○
志賀(義)
委員 ところが、私がここで質問した
昭和三十二年八月九日までに、二百四十三人の弁護人が連署でもって、
法律に従ってこの諏訪メモを見せてくれということを
請求したのです。これについて、今審理係属中だから見せられないという答弁があった。そうして、どうにもこれが打開できなかったので、初めて当
法務委員会において取り上げたものであります。あなたは今、何でもないものなら返す、こう言われましたね。返してくれと言われた。ところが、何でもないものならもっと早く返すはずでしょう。二百四十三人の弁護人が、なくなられた仙台の
自民党の有力者である袴田弁護人を初めとして
請求しても出さなかった。そうしてとうとううるさく言われる、
国会でも言われるから出した。こういうことになっているでしょう。どういうことが
国会について言われているか。まだこのほかに、「騒がしいのは弁護人の方ですか。」、「それだけでなく、アカハタと商業新聞にも同調者がいますから。」、私が取り上げたのは
昭和三十三年八月九日、朝日新聞が取り上げたのは、その一年以上前の
昭和三十二年六月のことであります。私が取り上げて新聞が同調したんじゃないのです。一年以上も前のことなんです。
判事も、これはだいぶ辛らつな
判事とみえて、こういうことも聞いております。「
国会の
法務委員会の問題も一つの
理由ですか。」「そうです。」「騒いでいる中に入るのですか。」「入ります。」「検察の威信ですか。」「信用、
権威が失墜されることがないように、そういう
趣旨を入れてですね。」こう聞いています。「そういう
趣旨ですか。」「そういう
趣旨も入れてです。」「結局騒がなければ返さない訳か。」「それはそうですよ。」と答えている。そうしますと、あなたのおっしゃることとだいぶ違う。これは菅生
事件でもあったでしょう。今だから私がここではっきりあなた方に申し上げなかったことを申し上げます。私が
昭和三十年二月の総選挙で出てきて、すぐ法務
委員になりました。一つの目的がありました。それは
昭和二十五年から三十年にかけて朝鮮戦争があり、われわれが追放され、われわれが地下にもぐることを余儀なくされているその前後から、いろいろと
事件が起こりました。松川
事件がその一つであります。最後は大分県の菅生
事件であります。こういう
事件が次々に成功すると、これを謀略としてやる側は、何をやっても成功するという慢心が起こります。だから最後の菅生
事件のやり方というものは、実に粗雑きわまるものになっておった。私に対しては、松川
事件が重大だから取り上げてくれ、こういう要請もありました。しかしながら、松川
事件を最後の目的とするけれ
ども、最初は、やはりこの一番粗雑な
事件を取り上げれば全貌が明らかになるというので、二年間この菅生
事件を扱いました。そうしたら案の定、菅生の交番を爆破したのは警察だったでしょう。そのときに、さっき名前の出た井本公安部長ですね、そのときはあなたの前任者で
刑事局長でしたが、ここであの市木春秋という戸高公徳の書いた脅迫状、これは証拠としてとるに足りないから出しませんでしたと言った。次には追い詰められると、あれは証拠として受け取ったものでないから出しませんと言った。ところがその隣に当時の警察庁長官、今の柏村君の前任者の石井君がおられた。石井君は何と言ったか。確かに証拠として出しまして、その領置書、受取書までもらっておりますと言ったので、井本君も窮地に陥ってしまった。ああなると、役人同士でも自分の頭に火の粉が降りかからないためには、やはりほかの役所がどうなったっていいということを示すものですよ。やはり追い詰められたら足並みが乱れてくるんですね。人のことをかまっちゃいられない。そういうようになって、あの
事件の全貌が明らかになった。これはあの当時の一連の
事件全部が謀略だ、こういうことを
日本人全体が確信するようになりました。それから一年半たって、この
法務委員会で、初めて松川
事件というものが取り上げられてきたのです。その間にも、ずっとこの問題は、菅生
事件自体も発展しておったのであります。そういうことで取り上げてきたのであります。これは今まで私、黙っておりましたが、きょうははっきり申します。疎漏な問題からやると、最初にやった緻密のような
事件の内容でもばれてくる。ねばり強くやっておりますと、こういうふうな、検事が宣誓したものが、のっぴきならない証拠になって出てくるでしょう。あなたは、何も重要なものではないから、返せと言ったら返したのだと言われるけれ
ども、検事が今この文書の中で言っているじゃありませんか。外で騒ぐから、隠匿だと言われるからやむなく返したのだ、こう言われている。これも弁護人がそのときに——あなたは何と言われた、弁護人が
請求しているでしょう、だから検察庁にあるのだから、これを出せばいいです。しかも、この諏訪メモは実に戸高公徳の足取りと同じことで、
昭和二十七年九月中旬から二十八年七月までは仙台高検公安事務室に保管されておった、保管者は稲辺検察事務官。
昭和二十八年七月から二十九年四月までは盛岡区検検察官室、全然
事件に
関係のないところで大沼副検事が預かっておった。
昭和二十九年四月から三十二年六月下旬までは釜石区検検察官室、大沼副検事。
昭和三十二年六月下旬から同七月十二日までは福島地検庁舎、これは六月に諏訪メモのことを朝日新聞が書いたのでこういう処置をとったのです。事実は符合しております。そして
昭和三十二年七月十二日から三十三年四、五月まで最高検庁舎、最高検神山欣治検事が保管しておりました。そのあと私が質問したのですね、そうしたらあなたが答弁された。最高検察庁にあるとあなたは言うけれ
ども、調べてみたらない。いいですか、それからが、あなたは何と言われているかというと、「最高検においては、うちの方は持ってないということでありましたが、それではどこにあるの、だろうということで、順次、当時捜査に当りました福島地検、仙台高検——二審の公判がありましたので、そういう方面にはないかということで、いろいろ調査しました結果、正確な日付は今宙に覚えておりませんが、先般、福島の検察庁の事務官ですか、副検事ですかがお預かりしているということであったそうです。それはすぐ返さなければいかぬというので、お返しをしたというふうに私聞いております。」そのときにこういうふうにあなたが答えられて、本人に返した。弁護士が
請求しているのに、弁護士に提示せずに、諏訪本人の方に返したわけですね。こういうことであります。そしてそのあとで、
昭和三十三年九月四日に諏訪親
一郎に還付されるまで、あなたの言われる検察事務官というものは、島倉保検察事務官、名前を伺ったが、あなたは名前を御存じなかった。こういうことになっております。そうなりますと、どう考えてみても、これは検察庁が必死になってこの諏訪メモを隠しておった。
法務委員会で言われ、その前に二百四十二名の弁護人から
請求され、新聞にも騒がれる。それでもうやむなくこういう処置をとった。事実はこういうことになっております。どうして今申し上げたようにこの書類が方々渡り歩いたのか、あなたは決して大沼副検事に責任をおっかぶせようとは思わないということになります。私が伺うのは、だれが責任者かということを法務大臣は御存じないかもしれない。それならそれでよろしいから、だれがこの責任をとるのか調べていただきたい。
法務委員会において前任者の井野法務大臣ははっきりこう言っています。
昭和三十四年の八月十日です。「松川
事件に対しましては、本日
最高裁の
判決があったようでございますが、私はまだその内容を詳しく聞いておりませんが、破棄、差し戻しをしたようであります。従って、
裁判は再び仙台へ移ると思います。検察官の責任について御質問でございますが、検察官としては今まで自分の信ずるところをもってこの
事件に処して参ったと思います。従って、その間に人権じゅうりんのいろいろの問題があったり、また不当なことがございましたら、これは検察官の適格審査会において十分審査されるべき問題であって、責任も明らかにされると思います。」こう言っております。もちろん検事が主張しても、
判決、最高
判決で検察当局の思い
通りにいかないことは間々あるものでございます。そういうことを私一はかれこれ言うのではございません。この場合は、きょう
猪俣委員も申しましたように、今まででも検察庁が、弁護人に当然示すべき証拠閲覧権というものを全然認めないで、勝手に自分
たちが被疑者あるいは被告人を有罪に
判決するような材料を出してくる。それに不利な材料、被告にとって有利な材料は出さないというので、ここでは
自民党の方で弁護士をしておられる
委員も、その点についてはこの際明らかにしておかなければいけないという御
意見もあって、きょうこの
委員会で、松川
事件についての諏訪メモその他証拠閲覧の弁護人の
権利を全然無視してやってくる検察庁の態度、これをこの際はっきりしていかなければならない、こういう問題になったのであります。こういうことで、検察官適格審査会で責任を明らかにするということまで前任者の井野法務大臣も申しておられます。これは松川
事件の
最高裁の
判決当日のことです。そしてきょう
法務委員会で、そういう証拠閲覧権云々について、検察庁と同じ
権利を持ち得るようにしなければならない、こういう弁護士
たちの共通の要求、こういうことがあるのであります。その点について法務大臣はどのようにお考えでございましょうか。