○白石
参考人 それでは先ほど中断いたしましたことを若干補充して、完結をいたしたいと思います。
思い出していただくために今まで申し上げたことを簡単に申し上げますと、
原則的にはちょうちんを持つのでありますが、批判的角度か申し上げるならば、第一点、この
法案はいかにもわかりにくい。おかりにくいという
意味は、
一般国民が見て教科書的でわかりにくいというだけではなくて、特定の
法律見解、
学説から出発して書かれておるために、反対の見解から見た場合にわかりにくいという問題がある。第二に、それに関連しまして一定の
訴訟類型を特定の
学説から
規定しました結果として、それ以外の
訴訟類型は押えるというような要素が何ほどか出てきている。第三に、これと関連をすると思いますが、幾らか上から下を見おろしたような姿勢で、
行政訴訟を規制しようというような記述になっておりますので、
国民が下から見て自由濶達に
行政訴訟を伸ばしていこうという面から見れば若干の欠陥があるんじゃないか。第四に、この
法案の基礎となっておりますところの
行政権対
司法権の根本的な
考えにつきまして、一まつの不安がある。というのは、それは何らか
行政権、
司法権の
関係におきまして、
司法権をなるべくもり立てていこうというよりも、何らか戒めて、押えていこうという思想の影があるということを申し上げたのでございます。それに関連しまして、具体的例として、これは
不作為を命ずる
訴訟、義務づけ
訴訟というようなものを押えるという
意味合いを持っておるということを申し上げたのであります。
ついででありますから、ここで
一つ申し上げておきますが、浜本局長の
説明で、最高裁の
判例で、そういう
給付訴訟のようなものは許されないのだということが
判例になっておるということになっておりますが、これは私の知る限りでは、そうではないと思います。私、最高裁の事務総局におり、またその後その調査官を長くやっておりましたので、その
立場からある
程度最高裁の
裁判を見ておるわけであります。それをここで差しつかえない範囲で、申し上げていいことを申し上げてみますならば、おそらく最高裁としては今までに、もし作為、
不作為を命ずる
裁判が許されるかという問題について、見解を示す機会は幾らでもあったと思うのであります。と申し上げますのは、先ほど申し上げましたように、下級審の裁
判例は、作為、
不作為の請求が許されないのだということは幾らでもあったのでありますから、その上告
事件が当然最高裁に来ておるのであります。従いまして、もしそれと同じ見解であるならば、簡単に上告をはねるとかいうことができたような事案というものはかなりあったと思うのであります。それにもかかわらず、最高裁におきましては、これははなはだ注意深く
判例集を見ていただけばわかると思うのでありますけれ
ども、そういう問題をしいて回避したかのごとく、慎重に、ほかの
理由で判断している、これはよほど慎重に見ていただかなければ、あるいはわからないかと思いますけれ
ども、
判例集をめくっていただけば、わかることと思います。私の記憶ではそういうことになっていると思います。
それから、今申し上げましたような批判的角度から申しましての第二点といたしまして、これは無効確認
訴訟の問題であります。これは
猪俣さんからも発言がありまして、私も
賛成でありますが、これは現在の
法律関係でいける限りは現在の
法律関係でいけ、そういうので目的を達しない限り無効確認
訴訟を認める、こういうしぼり方になっておると思うのであります。その例としてこれをよくあげておるのでありますけれ
ども、課税
処分が無効である、それでその結果といたしまして、いつ差し押えをするかわからない、財産を差し押えられるかわからない、こういう場合に、現在の
法律関係で引き直しようもないという、無効確認
訴訟をするのだ、こういう例があがっておるのであります。もう
一つあがっておる例は、営業の不許可
処分が明らかに違法である、それでその不許可
処分、それにもかかわらず
行政庁が、不許可
処分が適法だとがんばって、事後の
行政措置を講じようとする、あるいはそれを前提として刑罰が科せられるような形勢にある、そういう場合に、やはり不許可
処分の無効確認を得ていなければ
救済は得られないのだ、こういうことがあがっておるのであります。けれ
ども私は、これは実は私
どもの
考えからはよくわからないのであります。と申し上げますのは、初めの例で申し上げますと、差し押え
処分がおよそ重大明白な瑕疵があって、無効であるということでありますならば、その次の
処分をやっていけないこと、これは当然であります。これは
国民のどなたに聞いてもそうであろうと思うので、これは明白な論理であろうと思います。もちろん当然無効であるかどうかということは、そう簡単に言えるものじゃありません。それについては十分慎重でなければならないと存じ上げますけれ
ども一いやしくも無効であります限り、次の段階の
処分をやっていけないということは、これは当然であります。ですから、そういう
関係で、現在の
法律関係で引き直すということであれば、これは決して不可能ではないのでありまして、差し押え
処分をする権限がないから、差押えをすべからずということを求める、これでもいいと思うのであります。そうしますと、現在の
権利関係で引き直すということであれば、決して不可能ではないのであります。ただ、そういう
不作為を命ずるような
訴訟ができないという
考えを前提にいたしておりますから、そういうことになるのでありまして、もしもその前提をはずせば、およそ不可能なことはないと思うのであります。これは旧
憲法時代におきましては、たとえば
行政処分が無効であるということを前提として、その結果できてくる
法律関係が私法上の
法律関係であれば、これは旧
憲法時代でも無効であるということは
裁判所の判断でできたのでありますが、私法上の
法律関係でなければ、という制限がありました結果、たとえばその結果出てくるのが、所有権の帰属というようなことならば
裁判所はできたのでありますけれ
ども、現在の
権利関係に引き直す場合は、
法律関係が
公法関係であるということで、できなかったわけであります。
それが新
憲法のもとでははずれたということでありますから、それが不可能だということは独断であろうと私は思います。ただ、先ほど申し上げましたように、そういう
行政庁に作為、
不作為を命ずるというようなことは、いつでもやれるというようなわけではないということは、やはり考慮に入れなければならぬと思いますけれ
ども、いやしくも重大明白な無効である限り、その次の
処分をやってないということ、これはもうだれが見ても当然の論理で、そういうものを
裁判所が宣言してはいけない、これが
司法権に反するんだと言われましても、これはやはり
国民にはそう納得のできることではない。これはきわめて素朴な疑問で、これに対して十分な答えができ得るかどうか、こう思うのであります。
それから、営業不許可
処分についても同様なことが言えます。それが無効であるという場合に、そういう不許可にすることは明らかに無効である、従いまして、不許可
処分は違法である、そういうようでありますならば、それは当然許可しないことは
憲法違反で、無効であるというならば当然、これは許可すべき義務があるということは判断として言えるわけであります。それをなぜ言えないのか。それを言えないという
考えを前提といたしますから、この場合に、不許可
処分の無効確認を言わなければ
救済の道がない、こういうことになるのであります。でありますから、私
どもの
考え方からいえば、それは現在の
法律関係に直すことは、およそ不可能であるということはないのであります。従いまして、この条又をそういう
考えで読みますと、すべての場合現在確認することは可能じゃないか、こうも言えるのであります。
それから、見方を変えまして、現在の
権利関係に関する
訴訟では目的を達しない場合と、こういうしぼり方になっておるのですが、これも私の見方からいえば、わけがわからないということになると思います。と申しますのは、例をあげて申しますと、農地買収
処分が無効であるというふうに、かりに無効を前提として所有権が確認されたとします。現在の
権利関係において、所有権を確認したといたします。その結果、原告が勝って、原告の所有であるということが確認されます。しかしその判決が、既判力としてもあるいは拘束力としても、再び同じ
処分、再び農地として買収していけないという拘束力も既判力も全然出ないのであります。だから、理屈の上では、また
行政処分をすることは妨げられないということになるのであります。目的を達することができないとおよそ言うのでありますれば、すべてそういう無効確認で行かなければ目的を達しないということ、こういうことも言えるのであります。それは無効確認をとらえる
訴訟というものと、それから、現在の
権利関係の
訴訟でとらえる
訴訟というものが違うから、当然の帰結であります。それからまた、私
どもの見解から言えば、こういうようなしぼり方をかけるということはあまり根拠がないのじゃないか、こう思うのであります。それは問題の
意味ということを、ここでもう少し理解していただきたいために、少し振り返ってみたいと思うのでありますけれ
ども、私
ども初め、
行政事件を扱い始めましたときに、これはおそらく無効確認
訴訟なるものは、この
法案でいうところのいわゆる当事者
訴訟として扱うぐらいの
考えではなかったかと推測されるのであります。ところが、案に相違して、無効確認
訴訟がどんどん出る。そうしてその性格はどうもやはり当事者
訴訟として見ておってはおかしいのだということで、それはやはり
抗告訴訟、
取消し訴訟に準ずるんだという
考えが出てきたと思うのであります。そういう形で、一面においては、現在の
権利関係の
訴訟でいくのが本質だという
考え方によって存在を脅やかされながらも、根強くやはり存在
理由を主張して今日まで来たというような状況であります。
そこで、そういう状況の基礎としてどういう方向に向かってその合理的な道が動いておったのかということを私
ども推測いたしてみますと、それはこういうことじゃないかと思うのであります。それはちょうど民事
訴訟で申しますと、一応判決が確定した後に、再審の
訴えという非常の
例外的な
救済があるのであります。取消
訴訟と無効確認
訴訟との
関係は、あたかもそれに準ずるんではないか。再審の
訴えにおける再審事由を、今かりに重大明白な瑕疵があったときは再審を請求することができる、こうかりに書きかえてみたらどういうことになるか、それがつまり無効確認
訴訟ではないのか、つまり出訴
期間が切れて、一応公定力というようなものが確定した後におきまして重大明白な瑕疵があるということで、もう一度違法かどうかを再審に求める、こういった性格の
訴訟ではないかと思うのであります。そういう
例外的な
救済として発達してきたのではないかと私は推測する。これはむろん反対の見解がありますが、推測するのであります。ところが、これはこの
法案では明白にそれとは違った角度から規制していこうということであります。私
どもの
考えから見れば、それはわかりにくいということはさっき申し上げた
通りであります。
この
法案の無効確認
訴訟の基礎になっておる
考えには、無効ということがあまり主張され過ぎて
乱用があるから何とかこれを規制しよう、しぼっていこうという
考えがあると思うのであります。これは一応わからないことはないと思うのでありますけれ
ども、
わが国において無効確認
訴訟が出てこざるを得なかったということ、これはやはり
わが国の
国民は何といっても
権利の主張にまずいのでありまして、私
どもから見て、出訴
期間が切れてから
あとで無効確認
訴訟をするのは歯がゆく思いますけれ
ども、実際にそういう例もかなりある。出訴
期間のきめ方が無理であるというようなことから次第に出てきておるのであります。そういう出ざるを得ない
理由があったということと、これは裁
判例が比較的無効確認
訴訟をゆるやかに認めてきたという
理由はそれも
一つでありますが、いま
一つは、無効を前提として現在の
権利関係を民訴でやっていくという場合に、その前提となる
処分の無効の主張は、これは非常に制限しなければならぬということであります。けれ
ども、そうではなくして無効確認
訴訟という
抗告訴訟に準ずる
訴訟で
行政庁を被告として、従ってそこでは
行政庁の
意見も十分反映できるような
訴訟、そういう中で無効を主張させるということは、これは
日本のような国情ではある
程度ゆるやかに
考えていいということではないかと思うのであります。そこで無効確認
訴訟を許すことによって、無効確認
訴訟をむやみに許せば
法律関係が安定しなくて困るということでありますけれ
ども、もしそういうととが困るということであれば、無効確認
訴訟に私は事情判決の
規定は適用があると思うのであります。そういう場合に
処分を無効とすることが、明らかに公共の福祉に適合しない場合には、事情判決で棄却すればいいのでありますから、それだけの手当をした上で
行政庁の
意見も十分参酌し得る特別の手続で、無効を主張するということでありますれば、これはそうしぼる必要はないと思うのであります。
ついでにここで申し上げますけれ
ども、乱訴の弊ということは
行政訴訟に関する限り、これは私は大局的には問題にならないと思うのであります。と申し上げますのは、現在まで、これは新
憲法下現在までの一審、二審、三審とも通じて大づかみにした
事件数は、お配りいただいた資料から見ても、ざっと二万件であります。これは新
憲法以来各審級のものを合わせて二万です。ところが私
ドイツに行って、あまり十分な調査ではありませんが、ちょっとした調査でも、たとえば東京の人口に匹敵しておるバイエルン、これ一州でも、一審の受理
件数が六万くらいあるのです。それは
一つのラントでそうです、全国では大体約三十万件というものがあるのであります。
わが国ではこういうような段階にあるのでありますから、およそ乱訴ということは
行政訴訟の場合に問題にならないと思うのであります。従って、もし乱訴というようなことから何かしぼらなければならぬということでありますれば、それはやはりいろいろ
考えなければならぬのじゃないか、こう思うのであります。
それからもう
一つ、ついでに
国民の側から見ると、今無効
訴訟を遂行する面からいって多少難点があるのではないかと申し上げたのでありますが、次に、
行政訴訟の提起について被告を何人にするかという問題があるのであります。これは
処分庁主義、
訴願の裁決を経由した場合でも前の
処分庁を被告としろ、こういうことになっております。これにつきましても今までの従来の
裁判では、いずれかというと原
処分庁でも上級裁決庁でもいずれでもいいということになっておったと思うのであります。それは
処分というものは必ずしも原
処分だけで最終的に形成されるものではないのであります。
訴願の裁決が加わって、それがプラスされて最後に
行政処分が形成される。そういう
意味では
上級行政庁も
処分に関与した
行政庁、こう言えるのではないか。これが今の根拠でありますが、それよりも何と言いましても
国民の気持から見れば
上級行政庁にまで持っていって争った、最終的な責任者までいって争って、
訴訟になったならばその親方の方を相手にしたいというのが、やはり
国民の気持じゃないか。それはある
意味で
国民の気持にも合致すると思われるのに、なぜここで
処分庁に切りかえられなければならなかったか、この合理的
理由がどこにあるかということを私は疑問にしておるところであります。
最後に
内閣総理大臣の
異議、これは
猪俣参考人が言われましたので、大体私も全面的に
賛成で、あまりつけ加えて申し上げることはありませんのですけれ
ども、私、この
意味のこの
規定の
理論的効用ということは、これは実はわからないわけではございません。
行政権対
司法権の対立の中で、この
処分だけは総理大臣が責任を持ってどうしても効力をとめてもらわなかったら、どうなるかわからないから、これは
一つおれの政治的責任でやらせてくれという場合に、政治的責任を負わぬ
裁判所が引き下がらなければならぬということは、そういう場面があることは私は理解できないわけではないのです。また、先ほど長野
参考人が言われましたように、
行政処分の性質のものだということは、これも認めていいと思うのであります。けれ
ども、まず
行政処分だから
行政庁がチェックしていいということを言いますならば、これは
仮処分はいかがでしょうか。
仮処分も本来的には
行政処分でありますから、これを
行政庁がチェックしていいということになれば、これは直ちに
憲法違反の問題にかかってくると思うのであります。つまりある本来の司法作用を保護するためにある範囲の付属作用は、実質的な司法作用の中に含まれなければならぬ、こういう
考えが出ておるわけであります。同様のことを申し上げますれば、これは
行政訴訟というものは
裁判所の管轄として認められた
救済制度であります。この
権利救済というものが形式的にのみならず実質的に保護されなければならぬ。実質的に保障されておるということでありますれば、付随的にこの
処分をとめておかなければ
行政救済が全うされないのだという
裁判所の認定で
執行停止をするというのを、
行政庁でしいてチェックするということ、これはやはり違憲の問題か何ほどか介在しておるのじゃないか。最近における若い学者の見解の中にもそういうものが見られると思うのであります。今直ちにこれは違憲だというふうに言い切る自信がありませんが、少なくとも妥当ではないと思うのであります。それからその
行政権対
司法権の大きな場面で政治的責任を負わない
裁判所は引き下がらなければならない場合があるということは理解できると申し上げましたけれ
ども、実際問題として、はたしてそういうことがあっては困るのでありまして、と申しますのは、振り返ってみますと、これはどういうことからこういう
規定ができたかと申しますと、これは占領軍がいました時代の、御承知の
通り平野
事件を契機として出てきたわけであります。その当時は
行政権と申しますか、実は
行政権の背後にいましたところの占領軍という強大な権力が、そういう
行政権の衣をかぶって
日本の荒っぽい改革を執行したという時代であります。そういう時代には何と言っても
裁判所の存在がじゃまになるのであります。そういうところで、初めてそういう背景でこの
規定ができたということはよくお
考え願いたいと私は思うのであります。ところが、今そういうことはなく平穏の状態に立ち返りまして、民主主義はルールに乗るということでありますれば、そういう懸念が再び起こっては実は困るのであります。でありますから、そういうものが起こるからということは、これは一応もっともらしい理屈には聞こえるのですけれ
ども、かえって
乱用の危険こそあれ、実際は必要ではない、あっては困るのだ、こういう感じがするのであります。実際に過去における旧法のもとでの運用を見ておりましても、私
どもどちらかというと、やはり
乱用ぎみじゃなかったか。と申しますのは、それを発動すべからざる場合に
執行停止、
異議を発動したという
意味で
乱用であるのみならず、その
執行停止を発動する手続についても問題があった。というのが、
内閣総理大臣が
異議は述べることができるというようなことがあるのでございますが、実際は、
内閣総理大臣の下僚が
異議を述べること、こういうふうなセンスで理解されておりましたし、また、そういうセンスで運用されておったと思うのであります。
裁判所もまた行き過ぎという面があったことは否定できないと思うのであります。けれ
ども、問題は、
裁判所の
乱用がおそろしいのか、
行政庁の
乱用がおそろしいのかという問題であろうと思います。私は、やはり、何といっても、おそろしいのはどちらかと言えば、
裁判所は、——限界が狭いので申しわけないのでありますけれ
ども、どこまでも
国民の
権利と公共の福祉以外のほかのことは
考えない、全く理性に従って行動する善意の職員。そういう者の判断に
乱用という点を感じるのか、それ以外の
行政庁の側に
乱用を感ずるのか、こういう問題であろうと思うのであります。こまかい議論は抜きにいたしましても、何といっても、先ほど申し上げました
行政権の
司法権に対する不信、非常にこれを現わしておるのではないかと思うので、
行政権が
司法権を何とか戒めようという思想もあるいはここにあるのではないかと思うのであります。そういう思想があればこそ、
行政庁のメンタリティーというものがそうであればこそ、この
規定を根強く残さなければならないという
考え方が出てきたのであります。ということは、それだけやはり、そういうメンタリティーが望まれる限り、
乱用の危険がそこにあると、私は非常にまゆつばを感じるのであります。こまかい議論は抜きにして心、一体、司法国家、民主国家ということで、こういう
裁判所に、総理大臣が
一般的に
裁判所の
処分に対して
異議を述べるというようなことがあっていいものか。おそらくこれほど広く認めた例はほかの
立法例にはないのであります。アメリカあたりでは、大統領に対してインジャンクションができないということはありますけれ
ども、大統領の下僚に対してインジャンクションができないということはないと思う。これほど広く認めるのはまずあまりないのではないか。そういう
意味合いでは、諸外国にこの
法律の翻訳が出れば、これはおかしな
法律だとしてあるいは笑われはしないかというような感じすらするのであります。従いまして、ほかの点はともかくといたしまして、この総理大臣ということについて、やはり私は最も問題があろうかと思います。