照らしてみますと、これは非常にはっきりと日本を敵視と申しますか、いたしておるようでございまして、一九五0年二月にできました中ソ友好同盟相互援助条約及びその付属協定の中では、日本を、アメリカの帝国主義と協力して軍国主義的な活動をする可能性のある勢力として、はっきりとこれに対する中ソ両国の間の武力を含む相互援助同盟をうたっております。その後さまざまの発表とか宣言とかいうものはございますけれども、大体この立場というようなものは、サンフランシスコ条約のあとまでずっと続いているものと思うのであります。サンフランシスコ条約の直後ぐらいから少しずつ事態が変わって参りまして、特にサンフランシスコ条約が発効いたしますのとすぐ引き続きまして、工三年にはスターリンが死にましたり、それからまたさまざまの事情があるわけでありますが、五四年の十月に中ソ海国の日中国交正常化を希望する共同宣言がございまして、その前、五二年ぐらいから五三、四年にかけて――そこのところをどこで切ってよろしいか、非常にはっきりしないのでありますが、そのころから、徐々に、中華人民共和国の日本に対する態度というものは、ある緩和の徴候を示しまして、従来は日本を全体として一つの軍国主義的な勢力として考えておりました間に、日本の中に、そういう軍国主義的な要素と、そうでない、中華人民共和国側の言葉を使いますれば、もっと進歩的な、もっと平和主義的な勢力とを分けまして、あるいはそれと微妙に関連するのでありますけれども、権力を持っておる政府と、それからこれに対する人民の勢力というものを分けまして、そして、そういう進歩的な平和愛好的な勢力と提携していく、こういう立場がだんだんはっきりして参ったのであります。非常にたくさんの方々が、中国にこの期間においでになりまして、そうしてまた、ここにも御出席の方がおられると思いますけれども、議員の方の御尽力もあって、三回の貿易協定が次々にできていく、また、船員の緊急避難であるとか、郵便であるとか、そのほかの、日中両国の間にどうしても早急に協定をしなければならぬ事項についての協定も逐次進められていく、全体として言えば、二つの国の関係が少しずつ正常化していくような面と、それからまた、そういう面の間に、先ほど申しましたように、日本を一かたまりとして退けてしまうのではなくて、日本の中に要素を分けて、特定の要素を援助していくという立場とが、両方現われて参ったのであります。それで、一九五八年以後のことは御存じの通りでございますが、長崎事件の直前くらいから、日本の、特に当時の岸内閣の立場に対して、非常に強い反対の意向を表明しておりました中華人民共和国が、長崎の国旗事件を契機にして、日本との間のほとんどあらゆる関係というものを断絶してしまう。その後の人的交流とかあるいは文化的接触とかいうものを見ましても、非常にきびしく選択せられた部面についてだけ接触が行なわれておるという形で今日に至っておるのでございます。  そういう三つの時期というようなものを一体何にひっかけて理解するかということは、さまざまでございまして、たとえば最初に申しました一九五二年からあとと申しますものは、五二年からは例の第一次五カ年計画が始まっておりまして、従って、中国が国内で自給することのできない国外の資本財に対する依存度というようなものが、急速に増大してくる。同時に、そういう資本財に対する需要というようなものを社会主義圏内部で充足することが、必ずしも可能でないというような見通しがついてくる、そういうことが、日本の生産力というようなもの、あるいは日本との貿易というようなものに対する中国の関心というものになって現われてくる。それがひいては日中関係全体に関するやわらかな態度になって現われたのだというような見方もあるいはできるかもしれないと思うのであります。しかし、そういう見方をそのまま押して参りますと、一九五八年からは、五七年までの第一次五カ年計画にすぐ引き続いて第二次五カ年計画が始まっておりまして、資本財に対する需要というようなものが、従来と同じに、あるいは従来以上に大きいということももとよりでございますけれども、五八年以後の数年間非常な飢餓が中国にございまして、どのような方面の資料を調べましても、やはり非常な大きな農業生産の下降とか、あるいは農工業生産の間のアンバランスとか、その結果としての食糧品その他の不足というような事実は疑いないようでありますが、そういう状態の中で、日本の生産力というようなものを高く評価しないでいいのかというようなことになりますと、そこに疑問が残るのではないかと思うのであります。  時間がございませんで、また、準備が不十分でございまして、きちっと話せませんけれども、今度の不作、それがどこまで自然現象による不作なのか、あるいはどこまでが人民公社制度の失敗による農民の生産意欲の低下に基づくものなのかは、議論の余地がございましょうけれども、いずれにしても、農業生産が工業生産についていけなくて、そこにさまざまの問題を派生しているということは事実でございますし、ここ両三年の非常に大きな食糧問題の悪化が、つい最近では、一つはソ連に対する輸出の減少によって、ソ連その他社会主義国から生産財を買いますと、これに対して食糧品その他の農産物を輸出しておったわけでありますが、それらが農業生産の衰退によって輸出ができなくなって、非常に膨大な輸入超過ができてくる。それからまた、国内の食糧需給が悪いものでございますから、外国から食糧品を輸入しなければならない。両方で、私どもの推定しておりますところでは、ソ連に対するおそらく繰り延べ払いになった輸入超過分が三億ドルくらい、外国から輸入した食糧品の支払いが七億ドルぐらいと見ておりますが、いずれにいたしましても、そういう中国の、今の国際経済規模から申しますと、ずいぶん大きなアンバランスというようなものがそこに結果せられておる。その結果として、もしこれを日本の貿易に振りかえることができれば――と申しますのは、日本と中国の貿易は、従来恒常的に日本が輸入超過でございまして、中華人民共和国の方が輸出超過になっておりますが、そういう国際経済上の非常に大きなアンバランスを助けるために、少しでも日本から資本財を買って、そうして、外貨事情の非常に緊迫したもとでよその市場からの輸入を減らすことができれば非常にいいと思うのでありますが、どうも、そういうふうな事情がそこに確かにあるはずだと思いますが、それにもかかわらず、一九五八年以来は日本に対する大へん強い態度をとっておる。  そういうことをいろいろ考えますと、やはり中準人民共和国の日本に対する態度の基礎というようなものは、日本の生産力に対する評価というようなものもさることながら、やはり現在の東北アジアをめぐる軍事的な関心というようなものが主になっておって、そして、そういう軍事的な関心というようなものによって、これはどなたでもよく言われることで、どなたも御存じのことでございますけれども、日本をいわゆる中立化する、日本からアメリカの兵力を追い出して、そして、できれば日本を完全に非武装化することにあるのではなかろうか。そういう基本的な関心というようなものがございまして、その基本的な関心を実現するために、そのときどきの世界政治及び世界経済の情勢に従って、あるいは強く、あるいはやわらかい態度をとっておる。しかし、関心としては、そこいらのところに強い関心があって、それに基づいて政策が決定せられておるのではなかろうかと思います。  準備が不十分でございまして、はなはだ不満足な公述でございましたけれども、これで失礼させていただきます。(拍手)
  33. 山村新治郎

    山村委員長 次に、迫間公述人よりお願いいたします。
  34. 迫間真治郎

    ○迫間公述人 私は、国民生活との関連において、来年度の予算の問題について意見を述べたいと思います。  来年度の予算国民生活にどういう影響を及ぼすかということを考える前に、その背景としまして、池田内閣の過去の経済政策がどういう影響を国民生活の上に及ぼしたかということを一応反省して、その上に立って、予算及びその執行について注意すべき点が当然考えられると思います。そういう意味において、特に過去一年間の池田さんの経済政策を考えてみますと、それが国民生活にどういう影響を及ぼしたかという問題を考えるにあたっては、私は四つのポイントがあると思います。これは非常に常識的なことで恐縮でございますが、第一は経済成長であります。第二は国民経済の安定性の問題であります。第三は、分配の問題、所得格差といわれている問題であり、第四は、日本経済の高度化といいますか、特に日本的な意味における構造政策というものがあると思います。  この四つの観点から、過去の経済政策の結果というものを振り返ってみますと、第一の経済成長という点に関する限りは、非常な成功であった、少なくとも短期的には成功であったと思います。経済成長を高くするということが、国民生活を向上せしめる本筋といいますか、本命であるという意味において、社会党も民社党も、池田さんに負けじ劣らじの計画数字を発表されたわけでありますが、これはそういう意味においてきわめて当然であります。これは私は成功したと申しましたが、少なくとも過去一年に関しては、計画数字九・三%を大いに上回りまして、一四・四%の成長をした。物価の騰貴がありますから、これを実質に直すと一〇・三%であるというふうに計算されております。私は、実はこれは成功以上であった――成功以上という意味は、決していい意味ばかりで申しておるのではありません。つまり、成長し過ぎるということから、国民経済の各面にバランスの失調を来たした、そこに成長政策一つの弱さといいますか、弱点があったと思います。経済成長が高ければよろしいというものではないのであって、これはソ連の経済を見てもよくわかるところであります。ソ連の経済成長はすばらしいといってソ連内部では自画自賛しておりますし、日本でもそれを高く評価する方々もおられるようでありますが、ソ連経済の成長の陰には相当大きなアンバランスがある。そのアンバランスというものが、実はソ連経済の大きな弱点をなし、矛盾をなしているということ、これは国際的な常識であります。まあ、池田内閣の成長率の高いということと、そのバランスの失調ということと、全く同じ意味においてソ連と同様だという意味ではありませんが、ソ連を例にして申し上げたわけですが、要するに、成長し過ぎるということからくるアンバランスというものが出てきた、これが私があげた第二の点であるところの安定性の問題に結びつくわけでございます。つまり、成長政策に基づくアンバランスというものは、これも周知のごとく、第一には国際収支面に現われておる。つまり、今年度の総合収支の赤字が七億二千万ドルと経済企画庁の計算ではなっておる。これは三十五年度の黒字六億ドルを帳消しにする以上のものであります。従って、昨年の九月以降財政支出の繰り延べ、タイミングをおくらせるとか、あるいは急激なる金融引き締めをやらざるを得なくなった、こういう非常に大きなマイナス面というものを引き起こした経済情勢の非常に大きな悪化、それが、たとえば商社であるとか中小企業というものにしわ寄せされているというこの現実は、経済成長に対する一つのマイナス要因として、やはり考慮に入れる必要があると思います。  第二の不安定性は、物価に現われております。つまり、その第二の局面は、物価騰貴というところに現われてきておるわけであります。まず、卸売物価でありますが、池田総理は、過去数年卸売物価は安定しておるということを常に言っておられたわけです。最近はもちろんそういうことはおっしゃいませんが、ここ一年間に卸売物価指数は三・四%上がっている。これが一つの大きな問題であります。しかし、それよりも、国民生活という点から重要な問題は、消費者物価の上昇であります。つまり、これは五・七%の上昇であり、それが東京の生計指数を四・六%上昇せしめている原因となっております。この消費者物価の騰貴ということは、申すまでもなく、国民生活に非常に大きな影響を及ぼしておる。これは大きないわば割引であります。しかも、その割引の影響が、国民の各層によってかなり違っている。そこに不安定が生むところの問題といいますか、しわがあるわけであります。国民の各層をまず勤労者階級にとってみますと、勤労者階級の実収貨幣賃金――賃金率ではなく、実収貨幣賃金は約一二%上がっております。昨年の十一月の指数で見ますと、実質賃金はその前年同月に比べて四・五%の上昇であります。勤労者階級全体としての所得の伸びは、雇用の増加も大いに原因しておりますが、一八%上昇して、昨年度の成長率を上回っている。そういう意味において、少なくとも平均的、全体的に見ますと、勤労者の生活水準は上がっている。しかしながら、物価の上昇による割引はあるというものの、実質賃金は上がっているわけであります。しかし、これは平均的に言った話でありまして、労働者階級の中身を考えてみますと、いろいろ問題を含んでいるわけでありまして、この点はあとで申し上げたいと思います。消費者物価の上昇の打撃を最も多くこうむったのは、いわゆる低所得者層であります。小零細業主、あるいは労働能力不足者と申しますか、不規則労働者、特に生活保護世帯であって、これらの階層は経済成長の恩恵を受けること少なく、物価騰貴の打撃を受けることきわめて大であります。しかも、来年度の減税の恩恵というものを受けておらないわけでありまして、池田内閣の経済成長政策のしわが最も寄せつけられたのは、この低所得階層であります。この低所得階層は、大企業の労働者が労働組合を組織して非常な強い力を持ち、いわゆるガルブレイスの言う平衡力、カウンタヴェイリング・パワーを持って、経済成長の果実についてのある程度の要求をかちとっているのに対して、いわば無防備態勢にあるわけです。組合の組織率は、大企業は高いのに中小企業は非常に低いということも周知の事実でありますし、この低所得者層に入るその他の諸階層は、従っていわば無防備態勢にあるわけです。これは単なる経済政策だけではなくして、従って社会政策的な配慮というものが十分なされなければならないのに対して、それが行なわれておらないというところに成長政策の、あるいは成長政策が引き起こしたところの不安定のしわが、そこに最も強く吹きつけられている。その点が私は重要な点だと思う。  第三の問題点、つまり分配の問題でありますが、これは御承知のように第二次大戦前とあととを比べますと、分配の不均等というものが若干是正されておることは、統計に見られるところでありますが、しかしながら過去一年あるいは二、三年の経過を見ますと、実は格差はむしろ拡大している。つまり国民所得の伸び率に対して勤労所得、個人利子所得、法人所得というものが非常に伸びております。これに対していわゆる個人業主所得、その中には農林業主、中小企業業主らが含まれておるわけでありますが、この層の所得の伸び平均をはるかに下回っている。そういう意味においてこれらの層と、そうでない特に大企業との間の所得格差というものは拡大している。戦後の長期傾向という点から見ますと、実はこれは逆行であります。  次に問題になるのは、先ほど勤労者階級は全体として経済成長の恩恵を受けているということを申しましたが、その中身はきわめてまちまちであります。これは総理府統計局の家計調査に基づいていえるわけでありまして、この家計調査は、勤労者階級を五つのグループに分け、可処分所得で計算しているわけですが、可処分所得の低い階層を一とし、以上順次高い階層、五階層に分けております。この五階層のうち勤労者階級全体としての所得の伸び率を上回っておるのは、所得の高い第四階層及び第五階層、特に第五階層でありまして、第五の階層といいますと、大体可処分所得が七万九千円、その第五階層の伸び率というものは一五・八%、第一階層は二万八千円であります。第一階層、第二階層、第三階層の伸び率が平均伸び率を下回っている。つまりこれは勤労所得における格差の拡大ということであります。特に一万八千円クラスの第一階層は、エンゲル係数が五0%に近いクラスでありまして、これは先ほど申しました零細業主、特に生活保護世帯とともに日本における極貧階級、サブマージド・テンスというやつを構成しているわけでありまして、こういう人々は所得倍増計画といいますか、成長政策の非常にマイナスの影響を受けている。つまり消費者物価の上昇のために、彼らの生活水準は相対的に減少しているばかりでなく、絶対的に貧困が解消されておらない、こういう三つの点――二重構造の問題は省略しますが、以上三つの点を総合して、勤務評定しますと、少なくとも昨年度の池田さんの経済政策というものは、私は失敗であったと言わざるを得ないと思います。なるほど一年間の経済成長は非常にすばらしかったわけでありますが、経済成長というものは、いわば長期に安定した伸びを示すことが好ましいのでありまして、来年度は五・四%の経済成長を実施するという経済企画庁の見通しがありますが、一四%から五・四%へと急激にディクラインする。五・四%の実現がはたして可能なりやいなや非常に問題があります。今度の予算の関係もありまして非常に問題がありますが、ともかくもそういうふうに大きくフラクチュエーションするということは、やはり計画初年度における成長政策というものが誤っていた。つまり第二年度においてすでに蹉跌したと見ざるを得ないのであります。先ほど申した分配の問題とのからみ合いにおいて池田内閣の経済政策は、私は成功したとは思えないのであります。  こういう背景の上に来年度予算を考えてみますと、これも多くの人々が言われておるように、非常に大型の予算である。つまり昨年当初予算に比して二四%もふえている。国民所得に対する比率も一五・三%から一六・七%に増大しておる。三十六年度の経済成長の破綻を来たした今年と、来年というふうに考えますと、これだけの大型予算を編成するということに危惧の念を抱かざるを得ない。つまりこれはインフレ圧力を起こしていくのではないか。消費者物価の二・八%上昇予想というものが、はたしてそれで済むかどうか、これも問題であるし、インフレ圧力というものが予算関係から起こってきた場合に、はたして四十七億ドルもの輸出が可能なりやいなや、そういう点については、将来の問題でありますから、的確なことは申せませんけれども、そういう意味において、少なくともタイミングとしては、かなり危険な要素を含んでくるのじゃないか。そういうインフレ圧力というものが、もしも現実に起こってきた場合には、当然昨年の秋以降に行なわれたような金融引き締め、タイト・マネー・ポリシーという形にそのしわが当然寄っていくのでありましょう。もしそういうことになりますと、これはごたぶんに漏れず、中小企業に対するしわ寄せというものになる可能性が非常に強いということ、これが大型予算ということに伴う一つの危険点であると思うのであります。  第二に、この予算の増加の最もきびしいものをとってみますと、公共事業費であります。これは総予算の一八・七%を占め、そして昨年度に比して二七・五%もふえているわけであります。  私は最近の数年間の日本経済の動きを見て、私的投資の伸び率に対していわば社会資本の充実というものが非常におくれているという意味において、社会資本の充実が非常に急務であるということを十分了解するものでありますが、一応景気調整下にある現段階においては多少タイミングという点において問題がある。従って、これの執行にあたっては十分の配慮をしてもらわなくてはいけないのではないかと思います。  第三に、残念なのは、社会保障関係費用が確かに増加しておりますが、二〇%程度である。これは国民生活に非常に大きな影響を及ぼすわけでありますが、総予算の一二%にすぎないのであって、ヨーロッパの西ドイツ、デンマーク、イギリス等に比べるとはなはだしく見劣りがする。経済成長率は国際的な比較において非常に高い。けれども社会保障制度という点に関する限り、ヨーロッパに比べるとはなはだ見劣りがする。少なくともlLOの百二号、つまり社会保障最低基準に関する百二号条約の批准の域にまだ遠いという意味において、これは非常に残念なことであります。厚生白書も大いにその点は嘆いているところです。  社会保障というものの意味は今さら言うまでもなく、その最も重要な意味はやはり貧困の解決にあると私は思う。これは経済政策あるいはキブ・アンド・テークの資本主義的な方式だけではだめなんであって、つまり多少社会主義的な考慮というものを加えるのは当然である。福祉国家をねらっておられる自民党としては、社会主義的な考慮というものをお入れになってもいいのではないか。入れていけない理由はないわけでありまして、そういうものを入れたからといって、社会党や民社党が攻撃するとは私は思いません。少なくとも百二号を批准しておるところのイギリス、西ドイツ――これは全部資本主義国である、あるいは混合経済体制といわれておる、そういう域に近づくということが、私は社会保障制度の現在の短期的な緊急の目標になってもらいたいと思う。  社会保障制度は、確かに来年度予算を見ますと進展していることは事実であります。生活扶助料も一三%上がったわけであります。しかしこれは厚生省の二二%の要求からするとはなはだ低いわけであり、東京の五人世帯一万一千九百二十円が一万三千四百七十円にふえたとはいうものの、一日一人当たり約九十円、これでは人間にふさわしい生活というものはとうてい営めない。つまり生活保護の対象人口は老人とかあるいは疾病者でありますから、この点を考えますと、つまりこれはギブ・アンド・テークあるいは雇用関係からして所得を伸ばす道のない方々でありますから、スズメの涙ほどの扶助料の引き上げでは不十分であることは明らかであります。  国民年金制度もこれは若干の進歩を示しました。こまかいことはもはや省略いたしますが、これは一応多とするところであります。  国民健康保険についても若干の進展があった。たとえば国庫負担率を五%引き上げた、これは進展であります。しかしながら医療給付の七割給付という線が削られているということは、これはやはり遺憾であります。国民健康保険の対象は組合保険とは違いまして、大体低所得者階層であります。しかも最近の医術の発展に伴う医療費の上昇という点を考えあわせますと、国民健康保険制度という制度それ自身は非常にりっぱであるにもかかわらず、その医療サービスを十分に受けられないのではないか、つまり医療サービス享受についての不均衡が、実質的に増大するのではないかという点を憂うるわけです。貧困の、原因一つは不健康です。その不健康を十分になおすことができなければ不健康は貧困を生むわけです。従ってそういう意味の悪循環を来たすことは、これはやはり避けなければならないことでありまして、灘尾厚生大臣のいわゆる社会保障制度についての底上げ政策というものを――一応社会保障制度というものの体系が整ってきているわけですから、その底上げをするという方針は私は正しい方針だと思いますが、その底上げという点において来年度の予算は不十分である、せめてILO百二号批准可能の水準にまで引き上げていただきたいと思うのであります。  税金の問題も国民生活に重要な影響がありますけれども、多少時間が食込んだようでありますから、私の公述をこれにて終了さしていただきます。(拍手)
  35. 山村新治郎

    山村委員長 これより再公述人の御意見に対する質疑を行ないます。上林山榮吉君。
  36. 上林山榮吉

    ○上林山委員 まず村松公述人にお伺いいたしたいと思います。  御承知の通り、お述べになりましたように、中共の工業化促進のために農業の問題が非常におくれておる、そのために飢饉等も伴って非常に中共は困っておる、確かにその通りであると思いますが、この前香港に参りまして、中共木上が非常に飢饉であるというので、台湾等から小包その他の方法で、香港を経由して、盛んに食糧その他が送られておる現状を私はまのあたり見まして、確かにその通りだと思うのでございますが、この農業の遅れというものが単に飢饉だけによって起こったものか、これも一つ原因でありますけれども、先ほど前提に述べられたやはり工業化促進があまりに急であったために、後進国によく見られる現象というものがそこに現われてきたのではないか、それをささえておるものは、御承知の通り人民公社もその一つの方式であることは言を待ちませんが、私も中共に参りまして、人民公社の比較的いい公社を見せてもらったことがございます、確かに比較して、ある程度は前向きの姿勢も見られないではありませんでしたが、一皮むいて検討すると、必ずしもよくいっていなかった、そういう点から今日人民公社は大型から小型に変わり、あるいは個人の経営も新たに認めていこうとする修正の段階にきておるかのごとく私は見る面があるのでございますが、こういう点に対していわゆる人民公社はうまくいっておるのだけれども、危険――いわゆる災害危険だけによってこういう農業の跛行的な現象ができた、こういうふうにごらんになるのでありますか、もう少しこの問題についてお伺いをいたしておきたいと思います。
  37. 村松祐次

    ○村松公述人 中国の人民公社の件、及び中国の経済建設における農業と工業との関係についての御質問でございましたが、これは一九五二年の第一次五カ年計画の当初からそうでございましたけれども、中国における経済建設というものは、国家の財政力をてこにいたしまして、国家の手に国民経済の余剰を、税及び国営企業の益金という形で集中いたしまして、これを各種の産業及び文教建設、つまり社会教育にアロケートいたしまして、そして各種の建設事業を進めていくという、いわゆる社会主義方式でございます。その場合に、これはどなたも御存じの通り、工業、特に重工業に非常に大きな力点が置かれまして、そして特に資本の割当については、建設資金の非常に大きな部分、七0%以上に上るような部分が工業に割り当てられる。農業については、年によって違いますけれども、膨大な農業国であり、膨大な農民人口がありますにかかわらず、総資金の一0%内外しか割り当てられない。そこで、その新しい投資額ということだけから見ますと、農業の方の発展というものはほとんど望めないわけでございますが、その点は、興業の場合には工業の場合と違って、資本集約化による発展と申しますよりは、むしろ労働集約化による発展というようなものを目ざしているもののようでございまして、従来よりも手をかけて、たびたび草を取り、たくさん種をまき、水を運んでかけ等々する方式で、農業の発展をとにもかくにも現在までやって参ったものと思います。そこで、そういう観点から農民を組織する、農民の労働力だけではございませんけれども、労働及び労働の意欲を組織することが非常に重要な問題になって参りまして、おそらく一九五六年の合作社及び高級合作社に対する集体化でございますとか、それから五八年の人民公社への公社化というようなもの、そういう農民の組織というようなものに対しまする非常な重要性に基づいてとられた処置を考えます。むろんその限りにおいては、人民公社という制度は、中国の経済建設に大きなプラスの要因になっている面があるのだろうと私は考えますが、反面から申しますと、これはすでにソビエトにつきましても、農業の集体化及びアグロゴロートやコンムーナのような共同化が、出離意欲の面には必ずしもよくない影響を及ぼした先例もございます。中国の場合も、実は人民公社を非常に広く見て、深く観察するという機会が私ども与えられておりませんので、確言をためらうわけでありますけれども、どうもそういう傾向があるのではなかろうか。それは、自然災害がございましたことは疑いないのでありますが、しかしそれと並んで、やはり制度的な要因というものがそこに働いているのではなかろうかというふうに私は考えます。そう考えます一つの根拠は、中華人民共和国自身が公社制度を、一九五八年当初には非常にすっきりした、はっきりとしたものとして考えまして、たとえば農家の自留地、農家が自己経営し自己収穫する自留地というようなものも、地方によっては認めないというようなはっきりした方針、それからまた所有関係などにつきましても、土地や農具や役畜の所有関係にさかのぼってこれを共同化するという、全人民的所有化というはっきりした態度を打ち出したのでございますが、それがどうもその後になってみますと、たとえば、ただいまの農具、役畜その他につきましては、三固定と申しますか、そういうものを末端の生産体単位、昔の合作社単位くらいのところに固定する。必らずしもそれに所有権を移すとは申しておりませんけれども、少なくともそれを動かさない。それからまた自留地等も認めていく。生産費であるとか、生産量であるとかに関する一種の請負制度のような、これだけは生産するというノルマ制度のようなものを設定いたしまして、そのノルマの完遂に対しては報奨制度を考える。つまり、それぞれの土地のそれぞれの経営に関して、多少とも私的な、個別的なモチ-フというようなものが働く余地を拡大する、こういう動きを示しております。そういう点から見ますと、あるいは現在の農業生産の低落というようなものが、制度的な関連に基づく面がありはしないか、こういうふうに考える次第であります、不明瞭でございますが……。
  38. 上林山榮吉

    ○上林山委員 私は、中共は共産主義的な公式論から、時によっては思い切って修正も、時代に応じてやぶさかでないというような態度をとっている意味で、人民公社が大きかったものをこまかく分けたり、あるいは個人の自由を認めて農業経営をやらせたりする修正の段階にきた。あるいはまた、これは私はソビエトの共産大学を出たある指導者に会ったのでございますが、この人が、神社仏閣を案内してくれました。そこで、共産主義と仏教とは、およそ和反するようなことに対して、どうしてこういうふうに復旧工事を大々的にやっておるのかと聞いてみましたら、中共には信仰心を持っておる民族が相当多いので、これをば国民軍がこわしたのだけれども、われわれはこれを建設しておるのだ。こういうような話を聞いたのでありますが、そういうような意味からいって、現実に合ったような修正的態度をとっておるというのは、非難する意味ではなしに、実態というものをやはり日本ははっきりと認識して、次の段階への議論を進めていくということが、私は正確ではなかろうかという意味でお尋ねしてみたのでございます。  第二点についてお伺いいたします。それは、お話にありました日本を非武装化しようという熱意の現われが、それぞれの政策に中共としては現われてくるのだろうと、こういう趣旨の公述であられたようでありますが、中共の軍事力の強化というものは、その全予算に占める比率はどれくらいになっておりましょうか。私の見たところでは、年々歳々この比率が拡大をしていっておる。これは一体何を意図しておるとごらんになりますか。日本には非武装化あるいは中立化を強要するような態度に出ながら、自分は年々歳々非常なる強化をやっておる。これは一体何を意味しておるか、これはただ参考に承ることができれば幸いでございます。
  39. 村松祐次

    ○村松参考人 中華人民共和国は、社会主義圏に属する共産主義を目ざす社会主義国でございますから、その建国の基礎になっておる政治的な主義というようなものを貫いて、これを世界的な規模で実現するために力をたくわえるというときがおのずからあるであろうと思います。それからまた、社会主義圏と申しましても、その社会主義圏の中にはさまざまな国があるわけでありまして、そういう社会主義圏内部の中華人民共和国の発言権というようなものは、やはりおのずから中華人民共和国の持つ実力というようなものにある関連を持つでありましょうから、そういう観点からも、中華人民共和国は軍事力の強化をはかっておるだろうと思うのであります。それから、最近急激に軍事予算等が増加しているという点の一つの基礎といたしましては、やはり中華人民共和国は社会主義圏の少なくとも第二の大国でございますからして、当然に原子力及び原子兵器というものに対する関心も深いと思われますので、さまざまの条件を考慮いたしますというと、やはり軍事予算の増大はやむを得ないのではないか、こういうふうに思います。
  40. 上林山榮吉

    ○上林山委員 迫間公述人に、一言だけお尋ねいたしておきたいのは、公共投資の方は非常に大きい。これはしかし社会資本を拡大する意味で、必ずしも自分は反対ではない。反対ではないが、これに比較していわゆる社会保障の費用がスズメの涙ほどであって遺憾である、こういう表現をされたのでありますが、時間があれば私数字をあげてもう少しお尋ねいたしたいのですけれども、残念ながらそれができません。そこで一言申し上げますと、三十六年度の当初予算に比べますと、形式的には三割六分の値上げ、ことに最低生活をしておられる方々の給付金の引き上げが行なわれておる。実質は四0%ぐらいになるだろうと私どもは推算をしております。ただ三十六年度の補正予算後に比べれば、おっしゃる通りこれは一三%であって、われわれも多いとは思いません。多いとは思わないが、これからもさらに一歩前進していきたいと思って政府を督励して参りますけれども、スズメの涙ほどであるという意見は、少し事態の認識があまり極端にすぎるような気がいたしますが、この点は一つ明瞭に、社会党の諸君はあんなにあなたに応援をしておられますけれども公述人として大局に立ってもう少し――わずか一年ちょっとの間に四割も実質上げたということは、一歩前進ではありませんか。一歩前進、そういうような考えを持ちますが、ほかのことはやめまして、この一点だけをちょっとでけっこうでございますから、お答え願います。
  41. 迫間真治郎

    ○迫間公述人 表現の問題にからんで御丁重な御質問でございますが、三十六年度に生活扶助料が二回にわたって引き上げられました、これはその通りでございます。そして、その上に一三%の引き上げですから、一歩前進ということは私も申し上げた通りであります。しかしながら月に一万三千円、五人世帯ということになりますと、これは一人一日九十円なんですから、これでは最近の消費者物価値上げということを考えますと、前進には違いないけれども、貧困状態という点においては変わりがないわけです。そういう意味において、貧困状態を解消しないという意味でスズメの涙という表現を使ったわけです。
  42. 上林山榮吉

    ○上林山委員 時間がありませんから残念ですけれども、あなたは社会保障の本体を救貧事業に置かれますか、それとも防貧事業に主体を置かれますか。ことに私が伺いたいのは、働こうとしても身体障害者であって全然働けない、あるいは老齢であって、これはもう使い手もない、そうしたような人たちに対しては、いわゆる社会保障を狭義に解すれば、これを第一義にしなければならぬと思います。しかし、新しい時代の国作りというものは、惰民を作らないように、ある程度は自分が努力をする、足らないものを国が補う、またお互いに補っていく、こういうような意味から防貧事業いうような方面に重点を置くべきではなかろうか、こういうように考えるのでありますが、あなたの社会保障に対する説明を先ほど承りましたが、その点がはっきりしなかったようでございまするので今言ったような議論も出てくるんじゃないか、こう思いますのでお尋ねしておきたいと思います。
  43. 迫間真治郎

    ○迫間公述人 現実の問題としては、貧困といいますか、低所得者層があるわけでありまして、そういう階層に対して、防貧はもちろん重要でありますが、緊急問題としては、やはり救貧という点にもウエートを置いていただきたい。社会保障制度というものの本来のあり方から申しますと、防貧が本筋であろうと思いますけれども、日本の現実の事態からして、救貧の面もやはり相当ウエートを置いていただきたい、こういうふうに考える次第です。
  44. 山村新治郎

  45. 井堀繁男

    井堀委員 迫間さんにお尋ねをいたしたいと思います。先生のお述べになりましたように、確かに経済成長政策というものは、所得に大きなアンバランスができまして、ことに表に現われた国民生活の状態というよりは、きわめて深刻で、しかもその状態は世論になって出ていない、要するに下積みになっておる多くの階層のあることを私どもは憂えておるわけであります。そういう意味で、社会保障斜度関係に、もっと多くの予算を割愛すべしという御説には、全くわれわれの考えと一致するところでありますが、ただこの機会に私どもは、今施行されておりまする社会保障制度が、ほんとうにそういう所得格差の被害を受けておる人々に均霑できるような制度であるかどうかという制度の問題について、一つお尋ねしてみたいと思います。  予算を増額することももちろん急務でありますが、いかに予算を増額いたしましても、制度がそういう恵まれない人に均霑できないような状態にある点について、先生はどのようにお考えになっておりますか、もちろん根本的な問題は言うまでもなく経済成長政策をとる場合には、それがどのような基本的な経済政策であるにしても、当然国民のそういう被害に対しては事前の措置を講ずべきものであって、そういう点からいたしますと、今日の現存している法規や制度によって、そういう被害を救済することは不可能に近い現実があるのではないか。でありますから、社会保障関係の予算を積極的に拡大するとともに、制度をも同様に拡大しなければ、そういう不均衡を是正する状態にまで政治が及ばないのではないか。こういう点を憂えておるものの一人でありますが、先生はこの点についてどういうふうにお考えですか。
  46. 迫間真治郎

    ○迫間公述人 成長の効果が十分及ばない階層に対して、社会保障の制度及び財政上の措置、私は両方要ると思います。一応形の上では国民皆保険、あるいは年金制度というようなものが形を整えておりますけれども、その中身ということになりますと、これは制度上の問題と財政上の問題と両方からみ合って不整備なんであります。ですから、単なる制度だけの改革だけではなくして、やはり予算措置というものを伴う、つまりいわば制度に魂を与えるような形の予算措置というものが、少なくとも緊急の問題としてはそこに要るのではないか。社会保障制度全般についての改革ということになりますとこれは非常に問題が大きく、かつ複雑でありまして、多様な論点が必要でありますから、私としては不十分な知識でもって述べるよりも、むしろ井堀議員の今後の御活躍を御期待したいという程度のことしか申せません。
  47. 井堀繁男

    井堀委員 次にもう一つお尋ねをいたしたいと思いますが、今の制度の問題につきましては私どもも非常に遺憾に思うのでありますが、たとえば先生生活保護基準の今回の予算における引き上げに対して敬意を表される趣旨の御意見がありましたが、まあふやさないよりふやした方がいいということでありますけれども先生の論拠の、物価値上げ――所得倍増の結果、国民所得の不均衡と、一つにはそれが逆に低所得者に対する生活圧迫を来たしておるものも救済していかなければならぬという立場からいいますと、このたびの予算措置の基準引き上げは遠く及ばないものではないか。もう一つ、私は生活保護法関係だけに限定して考えてみましても、御存じのように政府の発表しております低所得者階層、すなわち生活に保護を与えなければならぬ最も低い所得の階層は、本年度でも八百三十三万人をこえるといっております。しかるに生活保護法の対象になっておりますものはわずかに百六十万であります。でありますから、このように実際上今日の生活保護法をもつていたしましても、生活の脅威を受けるような八百三十三万の対象人員が捕捉できないという点からしますならば、たとい保護基準だけを引き上げてみても、それはわずか百六十万の人間に限定される。むしろそれから余す人々は逆にあおりを食うという現象がある。私は今日社会保障制度というからには、そういうものが救済されるという最小限度の範囲が必要ではないかと考えましたので、実は言ったのであります。  もう一つ、ついでにそれと関係してお尋ねをいたしますが、私どもも非常に懸念しておりますのは、そういう低所得者層として把握のできない、先生も御指摘になっておりましたが、零細企業、すなわち自営業者という言葉が使われておりますが、一かどの商業、一かどの企業は営んでおりますけれども、その年間所得というものは実にひどいものである。たとえば内閣統計局の就業構造基本調査の中における数を見ましても、一千二百万から一千三百万に及ぶそういう零細企業者及びここに従事する労務者がおるわけであります。こういうものが今の社会保障制度のワクにもかかってこない。他の経済政策や一般の政府の政策の恩典を受けられない。要するに日の当たらない、今の世論の目の届かないところに非常な困窮者が経済成長政策の被害者として横たわっておる。それがただ単に消極的な保護を受けるというよりは、日本経済の積極的なにない手であるこういう階層が、一向予算の中にも現われてこないというような点に対して先生のお考えはどうかという点を一つ伺いたい。
  48. 迫間真治郎

    ○迫間公述人 今の最後の問題は、日本経済の二軍構造の問題と大いに関係があるわけであります。二重構造の問題は、私は実は論点からはずしたわけでありますが、この二重構造の改善という点は、これは非常に長期の問題で、過去一年間だけの実績から云々することはできませんけれども一つには零細業主というものの雇用労働化ということが、経済政策面からする二重構造解消の一つの方向であろうと思います。しかし、これは御承知のような日本の特殊な雇用方式からして、なかなか実現が困難であるという問題が一つあります。  それから、生活扶助を受けるべき該当人口と実際に受けておる方々の間の大きなギャップというものは、これは制度上の問題がありますと同時に、予算の問題があるわけでありまして、末端においてこの査定をする人々の判断に一つはまかせられておりますが、彼らの判断も、実は予算のワクによって制約されておる。そこに一つの問題があるのではないか。ですから、制度上の問題を重要視しなければならないけれども、緊急の問題としては、やはり予算の増額ということが一番大きいのではないか。ことに予算を増額することの経済的な意味を申しますと、これは最近の消費性向の漸次的な低下というものに対する一つのカバーにもなるという意味において、私は経済的な効果をも間接的に持ち得るのではないか、そういう意味で一石二鳥の意味を持っているのではないかというように日ごろ考えておる次第であります。
  49. 井堀繁男

    井堀委員 もう一問だけお答えいただきたいと思います。先生も御指摘になっておりましたが、今日組織労働者、強力な労働組合を持っておりますものは、民主社会において生産性の成果に対する配分の要求はかなり活発に行なわれて、部分的には成功しておると思うのです。しかし全体的に見ますと、日本は産業構造や雇用構造が非常に複雑でありますから、問題は残るといたしましても、少なくとも生産性の向上に見合う、すなわち経済成長に対する割合その他から判断をいたしまして、確かに名目賃金は上がったと思うのです。実質所得は先生も下がっておるという御指摘がありましたが、日本の統計その他の指数などは不完全なものでありますから、何人も正確な数字は出せぬといたしましても、一応そういう民主的な力を持ち得ている組織労働者であっても、名目賃金と実質賃金の開きにおいては非常な格差が出てきている。やはりもう少し実質賃金を引き上げることが、経済成長を助けていく基本的なものともなるのではないか。この点は池田政府や与党の人々の見方は非常に悲観的なようであります。何か賃金の引き上げがすぐコストを刺激してくるように簡単に考えるようでありますが、今日の経済成長というものはそういう単純な生産性ではなしに、やはり高度の技術や創意工夫が前提となる、国際競争の激しい中における賃金問題というものは、もう少しやはり実質所得というものを引き上げて、すなわち今日の低賃金制度というものを破っていくことの方が、経済成長のスムーズな推進力になるのではないかというふうにわれわれは思うのでありますが、先生はこの点に対してはどういう見解を持っておられますか。
  50. 迫間真治郎

    ○迫間公述人 おっしゃる通り、実質国民所得が一0%余り伸びているのに対して、実質賃金が四・五%しか伸びていないということは、経済成長と実質賃金との間のバランスが労働者側に不利になっておるということは一見して明らかであります。しかしながら、部分的ながら、経済成長の恩恵をわずかではあるけれども受けているということも、またこれは事実であります。しかしながら、もっと実質賃金が向上してしかるべきである。その理由は、ここ数年の生産性向上と実質賃金の向上との間に若干のアンバランスがある。これは、労働省等の統計によって、今その数字は持っておりませんが、明らかであります。そういう意味において、過大な過去の蓄積投資というもの、――これは、一つは、生産性の向上に比例する賃金を上げるということは、これだけの蓄積を不可能ならしめるわけであります。ですから、問題は、これだけの蓄積が必要であるかどうか。もう少し蓄積をスロー・ダウンすることも考えてみる必要があるのではないか。それから、もう一つ設備投資及び在庫投資の増大というものが二重投資になっている点はないか。つまり、アメリカにおいても、フランスにおいて特にしかりでありますが、最近の傾向として、いわば大企業化といいますか、自由化あるいはヨーロッパ共同市場というものに対応して、企業の投資におけるむだを排除するという方向に進んでいる。その投資のむだというものが日本においてはまだ多いのではないか。一つは、量的な意味において蓄積が高過ぎたということ。それから、もう一つは、つまり、むだな投資が多過ぎたのではないか。それが、実質所得の上昇にもかかわらず、そして生産性の向上にもかかわらず、労働者の実質賃金が上がってはいるけれどもそれほど上がっていないという一つの契機になっているのではないか、こういうふうに考えておる次第であります。
  51. 井堀繁男

    井堀委員 もう一問だけ。
  52. 山村新治郎

    山村委員長 井堀君、時間がだいぶ超過しましたから、お含み願います。
  53. 井堀繁男

    井堀委員 私は、国民所得の中でも勤労所得を引き上げていこうという点について、高度成長政策を健全に推進させるための条件としてもう一つの問題が必要ではないかと思うので、お尋ねしたいのは、消費構造の大きな変化というものは日本だけではなくて国際的な一つの潮流だと思う。そういう点からいきまして、もう少し賃金あるいは勤労所得が高い方が消費構造にいい傾向を与えるのではないか、そういう問題で考慮の必要があるのではないかと思います。先生はこれに対してはいかがにお考えになりますか。
  54. 迫間真治郎

    ○迫間公述人 私は、その点に関しては考慮しなければならない問題が幾つかあるのではないかと思います。もちろん井堀委員の議論に大筋には賛成でありますが、一つは、最近の自由化というものがいわば一つの至上命令であるという前提を置きますと、少なくともここ当分はなかなか賃金の上昇という方向に向いていかない。つまり、封鎖体制ではありませんから、国際競争力という点において、なるほど日本はチーブ・レーバーであって、日本の国際競争力というものは、チープ・レーバーに依存する点、従来ともはなはだ大であるわけです。これを是正するということは国際的にも非常にいいことではありますけれども、しかし、短期的には、それを急激にやるということは日本経済全体にしわが寄る。そして、それがまた労働者階級に悪循環の形で返ってくる危険性がある。つまり、不況が起こってくる。そういう点もやはり考慮すべきではないか。ですから、分配比率の問題、私は、先ほど申しましたように、これを非常に重視するものであります。ことに、今御指摘の消費構造の変化という問題及び日本全体の有効需要の増加という面から、分配比率の変化というものが一般的に望ましいということは言うまでもないのでありますが、国際競争という問題がここ一、二年の間に急激に日本経済を洗う波であるという点を考えますと、短期の問題としては、やはりそこに考慮すべき点があるのではないか、というふうに一応考えておるのであります。
  55. 井堀繁男

    井堀委員 ありがとうございました。
  56. 山村新治郎

    山村委員長 以上をもちまして、村松、迫間両公述人に対する質疑は終了いたしました。  公述人各位におかれましては長時間にわたり貴重な御意見をお聞かせいただきまして、まことにありがとうございました。厚くお礼を申し上げます。(拍手)  それでは、村松、迫間両公述人はお引き取りをお願いいたします。
  57. 山村新治郎

    山村委員長 これより田上公述人及び鈴木公述人より御意見を承ることといたします。  御両人におかれましては、憲法問題、特に憲法改正の手続についてお述べいただきたいのでございますが、その順序といたしましては、まず田上公述人、次に鈴木公述人順序で、お一人約三十分程度で一通りの御意見をお述べ願いまして、しかる後御両人に対し一括して各委員より質疑を行なうことといたします。  まず田上公述人よりお願いいたします。
  58. 田上穣治

    ○田上公述人 それでは、内閣の方から憲法改正の発議ができるかどうか、あるいは、国会議員のみが憲法改正の原案を作って衆議院なり参議院に出すことができるのであるかという問題につきまして、簡単に意見を申し上げたいと思います。  まず、私の考えでございますが、憲法九十六条は、文章に明らかなように、国会において成立した改正案を国民に対して国民投票に付するために発議をする、こういう趣旨でございまして、国会が国民に対して発議をするということに書いてあります。ただ、この点で、発議という言葉が、国会法あるいは両院の議院規則に使われております言葉と用法が違っておりまするので、これを一応御注意申し上げたいと思うわけでございます。国会法なりあるいは衆参の議院規則によりますると、御承知のように、国会議員が衆議院または参議院に対しまして議案を出すということでございまして、国会が国民に対して発議をするという用語とは明らかに違っているのでございます。従いまして、私の考えは、憲法九十六条におきましては、国会を通った案のみが国民投票に付せられるということは明瞭でございますが、初めに国会の衆議院なり参議院に対してだれが原案を出すかということには直接触れていない。でありまするから、九十六条のみでは、内閣がそもそも改正の原案を衆議院なり参議院に出すことができるかという問題につきましては、いずれとも、そうであるともないとも、九十六条からはきめられないと考えている者でございます。  そうなりますると、内閣なりあるいは国会議員が改正の原案を出すことができるかどうかは、九十六条とは別の規定でございまして、これは直接には書いてありませんけれども、憲法第四章の国会、五章の内閣、この条文をつき合わせまして、わが憲法において国会と内閣との基本的な関係はどうか、ここから答えを出すべきものと考えるのでございます。従いまして、この問題に、一般の法律案を衆議院なり参議院に出す場合と同様に考えられるのでございまして、私は、結論的には、法律案を従来のように政府から衆議院なり参議院に出すことは憲法に違反しないと同様に、憲法改正の原案を内閣から出すといたしましても、そのことが憲法に違反しないという結論をとるものでございます。  ただ、それには、理由というか、若干の御説明を申し上げたいと思うのでございますが、このような考えに対しましての反対の立場がございます。その方を一応考えてみますと、一つは、法律案を出す場合と憲法改正の原案を出す場合とは全く性質の違う行為ではないか、つまり、憲法改正ということは、単純な立法とは違って、それは程度ではなくて質的な差があるという見方が一つございます。第二は、合衆国憲法第五条において改正の規定がございますが、これがわが憲法九十六条と非常に似ております。ところで、合衆国憲法の改正は、その原案を国会議員のみが国会に出すのであって、政府の方からは出すことができないということが事実でございますが、これを参考にいたしまして、わが憲法も同様であるというのが一つ立場であろうと思います。しいて申しますると、第三点には、イギリスのやり方でございまして、イギリスにおいては、憲法と通常の法律とを形式的に区別いたしませんが、法律案を出す場合に、政府が出す場合におきましても、国務大臣が国会議員の立場において出すというのが従来の慣例でございまするから、これを参考にいたしますると、わが憲法において、イギリス流の議院内閣制をとっているのだから、イギリスにならって、議案を国会に出す場合は、これは法律案たると憲法改正案たるとを問わず、それは国会議員の資格において出すべきであって、政府が出すということは間違いではないかという見方があると思うのでございます。  そこで、簡単に、以上三点につきまして私の意見を申し上げてみたいと思います。  第一に、憲法改正という仕事は単純な立法とは質の違ったものである、立法ならば、法律案は政府から出せるとしても、憲法改正の原案を出すことはもっぱら国会議員でなければできない、こういう立場がございます。ただ、これにつきましては、むろん、外国において、たとえば古くフランス革命当時のフランスでありまするとか、あるいは合衆国憲法あるいは合衆国の州の憲法などにこのような思想がございまして、憲法改正は、通常の国会ではなくて憲法議会をわざわざ作ってコンベンションによって行なうべきである、こういうことが条文に通常現われております。この思想は契約説などから由来すると思いまするが、憲法を制定する権力と、それから、憲法によって作られた立法府、国会の営む立法権というものとを明確に区別いたしまして、通常の立法は、司法権、行政権と並んで憲法のもとにある国家権力である、けれども、憲法を作るとかあるいは変えるとかということは、そういった憲法が作った権力ではなくて、むしろ憲法を作り出す権力であるから全く質の違ったものであるという見方でございまして、この考えは、今申しましたようなアメリカとかフランスその他に見受けられるのでございますけれども、実際問題として、たとえば合衆国憲法におきましても、憲法第五条の改正手続におけるコンベンション、つまり、憲法議会という制度は、合衆国自体においても召集されませんし、また、各州においても、場合によっては四分の三以上の州の憲法議会を開いてそれにかけるというようなことも考えられておりまするが、これも従来はとられていないのであります。また、一体、国民主権という、わが憲法がとっておりまするこういう原則から、当然に憲法を改正することと法律を作ることとが全く質の違ったものであるという結論になるかと申しますると、これは外国の例を見ますと必ずしもそうではないのでありまして、たとえばドイツの憲法、一九一九年のワイマール憲法七十六条でありまするとか、今日の西ドイツの基本法七十九条などを見ますると、これは憲法の改正を通常の法律の形式によって行なうように書いてあります。法律の形式、つまり立法と憲法改正とを質的に区別しないということは、必ずしも国民主権、民主主義に反しないものと思うのであります。言いかえますると、国民主権というわが憲法の原理から当然に憲法改正と単純な立法とが質的に違うという結論にはならないということがわかるのであります。  また、ついでにフランスの現在の憲法八十九条を見ますると、憲法改正の発議は、――発議という言葉がわが憲法九十六条とは違っておると思いますが、憲法改正の発議、このイニシアティヴ・ド・ラ・ルヴィジオン、これが、フランスの大統領と、それから国会の議員、マンブル・デュ・バルルマンに属するということが書いてありまして、国会議員に発議の権能が属する、こう書いてありまするから、フランスにおいては、大統領、そうして国会の議員が、まず国会に対していずれからでも改正の原案を出すことができる。明瞭であります。しかし、この場合は、むろん大統領、政府側からも出すことができるのであります。   〔委員長退席、青木委員長代理着   席〕 ただ、国会が国民に対して発議するという表現でありますると、その案のもとになる原案が国会議員でなければ発議できないという結論が当然には出てこない、これが私の意見でございます。  そして、この外国の憲法を見ますると、このように、つまり、国会議員のみが憲法改正案を出すことができる、政府はこれを提案することができないとはっきりなっておりまするのは、一般に言われるのは割合に少ないのでありまして、代表的なものはトルコの憲法、これは一九四五年の十月の憲法でございますが、これの百二条を見ますると、憲法改正の発議と申しますか、まあ発案、提案と申しまするか、それは国会議員総数の三分の一以上の署名が必要である、そして、その提案発議された改正案はどうなるかと申しますると、これは一院制でございますが、国会において議員総数三分の二以上の多数をもってきめる、こう書いてありますから、この場合の発議は、国会議員がその所属の議院に対して案を出すことは明瞭でございまして、このように書いてあれば、政府からは提案ができない。これはもう議論の余地がないと思うのであります。一般に考えられておりますのは、このような表現を用いる場合に国会議長のみが提案権を持つというのでございまして、それ以外の多くの国、――もっとも、私はこまかいすべての国を調べたのではございませんけれども、大多数の国は国会議員のみが提案するというふうにはなっていないのでございます。  そこで、以上申し上げましたのは、国民主権という原則、民主主義的な憲法だということから、それだけから当然にもっぱら国会議員のみ提案できるという結論にはならないということでございます。  第二の論点といたしまして、合衆国憲法はどうかと申しますると、合衆国憲法第五条は、国会が憲法改正を提案する、――発議といってもよろしいのでありますが、そういうことが書いてあります。そして、その提案の結果はどういうことになるかと申しますと、その場合は、各州の議会なり憲法議会、実際は議会でございますが、通常の各州の立法議会が四分の三以上の州においてこれを可決すればよろしい、可決しなければ改正はできないということでございます。でありまするから、わが憲法のごとく、国会が今度は国会の外の州の議会に対して提案する、フロポーズするという表現でございます。日本の場合は、国会が国民に対し国民投票を求めるために出すという形でございます。あるいは、もう少し日本に近いのは、合衆国の州の憲法に見受けられますが、この場合は、連邦でございませんから、その州の議会が改正の案を作って、そして、その州の人民と申しますか、州の人民の投票に付する、こういう形になりまして、いずれにしても、アメリカの場合には、議会できまったものを議会が議会外の州の議会なりあるいは国民投票に付するという表現をとっております。でありますから、この場合のプロポーズするということは、わが憲法九十六条の発議にまさに相当するものでございます。ところが、アメリカの場合どうかと申しますと、御承知のように、国会の中で審議をし、決定し、議決をする原案は、もっぱら上下両院いずれかの議院の所属議員が出すのでありまして、大統領の政府の方からは出せない、こうなりますから、このアメリカの方式をそのまま日本の憲法に持ち込みますと、わが憲法の改正においてももっぱら国会議頂でなければもとの原案を出すことはできないということになるのでございますが、私の申し上げたいのは、アメリカにおきましても、この結論は、合衆国憲法五条すなわち改正手続の規定からは出てこない、直接には書いてないのであって、そうではなくて、むしろ第一条と第二条――合衆国憲法第一条は国会の立法権を規定した条文でございます。第二条は、大統領の政府の行政権と申しますか、執行権を規定した条文でございまして、ちょうど日本の憲法の第四章と五章に当たるものでありますが、この関係、アメリカにおける国会と政府の関係、一条、二条の関係から、もっぱら法律案、憲法改正案すべて国会において審議さるべき議案は国会議員が出すべきであるという結論が出るのでございます。改正手続の規定からではなくて、さかのぼって立法権、行政権の基本的な関係がアメリカにおきましては厳格な権力分立をとっておる。でありますから、政府の方、行政府の方から立法府の仕事について口出しをすることはできない。原案を出すことはできない。この一般的な原理によりまして、法律案と憲法改正の区別なくすべてそういった議案を政府から出すことができないという理屈になるのでございまして、これと改正手続の規定とを総合いたしますと、結論は、国会議員のみが改正の原案を出すということになるのでありますが、改正手続の五条だけでは、その点何ら明らかにされないのでございます。  この論法と申しますか、そこから考えますると、わが憲法においても、当初申し上げたように、九十六条の規定ではいずれとも答えが出ない。とにかく、国会を三分の二以上で通った原案、改正案を国会の名において国民投票にかけるのであって、内閣から国民投票に付することはできない。この点は明確でございますが、国会の審議をする原案がそもそも国会議員の方から出されるのかあるいは政府から出すことができるかにつきましては、いずれともこの九十六条の規定では答えが出ない。その点は合衆国憲法五条と全く同様に考えるのであります。  そこで、これに関連いたしまして、日本の場合は、一体、九十六条を離れまして、国会と内閣、憲法の四章と五章の関係でどうなるかと申しますと、御承知のように、この点、わが憲法はイギリス型の議院内閣制をとっているのであります、この一々は御承知と思いますからはぶきますけれども、総理大臣を国会議員の中から指名するのであり、大臣の過半数は国会議員でなければならない。不信任決議があれば内閣は総辞職あるいは策議院の解散を行なう。こういった点は、いずれも合衆国憲法に見られない特色でありまして、この点、私はイギリス型の憲法と見るのであります。  もう少しこれを言いかえますると、憲法四十一条を見まして、国会は国権の最高機関ということが、大原則があがっております。いろいろこの点は憲法改正論になると議論のあるところでございますが、現行憲法の解釈といたしましてはきわめて明確でございまして、最高機関でありますから、わが国会はこの点でアメリカ型の国会とは違っている。アメリカのコングレスはアメリカにおける最高機関ではない。それは三つの権力の一つにすぎないのでありまして、大統領の政府、あるいは司法権を持っておる裁判所、この三つを比較いたしますと、決して国会が最高の地位を持つとは言えないのであります。これはもうこれ以上申し上げる必要はないきわめて明白なことでございまして、最高機関という国会は、これはイギリスの憲法の上で明らかであり、また、従来のフランスの憲法のとっておる立場でございます。フランスの場合は、国民の総意、ヴォロンテ・ゼネラールというのは、実は国会のことである、国会の議決が当然国民の総意であって、そのほかに国民の総意を尋ねる必要はない、こういう考えでありまして、だから、従来は、内閣が国会の議決を総意に反するかという疑いで解散を行なうことを許さなかったのであります。イギリスの場合にも、男を女にし、女を男にする以外は何でもできるというふうに普通言われますが、全く万能の国会でありまして、これは日本の憲法以上の、日本の国会以上のものと思うのでありますが、とにかく、そういう絶対の優位を占めているのでございます。でありますから、アメリカの憲法における国会と大統領の関係ではなくて、日本の場合には、最高機関でありますから、イギリス型、あるいはフランスその他の国を入れてもよろしいのでありますが、そういった議院内閣制をとっておる国における国会と内閣の関係を当然頭に赴いて判断すべきものと思うのであります。  そうなりますと、平たく申しますと、国会は政府と対等の立場あるいは政府と対立するものではなくて、むしろ政府を含むものである。内閣は国会の一つの常任委員会のような立場でありまして、そうなりますから、国会の中から法案を出す、憲法改正の原案を出すということと、内閣の方から出すこととは、五十歩百歩にすぎない。イギリスの例でおわかりのように、もし内閣が出せないということになりますと、総理大臣は衆議院議員の立場で提案すればよろしいのであります。そういう意味で、あまりこれは、――そう言うと、はなはだ、日本の国会の御議論、私は実情にうといから申すので、当たっていないかと思いますけれども、われわれの力では、どうも、議院内閣制をとっておる場合には、この内閣から出せるか出せないかということを議論しても、それほどの実益はあるまいというふうな見方もあるのでございます。  そこで、最後に、第三点でございますが、イギリスの場合を引き合い出にしまして、イギリスにおいては、今私も申しましたが、法律案、これは憲法は区別しておりませんけれども、法律案を出す場合に、政府から出すと言わないで、これを国務大臣が国会議員の立場において提案しているのであって、だからこれが日本の憲法の場合にも参考になるのではないかという御意見があるかと思うのであります。これは、しかし、私の考えでありますると、イギリスの場合は形式的に名目上は国会議員の資格において出しておるのでありますが、これは、イギリスが昔からの歴史・慣例を重んずるからでありまして、十三世紀ごろに、マグナカルタの少しあとでございますが、工ドワード一世あたりからもうすでに請願の形でもって法律案を国会が君主の方に出す。この場合は、だから、請願でありまするから、議会から出した法案を、主としてこれは衆議院でございますが、国王が採択するかどうかもわからない。場合によっては内容を変えて適当に訂正した上で法律にしてしまうということは昔はあった。こういう中世以来の慣例がございまして、請願という形になりますと、どうしても政府から出すというのは筋が通らない。こういう意味で、名目上は今日なお古めかしい中世以来の慣例を尊重しているのでございますが、実際は、大臣が議員の資格において出す場合も、それは単なる一議員として出すのではなくて、政府案という扱いでございます。それはその背後に内閣の責任というものが認められるのであります。これは言葉の上でもガバメント・ビルという言葉になっておりまして、政府案でなくて日本でお考えになるような議員提出の法案でありますと、それはプライベ-ト・メンバース・ビル――プライベ-トという言葉はちょっと穏やかでないようでございますが、それは政府のメンバーでない一般の議員の方をプライベート・メンバーとイギリスでは申しておりまして、プライベート・メンバ-のビルである、こういうふうに明確に区別をし、そうして、もうすでに十九世紀の終わりごろからはこのガバメント・ビルが圧倒的に優勢でありまして、国会の上でもこのプライベート・メンバース・ビルとは非常に区別をされている。議事手続の上でも優先的に扱われている。また、通過する法律を見ましても、複雑な内容のもの、政治的に重要な意味を持つ法律案は、ほとんどがこのガバメント・ヒルということになっておりまして、統計を言ましても、すでに、十九世紀末、二十世紀になるその前後、一八九五年あたりを見ましても、それから、一九00年、その後の統計もございますが、こういった古いものを見ましても、すでにこのガバメント・ビルが圧倒的に多いのであります。こういうふうに、名目は政府から出す場合にも議員の肩書きを使うのでありますが、実際の政治の上においては、これはプライベート・メンバース・ビルとは明確に区別されている。日本の場合、今どういう御議論になっているか私存じませんけれども、かりに総理大臣が衆議院議員の肩書きでもって出されるのであれば、閣議できめて、正式に政府の責任において提案する場合であっても、それを衆議院議員という資格で出されるか、あるいはあくまでも政府の名義で出すべきか、そういう議論になりますると、私は格別考えはないのであります。名目上のことでありますから、おそらく実際の政治にはほとんど影響がないことだと思うのです。そうではなくて、実際に名目ではなく政府の責任において閣議できめて国会に出すことができるかどうか。憲法改正の原案を出す場合でございますが、この問題になりますると、イギリスと同様に、わが国においても国会議員がプライベート・メンバースの立場においてお出しになるということはむろんおできになりますけれども、他方において、ガバメントの立場で出すということも、イギリスの例にならいますと当然できるのでございます。  そういう意味合いにおきまして、私は、以上三点を通じまして、結論は、初めに申し上げましたように、九十六条の規定からはいずれとも答えは出ない、しかし、基本的に国会の第四章、内閣の第五章、この憲法の規定にさかのぼって両者のあり方を見ますと、アメリカ型でなくてイギリス型であるから、従って、政府から出すこともできる、こういう結論でございます。  だいぶ時間を超過したようでございますから、以上をもって一応私の意見を終わります。(拍手)   〔青木委員長代理退席、委員長着   席〕
  59. 山村新治郎

    山村委員長 次に、鈴木公述人にお願いいたします。
  60. 鈴木安蔵

    ○鈴木公述人 本日公述を委嘱されました事項は、昭和三十一年二月十一五日、当衆議院予算委員会においてすでに私の見解を申し述べた事項でございます。当時の議事録をごらんいただくと私の立場は明らかなのでございます、しかし、重ねての御委嘱でありますから、私見を以下述べるのでありますが、単に同じことを繰り返しても、せっかくの機会を無にするようなものでございますので、前回申し上げました結論はあえて繰り返しませんで、若干学界におけるこの問題に関する見解及び前回申し述べなかった論点についで主として申し上げたいと思います。  最初に、一々学界のあらゆる学説をここで申し上げることは必要もございませんので、注目すべきものを二、三御紹介いたします。  註解日本国憲法は、九十六条を解釈いたしまして、第九十六条の趣旨は、初めから政府からは独立して国会の内部だけの手続によってなされなければならないという意味まで含んでいると見るのが妥当である、国会がこれを発議しという言葉のうちに、当然、現行法の言葉で申しまするというと、改正案の発議ないしは提出それ自身が政府から独立して国会の内部だけの手続によってなされるべきであるということをこの点意味していると解するのが妥当である、すなわち、憲法改正の発案は、国会がこれを発議しという場合の発議の手続の一部分をなすものと言ってよい、こういう見解であります。私見と同様であります。  また、浅井博士の見解は、新憲法の制定者は日本国民であるから、これを改正することも国民の手でなさるべきである、しかし、改正案を具体的に起草することは、国民全体が直接にこれをなすことは不可能であるから、特に憲法改正のための国民会議のような制度を採用しない限り、国民の代表者たる国会がこれに当たることが最も自然なやり方である、すなわち、これも国会内部において政府から独立に起草、審議、一切をなすことが憲法の趣旨であるという意味であります。  また田畑教授の見解はさらにきびしいのでありまして、第九十六条で明らかなことの一つとして、内閣には憲法改正に関する権限が定められていないということである、九十六条の意味は、国民が憲法改正権者であるということ、国民の代表機関としての国会が改正案を決定して国民に提案するのであるということ。もう一つ、内閣には憲法改正に関する権限が定められていないということ、すなわち、その当然の結果として、内閣は憲法改正について準備する権限もなく、また、国会が改正案をきめるための前提として内閣が憲法調査機関を用意することすらも許されないとすることが第九十六条の趣旨であると言っております。  もう一つ、最後に橋本教授の意見を述べますと、ほぼ浅井博士ないしは註解日本国憲法と同意見でありますが、第九十六条が、国会の発議について定めており、その発案について何らの規定も設けていないことは、発議が全体として国会以外の機関の関与を排し、国会のみが発案、審議、議決するものであることを意味していると見るべきであると言っております。  学界における説は、普通多数説とか少数説とか通説というような言葉を使われておりますが、これは非常にあいまいな概念でありまして、若いある憲法学者が指摘したように、一体今の学界でこういう説について賛成者何名、反対者何名というふうに投票したことがあるのか、あるいは集計したことがあるのかというふうな皮肉を言っておりますが、まさにそうでありまして、また、かりに多数である、少数であるといたしましても、学者が知恵をしぼって研究するのではありますけれども、そのときの少数説があとになってみてやはりそれが正しかったというようなことがあるのでありますから、そういう意味で受け取っていただきたいと思います。以上述べたような見解は必ずしも少数説とか一部の学者の説でないということを申し添えておきたいと思います。  そこで、私の見解も、第九十六条の解釈に関しては、前回申しましたように、ほぼ同意見でございますが、日本国憲法自身の解釈に立ち返って考えてみたい。  御承知のように、明治憲法においてはこの点まぎれがございませんでした。憲法改正に関しては言うまでもなく、一般の立法作用につきましても、旧憲法三十八条は、明確に、「両議院ハ政府ノ提出スル法律案ヲ議決シ及各各法律案ヲ提出スルコトヲ得」、こういう規定を一般の立法作用について置いてあります。そこで、日本国憲法において、まず第一に、立法作用はどのように考えられておるか。憲法改正の作用は、私の考えるところでは、やはり広義の立法作用の一つである、しかし、一般法律案の議決と違いまして、特に憲法第九十六条の示しておりますように、憲法改正作用は国会と国民みずからとが共同して行なうところの特殊の立法作用である、こう考えるべきであると思います。しかし、広義の立法作用であることには変わりがないのでありますから、まず日本国憲法において立法作用についてどのように定めているかということを考える必要があろうと思います。そういたしますと、憲法第四十一条は、国会が国の唯一の立法機関であるということを定めております。制定者の憲法制定過程における法技術的な欠陥というようなことをあえて申しますならば、そういう点が若干あったと思いますが、明治憲法におけるように、これ以上明確な立法作用についての規定を置いてない。しかし、憲法においてこの条文以外にないとするならば、私どもの態度としましては、この四十一条の国の唯一の立法機関であるということを最も尊重して、これを中心に考えるのが当然であろうと私は考えます。そういたしますと、学界においても問題になっておりますように、憲法第七十二条における内閣総理大臣が内閣を代表して議案を国会に提出するということの議案のうちに法律案が入るかどうか、当然この問題が浮かんで参るのであります。私の解釈するところによると、それは入らないのでございます。なぜならば、第七十二条は、行政権、内閣に関する章の一条でありまして、憲法構造上当然のこととして、そこに定められてある議案は、行政作用に関する議案でなければならない。立法作用については国会の章に定められておるのであって、しかも国会が国の唯一の立法機関であるという定めがあるのであります。立法作用というのは、言うまでもなく、日本国憲法におきましては、単に提出された法律案を審議し、あるいは修正し、あるいは可決ないしは否決する作用を言うのでないことは説明するまでもございません。およそ、立法過程において、これはもう皆さんに申し上げるまでもないのでありますが、論理の順序として申し上げまするならば、原案の起草、いな、その前にどういう法律案を一つ出そうではないかということは、きわめて重大な決定的な段階でございます。  後ほどに時間がありましたならば触れたいと思いますが、今日イギリスにおいて議院内閣制という過程のもとに政府案が優先的に議事の日程の大部分を占め、多くの重要法案がガバメント・ビルとして提出されておることは現実でございますが、こういう事態に対してイギリス自身において多くの理論的問題が出されております。たとえば、比較的最近の一九五八年のヘンリー・八一ヴェイ著の「ブリティッシュ・ステート」という文献においても、このイギリスにおける立法過程を批判いたしまして、およそ立法作用は上程されるまでの準備過程と議会において審議されこれが通過する過程とこの二つに分け得るけれども、しかし、あらゆる法律案について見るならば、その上程されるまでの発想、アイデアを抱く、またそれを法文に書き表わす、そうしてそれを一走の時期に上程しようとする、その段階は、まあ原語で申しますと、バイ・ファーゼ・モスト・インポータントである、最も重要な段階である、国会における現在の完成された議会政治のもとにおいては、政府と反対党の議席数はすでに明瞭でありますから、国会自身に一たん提出された後において、あるいは修正する機会もこれはもちろんあり得る、しかし、それは非常に望み少なく、かつまた、現在のイギリスの議事法手続によると、一たび政府案として提出されたようなものについては、一般の反対党議員といわず、個々の議員が修正動議を出したりあるいはそれを否決するというようなチャンスはもうほとんどなくなっている、だからこそ、一そう、議院内閣制のもとにおいては、議案が起草されそれがいつ提出されるかというようなこの前段階が非常に重要なのである、しかるに、現在の議院内閣制はその点において非常に欠点がある、こう言っている。でありますから、少し講義めいて参りますけれども、たとえばラムゼイ・ミューアというような、私ども学生時代から非常に勉強したイギリスの自由党の代表的な憲法教授でありますが、その人のもの、また、現在イギリスにおけるやはり代表的な自由主義的な憲法学者であるジェニングスの「キャビネット・ガバメント」であるとか、こういうものは、イギリスの議院内閣制を、キャビネット・ディクテーターシップの体系である、内閣の独裁の体制である、その点におい七は、たとえばミューア教授のごときは、ソ連やかつてのヒトラーの執行権独裁の体制と変わるところはないのだ、イギリスの伝統的な憲法理論の観念から言うと、内閣は下院の一委員会である、ア・コミティ・オブ・ザ・ハウス・オブ・コモンズであると観念されているけれども、そうでない、マスター・オブ・ザ・パーラメントである、つまり、そういう地位になっているのだ、それだけに、かつてのイギリスの議会政治の理念は、今日そういう執行権の優位によってくつがえされている、ただし、全体主義国家と違うところは、イギリスにおいては政府に対する批判の自由があり、選挙のたびごとにそのディクテーターであるところの、独裁者であるところの内閣が交代する、これによって辛うじて民主主義の原理が生かされているのであるけれども、しかし、ビクトリア朝において完成しようとしたイギリスの議会政治は今日その本質を失っている、こういう批判がたくさんあるわけであります。従って、日本国憲法は、もちろんイギリス、アメリカ等のすぐれた民主主義の経験ゆたかな国々の現実の政治から学ぶこともちろん必要でありますけれども、あくまでも日本国憲法自体の構造をまず正確に把握することによって、いたずらに外国の憲法がどうであるとか、どこどこの国政の状態はこうであるということに最後の論点を求めない態度が私どもには必要ではないかと思う。  そこで、立ち返って憲法を考えてみますと、第七十二条における内閣総理大臣が提出する議案というのは、具体的に申しますと、憲法第七十三条においてそのおもなるものが定めてあることは申すまでもございません。何ゆえに第七十三条の定めがあるのであろうか。内閣は行政権の最高機関であることは憲法上明らかであるならば、あえて行政作用に関する主要な事項を憲法自体に定めるまでもないのでありますけれども、憲法は特に一定の立場から第七十三条を置いておる。そうしますと、そこにはおよそ行政作用として、行政権の最高機関である内閣が、当然憲法の明記がなくてもなし得ることを皆さん御承知のように書いてある。たとえば予算案の提出であるとか、あるいは法律を誠実に執行するとか、国務を総理するとか、しかし憲法第四十一条の規定があるにかかわらず、もしもそういう国の唯一の立法機関としての国会の権限に相関連するようなことを、内閣が議案として、つまり法律案を提出するという形においてなし得るならば、この第七十三条に当然のこととして法律案を提出する、こういう一条がなければならないと私は考えるのでございますけれども、ことさらに行政作用のうち、少なくとも重要なものを一般行政事務のほかに列挙してあるにもかかわらず、そこに立法作用については何ら定めるところがない。ただ一つ当然のことでございますけれども、内閣が法律の委任を受けた場合には政令において罰則を課することができる。その前に、内閣は政令を、憲法及び法律を執行するために制定することができる、いわゆる副立法権、これを定めております。それだけのことを定めるにも第七十三条の六号を置いてあるのであって、ましてや肝心の法律案を提出できるというような、国の唯一の立法機関に対して内閣が相関連するような重要な事柄が、もしも憲法が認めるといたしまするならば、第七十三条において当然そのことの明記がなければならない。憲法全体の構造を見ると、第七十二条にいうところの議案を提出するということは、行政作用に関する第七十三条の明記するような、そういう事柄に関する議案を提出する、こういう意味でなければならないというのが私どもの解釈でございます。でありますから、この憲法が制定されましたときに、私どもの間において、私個人ばかりではございません、この法律は従来のイギリス型の議院内閣制やあるいは明治憲法のもとにおけるように、政府が法律を提出できないことになってしまう。それでいいのだろうか、実際政治の面におい七不便ではなかろうかということで、公の論文著書において意見を出したことがございます。  さて、以上のように解釈するのでありますが、翻って本委員会においても問題になったように速記録を拝見するのでありますが、現行内閣法及び国会法を見ると、以上のような憲法の立場、私どものとっております憲法の立場をとっておらないと考えられるのでありまして、言うまでもなく内閣法第五条においては、政府提出の法律案という言葉がある。また現行国会法におきましても、第五十八条等を見ると、内閣が国会へ法律案を提出する、とこういうふうに書いてある。これは憲法を法律によって変更する行為なのであります。こういうことはいろいろございます。そして今日におきましては、もうこれは申し上げるまでもなく、国会における過去の立法を見ますと、重要な立法は多く政府提出議案で、国会議員提出議案というのは数においても少ないし、比較的重要なものはない。すでに四十回にわたる国会において、そういう慣行が積み重ねられ、いわば客観的にこれをながめますと、一つの慣習憲法として確定しておる。内閣法第五条、国会法五十八条等はそういう意味において憲法の法理に反するけれども、肝心の国会自体においてそれでよろしいという取り扱いをなさったのでありますから、私どもは慣習憲法化しておる、こう考えるのであります。のみならず、そもそもこの日本国憲法の私どもが解釈しましたような解釈を、当時の関係者はとらなかったとみえまして、もう一つ例をあげておきますと、両院法規委員会、これは昭和三十年の国会法改正によって廃止されておるようでありますが、この両院法規委員会の最初の規定を見ると、やはりひとしく当然政府は法律案を提出できるというふうに考えておったことは明らかでありまして、両院法規委員会は両議院及び内閣に対し新立法の提案並びに現行の法律等に対して勧告する、これはまあ私どもの解釈からいうと、驚くべき明治憲法的な、あるいはイギリス型の議院内閣制の、ただいま批判したような面をそのまま採用した関係者の立案だったと思います。さすがにこの両院法規委員会に関する規定は多少批判が出たと見えまして、昭和二十三年法律第八十七号をもって、内閣に対して新立法の提案並びに現行の法律等に関して勧告するという点は削除されまして、国政に関し問題となるべき事案を指摘して両院議院に勧告する。新立法の提案または現行の法律及び政令に関して両議院に勧告する。きわめて正当に訂正されております。しかし内閣法第五条その他国会法関係条文においては、依然として政府が当然法律案を提出できるという最初の規定がそのまま踏襲されているのであります。  ところで私は慣行憲法化したと申しましたけれども、これは決して今後起こるべきあらゆる立法作用に関して、内閣法第五条にこう書いてあるから、国会法にこう書いてあるから従ってこうだという、こういう議論の根拠にすべきものではない。慣行憲法でありますから、これが国会自身において、国民自身において不当であると考える場合は、その慣行を通して改める。私個人としては憲法の解釈からいうと、それはやがて改められることが望ましいと考えられるのであります。  さて、以上は一般立法作用についての日本国憲法の立場でありますが、次に憲法改正作用について私の見解を、つまり日本国憲法はいかなる態度をとっておるかということを申し上げるのでありますが、これはすでに紹介いたしました学者の説明、また昭和三十一年三月十五日の当委員会における私の陳述に尽きておるのであります。すなわち憲法九十六条は言うまでもなく憲法全体の構造の上に存在する一条でございまして、すでに立法作用について国の唯一の立法機関であるという定めをしておる。また第七十二条にいうところの議案は、法律案を含まないという立場に立ち、かつまた憲法改正作用が単なる立法作用ではなくして、国会と、国会だけに委任しないで、主権者国民みずからが国会と共同して相ともに確定するところの、広義の立法作用であるという立場に立つならば、一そう一般の立法作用について述べた立場が徹底されるべきであることは言うまでもないと思う。すなわち憲法における国会と内閣との地位を考えてみた場合に、言うまでもなく国民が直接にみずから選定し、またみずからの意見をあるいは請願し、あるいは議院に対していろいろと発言して、直通し得るのは言うまでもなく国会である、もちろん内閣は現行憲法のもとにおいても、国会において多数を占めた政党によって構成されるのが現実でございますけれども、憲法構造上、国会にまさって国民と直結するものでないことは言うまでもありません。従ってこの主権者国民立場から申しますならば、およそ最高法規である憲法を改正する場合に、何よりも先にみずからの意思を伝達する機関は国会でなければならぬ。さらに現行憲法には設けてありませんけれども国民自身が憲法改正について発案し縛る、そういう制度があっても、主権者国民の憲法制定権、憲法改正権の立場からいえば妥当であると私は考える。しかしそういう国民発案の制度が認められておらない現状、特にこのみずからの代表機関であるところの、従って主権者国民の代表機関であるからこそ、単なる立法機関として以上に国権の最高機関たる地位が、憲法で与えられておるところのこの国会自身が、国民の名において、国民にかわって重要な改正作用の第一段階であるところの着想、起草、その提出、それを国会みずからが決定すべきであるというのが、当然憲法の全体の構造から要求をされるところであると考えるのであります。従って私は第九十六条は、直接この改正案の発案ないしは提出については定めていないけれども、しかしそれは以上のような論理からして、当然に国会の内部において、政府から独立に行なわるべきである、そういう法理の上に立っていると解するのであります。そうして学界においてはこのほかにも、どららに解釈するにしても、これは先ほども公述人から御指摘、御論及がありましたけれども、内閣総理大臣といわず、国務大協は国会議員としてやれるのだから、実際は実益のない理論問題ではないか、こういうふうに言う学者が多いのであります。しかし私はやはり若干違いがあると思う。つまり内閣が、現行憲法のもとにおいては一定の政党内閣である。政党内閣であるのみならず、行政機関の最高機関たるにとどまるのである。憲法上の地位が違う。しかし国会は全国民の代表機関であり、国権の最高機関である。そういうところが、人は変わって毛、内閣総理大臣として、あるいは国務大臣として、政府案として提案されるよりも、国会議員として、国会内部において十二分の起草の手続、審議等をなさった上で提案されるということの力が、憲法の要求するところに適合すると考えるのであります。従って、私は第九十六条の国会が発議しということ自身は、その発案、提出自体の行為についても国会が独占する、そういうことを憲法は定めていると解するのであります。(拍手)
  61. 山村新治郎

    山村委員長 それでは、これより両公述人に対する質疑に入ります。質疑の持ち時間は、特に憲法問題でございますので、一人の持ち時間十分以内ということに取りきめます。  まず稲葉修君。
  62. 稻葉修

    ○稻葉委員 両公述人にお尋ねをいたしますが、まず憲法改正の原案の提出権が国会のみにあるというのと、政府にもあるというのと、両説あることは承りましたが、普通の法律案と憲法改正の議案とを区別して、法律案については政府にも議院にも提出権があるけれども、憲法改正の原案の提出権は国会のみに限るという説と、両方とも、すなわち憲法改正の原案についても普通の法律案につきましても、両方とも政府及び議会の両者にあるという説と、鈴木公述人の、言われるように、普通の法律案についても、また憲法改正の議案についても、それは国会のみにあるのであって、政府にはないという説と、三通りあるように思いますが、はたして、学界の説を分類すれば、そういうことに理解してよろしゅうございましょうか。
  63. 田上穣治

    ○田上公述人 大体今のお話の通りだと思います。ただ、たまたま、きょうここで申し上げておりますのは、法律案を出す場合と憲法改正の原案を出す場合とについて、同じ見解をとっている立場でございますが、鈴木教授と私以外の、なお第三の立場というのは確かにあると思っております。
  64. 鈴木安蔵

    ○鈴木公述人 稲葉議員の御質疑になったように理解してよろしいかと思います。
  65. 稻葉修

    ○稻葉委員 本日お見えになった両先生は、一方は、憲法改正の原案についても法律案についても、議会及び政府に議案の提出権がある。鈴木公述人の方は、両方とも議会だけにあって、政府にはないんだというのであって、第三の立場である、憲法の改正案と法律案とは区別して、法律案については政府にも議会にもあるけれども、憲法については議会だけにあるという所説の学者の公述を得ることができなくて、その理由とするところも、多少御両人とも触れられましたけれども、そういう立場の詳しい御議論を承ることができなかったのは残念でありますけれども、そこで私は、普通の法律案についても議会だけに提案権があるのであって、政府には提案権がない、こういう立場からいたしますと、今日まで、内閣法及び国会法に規定する、政府が法律案を提案することのできる規定は、簡単に言えば憲法違反の法律であるというふうに、鈴木公述人はお考えのようでありますが……(「そんなこと言っていない」と呼ぶ者あり)そう言っておられませんか。
  66. 鈴木安蔵

    ○鈴木公述人 憲法の法理に反するということは、内閣法、国会法――申し上げました条文が憲法の解釈を誤まっているという意味で、憲法違反である。しかし憲法違反であるということをどういうふうに現実にきめるかというと、ことにこの問題は国会内部の問題でございますから、国会自身でそういうことが問題が提起されない。ずうっとその慣行に従って、すでに第四十回国会ということになっておりますと、私どもはそれを理論的に憲法の法理に反する、適切でない、こう判断いたしまして、将来改められることを希望するだけである、そういう意味でございます。
  67. 稻葉修

    ○稻葉委員 そういたしますと、もしこれが裁判所の問題になりまして、政府提案の法律は、憲法の解釈上法理に反するということで、無効になるという判決が行なわるべきだとお考えなんでしょうか、そこまではお考えではないんでしょうか。
  68. 鈴木安蔵

    ○鈴木公述人 あとう限り日本国憲法の法理が貫かれることを希望いたしますから、先ほどの公述にも申し上げましたように、やがて、こういう慣習憲法化しておる現行法規が改められることを希望するということを申し上げました。
  69. 稻葉修

    ○稻葉委員 慣習憲法は――慣習法の成立の要件として、私どもは、成文法の規定がない場合、あるいは成文法の規定が、各いろいろに解釈されるよう心、疑わしい場合に限らるべきものであって、先生のように明確に憲法四十一条、憲法七十二条、七十三条を引かれて、従来法律案を政府案として提出し、これを議決してきたやり方は、憲法の明文に反するのだというところには慣習憲法の生ずる余地はないのではないかというふうに思うのでありますが、いかがでありましょうか。
  70. 鈴木安蔵

    ○鈴木公述人 幾らでもお答えいたしますが、稲葉委員の言われたことは、たとえば民事法規に関しましては法令の明文もございますし、実際の裁判例においても。また民法典自身の中にも、ただし慣習のあるときはこれによるとか、御承知の通りあります。しかし、憲法関係については、もうあなたは御研究なさっておるから、学生に言うようなことを言う必要はないと思いますけれども、イェリネックのフェァファッスンクスエンデルンク、フェアファッスンクスフェアバンドルンク、つまり、憲法の改正によらないところの憲法の変遷がある、こういう区別をいたしておりまして、政府なり国会なりが絶えずあることを反復して行なって、それが合理的だと認められているというと、憲法の改正がなくても、実際は憲法が改正されたと同じような変遷状態を生ずると言っておりますが、それに当たると思うのであります。  たとえば、せっかくのお言葉でありますからもう一つ出しますと、解散権の問題でも、当国会自身において――学界においても問題になりましたが、今日においては第七条によって政府が随時なされる。これも私どもから言うと必ずしも――私は、しかし政府が、内閣が必要と認めた場合に解放権を行使することを、日本国憲法は認めておるという解釈でありますよ。ただし、第七条にその根拠があると私は考えない。しかし、学界においては、内閣が現在までやってきたような形において解散権を行使することは、憲法に反するという意見が相当ある。またこの国会自身においても、かつては第六十九条以外の場合には憲法上解散できないのだといって、わざわざ不信任案の事案を出すといったようなこともございましたでしょう。しかし、今日そういう問題はほとんど理論問題にとどまっておる、これと同じであろうと思います。
  71. 稻葉修

    ○稻葉委員 直接この問題と関係ありませんけれども、そういたしますと、議会なりあるいは政府なりが、憲法の明文上疑わしいと思われるような問題について、長い間慣習的にいろいろなことを積み重ねるというと、フェアファッスングスフェアバンドルンクが行なわれて、それが憲法になってしまうということになりますと、憲法第九条のような場合でも、自衛の軍隊は持ち得ると解釈する人もあるし、持ち得ないと解釈する人もありますね。そうして実際に自衛隊法を作っておりますね。そうして自衛隊法に基づいて自衛隊が存立して、いろいろなことをやっておりますね。十年も経ておりますが、十年も経たら大体慣習法が成立したと見るべきものでしょうか。
  72. 鈴木安蔵

    ○鈴木公述人 だから、私どもは、この憲法のそういう変化、変遷、イェリネックは変遷というきめのこまかいことを言っておりますが、これは変化と言ってもよい。憲法の変化が憲法改正の手続を経ないで行なわれることは、日本国憲法の要求するところではないのであって、そういうことはあるべきものではないと私どもは考えております。だからこそ私どもは、現行憲法第八十一条は大陸型の憲法裁判所をも認めているというふうに考えて、なぜ憲法裁判所が日本国憲法のもとにおいて存していないか。しかるに――これまた問題が大きくなりますが、現行の裁判所法は、終始一貫してアメリカ型の単なる上告審という権限きり置いていない。だから、かりに自衛隊は憲法違反である、自衛隊法は憲法第九条に違反するという訴訟の出しようがないという現実の問題があるのであって、これが一つの回答。  それから、ただいまの、重要な問題でありますから簡単には要約できませんけれども国民の間において、いな、国会の議員の間において、それは違憲の存在ではないか、憲法を無視する政府の処分ではないかというようなことが、絶えず問題になっているような場合には、慣習憲法として確立しておるということは言えない。国会法や内閣法に関して、国会において、今後何年かの間に、今まではそういうふうにやってきたけれども、どうも憲法問題の本来の趣旨からいっていけないから改正しようじゃないか、こういう議論が起こってくれば別でありますが、それはそう起こっていない。自衛隊の問題に関しては、以上のようなものといささか違って、慣習憲法化しているというところまでは言えないのではないかと考えます。
  73. 稻葉修

    ○稻葉委員 慣習憲法の問題と、内閣提出の憲法改正案についての問題とは、直接関係ありませんから次に移ります。私は別の立場であります。先生のそういうお説をまだ十分納得いたしませんですけれども、先へ移ります。  先ほどあげられた憲法改正案についてのみ――普通の法律案は、先生立場と違って、国会にも内閣にもあるという立場の鵜飼さんとか、あるいは先ほどあげられた橋本公亘君とか、あるいは浅井さんとか、註釈憲法の説であるとか、そういうものについて私の考えはこうなんですがと申し上げて、それが間違いなのかどうか承りたいのです、参考のためですが。国民主権ということと、国民がある事柄についてすべての場合に国家意思を直接決定することとは関係しない、申し上げるまでもないことでありますけれども、ただ、日本国憲法第九十六条の、日本国憲法の改正については特に国民投票という手続を命じてあるからそうなるのであって、国民主権を明確にする憲法下におきましても、各国憲法、たとえばドイツ憲法のごとき、憲法の改正について、国民投票によらないで、国民の代表たる議会の多数議決でなし得る、それでもって足るというふうに規定してあるものもあるのでございますから、憲法改正について、国民主権だから直接国民投票をもってその改正の国家意思を決定しなければならないと定めてある精神に照らして、起草、審議、それから国民に対する議会意思の決定、発議、これら一切を含めて国会のみにその権限を保留した規定であるというふうに九十六条を読むのは、必ずしもそう読めるものではないのではないか、九十六条は、国民主権によって、憲法改正という最終的国家意思の決定は、一つの要件として衆参両院おのおの総員の三分の二、これによる発議と、この発議を受けた国民投票、この共同決定でもって国家意思がきまるのであり、その以前の起草等につきましてはこの憲法の規定それ自体からは直ちに出てくるようには思えないのであります。もうー度申しますと、憲法がふつうの法律と違って重要な問題であるから、普通の法律については政府も提案権があるけれども、憲法の問題は国会のみにあるんだ、こういう説は、憲法は事柄がきわめて重大だから、普通の法律とは区別するということを根底とするのでありましょうが、それは改正手続を普通の立法手続と異にして、加重多数をもってする発議、さらにこれに加うるに国民投票を経なければならないという厳密なる手続を命ずることによって十分達せられるのではないか、普通の法律と憲法改正という重大問題との区別はですね。そういうことでもって足りるのであって、すべて議会における審議の対象となる議題そのものの提出者も、議会そのものでなければならないということまでを命じてある規定ではないというふうに理解することはできませんか。私はそういうふうに理解すべきものと思うのであります。
  74. 鈴木安蔵

    ○鈴木公述人 一番最初のお話では、浅井、鵜飼、橋本、こういう諸教授の学説についての御質問ということでございましたけれども、そういう人々の考え方はちょっと私ここで申し上げられないので、別に直接お呼びになって……。ただ、稲葉委員のお話を聞いておると、私の理解する限りでは、稻葉委員の見解と違って、おそらくそういう学者が、私と違って、一般の法律案についてはまあまあイギリス型の議院内閣制というふうな立場から、政府に提出権もあるというふうに見ても日本国憲法に反しないだろうという立場をとりつつも、憲法改正については特にそれを認めないというのは、あなたの御意見と反対な立場からやはり区別すべきだという、そういう立場に立っていられるのだろうと思いますが、ちょっとほかの学者のそういうところまで代弁するわけに参りませんので、この辺で一つ……。
  75. 稻葉修

    ○稻葉委員 それはごもっともだと思うのですが、先生が先ほど憲法改正案については、普通の法律案と違って、国会だけに原案の提出権も保留されているんだというのが多数これこれあって、それは少数説とか多数説とかいうふうにはきまらない、そういう学者もたくさんある、こういう仰せでありましたから、それらの学者の理由とするところは那辺にあるか、こういうところまで突っ込んで、その理由は当たらないのではないかというふうに私は申し上げているのです。たとえば橋本公亘教授の「憲法原論」に「憲法改正の発案と法律案の発案とを同視することは、理由がない。法律案は、複雑多岐にわたっており、法律執行の任にあたっている内閣が、法律案の発案をすることは、実際問題としても適当であろう。」これは先生の説と違うところでありますね。この点は。「しかし、憲法は国の根本法であり、且つその改正は滅多にあるわけではなく、法律案の提出と区別する充分の理由がある。」そういって、その理由として「憲法第九六条が国会の発議について定めており、その発案について何らの規定を設けていないことは、発議が全体として、国会以外の機関の関与を排して、国会のみが、発案、審議、議決するものであることを意味していると見るべきであろう。」というのであって、学者の見解としてこれには理由がほとんど述べられていないのです。その他も大体大同小異でありますけれども、さらに私は突っ込んで、普通の法律案と憲法改正案とを区別する根拠としては、これだけでは理由に乏しいのではないかと思うのです。さらに突っ込んで憲法が重大問題である、こういうことだけなら、普通の法律は過半数でいくけれども、憲法の改正については三分の二、しかもその総員のです。そしてその発議と、さらに国民投票をするという厳重な硬性憲法の性格を与えたことによって足りるのではないか。源にまでさかのぼって、提案もすべて議会に保留さすべきだ、そう解釈すべきだというのは、普通の法律案と憲法改正案とは華が重大だからというだけでは、そこまでさかのぼらせる必要がなくて、三分の二と国民投票の過半数で十分区別されて足りるというふうに思いますが、先生の御説明ではありませんから……。公述人の呼び方が、どうにもしようがないですね。それからまた田上先生に聞こうとしても、田上先生は、普通の法律案についても憲法改正案についても同断だというふうにおっしゃるものですから、第三の学説の代表者がきょう見えておりませんのでどうにもなりませんけれども、参考のため田上公述人の御所見も承っておきたいと思います。
  76. 田上穣治

    ○田上公述人 先ほど大体お話をしたつもりなのでありますが、その考えは二つあると思います。国民が憲法を作り、その憲法によって国会ができ、その国会が法律を作る、こういうフランスの憲法制定権――プーボワール・コンスティテュアン。ドイツにも同じ考え、学説がありますが、そういう立場をとると、憲法改正という作業と法律を作る作業とは質的な違いがあるという憲法を中にとって考えて、その上にある権力か、下にある権力かということで非常に区別する立場があるのは、稻葉委員御承知のところであると思いますが、それに対しては、先ほど申し上げた通り、憲法議会というような制度も、かつてのフランスあるいはアメリカの現行憲法にあるのでありますが、実際には今日はほとんど問題になっていないというようなこと。それから、あとは今おっしゃったように、九十六条ではその点が明確にされてない。勝負はつかないということ。  それからもう一つの考え方は、アメリカの憲法を参考にして、アメリカは憲法改正だけでなくして、法律案についても厳格に国会議員のみが提案できるようになっておるからということなのでありますが、どうも私の考えでは、大体そのあたりで判断するほかはなかろうと考えております。
  77. 稻葉修

    ○稻葉委員 結局、鈴木公述人のごとく、憲法についても法律案についても、議会だけが持っておるのであって、政府には提案権がないという説は別としまして、憲法の改正案と普通の法律案と区別する学説にいたしましても、また田上公述人のように両者とも区別せず、議会にも政府にも提案権があるという学説にいたしましても、田上公述人の言われた通り、わが国におきましては閣僚の過半数は国会議員でなければならぬことに憲法上定められており、総理大臣も国会議員でありますから、結局議論があるならば最終段階において国会議員の資格において出せばよろしい、区別する実益はないということと、学説としては区別すべきである。しかし、実際的な結果は実益はないということとは違うのであって、やはり学者は、学説上は結果の実益がないなどと言うておらないで、わが国の憲法の解釈学説としてはこうあるべきだということを主張されて、そういう解釈がなるべく統一されて、無用な紛争が起こらないことを私は望むのでありますが、こういう点はいかがですか。
  78. 鈴木安蔵

    ○鈴木公述人 でありますから、本日のような公聴会にも、御指名があれば参上して説を述べておるのでありまして、実益がないと言って投げすてておるような態度はとっておらないつもりでございます。
  79. 田上穣治

    ○田上公述人 実益がないということは、たしか私、先ほど申しましたが、これは日本の憲法の場合は、イギリス型の議院内閣制をとっている。だから、結論的に内閣から出すことができる。ガバメント・ビルというイギリスの例をお考えになりましても、できるということを申し上げたのであります。ただそれに付随して、イギリスの場合には、国会議員の名儀で出すじゃないかというような御意見があるかと思いましたので、しかし、それはただ名目だけであって、実際は内閣の責任において、政府案という意味において出しているのである。ただ古い請願の形式、そういう由来、歴史によりまして、名目は国会議員ということになっているということに私の意見の中心があったわけでございます。どちらでもいいのではなくて、日本の憲法は、イギリス流の議院内閣制をとっておる。だから政府提出ということが考えられるのである。その場合に、名目はイギリスのような一応国会議員の資格で大臣が出すということもあり得ないわけではありませんけれども、それはしかし単純に議員として出すのではなくて、つまりプライベート・メンバース・ビルという意味ではなくて、あくまでもガバメント・ビルという、そういう実質的には政府から出すということがイギリスでやっている中心でございますから、日本の場合に、それと区別する必要はない、こういうわけでございます。
  80. 山村新治郎

    山村委員長 それでは次に井手以誠君。
  81. 井手以誠

    ○井手委員 両公述人に対して二、三お伺いをいたしたいのであります。  その第一は、憲法の改正には、その前文に明らかに宣言されておりますように、基本原理というものを改めてはならぬと私は考えておるのであります。すなわち基本的人権、恒久平和、すなわち戦争放棄並びに主権在民というこの基本原理をもし改めるようなことになりますと、これは憲法の自殺であり、一つの革命であると私は考えておるのであります。すなわち、憲法改正の限界があるかどうか、その基本原理を改めていいかどうか、その点をお二人にお伺いをいたします。
  82. 田上穣治

    ○田上公述人 学説は両方あることを御承知と思いますが、私自身は、憲法改正権には限界があるという立場をとっております。先ほど鈴木公述人がおっしゃいましたように、どちらが多数説であるかということは申し上げることを控えますし、また私、あまり価値はないと思うのでございますが、私自身は、改正権には限界がある。従いまして、今御指摘の憲法の基本原理、前文に示されておるような基本原理は、たとい九十六条の手続をとりましても改正はできない。しかし、これはできないというのは、いわば学者なり、あるいは裁判官のような立場で申しておるのでございまして、政治の実際において変わるということ、事実そういう可能性があるかどうか、これを論じているのではないのでございまして、もしそういう基本原則の変わるような事実があれば、私は革命だと思う。これも革命という言葉がいろいろ使われておりまして、あるいは、私はよく存じませんけれども、基本原則を変えない、憲法を改正しなくても革命が達成されるという見方があるかもわかりませんけれども、しかし、私どもが普通学問的に論じます場合は、基本原則を変えることは革命であって、単純な憲法改正でない、九十六条違反である、こういう立場をとっております。
  83. 鈴木安蔵

    ○鈴木公述人 私も、憲法改正に限界があるということは、もう年来著書、論文に示しておる通りであります。ただ一つつけ加えておきますと、ただいま憲法の基本原理ということを申されましたが、学界においてこういう問題が出されております。この憲法は、国民主権の原理に立ち、その主権者国民国民主権原理を宣言し、従ってまた当然のこととして基本的人権の保障ということ、この二つが大眼目であるということは、もう議論の余地がないと思う。しかし、恒久平和主義ということを――これは、その学者は名前をあげれば皆さん御承知の方でありますが、もちろんあくまでも平和主義を守ろうという立場に立っておられるのでありますが、法理論として、恒久平和主義も憲法改正の限界になるということをどういうふうに論理づけるか、国民主権と基本的人権の尊重ということについてはまぎれがないけれども、法理的にどう言うべきかということを、最近の著書においても発表されております。それで、そのことを私は一言申しますと、日本国憲法自身は、何ゆえに国民主権の原理と基本的人権の尊重ということを言っておるか。それは単に人類普遍の原理だからというような、そういう抽象的な立場ではないのであって、憲法自身の前文でまっ先に言っておりますように、政府の行為によって再び戦争が起こらないということを決意した、それから諸国民との協和によるところのそういう友好状態、こういうことを維持するためにここに主権が国民に存することを宣言したと言っているのでありますから、単に国民主権原理と基本的人権の尊重だけが憲法改正の限界点になるのではなくて、その前提をなすところの、政府の行為によって二度と戦争の惨禍が起こらないということ、これが国民主権の原理と基本的人権の原理をさらに根拠づけておるところの憲法の根本的な原理である。それは友人でありますから、僕はそういうふうに解釈する。だから恒久平和主義は憲法改正の限界にならないということを法理的に説明するのに苦しむということはナンセンスのように思われる、ということを言っております。御参考までに。  さらにもう一つは、今までの憲法改正に限界があるという議論は、いつもそういう形でありますけれども、憲法というものは単なる抽象的な文書ではないのであって、一定の歴史的な、具体的な内容を持った国の基本法である。そうしますと、たとえば憲法第四十二条を改正して国会を廃止する、こういう改正案ということをやったらどうなるか。これは、もう普通そういうことは憲法改正の限界点ということには浮び上がって参りませんけれども、これは実際問題として全く憲法政治が破壊される。あるいは憲法第七十六条を改正しまして、司法権は内閣及び政令の定めるところによって設置する下級裁判所に属する、こういうふうに改正したらどうでありましょうか。司法権の独立は全くなくなってしまう。でありますから、そういう点に着目されて、憲法改正の限界点というものは、単に、ただいま井手議員も言われたような、一般的な、そういう抽象的な基本原理ばかりではなくて、もっともっと憲法というものの内容に即した限界点があるということを申し上げておきます。
  84. 井手以誠

    ○井手委員 恒久平和についてはいろいろ論議があるというお話がありましたが、私は、やはり第九条の問題であろうと思います。  次にお伺いしたいのは、問題になっております発議であります。国会法の五十六条に出ております発議、この解釈は、発議とは議案を提議することをいう。これは私はすべての人が認められておるところであると思うのでありまして、議案を提議するということは、審議、修正、採決の前提の作用であると私は心得ておるのであります。発議とは審議の前提の作用である。発議とは原案の調査、立案、提出を含めたものであると私は理解をいたすのであります。国会が唯一の立法機関でありますならば、出されたものを単に修正をしたり討議をしたり採決を行なうだけであってはならぬのでありまして、やはり発議の中には、調査、起草、提案、提出、これが含まれるものと私は考えるのでありますが、この点に対する両公述人の御意見を承りたいのであります。
  85. 田上穣治

    ○田上公述人 先ほど申し上げましたが、私は、憲法九十六条の発議と、国会法あるいは議院規則における発議とは、その用法を異にしていると考えるものであります。けれども、ただいま御質問の点につきましては、まだそれでは答弁にならないと思いますが、国会法などで発議と言っているその趣旨から、あるいはさらに進んで、憲法四十一条の唯一の立法機関ということから、当然この国会の中で立案の作業も最初から行なわれなければならないのではないかという御質問のように拝聴したのでございます。これは確かに問題でございまして、憲法改正案の原案を出す場合だけでなくて、法律案を出すについても同じ問題がある。鈴木教授は、先ほどもお話がありましたように、だから、もっぱら国会の中で、法案についても最初からそれを作る作業をやらなければならないとおっしゃるのであります。私の申しましたのは、この点は違う。結論が違っているのでございますが、それはイギリスの例をとるまでもなく、国会と内閣というものを厳格に分離する立場、アメリカのような国でありますると、政府というものは全く国会とは質が違っている。直接的なつながりがない。だから、国会の中で立案されるか、政府から出されるかということは根本的に違って参ります。つまり、国会外のところで立案になりますると、唯一の立法機関という趣旨に反するわけでございます。ところが、先ほど私の申し上げたように、私の意見は、内閣は、すでに国務大臣の過半数は国会議員であるということ、あるいは総理大臣は常に国会議員でなければならないというふうな点、その他イギリスのような議院内開制をとっておりまするから、内閣において立案の作業が行なわれ、それでこの国会に出されましても、必ずしもそれは国会外のところで、国会とは無関係なところで立案されたというふうに考えないのであります、ということと。それからまた、あと蛇足を加える必要はないと思いまするが、今の御議論は、憲法改正案と法律案とを同様に考えておられるように思いますし、私もそういう意味でお答えしておるのでございますが、一般の法律案などにつきましては、今日技術的な意味もございまするし、またいろいろ作業の点で、大体は十九世紀後半以後のイギリスなどで見られまするように、統制立法とかその他非常に法案の内容が複雑になって参りましたから、そういう意味において、政府から出す方が実際に適しておるということも加えたいのでございます。アメリカのやり方が、少なくとも一般の法案につきましては、学界と言うと何でありますが、たとえば非常に古い話でございますが、ジェームス・ブライスとか、その他アメリカの憲法についてのいろいろの書物を見ましても、決してそれでよろしいというのではなくて、かなり批判的な見方が多いように考えます。しかし、これも多いというだけで、多少を論ずることは、引き合いに出すことはあるいは不正確かと思いますけれども、私自身は、アメリカの制度は必ずしも適切でないというふうに考えております。
  86. 鈴木安蔵

    ○鈴木公述人 先ほどの公述でも述べましたように、特に私は、日本の終戦以降今日まで続いておりまする現段階においては、立法過程について、やはりその発想、起草、それ自体の全段階的々点においても、可能な限り国会自身が十分にこれに関与する、そういう方が望ましい、そう考えるので先ほどのことを申し上げたわけであります。そうしてやはり日本国憲法自身の根本的な考え方もそうではないか。なぜならぱ、かつてなかったような、両院おのおのに法制局を置いたり、終戦前の帝国議会と非常に違いまして、優秀なスタッフをそろえた立法考査局を国会図書館の中に置いたり、しかるにそれをあまり十分活用されないで、明治憲法以来伝統の内閣優越、行政権優越というような形で、政府が主として重要法案を出すというのは、日本の現段階においては、やはりもっと是正された方がいいのではないかと考えております。
  87. 井手以誠

    ○井手委員 私は、この重要な問題を研究するにあたって、やはりわが国の憲法並びに法律の解釈に基づいて研究するのがよくはないか、外国の例よりもその方がよくはないかと考えておるのであります。よく議院内閣制であるからいいではないかという説がありますが、先刻も稻葉委員のお話の中にありましたが、内閣の構成員というものは、大臣は過半数となっておりまして、半数までは国会議員以外でもいいわけでありますし、多数党である特定の政党がその政治的性格を持って行政機関を掌握しておる。そのことは、必ずしも全国民を代表したものであるとは私は考えないのであります。田上先生は、国会法では、あれは国民に対する発議だとおっしゃいますけれども、しかしそのほかに国会法の五十六条以外に発議の言葉はないのでありまして、やはりこれによる以外はないと私は思います。憲法のことは書いてないからいいじゃないかというのは、私はどうも当たらぬと思うのでありまして、あちらこちらに使い分けをすることは、私はどうかと考えるのであります。  そこで第三にお伺いしたいのは、田上先生のおっしゃる意味で、政府も、内閣法の第五条に基づいて、その他の議案として提出することができると政府は強弁をいたしておるのであります。この大事な憲法の改正が、法律でもない、あるいは漏れていかぬという意味で、どれでもつけ加えておるその他の付帯する事項であるとかなんとかいう意味の、その他の中に憲法改正が入っておるとは、どんなにひいき目に見ても考えてはならぬと私は思うのです。憲法改正という、田上先生もおっしゃいました革命に類するようなことを、その他の議案を提出することができるという内閣法第五条に読めるとは、これは立憲国家として読むべきものではないと私は考えるのでありますが、この点に対する両公述人の御見解を承っておきたいと思います。
  88. 田上穣治

    ○田上公述人 お答えいたします。私は、内閣法第五条に議案とあるから、だからその中に憲法改正案もみな入る、そういうふうには考えていないのでございまして、その議案の中に憲法改正が含まれるかどうかは、内閣法ではきめられない。  それはやはり憲法に定めておりまして、憲法の国会と内閣の基本的な関係、その方から判断すべきであると考えております。従いまして、内閣法だけでは含まれるとも含まれないとも、それだけでは、憲法を切り離して考えますと、判断はできないという立場でございます。  それから重ねて恐縮でございますが、憲法上内閣から出すということ、これは、かりに国会議員の名義を使って出すということ、私はそれに反対をしているわけではないのでございまして、必ず内閣から出す場合には内閣の名称をとらなければならない、これは法律案についても同様でございますが、そういうふうに固く考えておるわけではないのであります。ただ、私が申し上げたのは、その場合に、かりに国務大臣のどなたかが国会議員の名義で出すといたしましても、それは単純に一議員として出されるのではなくて、そのうしろには閣議というものがある。政府の責任において出すことができるということを申しておるのでございまして、その場合に、肩書きは国会議員でも、それは、私の考えでは、どららでもいい、名目上の問題である。しかし、そうでなくて、閣議を経て、内閣の責任においては出せない、つまり国務大臣も単純な一議員として、イギリスやアメリカの場合のプライベート・メンバース・ビルという意味でしか法律案が出せないということでありますと、私は反対でございまして、ガバメント・ビルという実質が、そういう形で出すことは憲法に反しないということを申し上げているのでございます。
  89. 鈴木安蔵

    ○鈴木公述人 内閣法第五条は、すなおに読んでみますと、やはり憲法改正案というような重要なことについては触れていないと解するのが、これはすなおな解釈だろうと思います。「内閣提出の法律案、予算その他の議案」こう書いてある。なるほど「その他の議案」という以上は、その他の議案でありますから何でも入るというのは、どうもすなおな解釈とは考えられない。私の立場からすると、内閣法第五条自体が、政府提出の法律案ということはどうも正当でないと思います。  それからもう一つせっかくの御質問でありますから……。学者のうちでは、現行国会法のもとにおいて、現実には差し迫っておらぬと判断いたしますが、憲法改正案というものが提出された場合に、定足数の問題と議事手続の問題が起こるが、これをどう解釈すべきかということを理論的に考えている学者もあります。その中で、現在の国会法によるというと、法律の提出が、改正されまして、衆議院は二十人以上ですか、それから予算を伴うものは五十人以上、こういう明文きりないのだから、憲法改正案といえども、ほかに明文がない限りは、法律発議に、衆議院では二十人の賛成者があれば出せるのだ。これが出された場合に、定足数はどうなるかというと、言うまでもなく議員の三分の一以上あればよい、だからそれでやるほかはないのだ。ただ憲法九十六条がありますから、可決するときには三分の二出てこなければいけないんだ、こういうふうに解釈する人もある。しかし、これはそう解釈する立場でも、やはり少しおかしいということを感ずると見えて……。しかし、ひるがえって考えてみると、憲法九十六条が三分の二以上の多数決と言っているんだから、事の性質上、ことにこういう重要な最高法規の審議について、ふだんの審議でも三分の一以上さえ出ておれば会議が開けるのだというふうに解釈するのはおかしい。これは国会法の定めはないけれども、憲法改正案については、やはり三分の二以上の定足数ということを憲法が命じていると解すべきではないか。だから私は、昭和三十一年の本委員会において、今の国会法に憲法改正案についての定足数は書いてないけれども、定足数は三分の二以上というふうに解すべきだということを申し上げたのであります。それから、なお、これは重要な点でありますから、国会図書館で資料の調査を依頼したのでありますが、まだ出て参りませんが、昭和二十九年一月に、当時の衆議院事務局がこの問題を頭に入れまして、国会法改正要綱というものを発表しております。これは新聞の記事では信用できないので、国会図書館に資料を求めたのでありますが、見つかりませんでした、その第一条において「憲法改正の議案は、いずれかの議院の総議員の三分の一以上の議員が連名で発議することを要する。」これは事務局の試案であります。しかし、昭和二十九年の空気としましては、事務局の方でも、政府の提出ということは認めないのが至当と考えたのでありましょう。「憲法改正の議案は、いずれかの議院の総議員の三分の一以上の議員が連名で発議することを要する。」という案を出しております。これによりますと、現行国会法と違いまして、議員の提出ないしは発議自身が、三分の一以上の議員の連名というので大へん妥当ではないか。それからこのほかに、これは新聞の報道だから、当時の事務局が間違っておるとおっしゃればそれまでであますが、やはり定足数のことも、ただいま私が申し上げたように定めてありますので、そういうことを申し添えておきます。
  90. 井手以誠

    ○井手委員 大体済みましたけれども、ちょっと田上先生に一言だけ最後に……。  憲法改正について政府にも権限があるという根拠は内閣法の第五条ではない、憲法九十六条の発議という解釈である、かように承りましたが、その通りでありますかどうか。
  91. 田上穣治

    ○田上公述人 そうではございません。九十六条の改正案の原案を、衆議院なり参議院にだれが出すかということについては、直接触れていない。これは法律案の場合と同様に、一般の原則と申しますか、九十六条の手続の規定ではなくて、国会と内閣が憲法上どういう関係にあるか。あるいは国会の立法権、御指摘の四十一条の唯一の立法機関というようなもののそれの解釈、その方からくるわけでございます。
  92. 山村新治郎

  93. 木原津與志

    ○木原委員 田上先生と鈴木先生にお尋ねいたします。  最初に田上先生にお伺いいたしますが、内閣に憲法改正の発案権があるという者の憲法上の根拠条文は、何条によって発案権があるというふうに主張されるのでありましょうか。
  94. 田上穣治

    ○田上公述人 憲法改正についての発議の直接の規定は、今御指摘の点では出ていないと思います。条文の上では。しかし、憲法の文字に表われていなくても、国会の本質、また内閣というもののあり方、それを考えますと、国会議員が提案できることはもちろんでございますが、繰り返し申し上げますように、たとえば内閣総理大臣は明確に国会議員でございます。そこで、たとえば内閣、閣議において改正の原案の内容というか、原案を一応起草いたしまして、その場合に七十二条によりますと、内閣総理大臣が内閣を代表して議案を出すということになりますから、そこで内閣の側として総理大臣が一応出すということでありますと、たとえばその場合には、総理大臣は国会議員と兼ねておりますから、従って、一般原則から申しましても、何ら憲法上その発議については疑義がない、こういうことを申しておるわけでございます。その場合には、だからプライベート・メンバースと申しますか、政府に関係のない議員の方が、議員外の者をお使いになって、初めに原稿をいろいろ作らせてみる、その上で自分が最も適当と思うものを衆議院なり参議院に提案されることと、ある意味において変わりがない、こうも言えると思うのでございます。
  95. 木原津與志

    ○木原委員 当委員会における政府の答弁では、内閣に発案権があるというその法律上の根拠は、憲法七十二条の議案の提出権と、それから七十二条を受けて規定された内閣法五条、この規定によって内閣に提案権があるのだと、こういう主張を池田総理が代表してなさっておる。その点で多少あなたの御意見とも違うかと思いますが、まあそれはそれといたしまして、お聞きしておきたいと思うのですが、明治憲法、旧憲法のときには、はっきり天皇に憲法改正の発議権があるということは、これはもう上諭その他によって明らかである。ところが、当時、今の現行憲法と違うて、明治憲法の中では、内閣が法律の提出権がありまして、その提出権がある内閣が旧憲法の改正の提案権はないというふうに、学説としても主張されておったと思うのですが、旧憲法のときに、内閣にも改正の提案権があるのだというような説があったのでしょうか、その点お聞かせ願いたい。
  96. 田上穣治

    ○田上公述人 私はそういう学説はなかったと存じますが、まあ正確にあらゆる学者の説を確かめたわけではございませんが、私どもの常識では、当時なかったと考えております。
  97. 木原津與志

    ○木原委員 旧憲法当時、天皇に発議権があるのだという場合には、内閣に憲法改正の発案権はなかったというのが、これはもう常識だったろうと思うのです、ところがその旧憲法が現行憲法になりまして、この発議権が変わった、天皇でなくて国会に発議権があるのだということになったら、なってからとたんに、学説として、内閣にも憲法改正の発案権があるのだという学説が出てきたのですね。そうすると、憲法改正の発議権者は天皇だという場合においては、その当時の内閣は法律の提案権があったにもかかわらず、内閣に憲法改正の発案権というものがなかったのです。ところがそれが変わって、議会に発議権が専属するという規定になったら、とたんに、内閣にも提案権があるというように、こう戦後変わってきた。その変わったいきさつをあなたからちょっとお聞きしたいと思うのですが、いかがでしょう。
  98. 田上穣治

    ○田上公述人 旧憲法の規定は決して珍しいものではないのでありまして、十九世紀の初めの南ドイツの憲法、あるいは一八一四年のフランス憲法にも例があるのであります。欽定憲法という君主が作った憲法という場合の考え方は、ほかにもそういう例がございます。しかしまあそれはそれといたしまして、新憲法の場合には、国会が発議すると書いてありまするが、繰り返し申し上げまするように、私は、この場合の発議は、議員が議案を所属の衆議院なり参議院に出すというその関係とは違うものであって、国会が国民投票にかける、国会と国民との関係における発議である、だから発議という言葉を、同じ言葉でそういうふうに表わすのは、適当かどうかは別にいたしまして、私は、憲法の用語が必ずしも法律の用語に一致する必要はない、これは矛盾するのは誤解を生じますから、あまり好ましくないと思いまするが、憲法の用語の解釈は、これはやはり憲法自体について判断すべきだと考えております。そうして国会がという場合には、国会議員がということとは一応違う。必らずしも同様には解釈されないのでございます。国会と国会議員――国会できめるものには、申すまでもなく法律も予算もいろいろございまするけれども、国会を通って成立するものはいろいろありまするけれども、しかしその場合に、だれが衆議院なり参議院に最初の案を出すかということは、必らずしも国会議員に限っていない。もっとも鈴木教授のようなお立場で、法律案もまた国会議員でなければ最初の案が出せないという見解をおとりになれば、論理が非常に一貫しているわけでございまして、私はその意味においては、一応そういうお立場に対して敬意を払っておるのでございますが、私はとにかく憲法九十六条の国会が発議というだけでは、国会議員の発議ということとは違っているのじゃないか、それはアメリカにおいても、コングレスがプロポーズするということだけでは、にわかに結論が出ないのであって、やはり合衆国憲法第一条と第二条の関係から国会議員のみという結論が出てくると考えているものでございます。それからまた、先ほど初めに申し上げましたから繰り返しませんけれども、国会議員にのみに発議権が独占される場合は、トルコの憲法のようにはっきり書いてある。あるいはフランスの今日の憲法は少し違いますけれども、国会議員と大統領と両者に属する。君主が発議権を持つとか、しかも旧憲法の場合、君主が議会に対して発議する、勅令で断を出すという場合でありますと、それは議会が議決した後のことではなくて、議会に出す場合についての規定であることは明瞭でございます。ところが、新憲法では、国民投票にかけるということの規定でございまして、それはもうすでに国会の両議院の総議員の三分の二以上で可決した、それから国民投票にかけるというその段階において発議という言葉が使ってある。このように私は考えるのであります。その前の段階でありますと、国会がではなくて、国会議員が発議すると言わざるを得ない。その点で九十六条だけでは、繰り返して申し上げまするが、答えは出ないのじゃないか。内閣が出すとも言えないし、また国会議員のみが最初の改正案の原案を、衆議院なり参議院に出すということになるか、それもいずれともまだ九十六条ではきめられないというのが、私の先ほど申し上げました点でございます。
  99. 木原津與志

    ○木原委員 あなたのおっしゃるように、そういうふうな解釈をとられるならば、九十六条は、三分の二の議決を経た後、国民投票に付する、これならばあなたのおっしゃるような意味にとっていいと私は思う。しかし三分の二の同意を得て発議をする、発議をして国民投票にかけるんだと、わざわざ発議というのを憲法九十六条にちゃんと書いてある。あなたのおっしゃる通りならば、発議という言葉を使わぬで、三分の二の議決を経た後、国民投票にかける、これでいいと思うのです。そこに発議という言葉が書いてあるところに、この発議の意味が、発案権も含んで、そうしてそれはもっぱら内閣から独立した議会だけの内部手続によって行なわれるということが、ここに端的に現われているのじゃないか、こういう考えを持っておるのですが、しかしそれはあなたと議論をするわけじゃございませんから。  さらに、もう一点だけお尋ねいたしますが、今度の憲法の立案のときの記録を見てみますと、この九十六条の憲法改正の発議、発案についての論議が、当時の議会で全然やっておらないようです。これは私が寡聞で見つけ出し得ないのかしれませんが、記録を見ましたけれども、ないようなんです。そうすると、当時の立法の議会では、もう国会が発議するというこの規定によって、内閣の発案というようなことは、もうそんなことは当然問題にならぬのだ。議会が、ちょうど天皇制のときのような工合に、天皇が発案、発議するというのをそのまま受けて、今度は国会が発案、発議するということは当然だというようなことで、この九十六条の議論が一回もなされていないといういきさつになったのじゃないか、私はこう考えるわけなんですが、その点について、当時の御事情がおわかりならば、両教授からお示しを願いたいと思います。
  100. 田上穣治

    ○田上公述人 私は、ちょっとその点、具体的な事情は存じません。先ほど申し上げましたように、大体、発議し、国民に提案するという場合の文章、確かにお考えのような受け取り方もあると私は思うのでございます。ただ私の申し上げましたのは、外国の憲法を引き合いに出して恐縮でございますが、アメリカの場合のコングレスがプロポーズする、プロポーズ・アメンドメンツ・オブ・ジス・コンスティテューション、このプロポーズするという意味で発議を考えているのでございまして、国会法の、議員の方が所属の衆議院なり参議院に議案を出すという意味とは違ったものと考えております。同じことを繰り返してはなはだ恐縮でございますが、アメリカの憲法の表現など一応頭に置いて、プロポーズ、普通の意味で提案するということで、提案と申しますと、これは普通ならば、日本の場合なら衆議院なり参議院に提案するというべきところでございますが、そういう立法令を見ますと、国民投票にかけることをプロポーズといってみたり、あるいは州の議会の議決に付することを国会の方からプロポーズするというふうなことを申すものでございますから、大体私はそういうふうに考えているのでございます。
  101. 鈴木安蔵

    ○鈴木公述人 私は、日本国憲法制定自体にはタッチいたしませんでしたけれども、終戦後、明治憲法を廃止して新しい憲法を作らなければならないということは相当主張し、かつまた関係もいたしましたので、その当時の受け取り方としては、当然のこととして、もしもこの日本国憲法について改正の問題が起こった場合には、憲法制定会議――本来日本国憲法の制定自体について、私どもは憲法制定会議を強く主張したのであります。明治憲法の改正というけれども、本質を異にするものだから、やはり制定方法についても、全く民主的に国民的の憲法制定会議を開け、帝国議会で行なうことよりは、その方が民主的であるという主張でありましたから、従ってこの憲法第九十六条ができましてからも、私どもの受け取り方としては憲法制定会議、それにかわるべきものとして当然国会自身が起草、立案、すべてこれを独占する、そういうふうに受け取って疑義を持たなかったのであります。またおそらく、これは推察でありますけれども、日本国憲法制定の際に慎重審議された当時の帝国議会においても、多くの議員がそういうふうに受け取られたから、あまりその点についての疑問が出なかったのではないだろうか。ということは、先ほど申しましたように、昭和二十九年の衆議院事務局における国会法改正の案に、当時までは当然のこととして、政府提出というようなことは認めないのだ、だから第一条に、憲法改正案は総議員の三分の一以上の連署で、これを発案するのだということを設けたので、これがすなおな状態だったと思います。  しかし、なぜその後問題がこうなったかというと、私はここに記録を持っておりますが、鳩山首相当時に憲法調査会を作る際に、鳩山さんはあの通りの人でありましたから、きわめてあけすけに、憲法調査会は改正案の腹案を作ろうと思います。国民に憲法改正の必要を納得せしめるのには、ずいぶん時間がかかると思います。これもやはり憲法調査会の任務としてやってもらいたいというのが憲法調査会法案を作る目的であります。これは衆議院議事録九号であります。こういうふうな考え方から、これはやはり政府がリードして、国民がためらっておるのを叱咤激励して憲法改正をしなければならない。それにはやはり政府が先頭に立たなければならない。そうすると、今まで漠然と考えたように、国会だけが独占するということになると、少し難点がある。やはり政府にも改正提出権というものがあるのだということをはっきりしなければならない。とにかく繰り返して申しますが、衆議院の事務局案でございますが、昭和二十九年、三十年、三十一年ぐらいになりまして初めてこの問題が理論的に起こって参った、こういうふうに考えます。
  102. 田上穣治

    ○田上公述人 先ほどの御質問に対して、私の答えがあるいは不十分であったかと思いますが、憲法七十二条の「議案」並びに内閣法第五条の「議案」の中に憲法改正案が含まれるかどうかという点につきましては、結果的には私は含まれるという立場でございます。しかし、それは先ほど申し上げましたように、そこに書いてあるから当然だというのではなくて、今の国会、内閣の基本的な関係から、内閣には提案権がある。従って憲法上の根拠を示せということであれば――そういう御質問でございましたが、結果的には七十二条の「議案」の中に含まれないのではなくて、含まれる。しかし、なぜ含まれるのかということを考えますと、七十二条の文書だけではきめ手がないということを申し上げたのでございます。  内閣法についても同様でございまして、ただ内閣法は法律でございますから、先ほど鈴木教授もお話しになりましたように、法律で憲法の解釈をきめるということは順序が逆でございまして、だから、憲法の方から結果的に内閣法の第五条の「議案」の中に入る。しかし、なぜ入るかということであれば、それはやはり憲法の根拠があるからということでございます。
  103. 山村新治郎

  104. 稻村隆一

    ○稻村委員 時間がありませんので、両先生に一括してお聞きしたいと思います。  日本国憲法の解釈については、学者の間でいろいろあると思うのです。これは私はいずれも相当の理屈があると思うのです。そこで私のお尋ねしたいのは木原委員とだいぶ重複いたしますが、それは省きまして、簡単に申し上げたいと思うのですが、憲法の解釈をきめるには、私の考えるところでは、やはり憲法が何ゆえに生まれたかという歴史にさかのぼって解釈しなければならぬと思うのです。こういうふうなことは、私が言うまでもない、中学校の歴史の本にも書いてあることでありますから、教授の前にそういうことを言う必要はないのですが、特に西欧におきまして、民衆が暴君の無限の独裁に苦しんだ。無限の権力に苦しんだ。これを何とかして制限したい。暴君的のやつが出ても人民の権利と自由をじゅうりんすることのないような一つの制度を作り上げるということで、人類の経験から憲法が生まれたと思うのです。そういたしますと、憲法の生まれたことは、権力は絶対に悪いというのではないけれども、政府の無限の権限を制限するために憲法は生まれた。そうすると、制限されるはずの政府が、内閣が、みずから憲法改正の発議をするということは、憲法の歴史に反するのです。こういうことから、私は内閣が発議権を持っているというふうなことは、歴史的に見て間違っていると思う。ちょうどどろぼうが窃盗罪を発議するようなもので、根本的に私は間違っていると思うのです。先ほどイギリスの例がいろいろ出ましたが、イギリスは議院政治だから、日本はイギリスのような議院政治だから云々、それだから内閣に憲法改正の発議権があっても差しつかえないのだというふうな議論、林法制局長官もそう言っている。それからまたそういう議論が学者の間にもあるのです。ところが、私はイギリスの慣例を調べたけれども、イギリスはむろん成文憲法じゃないから、憲法改正の問題に対する明確なあれがあるわけじゃない。ただ慣習として、私の知るところでは――これは私は寡聞で間違っているかもしれませんが、憲法上の規定を変更する、あるいは審議する機関というものは、これは慣例として必ず国会に置くことになっているのです。これは間違いありません。だから議院政治だから内閣に発議権があってよろしいということは、私は理由にはならないと思う。そこで多くの国の人民主権の憲法を見ても、ほとんど国会のみが憲法の発議権を持っていますね。それはアメリカのようなところはむろんでしょうが、たとえば西ドイツそれからスイス、イタリアというふうな国、そういうような国の憲法を見てもそうです。フランスの第四共和国憲法は大統領にも提案権、発議権があるというふうなことを言われておりますが、フランス憲法は御存じのように世界憲法の模範になったわけでありますから、その世界憲法の模範になったフランスの最初の革命後の憲法には、やはり明確に国会のみが発議権を持っていることが規定されております。間違いないと思います。第四共和国はどうしてそういうことになったかというと、そこにやはり事実上これはフランスの国情でやむを得ないことだったかもしらぬが、アルジェリア問題とか、日本の二・二六事件とか、五・一五事件のような背景によって、あのドゴールの変則的な憲法改正になったのですが、そういうふうな独裁の道を開いた結果に私はなっていると思うのです。ワイマール憲法はむろんこれとは違うけれども、やはりそういう欠点があったと思うのです。そういう政治史の観点からいうと、内閣にもし発議権があるならば、いつでも内閣がかわるごとに憲法問題に手をつけて非常に危険な状態である。それは日本の政治史の観点から見てもわかるのでありまして、たとえば明治憲法を例にとりますと、明治憲法は御存じのようにプロシャの憲法をまねした憲法で非常におくれているけれども、しかし憲法改正の発議は天皇にしかなかった。事実上これは憲法改正ができなかった。しなかったのです。それだからこそ、あのおくれた憲法の中にも、護憲運動によって尾崎咢堂とか犬養木堂とかいうふうな人は、明治憲法の中における民主主義要素を守ることができたわけですね。それは憲法の解釈は非常に明確なんです。天皇だけが発議権を持っている。これは内閣にあるなどと言ったら、しばしば軍閥的な独裁政治家が出たのであるからして、何をやられたかわからない。東条英機といえども完全な軍閥独裁を実現できなかったのです。八分通り、七割ぐらいまでは実現したかもしれないが、そこで倒れる運命にあったわけです。そこで過去の政治史から考えてみて、内閣に発議権があるということは実に危険です。しかも、いやしくもどこの国でも重大な憲法解釈が二つにも三つにも分かれるということは、実に危険でありまして、これはどうしても一つにならなければならぬと私は思う。野党といえども政策が違うのはむろんであるけれども、われわれが政権をとっても憲法によって政治をやるのだから、憲法解釈は一つでなければならない。その点憲法には外国も日本もない一つの共通性がある。人類の共通の経験から生まれたものであるから一つの共通性がある。  そこで今度の日本国憲法の解釈でありますが、それは木原委員によって言われましたから、ここで重複を避けますが、こういう憲法の歴史の観点からいうと、日本国憲法は、明瞭に国会のみが九十六条のみによって、憲法改正の発議権があるという解釈をするのが私は妥当だと思うのです。これはきわめて常識論でありますけれども……。七十二条とかあるいは内閣法の第五条によって、法律案、予算案その他云々の後に憲法のごとき重要なる基本法、あらゆる法律に優先する基本法をその中に加えるなんということは、先ほど鈴木教授が読み上げたように、鳩山内閣が何とかして憲法を改正したいというので、法制局長官をして、あのような、七十二条、内閣法第五条によって政府にも憲法改正の発議権ありというふうな詭弁を探し出した結果だろうと思う。そうして、憲法改正が人々と逆だということは、日本の政治を運営する上において実に危険きわまると思うのです。こういう観点からいたしまして、――むろん憲法の解釈はいろいろある。またそれにはいろんな理屈がある。両先生のことを聞きますと、どっちも理屈があるように思うけれども、私は、端的に言って、憲法成立の歴史から言って、憲法改正の発議というものは当然内閣にあってはいかぬということ、これは当然国会のみにあるのであるという明確なる規定によってやらないと、日本の憲法政治というものは重大な危機が来るということは、われわれが過去において経験したと同じように、近い将来においても経験するだろうと思う。そういう点につきまして、両教授の御見解をお聞きしたい。時間がありませんから、一括的な御質問を申し上げる次第でございます。
  105. 田上穣治

    ○田上公述人 先ほどからのことを繰り返すのは恐縮でございますが、九十六条の発議というのは、これは国会が国民投票にかけるという意味に私は考えておるのでございまして、その意味において、内閣がこの発議権を持つとはとうてい考えられないのでございます。内閣ではなくて国会である。しかし、国会の発議のいわば準備作業、前の段階において、衆議院なり参議院における審議の議題、その改正案の原案、発議する、国民投票に付すべき案の原案を一体だれが最初に国会に出すかということ、衆議院なり参議院に出すか、――国会へ出すということは正確でございませんが、その点については、私は、国会という文字から国会議員というふうに断定することは困難であるということを申し上げたのでございます。従いまして、九十六条の意味における発議は、条文に明らかなように、もっぱら国会のみである。しかし、その発議というのは、国会法で通常申しますような議案の発議という、議員の方が衆議院なり参議院にお出しになる場合の発議ではない、このように考えておるものでございます。
  106. 鈴木安蔵

    ○鈴木公述人 私は、憲法自身の解釈といたしまして、先ほど申し上げましたように、第九十六条は、国会がその狭い意味の起算、発案、それも全部独占するのが憲法の趣旨である。そうでありませんならば、もっと憲法自身が、こういう重大な問題について、憲法九一六条にいう発議と違う意味の発案、提出権はどこにあるかということを、明文をもって定めなければならないはずであります。定めていないのは、憲法第四十一条等に国の唯一の立法機関としての国会ということを定めてあるし、それから、改正案の議決は三分の二以上の多数をもってするというようなことだけでなしに、国会が発議するというふうに書いてあることによって、別にこの憲法改正案の発案権、提出権について定める必要がないと憲法が考えておったんだ、こう解釈するのが、すなおな、また正当な解釈であると考えます。憲法上の根拠から言って、憲法改正案については国会がすべて独占すべきだ。  それから、第二番目に稻村委員の御質問の点は、私とても十分に答えるだけの準備がございませんけれど、私は、憲法の解釈しそういうふうにするのが正しいと思うのでありますが、さらに憲法政治の立法政策論から見ましても、今の段階においては、国会自身が、憲法の与えたそういう立法作用についても、もっと自主的に、全面的に取り組まれる方がいいのであって、明治憲法以来の内閣、行政権優越主義の伝統が残っておるような、重要な法案は全部法制局というようなところできめて、そしてあと国会で審議さえすればいいのだというふうに受け取れるような伝統は克服された方がいいのではないか、そう考えております。
  107. 山村新治郎

  108. 中村高一

    中村(高)委員 法律論はもう長い御議論で、なかなか一つにまとめるということの困難なことはわかりましたけれども公述人の方もお疲れだとは存じますが、問題が重要でありますから、もう一言聞かしていただきたいと思うのであります。  先ほど田上公述人からお話がありました議院内閣制の問題でありますが、議院内閣制の今日でありますから、内閣に提案権があったとしても、ちょうど一心同体のような形になっておるのであるから、それほど弊害はないのだ、それほどの問題は起こらないのじゃないかというような御趣旨にもとれたのでありますが、まず、一体、田上さんは、そういうふうな内閣にも提案権があると解釈した方がいいというお考えなのでしょうか、それとも、そう解釈しても差しつかえないというお立場なのか。これは私は非常に重要な問題だと思っておるのでありまして、あまり明確でないというようなことから、いろいろ調べてみますと、内閣法を作るときにも、内閣法の中に憲法改正という一項を入れるべきじゃないか、こういうふうに憲法が改正できるという前提がある以上は、必ず、これは提案についても問題が出てくるのであるから、正式にはっきりした文字を入れた方がいいんじゃないかという議論が、法制局で立案するときにも出たというんですね。けれども、そのときはまだ占領されていたときであったから、内閣法の中に内閣が憲法の改正の提案ができるなどというようなことを言うことは、当時の社会情勢から言ってまずいというので引っ込めることにした、こういうことを法制局長官も自分でも委員会で述べられておるのであります。それから、国会でも、どうもこの問題が議論が出て困る、何とかして、憲法は急にいじれないとするならば、国会法で何か手続上のことででも明確にする手はないかというので、議運で論議をしたときに、当時の衆議院の法制局長が、国会法の中に内閣が提案できるということを入れるならば明確に入れて、この問題の議論を避けたらどうかというような論議の行なわれた速記録もいまだに残っておるのであります。ですから、明文が憲法にないために、法制局でも国会でも、どこかに一つ入れて明確にしたいというんですが、先ほど御議論のありましたように、法律で憲法の内容をきめるということは逆ですから、おそらくできなかったでありましょうし、できない方がほんとうだと思うのでありますが、また、当時の社会情勢で、米軍がおるときにそういうことをするのはまずいということで入れられなかったのが、私はどうもほんとうではないかと思うのであります。そういうような経過を考えてみまして、先ほどの田上さんの御説明はよくわからなかったのでありますが、議院内閣制であるから弊害がないからいいというところに重点が置かれたのか、それとも、イギリスの制度の上で、政府の方から提案をするということが行なわれて、また、そういうたくさんの議案も現実に幾らでも行なわれておるんであるから、その方がいいというような趣旨なのか、その辺のところがよくわからなかったので、もう一度一つ御説明願いたいと思います。
  109. 田上穣治

    ○田上公述人 中村委員、よく御存じでございましょうから、簡単に申し上げますが、アメリカ型の国会とか、あるいは内閣のあり方、つまり、プレジデンシャル・システムとイギリス流のパーリアメンタル・ガバメント、この二つに分けますと、日本の憲法は明らかにイギリス型――もっとも、これは、イギリスと申しましても、フランスやドイツやほかの国もいろいろございますから、そういうものをひっくるめてもよろしいのですが、アメリカ型とはかなり違っていると私は考えるのでございます、そうして、その点で、日本の憲法を解釈する場合に、アメリカ型の憲法として国会、内閣の関係を理解するよりも、イギリス型の憲法として解釈する方が日本の憲法の解釈としてはよかろう、――よかろうと言葉を少しぼかしましたけれども、私は正しいと思うのでございますが、しかし、学説上いろいろございまして、われわれも、鈴木教授のような御意見にも十分学ぶべき点もございますから、平素よく参考にはしているのでごさいますが、一応本日私の持っておりまする意見は、イギリス型の憲法と理解しているのでございます。その意味で、どちらがより適当かというふうな議論ではむろんないのでありまして、現在の日本憲法を解釈する場合に、私はそういうふうに考える。  なお、蛇足でございますが、ほかの学者の説を申し上げるのは適当でないと思いますけれども、宮沢教授は、かってアメリカ型憲法というふうな立場で解釈されまして、憲法改正案もまた法律案もともに内閣から出すことはできないという見解をとっておられましたが、その後われわれと同じような見解に変わっておられます。これはなぜ変えたかということを確かめるのも、ちょっと本日はどうかと思いますが、結論はそういうふうになっているわけでございます。しかし、宮沢教授、鈴木教授、そういう学者を比較するわけには参りませんので、ただ、そういう意見もあるということを申し添えておきます。
  110. 中村高一

    中村(高)委員 イギリスのような、とにかく議会制度が非常に進んでおって、現在の議会制度としてはおそらく世界にこれ以上完成されたものは実際にはないと思うのでありますが、この国でさえも、ガバメント・ビルを出すという場合、その場合でも国会議員の立場に立ってという一つ立場が守られておるのでありますが、日本の政府で解釈しておるこの提案権というのは、議員の立場に立って提案するというのではないですね。内閣は独自で提案権があるという解釈であることは、法制局長官もその点ははっきりいたしておって、田上さんがお考えになる趣旨は、やはりイギリスと同じように国会議員の立場に立って内閣の案を提案する、こういう御趣旨なのか、その辺のところをもう少し……。
  111. 田上穣治

    ○田上公述人 国会議員の立場というのが、イギリスでは、御承知のように、二通りございまして、政府関係の議員あるいは大臣である議員の場合と、そうでない議員の場合とにはっきり分けていると思うのでございます。今御質問の点は、一応一緒にして考えるということでありますと、ちょっとお答えがしにくいのでございますが、ガバメント・ビルという場合には、もちろんイギリスでは名目は国会議員で出すのでございますが、しかし、これは名義だけでございまして、実質は、単純なプライベート・メンバース・ビルといいますか、つまり、一議員としての提案とは本質が違っている。この点は明確だと思うのでございます。御承知のように、イギリスは非常に吉の型を残している国でございまするから、そういう形式と突貫との食い違いはかなり多いと思うのでございますが、御承知のように、内閣というようなことも、実は明確な法制上の根拠がなく、総理大臣という地位も、十九世紀の後半までは法律の上には出ていないというふうな、非常に、表現というか、形式と実質のズレがある国でございまして、そういう意味で、今の政府から出す議案・法案でありながら名目上は国会議員が出すというふうになっている食い違いはあると思うのでありますが、その場合でも、それは単純な一議員として出すのではなくて、内閣の責任において出す政府の案である、提出案であるということがイギリスの文献によりますと明確になっており、それと一議員として出す場合との比較を十九世紀の終わりころからしておりまするが、それは、政府案の力が圧倒的に多いと申しますか、重要な法案が政府案として出されておる。もし重要な政府策が否決されれば、これは内閣不信任の決議とほとんど変わりがないという理解のようでございまするが、こういう点も、単純に名目上は大臣が国会議員として出す法案でございまするけれども、しかし、一議員としての提出する法案とは非常に区別されておるというふうに理解しております。
  112. 中村高一

    中村(高)委員 イギリスの国会は非常に古い形式とかあるいは慣行に基づいて常識的に行なわれておるのでありますけれども、こういうイギリスのような国と日本の議会制度というものを同目に論ずるのも、どうも私は正直に言って無理じゃないかと思うのであります。まだ日本の議会はイギリスの議会のようなああした進歩はいたしておらないと思います。また、内閣にしても、イギリスの内閣のように安定性がなくて、日本では、場合によったならば数カ月で倒れるという場合も、過去においてたびたびあります。これからも現状においてはそういうことも想像できるのであります。こういう、場合によれば非常に短期で終わることの想像できるような日本の内閣が、ほとんどこれは半永久、さっき田上さんのおっしゃったように、革命的なことでもない限りは変らないんじゃないかというほどの重要な基本法の改正案が、わずかに数カ月の内閣によってこれを提案できるなどということは、私は、議会制度をこれから伸ばしていこうということを考えれば考えるほど、どうも議論が無理のように思われるのであります。半永久のものをそんなに短期なものが手をつけるということはやめさせるということの方にわれわれは進めていくことの方がいいんじゃないか。ことに、イギリスのような、あれだけりっぱに運営のできる国でさえも、形式かはしれませんけれども、名目かはしれませんけれども、とにかく国会の立場に立ってという、私はこれが非常に意味があることだと思うのです。内容においてはそれほどの意味はないかもしれませんけれども、国会の立場に立って政府はいつも提案をすると、こういう原則が私はほんとうの重要な意味ではないかと思っておるのでありますけれども、もう一度その点をお話しを願いまして、私の質問を終わりたいと思います。
  113. 田上穣治

    ○田上公述人 私も、個人的に率直に申しますると、憲法は容易に改正すべきではないという立場をとっております。ただ、ここで申し上げておりますのは、政治的というか、実際に改正することが適当であるかどうか、好ましいかどうかではなくて、もし、かりに、内閣が提案をし、国会で九十六条の規定通りに総議員の三分の二以上でお通しになり、国民投票にかけられたという場合に、それを法律の専門家の立場で手続上憲法違反であると言えるかどうか、その点を申し上げておるのでございまして、そういう行き方でもって改正することが適当かどうか、好ましいかどうかということになりますと、また活は違うのでございます。それが、どうもこういう機会にこの点申し上げるのははなはだ変でございますが、あるいは提案が可能であると申しますると、直ちに、そういう提案に賛成であると、あるいは積極的に改正を主張しておるというふうな誤解が世間ではよくあるわけでございまして、これは、しかし、政治を論ぜられる方と、それから法律学者あるいは裁判官の立場との非常な違いでございまして、むしろわれわれは鑑定人の立場で、もしこういうことが行なわれた場合に、たとい民主政治のルールに従って行なわれた場合にも、なお憲法違反ならば絶対に反対である、それが憲法違反かどうかという、そういう鑑定人の立場で申し上げるのが法律学者であります。鈴木教授は、どちらかというと、政治学の方に私よりははるかに御造詣が深いのでございまして、そういう点で多少のニュアンスはある。私の方は、どちらかと言えば法律学に少し片寄っており、鈴木教授は、憲法学者であられまするけれども、同時に政治学の方にかなり御造詣が深いのでございますから、あるいはそういうところに多少の違いも出てくるかと思います。
  114. 山村新治郎

    山村委員長 それでは、以上をもちまして両公述人に対する質疑は終了いたしました。(拍手)  公述人各位におかれましては長時間にわたり貴重な御意見をお聞かせいただきまして、まことにありがとうございました。厚くお礼を申し上げます。  以上をもって昭和三十七年度総予算についての公聴会は終了いたしました。  次会は明十五日午前十時より開会し、昭和三十七年度総予算に対する質疑を続行することとし、本日はこれにて散会いたします。    午後五時四十六分散会