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松尾参考人 ただいま
後藤参考人からお話がございましたように、
裁判が
人間の営む
制度である以上、絶対的な無謬性、
誤りがないということを期待できないことは申すまでもないわけであります。その場合、
誤判には
二つの
原因があり得ます。
一つは
法律解釈の
誤りであり、もう
一つは事実
認定の
誤りであります。
再審の
制度は、この事実
認定の
誤りから
被告人ないしは
裁判自体を
救済しようという目的を持った
制度であることは申すまでもありません。この種の事実
認定の
誤りに対しましては、最近非常に
関心が高まっております。これは
わが国だけの現象ではございませんで、
アメリカでも、それから
ドイツでも、この種の
誤判の事例を収集して、その
原因を追及しようとした書物が次々に出版されておりまして、非常な
関心を呼んでいる実情でございます。そのうちの二、三のものは、
わが国でもこの二、三年間翻訳が続けて出ておりますので、
一般に読まれているところでもございます。
わが
刑事訴訟法の認めております
再審の
制度は、
明治以来何度か変遷を経ております。ごく簡単に申しますと、
明治時代の
刑事訴訟法、旧々
刑事訴訟法は、
フランスに範をとりましたために、
再審の
原因を非常に限定しておりまして、きわめて特殊な場合、たとえば殺人で
有罪の
言い渡しをしていたところ、その
被害者が実は生きていたということがわかったというふうな場合に限定したわけであります。それに対しまして、
大正年代にできました旧
刑事訴訟法は、
ドイツの
制度に接近いたしまして、包括的な
再審条項、新しい
証拠が
発見されたという場合に、
一般に
再審を認める
制度に移行したわけでありますが、ただその際、同じく
ドイツに範をとりまして、
被告人に
不利益な
再審をも認めるということにしたわけであります。
現行の新しい
刑事訴訟法は、御承知のように
アメリカの影響をかなり強く受けているわけでありますが、
再審の
制度につきましては、旧刑訴の
規定をほとんどそのまま維持しましたけれども、ただ、
不利益な
再審という点だけは削除いたしまして、
再審の
制度は
被告人に
利益なものに限るという
建前をとっているわけであります。
再審制度の本質は、いろいろと議論の分かれるところでございますが、突き詰めて申しますと、
再審という
制度には、
法的安定性の
尊重という
一つの
理想と、それから実体的な
真実の
発見というもう
一つの
理想とが拮抗
対立する。こういう
二つの考え方の
対立は
刑事訴訟の全体を通じて見られるところでありますが、それが
再審の
制度において、いわばその極点に達しまして、
法的安定性を守るか、それとも
真実の
発見を第一義とするかという
対立が非常にあらわな形で出てくるわけであります。しかも、その
真実の
発見というのが
フランスあるいは
アメリカのように、あるいは
現行のわが
制度のように、
利益再審に限定するという
建前をとりますと、それは即、
被告人の
人権尊重というものと置きかえられて参りますので、その争いは、
確定力の維持か
人権の
擁護かという形の
対立になって現われて参ります。そこで、
人権の
尊重せらるべきはむろん言を待たないところでありますから、
再審の
制度はできるだけ広く
認むべきであると言えるかと申しますと、必ずしもそう直線的な論理では解決できないわけでありまして、その際、理論的な困難といたしまして、
一つは、
訴訟において絶対的な
真実というものはついに
発見できないということがあげられます。
訴訟で
認定されますのは、いわば
訴訟的な
真実、いわゆる
証拠という形をとった
真実でありまして、究極における、いわば客観的な
真実というものは
人間の力を越えた世界にしか存在しないわけであります。
真犯人が
あとで出てきた、
有罪判決を受けたのは実は
身がわりであったというような例をとりましても、
あとで出てきた
真犯人そのものが実は
身がわりではないかという疑いが残り得る。
被害者が生きていたという先ほどの例にいたしましても、
ほんとうは生きているとされているのが、前の
裁判における
被害者と認められた
人間であるかということにつきまして、なお疑問が残り得るわけであります。
さらにもう
一つのやや実際的な難点は、
再審の
制度を広く認めますと、それは比較的に
再審請求の増加という形で現われて参ります。これは上訴
制度一般と共通する問題でありますが、
裁判所の
事件を処理できる能力、
事件の数、
事件の規模等にはおのずから限度がありますために、各国とも上訴の抑制ということには
相当の考慮を払っております。
再審というのは、ある意味では上訴以上に抑制さるべきものである。さっき
後藤参考人は、
裁判官、
検察官等を通ずる感情的な、いわば反
再審的要素の存在というものを指摘されましたが、同時に、そこには乱訴をおそれるという
気持が強く働いているであろうことは推測にかたくないわけであります。
そこで、以上のような矛盾する
二つの要請の間に立って、各国の立法例は、
再審の
制度をむろん必ずしも否定はしない。しかし、これを厳格な制限のもとに認めるという態度をとっております。大陸諸国、先ほど
フランス、
ドイツを例にいたしましたが、これらの国では、日本と同じように
有罪判決、あるいは
ドイツの場合は
無罪も含めますが、
判決確定後に原
判決をくつがえす新しい
証拠が出てきたということを
再審の原由として掲げております。これに対しまして、イギリス、
アメリカのような英米法系の国では、必ずしもその種の
再審を広くは認めないのでありますが、ただ
アメリカを例にいたしますと、かなり短い時間的な限定を置きまして、
判決言い渡し後一定期間内に新しい
証拠が出てきたという場合にはニュー・トライアルを認めるということにしております。しかし、むろん時間経過後に新しい
証拠が出てきて、もとの
有罪判決を維持するのはとうてい正義に合致しないという場合もあり得るわけでありまして、その場合の
救済といたしましては、
再審以外の各種の
制度、特に恩赦という
制度が活用されております。そのほかになおヘイビアス・コーパスの
手続というものがあることも御承知の
通りかと存じます。
わが国では、恩赦の
制度を
誤判の
救済に使えるかということは、必ずしも正面から議論されてはおりませんが、普通の恩赦
制度の著書、論文等におきましては、恩赦は
誤判を予想したものではないというふうに説明されております。しかし、
裁判所の
判例の中には、
再審を拒否した
判例の中に、こういう場合の
救済はむしろ恩赦にたよるほかはないのだということを言ったものが、大審院時代に現われておりますし、今回の
吉田石松事件の
名古屋高裁の
決定、これは前回の
再審請求棄却決定、
昭和三十四年に言い渡されておるのですが、その中には、
再審は認められないが、他のよるべき
救済手段にたよってくれという
趣旨の傍論的な判示をしております。推測いたしますに、おそらく恩赦の
制度があるということを言外に言おうとしたものではないかと思われます。
そこで、以上申しましたことを要約いたしますと、
再審の
制度につきましては、
二つの矛盾した要請があるために、その解決はきわめて困難であるということに帰着するわけでありまして、いわばこの
二つの要請の調和のとれたバランスの上に
再審制度を作っていかなければならないということになるわけでございます。
それでは
現行の法制に
改正すべき点があるかという点で、私、必ずしも考えをまとめて参りませんでしたので、ただいまのところ、申し上げることができませんが、今、
後藤参考人から非常に有益な御示唆がありましたので、それについて多少感想を述べて責めをふさぎたいと思います。八点について
改正意見をお述べになりましたが、そのうちの一部分だけを取り上げてみることにいたします。
第一点、第二点は、一括して四百三十七条
ただし書きに関する問題でございまして、これについては必ずしも反対というわけではありませんが、なお十分な検討をしてみたいと思います。
第三点の四百四十七条二項の「
同一の
理由」の解釈あるいはこの点の
改正についてでございますが、この点は、
吉田石松事件で十分問題にされておりまして、
再審開始決定を取り消した
名古屋の
決定も、この点を必ずしも狭く解しようとはしなかたつようでありまして、
同一の
理由というのは、解釈の仕方によっては、
後藤参考人がおっしゃったように、
同一の事実または
証拠と解する余地はあるように思われます。しかし事柄の実質においては、
同一の事実または
証拠と、やや広く解した方が適当であると思われますので、この点を明らかにするという
趣旨で
改正されることは失当ではないと思います。
第四点の
管轄の問題、これは従来から議論のあるところでございまして、
再審請求の
管轄をもとの
裁判所にやらせてよいかどうかという点、この点も、わが旧々
刑事訴訟法、それからその模範となりました
フランスの
刑事訴訟法では、
再審の
請求を
管轄いたしますのは、日本の言葉で申しますと
最高裁判所でございまして、原
裁判所ではないわけです。日本が今のような
建前になりましたのは、
ドイツにならって旧
刑事訴訟法に移行したときからでございますが、この点については、もとの
裁判官、
後藤参考人は同じ
裁判所の
裁判官とおっしゃいましたが、
実務の取扱例では、全く同じ
裁判所のしかも同じ
裁判官が
再審の
請求を
審理するという例が、必ずしも少なくないわけであります。これは憲法三十七条のいわゆる公平な
裁判所という理念に反する疑いも必ずしもないとは申せません。この点について
ドイツあたりでは、同じ
裁判官がやることの方が実際上も便利だし、また
確定判決の効力を
尊重するという意味でもすぐれているというふうな
意見もございます。この点は、まさに
再審制度の意義をどう理解するかにかかってくるわけでありますが、
人権の
尊重というふうに少なくとも数歩を進めたわが法制のもとでは、むしろ原
裁判所を離れたところで
審理してやるということは、十分
尊重に値する御
意見ではないかと思われます。
次の第五点、
再審の場合には
口頭弁論を開けという御
意見でありますが、この点は
請求人の
希望によりという限定を付されましたけれども、実際上ほとんどすべての
請求人が
口頭弁論を求めることになると思われますし、そうなりますと、現在
決定でやるという
建前をとっておりますことをほとんど全面的に否定することになるわけでありまして、これは
裁判所の負担の
関係その他から、なお考慮の余地があるというふうに考えられます。
次の第六点、
再審を開始する
決定に対して、
検察官の側から不服を
申し立てることは禁ぜらるべきだという御
意見につきましては、私も同感でありまして、むしろ、現在の上訴
制度で
検察官からも上訴が認められているということ
自体、若干の問題点を含んでおります。御承知のように、イギリス、
アメリカの法制では、
検察官の上訴は原則的に禁ぜられるという
建前でありまして、
わが国は、憲法三十九条で二重の危険の禁止という観念を取り入れましたにもかかわらず、
検察官上訴を維持しております。上訴
制度につきましては、
アメリカでも
検察官上訴をやった方がいいのだという
意見もあるわけでございまして、なおいろいろと考慮すべき問題がございますが、少なくとも
再審につきましては、ある
裁判所が
再審を行なうべきだという判断をしたのを、次の
裁判所がくつがえすということは、決して当を得ていないように思われます。
次の第七点、逆に
再審請求を
棄却する
決定については、
特別抗告の
事由を事実
誤認にまで拡張せよという御
意見でありますが、この点は
現行の
刑事訴訟法の
建前と抵触する面がありまして、私としては反対であります。御提案のようになりますと、
最高裁判所は
一般の上告では事実
誤認を言わせない、しかし、
再審の場合にはそれを許すということになりまして、明らかな不均衡を生ずるように思われます。
最後に第八点、
再審請求権者に
弁護士連合会長などを加えた方がよいという御
意見はごもっともではないかと思います。
大体時間になりましたようですから、これで終わります。