運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1962-02-21 第40回国会 衆議院 農林水産委員会 第9号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十七年二月二十一日(水曜日)    午後一時三十一分開議  出席委員    委員長 野原 正勝君    理事 田口長治郎君 理事 丹羽 兵助君    理事 山中 貞則君 理事 足鹿  覺君    理事 石田 宥全君 理事 片島  港君       安倍晋太郎君    飯塚 定輔君       大野 市郎君    仮谷 忠男君       草野一郎平君    小枝 一雄君       坂田 英一君    谷垣 專一君       綱島 正興君    内藤  隆君       中山 榮一君    福永 一臣君       藤田 義光君    本名  武君       松浦 東介君    米山 恒治君       角屋堅次郎君    東海林 稔君       中澤 茂一君    楢崎弥之助君       西宮  弘君    玉置 一徳君  出席政府委員         外務事務官         (移住局長)  高木 廣一君         農林事務官         (振興局長)  齋藤  誠君  委員外出席者         外務事務官         (移住局外務参         事官)     鶴我 七蔵君         外務事務官         (移住局業務課         長)      高良 民夫君         外務事務官         (移住局調査         官)      田村 坂雄君         農林事務官         (振興局参事         官)      橘  武夫君         農林事務官         (振興局拓植課         長)      三善 信二君         参  考  人         (ドミニカ国ハ         ラバコア地区帰         国者)     高橋 義量君         参  考  人         (ドミニカ国ネ         イバ地区帰国         者)      小市 正司君     ————————————— 二月二十日  現行食糧管理制度維持継続に関する請願(宇  野宗佑紹介)(第一二九八号)  同外一件(草野一郎平紹介)(第一七〇四  号)  臨時肥料需給安定法等廃止反対に関する請願  (宇野宗佑紹介)(第一二九九号)  同外一件(草野一郎平紹介)(第一三〇〇  号)  同外三件(草野一郎平紹介)(第一四一七  号)  同外一件(堤康次郎紹介)(第一五三三号)  土地改良事業に対する助成措置に関する請願(  下平正一紹介)(第一三一六号)  同(井出一太郎紹介)(第一三七九号)  大規模草地開発事業及び草地改良事業に関する  請願下平正一紹介)(第一三一七号)  同(井出一太郎紹介)(第一三七八号)  てん菜生産振興支持価格の引上げに関する請  願(下平正一紹介)(第一三一八号)  同(井出一太郎紹介)(第一三八〇号)  国有林野開放促進に関する請願瀬戸山三男君  紹介)(第一四一八号)  水沢競馬場廃止に関する請願小澤佐重喜君紹  介)(第一四九七号)  酪農窮状打開に関する請願外二百四件(板川  正吾君紹介)(第一四九八号)  同外百二十一件(高田富之紹介)(第一四九  九号)  同外二百三十一件(平岡忠次郎紹介)(第一  五〇〇号)  同外四百七十九件(鴨田宗一紹介)(第一五  三二号)  同外六十六件(畑和紹介)(第一六〇八号)  老朽農業用つり橋改修費国庫補助に関する請願  (櫻内義雄紹介)(第一五三四号)  果樹(バナナ)農業振興に関する請願保岡武  久君紹介)(第一五七〇号)  同(八木徹雄紹介)(第一五七一号)  同外一件(湯山勇紹介)(第一五七二号)  同(安平鹿一君紹介)(第一六五五号)  同(中馬辰猪紹介)(第一七〇三号)  外資及び技術導入による豊年リーバ社のマーガ  リン等生産反対に関する請願田中榮一君紹  介)(第一六〇九号) は本委員会に付託された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  農林水産業振興に関する件(ドミニカ農業移  住問題)      ————◇—————
  2. 野原正勝

    野原委員長 これより会議を開きます。  農林水産業振興に関する件について調査を進めます。  本日は、ドミニカ農業移住問題について、参考人として、ドミニカ国ハラバコア地区から帰国された高橋義量君及びネイバ地区から帰国された小市正司君のお二人に御出席をいただいております。  この際、参考人一言あいさつを申し上げます。本日は御多用中のところ、本委員会調査のためわざわざ御出席をいただきまして、まことにありがとうございました。厚くお礼を申し上げます。本委員会におきましては、わが国の農業移住振興をはかるため、本問題にきわめて深い関心を持っておる次第であります。参考人方々には、この点をお含みの上、農業移住体験を通じまして忌憚のない、率直な御意見を承り、もって本委員会調査に資したい所存であります。  なお、参考人の御意見は、一人十分ないし十五分程度お述べをいただき、あとは質疑によりお答えをお願いいたします。  では、高橋参考人からお願いをいたします。高橋参考人
  3. 高橋義量

    高橋参考人 私は、皆さん御存じと思いますが、昨日この席上、ドミニカハラバコア地区の代表といたしまして、皆さんに簡単に御説明申し上げて陳情いたしたものでございます。本日はまた参考人として呼んでいただいたことを、まことに光栄と感じております。ただいま委員長さんのお話に基づきまして、私から簡単に、まずこの募集に応じた出発当時から帰国に至るまでのことを、御説明申し上げたいと存じます。  まず、個人のことでございますが、私のことを申し上げますると、私は北海道北見国、佐呂間湖の近くでございまして、米作の北限地帯というような、非常に寒いところでございます。生まれは四国でございましたが、子供のとき父親と一緒に、現在の出身地のところに農業経営しておったものでございます。まああの地帯で申しますと、三年に一回の凶作がございます。それから特産物といたしましてはハッカハッカによって生計を立てておった。その他特用作というものがたくさんございまして、米は、三年に一回はとれない、あるいは連続三年も凶作が続いたという地区でございます。それで、私も実は、何と申しますか、外地に活躍したいという希望は、青年当時からございまして、終戦前には、満州開拓、いわゆる満拓、満州拓殖公社、あそこに採用されまして、三年ばかり農業指導というような肩書きのもとに勤めたものでございます。そして終戦になって、また故郷北海道に戻ったものでございます。それからずっと農業をやっておりましたが、やはりだんだんと、気象の循環性に基づいて冷害もありますし、それからハッカというものは、外地産のいわゆるブラジルハッカあるいは中共ハッカというものに圧迫を受けて採算が合わない。いずれにしても、国土も狭いし、北海道にしてもまあ……、それで南米に行けるようになれば、出かけなければいけないということで、希望を持っていたところに、ドミニカ募集がたまたまございまして、十月ごろでしたが、さっそく道庁に参りまして聞きましたところ、ドミニカというところは非常によろしい、これは親日友好であって、夜明けの国だ、いわゆる将来はハワイみたいになる、まあ島国で、西インド諸島気候はもう世界一だというようなお言葉を聞いたものですから、それじゃとりあえず、ちょっと国は小さいが、しかし人口密度やその他からいくと、未開発地区が相当あるのだというふうに考えましたものですから、私は、親族会議を開き、あるいは財産処分の問題もございましたが、急でありまして、親戚、身内あるいは農協の臨時役員会を開いていただいて、手持ちと合わせて貸し出しをいただいて、それで出発したものです。その前に、大体一町歩を経営しておりました。まあいなかで、駅からは三里ばかりありますが、バスの停留所で、非常に地の利がよろしく、土地もよろしかったので、豊作の年ですと、年間百万内外というような収入がございまして、非常に景気のいい、また、冷害の年には、四、五十万になって、若干赤字が出る、この連続をやっていたわけなんです。それで、私の方といたしましても、これは非常に環境のいいところ悪いところございますが、私どもの方の寒冷地帯としては、いろいろな立地条件には恵まれておる。しかしさっき申し上げましたハッカの問題で、酪農に切りかえなければいけないのだというところで、私どもは、酪農振興役員として相当貢献して参ったものでございまして、ところが……。
  4. 野原正勝

    野原委員長 高橋さん、あなたにちょっと注意しますが、北海道のあなたの体験もさることながら、まず一つドミニカにおけるハラバコア地区におけるあなたの体験したことを中心にしてお話しいただきたい。時間もあまりございませんので、最初からお断わりした通り、大体十五分くらいで述べていただきたい。まあ多少延びてもいいですが、どうぞ一つ……。あまり北海道お話ばかりすると、向こうの方が……。
  5. 高橋義量

    高橋参考人 それで、結局は、われわれ帰ってきた者の約三十名の者も、同じような境遇で、自営農業をやっておったものでございまして、いずれも話を伺いますと、外地に勇躍して一旗あげる、あるいは子孫の基礎を築くのだという、そういう大きな野望を持った熱血漢ばかりのようでございました。いずれも同じでございまして、ドミニカという、その募集要領を信じて渡航したものでございます。ところが、実際問題、渡航してみますると、昨日のこの請願書並び嘆願書にございましたように、全然事が違う。自営開拓農として募集されたけれども、私ども行ってみますと、国家経営する国営農場コロノ、いわゆる管理農業といいますか、いわゆる農林省の役人が数名おりまして、その農場管理をやっておる。配分された耕地の約一割しか自由作は認めないといった強い制約のある管理農業という中で、われわれ努めて参ったものでございます。  それから、私ども現地に参りまして、すぐに出先機関大使館海協連交渉を続けたわけでございます。ところが、これはいわゆる仕方ない。海協速いわく、これはまあ募集要領つまり契約であって、何も宣伝ビラじゃない。大使館の方では、これは一つ宣伝ビラだということで、海協連大使館現地で摩擦を起こした事態があったのでございます。それから私どもも、これはいかない、こんなことじゃ、とにかくコロノというものはこの国の一番身分の低いものであって、こういう黒んぼにわれわれは監督されて一生農業をやるわけにはいかないのだということを訴えた事態もございましたが、小長谷大使は、これはわれわれの方で外交交渉をするべきものであって、いわゆる砂糖か何かの貿易の交渉のときに話をすれば、たとえば五年くらいで土地所有権も与えられるようになるかもしれないから、気長く待ってくれというようなこともあったのでございます。ところが各地とも、私どものところはネイバ以外の人が全部集結しておって事情は十分わかりますし、また私としても入植当時は若干お金がございましたので、全国をあっちこっちいわゆる土地を買うなりして自営農業にならなければいけないのだというつもりで調査に歩きましたので、大体よくわかっております。しかしなかなか土地を売るという者はなかったのであります。それからスポンサーと申しますか、初めの…うちは来ないかといってくれた方も数名ございましたが、しかし語学が十分でないので、勉強してからということで延ばしておりました。  ハラバコア地区といたしましても、最初は十五家族というのでわれわれ入植いたしました。ところがほかの地区環境が悪いために、農務省あるいは大使館海協連の了解も得たのでございますが、自然続々とハラバコア住宅が建てられた。一応そういう形で入ってこられて八十五家族、ますます営農困難と申しますか、過剰入植土地もなければ水もないというふうな形に相なったわけでございます。その問いろいろと苦しいことばかりが続いたわけでございますが、土地が悪い、水がない、あるいは作ったものは安い、赤字経営だということが相続きまして、だんだんとジリ貧を深めまして、持っていった金も使い果たし、農機具あるいは着る物なども売りまして、私どもは裸の姿で帰ってきたという状態でございます。また残っておる方々も、現地におきましては借金があって動けないという方も相当ふえたわけでございます。  それから昨年の五月でございましたか、その前一カ年間われわれは外務省並びに海協連陳情嘆願と申しますか、交渉を続けて参ったわけでございますが、一回の返事も、回答もございませんでした。そのために私どもはしびれを切らして、もうこれは相ならぬ、これ以上延ばされたんでは借金に首を絞められて動けなくなるということから、外務省当局に最後の断と申しますか、もう何の対策もやってくれないのではわれわれはデモをやるのだ、ただし何月何日を期す——そのときは二十五日ということでありましたが、五月二十三日に初めて外務省から海協連の連中とともに調査に参ったわけであります。これが二日前です。そのときに南米転住をさしてやろうというようなことで大体話がつきまして、私ども南米転住を期待して待っておったわけであります。ところがその後飯島事務官、これは外務省振興課の者でございますが、参りまして、何か南米への募集のような格好で、選考のような形のもとに、どちらに行きたいか、ブラジルかパラグァイかアルゼンチンか、あるいは本国に帰りたいか、ここにおりたいかということでございました。そのときの数字を申し上げますと、当時南米転住が八割、それから残って様子を見てみようという者が一割でございます。それから本国の方へどうしても家庭事情やいろいろなことで帰りたい者が一割、そういうような。パーセンテージになったわけでございます。  それから二、三カ月待ちまして、東京におっていろいろな交渉を続けて、結果によって対策をするからとにかく待っていただきたいということでありましたが、その間数カ月を経まして、飯島三男事務官がまたドミニカに戻って参りまして、そのときに移住振興の方からの永田晃さんという方とともに来られて、困った者には五百五十ドルの短期営農資金を貸し付けるのだということで、困った人は飛びついて借りて、動けなくなったというのが大半であります。  それからまた南米転住の方は、われわれの陳情嘆願には、特別融資を一般よりも少し水増しをお願いしたいということがうたってあったわけであります。ところが、あなた方の方は融資の要求が大きいから、これは当然大蔵省で認められないので、一応困っておる者だけは国援法によって帰したらどうかということを申しまして、私ども南米転住は当分見込みがない、あるいはいつになるかわからないと言われたものですから、われわれも裸の姿で五年、六年で故郷に帰るわけにはいかないのだということでずいぶんねばったのでありますが、何ともいたし方がない。これは国の政策であり大蔵省関係で予算を伴うことであってなかなかむずかしいのだ、やはり時がたたなければ成熟しない問題だと言われるものですから、やむを得ず恥を忍んで私どもは裸で破れた姿で帰ることを決意したわけであります。  先ほど申しましたように、私ども農業移住というものは、自営開拓にあこがれておったものでありまして、やはり相当の経営をやって、その資産を処分いたしますときには当時二、三百万のものでありましたけれども、今こちらに帰りまして、そうしたもとの姿をざっと聞いてみますと、大体二倍から三倍、都市近郊などは五、六倍にもなっておるわけであります。この間国会請願をしておりますが、国会請願の内容の数字は船の中で考えたものです。これは実際われわれは最低の生活の基礎さえあれば、また何とかして自力でやるのだ、たとえばまた南米に行ける人は行くのだという気持の上で現わしたものでありまして、今申し上げた通り当時二、三百万で売ったものが今一千万以上になっておる、いなかの方でもやはり二倍、三倍になっておるというようなことが普通であるということが、今ごろ調べた結果わかったわけであります。これはいささかの数字を示してお願いしてあるわけでありますが、実際今考えてみますと、そんなものがわれわれの再起更生ができる一助になるかならないかということは、非常に疑問に思っておる次第であります。それから現地におきまして大使館の方に、帰る三カ月ほど前に団体交渉をいたしました。そのときに私どもは、これは国家のやったミスである、いわゆる外務省措置の誤りであって、この国援法というものは、国家の責任において帰してもらいたいということも訴えたわけであります。ところが小長谷大使いわく、この国援法はりっぱな法律であり温情あるもので、決して帰ったからといって無理に催促するものではない、無期限、無利息のようなものだ、あなた方安心して帰ってけっこうだ、いわゆる住宅もあるいは就職もあるいはふとんもあるいは什器も、みな各関係官省と話し合いがすでについておって、対策は万全にできておるから安心して帰ってくれということでございました。  なお一言申し上げておきますのは、現地におきまして、われわれは仕事も十分やった、やり尽くしたわけでございます。土地も足りない、水もないところに早魃で、借金だけは辛うじてせずに帰ってこられるような身分でございまするが、大使いわく、ドミニカ移住有史以来の失敗である、皆さん、よく仕事の上に、あるいはまた交渉の上に粘ってがんばってくれた、あなた方のおかげドミニカ移住問題は解決の端を発することができた、まことにありがたかった、いわゆるこの有史以来の汚点を将来の試金石として災いをしあわせに転ずることができるのだ、これは皆さんの粘ったおかげだという一つ水師営の会見といったようなことで別れを告げてきたわけでございます。  この前の参考人のどなたかが申されたような、移住者の精神的な欠陥が原因だというような御指摘がございましたが、われわれの方はそういうことを申されるのは非常に遺憾千万だと存ずるものでございます。それで私たちは、特にお願いを申し上げたい点は、ドミニカに参りまして、いろいろ失敗と申しますか、親戚あるいは友人の非常に反対されるのを押し切って、しかも送別会をされ、あるいは駅まであるいは船まで見送りをされ、そして激励をされて、太平洋を渡って勇躍、外地開発、建設を希望したものでございます。しかるにかような破れた敗残の姿で故郷へ帰りたいという気持は毛頭なかったのでございますが、やむなくこうした裸の姿で恥を忍んで帰ってきたわけでございます。今後諸先生方の御同情にいただきまして、われわれ帰国者の立ち行くべき援護措置について一段の御協力と御援助をお願い申し上げるものでございます。一言あいさつを申し上げます。
  6. 野原正勝

    野原委員長 次に小市参考人からお願いいたします。
  7. 小市正司

    小市参考人 私は三十二年の十月にドミニカネイバ地区へ渡った小市なるものでございます。今まで再三ネイバ地区の問題に関しましてはほかの人が説明いたしておりまして、大体おわかりのことと思いまして、きょうは移住前の状況と、それから移住を決心したときの状況移住後の現地状況をかいつまんで御説明申し上げたいと思います。  移住前、私は神奈川県の大和市南林間というところにおりました。そして畑を六反歩、鶏を五百羽、それから肉養鶏を毎月六百羽ずつ出して大体月平均二万円から三万円の収入はありました。  それで、移住を決心したのは、当時自分たちは、夫婦と、子供がおりませんで、あと父と母と妹とおりましたが、自分は戦前からずっと満州開拓団におりまして、開拓の方をやっておった関係でどうしても広い土地でもって思い切り農業をやってみたいというので、常に南米を志していたわけです。そうしたところが、たまたま友人から、今度ドミニカというところが非常にいいところで、今募集している、そこだったらお前たち夫婦だけでも行けるらしいから行ってみたらどうだということを聞きまして、さっそく神奈川県の海協連へ参りました。そして事情を聞きましたところが、ドミニカというところは非常にいいところだ、気候的にもいい、そうしてネイバ地区蔬菜が適している、蔬菜は何でもできるのだということを聞いて、自分蔬菜を作るのが好きでした、また自信もありました、それで、蔬菜ができるのならば、気候的にもいいところである、それでネイバ地区を志望したわけであります。  そしてそのとき私がざっと財産を整理いたしましたのは、畑が六反歩、これが当時南林間というところは坪千五百円しておりましたけれども、決定してあっせん所に入るまでの期間が非常に短かったので買いたたかれて坪六百円で売りました。それが百八万円。それから家が十九坪五合の家、これが二十万。それから鶏舎が十万、成鶏が五百羽、約二十万で処分いたしました。全部で百五十八万の金を持って渡航したわけです。それで現地に行きましてまず耕地を見て——これは再三写真やなんかでもって御説明しておるものですからおわかりのことと思いますが、まず感じたことは、これはだまされた、率直に言ってだまされたのじゃないか、こんな耕地でもって蔬菜なんかできるはずがないと自分は感じました。しかし、出発するとき父や母や兄弟じゅうから反対されて、そんなところに行かぬでもお前は食っていけるのだと言われて、そういうのを振り切って行ったことを考えますと、幾らだまされたからといっておめおめ帰るわけにもいかぬし、また弱者も吐きたくなかったものですから、何とか道を切り開いていこうじゃないか、がんばるだけがんばってみようじゃないかというわけで、当時一年、二年の間はがんばりました。それで内地の方へも割合に、心配するな、何とかやっていくからという手紙を出したことは事実です。  それから先日高木局長が、小市は三十四年に月百ドルくらいの収益が上がっているということを申されましたが、事実上がったこともありました。しかしそれはああいう石原に、百ドルというのは粗収入です百ドル、の粗収入を上げるにはどのくらいの投資をせにゃならぬかということも考えていただきたいと思うのです。これは時間が長くなりますからあとから御説明いたしますが、神奈川県の秋山理事長現地に来て視察して行ったので、石が多い土地であるということは知っておるはずなんです。それで神奈川県の方にも、石の多いところもとってこんな状態なんだ、しかし何とかがんばるという手紙は出しているはずなんです。しかしその手紙は読んでくれないで、きのうみたいに百ドル百ドル、そんなことばかり言ってくれるというのでは非常に残念なんです。  それから、最初自分たちが渡って作った作物は、たばこ、カンショ、大豆、それからネギ類ニンニク、キャベツ、トマトアベチェーラというウズラマメのようなもの、そういうものを作りました。アベチェーラユカアホ——アホというのはニンニクでございます。それから大豆トマト、そういうものはみなほとんど無収穫であった。これはどうしてかというと、アベチェーラの場合は、気温が高過ぎてネイバ地区ではほとんどとれないのです。それからユカという木の根につくようなものですが、これも石が非常に多くて売り物になるようなものはできなかった。ニンニクも非常に気候が暑くてこれは無理でした。それからたばこが若干とれたのです。しかしそのたばこを売りにいったところが、これは不良品だ、こんなたばこは製品にはならぬというのでもって、自分たちが苦労して収穫して乾燥して作ったのが売れないわけなんです。それで現地農務省へ行って、今までさんざん苦労したのだ、やっとこれだけ作ったんだから何とかこれを買ってくれるように頼んでくれないかといったところが、現地農務省は、それは気の毒だ、何とかしてあげようじゃないかというので、一緒に行ってくれて、そして最低の値段だけれどもこれでがまんしろというので買っていだきました。そのとき自分たばこ代として約九十ドルぐらい上げました。それでその間に、そういうふうに作物を作りながら、何とかよそのいい、せめて普通の作物ができるところに行きたいというので、大使館を通じて転住問題を起としていたということは事実です。(図を示す)ここにネイバ地区の図面がございますけれども、これは三十四年に私たちがこういう状態だったのです。この耕地が約二十三家族の配分耕地です。そして赤いところは全然不可能耕地です。そして薄い緑色がまあまあ石は多いけれども牧草なんかやったらとれるんじゃないかというので、最後に肥育牛をやろうと思って申請したことがありましたけれども、これは資金を借りることができませんでだめになりました。そして濃いところが石が二割ぐらい、あと八割ぐらいが砂がある、土があるというので、これだったらまあまあ作物はできました。しかし全体に見て一家族当たり二十タレアか三十タレアぐらいしかそういう耕地は当たっていないのです。これは三十三年に同じものを作って大使館に出してあるはずです。そしてこういう状態だ、こういうところはこれだけまだいいところがあるのだ、これを拾い食いしても半数ぐらいの人間なら何とか生きていけるのじゃないか、そのうちにまた次の進むべき道を考えるから、何とか半分だけに減らしてくれというので、この地図を作って持っていったんです。しかし残念ながら自分たちの要望が通らぬで、そしてむなしく引き揚げて参りました。といって、遊んでいるわけにもいかないし、何とかやってみようじゃないかというので、現地人の畑や何かいろいろ調査しまして、とにかく蔬菜は絶対無理だということは、自分は感じたわけなんです。それはどうしてかというと、ネイバ地区は冬季でも、十二月から二月の間は平均気温が室内で二十六度から三十五度なんです。そして夏季は、三月以降は三十四度から三十八度になる。そうすると、トマトなんか作っても結実しないわけなんです。それで、これは蔬菜は絶対に作れない土地なんです。それでやむなくギネオを作ろうというので全面的にギネオを作ったわけです。ギネオを作りまして、とにかくああいう石の多い耕地なものですから、ギネオを作るにしましても非常に労賃がかかるわけなんです。そして肥料も内地で一〇やるところだったら一五か二〇ぐらいやらないと満足にできないわけなんです。労賃も、機械力が全然入りませんから全部つるはしで起こして、そして現地のくわでかき上げてやるというような状態なものですから、非常にかかる。そういうことから計算してみますと、一時的に百ドルぐらい上がったときもありました。しかし投資した額から見ますと、大きな大きな赤字なんです。営農というものはそんなものじゃないでしょう。そういうところもよく考えていただきたいと僕は思うのです。  それで、ギネオの方に全資力をつぎ込んだ結果非常な赤字だった。それで、何とかせねばいかぬというので、先ほどちょっと申し上げましたように、肥育牛をやろう、肥育牛をやりながら自分の金を少しずつたくわえてコロニアの外へ出て、そして道を作ろうじゃないかというのでもって、その申請を三十五年二月から、まだ多少なりともギネオの収穫があるうちにやろうというので出したわけです。しかしそれが約一年間延ばされた結果、移住者のお前たちには担保物件がない、そういうものには金は貸せぬというので貸してもらえなかったわけです。それで、自分たちとしてはこれ以上どうしようもなくなったわけなんですね。それで、重複しますが、その前に、三十四年に南米の方に行かしてくれということも言ってあるのです。このときはまだ金がありました。このときならまだ何とかなると思ったのです。しかし、それもだめ、資金の方もだめ、もう八方だめだ、耕地はだんだんやせるばかりだ、それでなくても石が多い。それでやむなくこれは帰国以外にないというので帰国を決意したわけなんです。まあざっとこういうわけです。
  8. 野原正勝

    野原委員長 本問題に関し質疑の通告があります。これを許します。足鹿覺君。
  9. 足鹿覺

    足鹿委員 いろいろお尋ねを申し上げたいことがあるのでありますが、先般来本院の決算委員会で各方面の参考人をお呼びになり、いろいろとその意見を聞き、質疑が行なわれております。まだその速記録等もわれわれの手元には配付されておりませんので、それを見た上でお尋ねするのが審議の進行上好都合かと存じますが、われわれは、移住をされた人々が内地で農業を営んでおった人であり、また移住後も農業をもってやっていこう、こういう自営農業の夢のもとに向こうへ行かれた人人でありますので、当然農業政策の一環という立場から、この問題を少し掘り下げて検討したい、そういう意味からお尋ね申し上げたいと思うのであります。  そこで、先ほどお話がございましたが、昭和三十二年にドミニカのドウベルへ地区及びネイバ地区開拓移住者募集要領によって決意をされた、こういうことは高橋さんなり今の小市さんの共通した点であります。そのとき国営農場へ行ってびっくりしたというお話でありますが、募集要領を十分検討されておいでになることは、一生の大事であるからもちろんだと思いますが、その募集要領等はどういうふうに説明をされ、あなたたちもそれを納得をして向こうへおいでになったのでございますか。この悲劇の発端は、募集要領が発端であろうと思うのです。もちろんこれは公募をされておるわけであります。ですからただ単にポスターを見て行くとか、チラシを見て決意をするとかいった程度のものではない。国家の意思を受けて海外協会連合会、またその県の海外協会、そして窓口は都道府県の開拓課が窓口となって、あなたたちにいろいろと説明をし、また助言もし、そして決意をされたと思うのでありますが、その当時国営農場の中へ入っていって、そしていわば自営農業というよりも、国営農場内の日本人営農技術による開発の道具にされたというような印象を、お話を聞いておりますと、受けるのでありますが、その相違は一体どこからきたのか、その募集要領についての当時のいきさつを御両君から承りたいと思います。
  10. 高橋義量

    高橋参考人 私は、ドミニカの国と  いうものはどこにあるか、実際には知らなかったというものでございまして、実は私たちより一カ月前にネイバ地区に計画入植をされた御家族のものがございまして、その方の写真が新聞に載りまして、それを友人から見せられて、これはいいところだ、こういうところはどうかな、一つ調べてみようじゃないかということでございまして、さっそく夜行で道庁まで出向いて、いろいろ聞いたわけであります。そして承るところによりますと、先ほど申したように、将来は第二のハワイだ、西インド諸島は非常に気候がよくて、人口密度からいっても、相当未開発地があるだろう、あるいは夢の国だ、これはアメリカに近いもので、いろんな生産物の輸出に対しても非常に有利だ、島国であるために海が近い、魚もとれるといったようなことも聞きました。  ここに募集要領がございますが、しかし読むと長くなりますので、募集の動機と申しますか、これを簡単に申し上げますと、募集要領は、自営開拓農ということになっておりまして、そのうちに入植条件あるいは移住者の資格、その他いろいろございますが、いずれを見ましても好都合なことばかりうたってあるわけでございます。私どもも、これは国は小さいが、南米などに行きましても、実はもう古い国でありまして、先輩と申しますか、先住者の方が相当の勢力を持ったボスの存在であって、あとから行った者はそれらに使われる、あるいは利用されて食いものにされるんだということもたまたま聞いておりましたし、新しい移住先でありまして、自分たち開発建設が好きでありますので、いわば一つの先駆者として、あまり南米のような大地主になろうとかいうことは考えないのでございましたが、まあ一かどの地主になって、好きな経営をやりたいというのが念願であったものですから、そこでドミニカということに決意をしたわけでございます。  大体入植条件あるいは移住者の資格などと申しましても、実際行ってみますと、コロノというものはあの国の方々に聞いてみましても、こじきの次くらいの最も卑しい身分であって、人も相手にしない。国内の一番レベルの低い貧困者、自立のできない者を保護するようなものでありまして、それを国が経営しておる農場の中に入れるようなことになっておるわけです。いわゆるコロニア法の中にうたってあることは、たとえば囚人農場といってもさしつかえない。服役中の囚人もおりますし、また執行猶予のような連中もたくさんおります。そういう中で、先ほど足鹿先生の申されたように、農業技術をわれわれがただで提供したという結果になるわけだと思います。  それからもう一言、この失敗の原因と申しますか、私個人の考えでございますが、これは当時、戦後において移住の窓口が開けなくて困った。たまたま上塚司さん、当時外務委員長をされておった方だそうでありますが、その方がブラジル帰りに寄ったところ、まあ独裁者のトルヒーヨですか、その方と会いまして、その話ができまして橋かけをした。私から考えますれば、ああいう島国でございまして、しかも砂漠が二つもある、山ばかりで何ら農業に利用されるような平坦な耕地はないというところになぜ話をつけたか。今われわれはあの国から日本の方にあの連中を連れてきたいぐらい。国内人は耕地がない、失業者が多い、まことにお気の藤な状態にあったわけでございます。しかし、行った以上、われわれはいたし方なくがんばり通して参ったわけです。当時、上塚さんは、これは農業の大先輩と申しますか、ブラジル開発の権威者だということも今承ったわけですが、実際なぜああいう大先輩の方があんな小さな国に移住をさしたか。いわゆるわれわれ日本人の勤勉さあるいは農業技術の優秀さを、あの独裁者が利用するために上塚さんをだましたのではないか、悪く考えればそういうふうにしかとれないわけです。その後農林省の中田弘平技官が相当の費用をかけて調査に入っておりますが、これも実際その耕地調査もしていない。また今申し上げた国内事情調査などは一向にしておらぬように見受けられるわけでございます。そこで私どもは、移住政策というものは、こういうことじゃとにかく今後は望めない、また再渡航などということも考えられない。要するにもう少し完璧なものに仕上げなかったならばあぶなくて、募集要領を見て応募するなどということは毛頭考えるべきじゃないということを申し上げたいわけでございます。  それから入植条件なども、今申し上げた農林省の中田技官の調査と、あるいはその後、昨年の五月、六月ごろ、ベレン駐在の海協連に所属する上村技官、何か熱帯農業の権威者だそうですが、その方の調査とは天地の食い違いがあるわけでございまして、ドミニカ移住失敗は事前調査の不備という点に最も原因しているのではないか、私はさように考えるので一言申し上げておきます。
  11. 小市正司

    小市参考人 私の場合は、最初海協連に行ったときに五十タレアまで土地をやる、次の年に五十タレア、その次の年に五十タレア、合計百五十タレアの耕地を与える。ネイバ地区は一般蔬菜ができる。内地にいたときの観念からいって、一般蔬菜というなら大体の蔬菜類ができるのではないかという観念で行きました。また私たちネイバ地区の場合、国営農場ということはそんなに切実に感じたことはない。僕の場合、募集要領にも、「ドミニカ国の法令を守ること。政府が指定する場所において農業に専従すること。」と書いてありましたので、これは多少の束縛があるということは感じておりましたけれども、詳しいことまではわかりませんでした。結局自分たちはこの項目を守って最後まで転住もできず、ネイバ地区に縛りつけられていたというのが事実です。それから私たちの言いたいことは、国営農場云々ということより、作物のできる耕地がほしかったということであります。先ほどもちょっと申し上げましたように、基本の点で作物は蔬菜も何も全然できなかった耕地です。石がなくても温度の方から計算した場合できなかった。そしてやむを得ずギネオを作った。しかしそのギネオも、御承知のように石が多くて売りものになるギネオはできなかったということです。
  12. 足鹿覺

    足鹿委員 今私が申しました募集要領によりますと、いろいろな条項が記載されてあるわけであります。農業を営んでいく場合、土地の条件に関連して、特に熱帯地でありますから水利の問題が非常に重要だと思いますが、単に石が多いということのみならず、水利の条件が——これによりますと、住宅、保健衛生施設、教育施設、飲料水施設等を含めて水利関係も国の負担において手配をしてある、こういうふうに記載されておりますし、特に携行物資の条項を見ますと、地下たびとか寝具類、衣料類等は別として、農機具類、特に一台のハンドトラクターを携行せいとか相当行き届いたことが古いてある。このことは現地事情というものが相当詳しく知られたしてこういう携行すべき農機具類の指示までしてあるのだとわれわれは理解するわけでありますが、あなたたちはどういうものを持っていき、それをどういうふうに営農上に利用せんとしたか、そして募集要領に基づいて内地から持参した農機具類がどういう役割を果たし、どういうふうにその効果が上がったか、それとあわせて現地の水利事情をお聞かせ願いたいと思います。
  13. 小市正司

    小市参考人 私の場合はハンドトラクターを持っていきました。それは夫婦二人でありますから、どうしても機械力にたよった方がいいのじゃないかという意味でハンドトラクターを持っていきました。それから募集要領蔬菜とありましたものですから、動力噴霧器の大きなのを持っていきました。そのほかに脱穀機とかそういう大きな農具をたくさん持っていったわけですが、ハンドトラクターは全然使いませんでした。それからトマト、キャベツ、そういう蔬菜類ができなかった関係から、動力噴霧器も使いませんでした。持っていった農具で使えたのはつるはしくらいなものでした。  それから水の関係でございますが、最初たちが行ったときには十二時間もらいました。行ってすぐ作付するといっても、作付するのには非常な期間がかかるわけです。そういう関係でもって、最初は十二時間あって多少余りましたけれども、全員がどんどん作付していく上には、水は十二時間あってもすでにそのとき足らなかったわけです。しかし最初は一ぺんに五十タレアずつ千何百タレアという土地を作付できなかったものですから余って一おりましたが、全部が作付けるようになって足らなくなったわけです。  それでこの陳情を申し上げましたときに、水の問題も含めて、水も足らないんだ、耕地はもちろん悪い、しかし半分にして、耕地も半分にする、水路を半分にして全員で使う、そうすればネイバ地区は何とか立っていけるのじゃないかということを嘆願したわけです。
  14. 足鹿覺

    足鹿委員 その地図でどれが水路になるのですか。
  15. 小市正司

    小市参考人 この青線が水路で、これは原地民の方へ行く水路です。こちら側はコロニアが使う、つまり日本人が使う水です。ここでもって分ける。前から現地人はやっぱりとっておったのです。ですから最初から水は少なかったわけです。
  16. 足鹿覺

    足鹿委員 そうすると、幹線水路はあっても、引っ込みの水路等は全然なかったのですか。
  17. 小市正司

    小市参考人 耕地がこういうふうに分かれておる関係できょうはこっちの水を分ける、これが幹線ですから、これからこっちへとってくる、こっちを使うときにはこっちというふうに、時間的に割って使っていたのです。
  18. 足鹿覺

    足鹿委員 その水路は幹線水路から支線水路、さらにまた細分化した水路というようなものは、向こうのドミニカ政府の方でちゃんと作っておったのですか、あなたたちが作ったのですか。
  19. 小市正司

    小市参考人 ドミニカ政府で作ってくれたものは本線です。この線は作ってくれました。それからこれも作ってくれました。これは昔からドミニカの方のものです。ここからこういうふうに持ってくるのは、自分たちがつるはしで掘るわけです。下がずっと石ですから、割合に水持ちがいいわけです。それで大体使えるわけです。それでここに木のワクをはめて、ここからずっと引っぱってくるわけです。これも全部そうです。こういうふうにここから分かれているのは、全部これは自分たちでやったわけです。
  20. 足鹿覺

    足鹿委員 そうしますと、幹線水路は一応国が受け入れるまでにできておった、その後の支線導水路あるいは支線水路、そういうようなものはあなたたちみずからがつるはしその他で掘さくして作った、こういうわけですね。
  21. 小市正司

    小市参考人 はい、そうです。
  22. 足鹿覺

    足鹿委員 それから先ほどお話がありました、いわゆる若干の義務規定、義務的な拘束はあるだろう、こういう小市さんのお話でありましたが、入植条件によると、八年後ドミニカ国の法律の諸要件を充足した上で、無償でこれをやるであろう、こういうことがあるわけですが、ドミニカ国の法律というものに対して、募集要領等の際にどういう説明を聞いたのですか。ただあなたたちは、若干のことはあるだろう、要するに日本政府を信頼して、若干の拘束はやむを得ぬが、行ってがんばれば広々としたところでやれるのだ。高橋さんの話によると、第二のハワイをということの建設も夢ではない、こういう大きな希望と期待を持って移住されたようでありますが、その間の一番重大な点なんですが、説明は、先ほどのコロニアの開発者扱いをされるようなことは夢にも考えなかった、この辺がよくわからないのです。これはあとで外務当局なり農林当局には伺いますが、あなたたちの応募されたときの事情というものは、非常に大事だと思うのです。一生の運命を決する、赤裸から、徒手空拳から渡ったのではない。内地の資産一切のものを処分をして、そして親族その他の反対を押し切って行くという重大決意でありますから、その際におけるあなたたち入植の条件というものに対する念押し、またそれに対して外務、農林両当局が行き届いた確認をして、そしてあとでもんちゃくの起きないように、こういう悲劇の起こらないようにやはり努力すべきであったと思うのです。この点は、今済んだことをとやかく言うわけではありませんが、これからの場合にも非常に大きな問題になろうかと思いますので、重ねてその間の事情を、何か思い出されることがあれば承っておきたいと思います。
  23. 高橋義量

    高橋参考人 では私の方から、これについて自分の応募したときの気持並びに現地におけるその法文をちょっと御説明申し上げたいと思います。  実は募集要領に基づきまして、私どもも日本の法治国家に育ったものでございますので、まあ一般国内法があります。それからまた開拓には開拓に対するところの三カ年後成功検査の上所有権ができるというようなことに準じたものだと私は軽く考えて渡航いたしたものでありまして、決して別なコロニア法というものが国内法の中の特別法としてあったということは知らなかったわけであります。それは私どもは一昨年初めてわかったわけです。それまでは日本に国に準ずるものだ、おかしい制約を受ける、これも私先ほど申し上げたように、五年くらいしたら何とか話をつけてやろう、砂糖の貿易関係に準ずる、何か砂糖の見返りのような感じもしたのですが、その後コロニア法というものが現地の管理官から示されて、翻訳したものをここにつけて皆さんのお手元に差し上げたようなわけでございますが、それによりますと、これは国境地帯は十年後、あるいは内部地帯は八年ということがうたわれておるわけであります。ところが、この所有権というものは実際は架空に近いものでありまして、私読み上げればよろしいのですが、ちょっと長くなりますから口頭で申し上げますが、譲渡権はある。いわゆる三親等内の譲渡権はあるが、ただし売ることはできない。たとえば銀行なり何なりの抵当物件としては使えないといったようなもので、その後においてやはり管理農業なんですが、その制度をやめて、国営農場を自由経営所有権に移すということは全然不可能であって、あくまでもそのままである。いわゆる譲渡権が十年後にできるだけのことであって、所有権というものは日本的に考えた場合には考えられないわけです。ちょっと御説明申し上げます。
  24. 小市正司

    小市参考人 私の場合は、ちょっと今気がついたことを申し上げますと、ドミニカという国はこれからの国だ、非常におくれておる、そうしてアメリカが近いから非常に将来性のある国だということは海協連から非常によく聞かされました。それで野菜ができるくらいだからいい土地だと信じて行ったわけです。
  25. 足鹿覺

    足鹿委員 それから先ほど小市さんのお話によりますと、家、屋敷、田地、田畑、鶏舎その他を処理して行ったということでありますが、その概算はどの程度のものを処分して行き、そうして金にかえて旅費その他荷作り、小づかい、またドミニカへ持って行った営農資金、それから農機具の類、そういうものを一応棒読みでもけっこうですから資料があったらはっきりしていただきたいと思うのです。
  26. 小市正司

    小市参考人 私の土地が六反歩、それが坪六百円で百八万円でございます。家が十九坪五合、これが二十万円、鶏舎が十万円、鶏が五百羽、これが二十万円、合計百五十八万円でございます。それで使い道でございますが、営農資金として六万円持って参りました。それからドル四万円、それからテーラー、これは部品をたくさん持って行ったものですから二十二万円、動力噴霧機、これはホースなんか含めて六万円、動力脱穀機四万円、それからチョッパーといって、養鶏をやっておった関係上、向こうでも養鶏でもやろうじゃないかと思いましたので、これが三円、粉砕機、トウモロコシなんかを粉にする機械でありますが、これが四万円、リヤーカーが二万円、自転車二万円、ミシンが二万五千円、カッターが三万五千円、衣類でございますが、これはたくさん持って行けと言われたものですから十五万円持って行きました。それから渡航までの経費でございますが、これはトラック代、荷作り代、それから財産を処分してから渡るまでの生活費を含めて十万円、それから農薬、種子。種は蔬菜を作るための種を一通り持っていきました。そのほか苗木類を研究のために持っていきました。それから小農具六万、これは大工道具とかそれからつるはしとか馬具とか、そんなものが入っております。それから家具として、向こうから家具を持っていかない非常に不便だというたよりがあったものですから、これが四万円、それから船中の雑費が二万円、カメラが二万円、それから父母がおりましたものですから、向こうへ行っても、三、四年はどうしても仕送りができないと思いましたものですから、二十二万円を置いていきました。それから事業をやっていた関係の負債が三十二万円でございましたが、それを返済しまして、全部で百五十八万円でございます。
  27. 足鹿覺

    足鹿委員 さらにお尋ねをしたいのですが、あなたたちが横浜の移住斡旋所で、農林省の中田技官の現地調査の講義を聞いたということが書いてありますが、それはいつごろのことですか。この請願書によりますと、「私達が豊橋の講習所にて、九月一日より一週間の講習を終り、総ての財産整理が済んだ九月十八日、中田農林省技官はネイバ地区調査、「ネイバ地区は土層深く、その優秀なのに驚く。雨量年間、一、〇二〇ミリ」と報告書を送り、後に常々と中南米紀行移住現地調査の本まで発行して居ります。」となっておるのでありますが、あなたたちは、この現地調査を、募集要領を受けたときには全然聞かなかったのですか。この中田技官の報告ですね。土層が深い、その優秀なのに驚く、雨量は年間千二十ミリもある、これならばだれでも魅力を感ずるわけだと思うのであります。募集要領のときには、そういうことは全然聞かなかったが、豊橋の講習を終わって、財産の整理も済んで、いよいよ出発寸前にこういう話を聞いて、さらに希望を燃やした、こういうふうにわれわれは理解するのですが、その間のいきさつは一体どういうことなんですか。
  28. 小市正司

    小市参考人 私たちの場合は、豊橋の講習所、斡旋所を通して、中田技官の直接の報告は聞いておりません。しかしそれはあとから、現地へ行ってその本を見て、がく然としたわけなんでございますが、豊橋にいる時分は、林屋という方がおりまして、その人の話では、ネイバは非常にいい土地であるということを聞きましたが、中田技官の報告は直接聞いておりません。
  29. 足鹿覺

    足鹿委員 高橋さん、どうですか。
  30. 高橋義量

    高橋参考人 私はやはり小市さんと同じで、ただ斡旋所に電話をかけまして、ハラバコア状態を伺っただけでございまして、ハラバコアは二度と出ないりっぱな移住地だということのみでございまして、やはり小市さんと同じく、現地へ参りましてから中田さんの書かれたものを見たというにすぎないのでございまして、募集要領そのものを絶対のものと信頼をして渡航したわけでございます。
  31. 足鹿覺

    足鹿委員 いま一つ現地の営農事情について、ハラバコア地区状況を知る資料が私の手元にあるのですが、これはハラバコア地区高橋さんのところへ入られた人のようですが、長崎の大櫛佐一郎という人の資料です。これによりますと、ドミニカへ持参したものは、今小市さんからの話にありましたように、自動耕耘機を初め一通りの中型農機具を初めとして、開墾用から大工道具に至るまで、家具類はもちろん衣類等を含めて、大体概算八十六万円程度のものを持っていったという資料でありますが、こういう資料は、いろいろな角度から見てよく検討をしましても、大体正鵠を得たものだと私どもも思います。当時の金額にしてみても、現在に比べますとこれは大へんな差ですが、向こうへ行って五十タレアを一応耕作するという立場になり、住宅一つと作業納屋を一つでスタートをした。それで、ハラバコア地区の場合ですが——先ほど小市さんからは、百ドル程度のものはとれた場合もあった、しかし内地の二倍も生産資材をつぎ込まなければならないから、結局、収支の上からいっては、何にもならなかったというお話もあり、ハラバコア地区は一応、三千七百ドルの収入を上げておる。それから経常費は、五千七百九十ドル九十セントというものを支出をしておるのですね。融資は全くない。負債が百八十八ドル二十セント、肥料代その他を負っておる。結局、赤字が千七十一ドル九十セントということになって、こういう状態ではとうていやれないから、転住をまず希望した、こういうことになっておるようですね。その状態が続けば、これはとうていやっていけない。これはもうわれわれ農林委員会としては、この簡単な資料を拝見すれば、内地の営農でもこれはもう全くやれないです。日本のようないろいろな、ドミニカに比べた場合は相当国の手も伸び、県なり市町村なりあるいは農協その他農業団体等でいろいろめんどうを見た上でもやれません。やれないのが、現地状態を見ると、政情はまことに不安である。しかもキューバの軍隊がやってきて撃ち合いを始めて、そういう不安な政情の中にあってこういう状態が続けば、これはだれしも絶望をせざるを得ぬと思うのです。そこで、転住を運動した、こういう先ほどのお話になるようでありますが、その転住を希望しても、それがなぜかなえられなかったか。その間もうブラジルは、海を隔てて向こうにあるわけですから、あなたたちが、ブラジルがある程度の成果を上げた営農の話を聞くにつけても行きたくなる、行くなら今のうちだという気持ちになったことは、われわれは想像にかたくないわけですが、それがなぜ行けなかったか。この間の決算委員会では、その点もいろいろ問題になったようですが、これは一体なぜ行けなかったのか。外務当局はそのためにどういう努力を払ったが、結果としては行けなかったのか。この嘆願書や外務大臣に出された嘆願書あるいは陳情書、請願書、各地区のものを共通して見ることは、最初から転住させないという意思が出先の海協連の支部の人たちの間にあり、また出先の大使館の人々も、何か軟性をさすと自分たちのこのドミニカ移民の失敗の責任をかぶらねばならぬ、こういうような役人は役人としての責任回避というと語弊がありますが、責任をおそれて、むしろこれをひた隠しに隠して行かせない。そして団体的な交渉をするというと、それは憎むべき行為だというふうな、何かはんとうに一体になってこの見込みのないハラバコアネイバその他のドミニカ移民の活路を他に求めるというその真摯なあなたたち希望が全く顧みられないというのは、一体どこにそういう原因があったのか。もう少しその間の事情というものを私どもは知りたいと思うのです。これは責任を追及するとかどうするとかいうことは別な問題として、物事の事実をわれわれはもっとつかみたいと思うのです。転住をあなたたちが口をそろえて希望したにもかかわらず、それが不可能だったのか。やらせないという方針でやったようにわれわれは聞き取れる節もあるのです。その間のいきさつをもう少し詳細に聞かしてもらいたいと思います。
  32. 高橋義量

    高橋参考人 私の考え方をちょっと申し上げたいと思います。実は今の足鹿先生の御意見に最も賛成するものでございまするが、実際われわれは入植当時から、ああいう小さな国、国内人口も、つまり土地もない、いわゆる人口過剰で困っている、もうすでに日暮れの国であるというところに、われわれは農民道あるいは人道の上から考えましても、ああいうところにはお気の毒で外国人のおじゃまするところじゃないということを強く感じまして、運動を続けたわけでございます。しかるに、現地大使館とあらゆる交渉を続けましたが、旅行もあるいは視察もなかなかヴィザを出してくれないわけです。われわれ入植当時は若干の携行資金を持っておった者がたくさんおりまして、これは何とか自費でもというような希望者もたくさんおったわけです。  それからもう一つ申し上げますと、この間現地海協連から入った情報でございますが、私たち現地におりましてはっきりしておるわけでございます。というのは、コンスタンサ地区あるいはダハボン地区からの報告が、現地海協連支部長並びに高橋康夫主事の二人から参っております。それを見ますと、われわれのいたのはまだ二、三カ月前でありまして、当時コンスタンサ地区といたしましても、南米転住期成同盟という大きな名のもとに、たった三人加盟していないだけで、全員が加盟して強力な運動を続けております。これが海協連現地の報告によりますと、定着の意思が強硬と、こう書いてあります。それからダハボン地区におきましても、さっき水の例が出ましたが、第四次のごときは、やはり現住民が上の方に水田耕作をやっておりまして、ほとんど水がこない。それで困っておって転住運動はずっとわれわれと一緒にやっておったわけでございます。それが第一次の方に若干借地がありまして、どうにか水がくる。何とかやれる。あるいは、定住、定着でなくして、単に南米に行くにしても、少しの金を持っていかなければ南米現地人に飛び込んでも行けないということで、一応は、現地移住振興の貸出機関ができておりますが、金を借りるには定住だ、定着だと言わなければ貸しもしませんし、そこいらで話が、移住者の方にもまたうまいことを言ってくるのもたまたまおりますし、そういうことで、移住者大使館を利用するのか、あるいは大使館がそういうのを利用するのかわかりませんが、そういうところからそういう報告が参っております。ということは、今足鹿先生の言われたように、なるべくあそこに希望しない移住者をあまりよけい出さないように押えるというようなことが数年前から続けられておるわけでございます。私の考え方を一言申し述べておきます。
  33. 小市正司

    小市参考人 私たちの場合、第一回目に大使館に行ったときには、これは三十三年二月でございますが、われわれとしては、できるだけやってみろ、やりもせぬで文句を言ってどうするかというような言葉を受けたわけであります。やるだけやった、蔬菜を一応作ってみた、その売れ行きがこんな状態だ、りっぱなものができないというので、その次にこの地図を作って行ったときには、日本農民は優秀だから入れたんだ、ドミニカ人がやってできるようなところだったら日本人は入れはせぬ、何も大きな金を使ってそしてコロニアを作って、住宅を作って、カナルも作って、これだけの大きな投資をして入れたのも日本人が優秀だから入れたんだ、そういうところでもってやるのがお前たちの務めだ、こういうふうに言われました。
  34. 足鹿覺

    足鹿委員 この請願書によりますと、四ページの(ハ)というところに、「翌三三年三月営農絶対不可能なるを完知し、七月までの四カ月間強硬に転住を陳情するも却下され、その上煽動者との名目のもとに一家族は強制移動させられ、」云々、こういうことが記載をされておるのです。これはなかなか容易ならぬ問題だろうと思うのです。今われわれが聞いた範囲内においては、全く農業経営が不能な、人力を尽くして国家が大規模な投資その他の援護をしない限りはとうてい不可能であることを知って転住運動を起こした、その者が煽動者との名目のもとに、どういう人か知らぬが強制移動をさせられたということが記載をされており、引き続き、結局どういう目にあわされるかわからぬ、こういうことから今度はもう気力を失い、だんだん携行したものの売り食いが始まった、つまり、だんだん立ちぐされていくような状態がそのときから始まってきた、そういう矢先に、三十四年六月にはまた補充入植が五家族行なわれた。一体こういうことは、われわれの理解するところでは、どうも、役人も日本人であり入植者も同じ日本人である、一体どうしてこういう事態が起きるのか、私どもとしては全く理解ができません。その強制移動をさせられた人はどういう人であり、どういう理由で他のどういう地区に転住をさせられたのか、その間の事情がわかればこの際聞いておきたいと思います。  それから、外務省の人々というのもは、まあ。パーティをやったり、いろいろその間に出先の国の要人やその他の人々と外交上の重要な話をするここが主たる任務であるが、もちろん居留民の保護ということも忘れてはならない大きな仕事一つだと私どもは理解しております。しかるに転住を皆が相談をしてやった、その中心の人間が、何か不穏なことをやったというふうに理解をされて強制的に転住をさせられる、こういう事態はわれわれは黙過することはできないと思うのです。その間のいきさつと、それから、そういう事態が三十三年に起きておるにもかかわらず三十四年の六月には補充入植が五戸行なわれた、そうして、その入ってきた人々は、あなたたちが悲嘆にくれたと同じ石川原を見て、ぼう然自失をした。これは全く人道上の問題とも解されるのです。もうそんなに前車がくつがえって致命的な打撃を受けておる際に、またまた再入植、補充入植が行なわれたということは、これは容易ならぬことだろうと思うのです。その人々は今どうしておりますか。五戸か六戸の補充入植をした人々は現地でどういうふうになっておるのか。その間の強制転住をさせられた事情、それから補充入植をされた人々のその後は一体どういうふうになっておるか、その間の事情も明らかにしてもらえばけっこうだと思うのです。
  35. 小市正司

    小市参考人 最初に補充入植の通知を受けたのが三十三年の十二月でした。それでそのときちょうど私が大使館に、各地の代表者会議でもって集まっていたときに大使からそういう話がありまして、ネバイ地区は昔からこういう土地なんだ、そして今でも再三転住さしてくれとお願いしているんだ、これ以上入れられたら今度来る人の土地なんか何もないんだ、石ばかりのところならある。しかし営農のできるところはないんだからと言ったときに、ああそうか、それじゃ入れるのをよしましようと言って、そのときに約束してくれたのです。しかしその後突然として三十四年の六月に補充入植が五家族入ったわけでございますが、その五家族の人たち自分たちと一緒に帰ってきております。ネイバ地区現地には今一人もおりません。  それから、三十三年の転住問題のときの中心人物として、兵庫県の安積という人、この人がハラバコアという地区に転住になったのです。そのときに私とこの前帰ってきた佐久間という人と、それから安積さんと三人でもって海協連及び大使館に行ったわけであります。何とか転住をさせないようにしてくれ、それで全員の署名書をもってネイバ地区でもって、みんなと一緒に最後までやるだけやってみようということにきめたから、何とかネイバ地区から転住させるのをやめてくれというので、本人を連れていったわけでございますが、これは一たんそういうふうにきまったんだから、そしてドミニカ側もそういうふうにきめた問題であって、これはもう自由にできない、だからこれは絶対的だから許すわけにはいかぬということになったのであります。
  36. 足鹿覺

    足鹿委員 もう一、二点参考人にお尋ねをして、あとは他の人もあろうと思いますし、外務省と農林省当局に伺いたいと思うのです。  そこで、いよいよ転住も認められない、結局帰国せざるを得ない、こういうことになって帰国運動が起きた。聞くところによりますと、三十六年の八月一日参議院の外務委員会、同じく五月三十日参議院の外務委員会、十月の二十日に予算委員会において、このドミニカ移民の問題が取り上げられて、当時の外務省、農林省当局はいろいろ質疑に答えられておる経過もありまして、私も拝見しました。虚心たんかいに、失敗失敗として認めて、今後そのようなことのないためにはどうすればいいか、また現に引き揚げてきた人々に対する心配はないから帰ってこい、帰ってきたら十分めんどうを見てやると言いながら、それが事実行なわれない。こういうことで、どうも責任の追及をおそれて何か水かけげんかのようにお互いが言い合いをしておる。こういうようなことでは、私はこの問題は解決がつかぬと思うのです。そこで、その後の経過としては、これはあと外務省へ聞きますが、あなたたちは、帰国旅費、帰国後のいろいろな応急の手当等は、どういう手当を受け、帰国費の調達等はどういうふうにして調達をされたのでありますか。国援法によりますと、これは長期の資金を借りて四、五年たてば償還が始まる。大体ことしあたりから償還が始まるのではないかと思いますが、一人当たりどの程度の帰国旅費というものを借りておるのか、その実情を明らかにしてもらいたい。私の手元にあります資料によりますと、二万八千九百六十五ドル程度のものがさんとす丸に乗船した人々の、国援法適用移住者帰国旅費ということになっており、一人々々のものもここに出ておりますが、これはあとで外務当局にも聞きたいと思っておりますけれども、その始末は一体どうして始末をするつもりでありますか。それから現在はどうしておるか、これからどういうふうに生計を立て、自分たちがやはり内地で農業をやっていくのか、あるいはもう一ぺん志を立て直して、有望といわれるブラジルその他の地区へ転住をしようとしておるのか、あるいはもう農業移住はこりた、何かほかの仕事につきたい、しかし年を相当とっておるからなかなかろくな仕事もない、特に一番困られるのは、幼い子供を向こうへ連れていった、また向こうで生まれた、そういう人々は全く教育が中断されて、非常に困っておられるのじゃないかと思う。それらのことに対して、帰国旅費その他引き揚げに、要した経費等の始末は一体どうするのか、それから今後の生計をどういうふうにして立てていこうとしておられるのか、その他それに関連をするあなた方の気持を聞きたい。  それから、先ほどちょっと触れました、兵庫県の安積という人が強制移動をさせられたということなんですが、私はほかの地区現地からもいろいろな手紙をもらったりしておりますが、どうも海外協会というのは、私書箱に郵便物を移住者から集める、またよそからきたものもそこへ一ぺん集めて、そこで信書の秘密を侵しておる疑いが多分にあるように思うのです。どうも都合の悪いような、内地の国会やその他と連絡をとったりするようなものに対しては、何か憎しみの気持を込めて、つらく当たっていく。それは要するによからぬ扇動者扱いをするというふうな点が随所に散見できるのです。いろいろな手紙を私はもらっておりますが、ほかにも事例がありますから念のため申し上げるのですが、何か参議院方面へこの連絡をした際に、出先の海協連の支部その他から注意を受けるとか、何か弾圧めいた処置をとられるとか、あるいはそれに関連して不利な待遇を受けるとか、何か心当たりがあったらそれもあわせて伺いたい。
  37. 高橋義量

    高橋参考人 先に安積武巳さんという方がネイバ地区から強制移住させられたということについて、私も幾らか事情を知っておるものですから、補足説明をいたしたいと思います。  その方はネイバからハラバコアに強制転住をさせられたわけでございます。というのは、農林省の車が来て、知らないうちに荷物を積んでしゃにむに連れていった。それからあの方は海協連並びに大使館の方といろいろ交渉を続けたわけです。その原因は何かと申しますと、扇動者、いわゆるアジだと称して、大使館と向こうの農林省と打ち合わせの結果強制転住させた。まあやむを得ないというところです。    〔委員長退席、田口(長)委員長代理着席〕 あの方は日大の法科を出ております関係で、法律関係はよく知っておるのでありますが、そういう国家権力による弾圧にはかなわなかったということにほかならないわけで、新憲法の住居の自由を束縛したということは、私ども非常に遺憾に思います。現在その方はサンペドロ・デ・コーリスというあの作国で三番目か四番目の人口の港のある町の郊外に少し畑を借りて野菜をり、リヤカーで売って生計を営んでいるという状態にあります。その後においても何ら出先機関の援助がないということも聞いております。  それからただいまのことでございますが、約五ヵ月過ぎて十月ですか、大使館の申されるには、転住も当分不可能だ、予算がない、従って国援法によって帰らなければならない。それについては国援法というものはあたたかみのある法律で、無期限、無催促だということでございました。それから、帰れば各関係者の打ち合わせによって住宅も就職も、あるいは正月の大へん寒いときであるからふとんもオーバーも、あるいは炊事用具というものまで心配されておるから何の心配もなく帰ってくるようにと言われたことは事実であります。  それからもう一つ帰国の当日は現地海協連が出向いて、私ども帰国手続をいたしたわけでございます。その場合に、国援法による帰りの渡航費は帰り次第すみやかに支払いますという一札に捺印をしてあるのですが、はたして先はどうなのか、私どもは十分わかっておらないのでございます。そしてこの請願書にも書いてございますが、「渡航費並びに帰国旅費の国庫負担」ということでございます。これは国援法でいかに長期で払えばいいと言われましても、また渡航費にいたしましても、もうそろそろ旅費の延滞利子がかかってくる年限になっております。裸で帰ってきて家もなければ職もない私どもが、いつになったらそうしたものを払えるか、子々孫々まで払うことは不可能じゃないかと考えまして、ここに書いてあるように、「ドミニカ移住失敗は政府の責任と考えられますので、私共としては右国庫負担を要望いたします。」これは国庫負担にお願いしたいという請願の中に入っております。  今後の希望といたしましては、今申し上げたように実際裸でございます。家もない、土地もない、あるいは山もない、金もないということで、現在地方からも報告が参っておりますが、ただ四名の方が一時しのぎに、食うのに困るというので土方をしたりそこらの工場で働いております。その他の人はほとんど親戚あたりに居そうろうして迷惑をかけておるような報告が参っております。そして現地におきましては南米転住というのが七、八割まで、数学的に申しますとさっきパーセントで現わしたようなことでございましたが、しかし親戚あるいは兄弟の反対を一押し切って戻って参りまして、実情を話してまた再び出ていくということはちょっと不可能じゃないか、よほど環境のいい人でなければできないことではないかと考えます。それからまた無財産でございまして、また国内においてもとの姿に国家の責任において返していただければ別でございます。ここに補償額と申しますか、わずかの金を記載してございますが、こんなものでは決して平坦部の農業などはできないのでございます。この前上陸のときに農林省の方々が見えまして、ドミニカ引き揚げの者にはどこか山というか開拓地を用意するんだということを伺っております。しかしこれもまた融資の面がなければ、今から山を開き、あるいは林業とかその他畜産以外には山岳地帯ではできないものだと私ども農業者の経験上考えるわけです。また工場とかどこかに勤めるにいたしましても、長年農業をやった者で、これという特殊な技術のある者は幾らもおりません。大、ぜいの者が大同小異でありまして、人生の一番大事なときに外国に渡った者でございますので、五年、六年を棒に振り、今まで身の周辺にあった財産も裸になって、これから先何をやるにいたしましても不可能な者ばかりじゃないか、かく考えるものであります。  それから子弟の教育の問題でございますが、大体年をとった世帯主の者は小学校を出たくらい、あるいは中学校くらいの子供、あるいは小学生の子供がおります。そうした者が五、六年間向こうに参りましてスペイン語をやったわけで、またこちらに帰りましてから一年生からやる、途中からやり直しで、その空白というものはとてもその子供の一生では取り返しのつかない大きなものがございます。そこで私個人の考えといたしましても、これは相当人情のある新しい考え方をいただいて、特別な融資あるいは特別な援助がなければ、何をやるにいたしましても、たとえばかりに山に入りまして開拓をやるにしても、くわ一丁ないわれわれの姿ではとうてい不可能だと考えるわけであります。また工場に働くにいたしましても、住宅もなければ、そこらの借家賃も高いし、こんなことではとても食い込みだ。金があればよろしいのですが、それさえできないじゃないか、こう考えるわけであります。  そこで私たち希望いたすところは、ここに記載してある額面などは、ほとんどこれは当座の何かそこらの貸家、借家に対するところの権利金か敷金程度でございまして、たとえば宅地十坪買うということもできないように思われますし、あるいはともかく一間か二間の住居を作るなどということにも及ばないと思います。何とかこれは——われわれのグループ三十家族の中には  いろいろ考えておる者もございますが、まだ確とした現在の気持あるいは将来に対するところの計画などというものも整えておらないので、私の方から何名はこうだ、何名はこうだということは、はっきりは申し上げられませんが、要するに再渡航をいたす人が何人かあるといたしましても、これは特別な融資、いわゆる金融援助がなければ不可能なのでございますし、あるいは国内開発にいたしましても、またそこらの工場に働くにいたしましても、いずれにしても先だつものは金だということに相なるわけでございますので、その点を代議士諸先生方によろしく御協力願いまして、私どもの今後の援護措置、いわゆる更生が一日も早くできるようにお願いしたいわけでございます。  繰り返して申し上げますが、現地大使館は万全を期してあるということは、もう五カ月前のことでございます。しかしこれは役所だから役所だからということで、何年も延ばされたのでは、われわれは殺されるという以外に何ものもないということでございまして、この請願書によってお願いしてありまするが、会期末において簡単に審議され、あるいは審議が採択になりましても、また何年もこのままでお役所だからと放任されたのでは、われわれは死ぬのを待つ以外に何ものもないということでございます。そして長い聞こうした境遇、情けない場面に置かれまして、今、木国に戻りまして、何とか再起をはかりたいという一心に燃えておるわけでございますので、あらゆる角度から検討されまして、国内において更生したい、あるいはただいま申し上げました国内開拓とかいろいろございますが、そのうち本人の希望あるいは計画などすぐに取り寄せて提出いたしたい、かように存じておりますので、すみやかにこの問題を打開していただきまして、一日も早くわれわれが安定して三度の食事がいただけますように、特にお願い申し上げまして、ごあいさつにかえます。
  38. 小市正司

    小市参考人 信書の秘密でありますけれどもネイバ地区の場合には、割合にドミニカから内地の方へは行ったようであります。しかしときどき来ていないということは、内地からのたよりでもって知ることができました。それから内地の方から六月から大体八月、約二カ月間くらい全然たよりが来なかったときがありました。それに対して内地の方に問い合わせたところ、南米、アメリカを経由して、そして手紙を出して、それから現地人の名前で知事に出して、それからまたというような方法で連絡をとりましたところが、こっちから出しているのだ。それで神奈川県から出して、もう何か着かないらしい。着かない着かないとくる。だから東京まで行って出したのだという手紙が来ましたけれども、その後二、三回やはり来なくて、その後順調に来るようになりました。その間大使館にそういうことがあるのかということを聞きましたが、いやそんなことはない、ドミニカの国だってそういうことはせぬだろうということは言われましたけれども、それ以上のことはわかりません。  それから渡航費の件ですが、帰国費、先ほど高橋さんがおっしゃったように一応形式的だけでもいいから署名しなさいというので借用証に署名してきました。横浜に上陸して政府の方々がおっしゃるのに、いつまでに返せというようなことは言わぬ、しかし返さぬでいいということは言えないということをおっしゃられておりましたけれども、今後どういうふうな形になってきますか私はわかりません。  それから今後の問題でございますが、現在私の場合は、まだ住居もきまっておりません。いろいろ市の方へも相談に行くのですが、ドミニカだといっても、ドミニカから帰った者に特別に住宅をあっせんすることはできない、住宅も足りないので、これはどうしてもくじ引きでやるのだから一年先か二年先か、当たったときでなければわからぬということを言っておるのですが、子供もたくさんおりますので、一日も早く住宅を見つけて別居したいと思っております。中には九州の人ですが、やはりそういうふうに親戚の家を転々として歩いておる。そのために子供も学校へやれないと言っておる人もおります。  将来の希望でございますが、私としましては二度と南米へは、たとえいい条件があるといわれても行きたいという希望は現在ありません。どうしてかというと、二度とだまされたくないという根本がはらにしみわたっておるからです。
  39. 足鹿覺

    足鹿委員 あとで同僚委員からも参考人に御質疑があるようでありますので、先ほどお尋ねした点でお答えがなかった点を明らかにしていただきたいと思うのです。去年の五月と八月と十月に参議院でこの問題があなたたちの連絡によって取り上げられた結果、少しは出先の人々に反省の色があったかどうか、また逆に扇動者とみなしてつらく当たるようなことがあったのかなかったのかという点です。その点を、どちらからでもいいです。  それと、これは私の手元にある篠原という人の資料ですが、渡航費の貸付金の均等年賦償還が三十二年から四十三年にわたって四十三万六千五百円を、この人は金がなかったようです。借りておるようですが、これを返さなければならない。そうして今度の帰国旅費ですね。これはペソになっておりますが、ドルと同等とみなして二千二十四ペソというものをこれもまた返さなければならない。こういうものをどう処理するか、全く途方にくれておる。帰国旅費は無期限の催促なしで、それはそれとしても、借りたものはやはり借りたもののけじめ——これは棒引きにするならする、国が負担するならするというあるけじめがつかない限りは、サインした以上は借りた者の責任ということになる。これはあとでいろいろとただしたいと思いますが、財産をすべて棒に振った上に苦労を重ねて、そうして残ったものは借金、現在は住む家もない、こういう痛ましい事実というものは、私ども委員会としてはよほど前にこの移住政策を検討したときにも、この一元化の問題についてはずいぶん建設的な立場で論議をし、夜を徹したこともあるのです。それは昭和二十八、九年のころだと思う。ところが、それが一つの動機となって、積極的な移住政策というものは、昭和三十三年に移住五カ年計画というものが立ったが、その後内容を洗ってみればこういう始末だ。まことに残念千万に思いますが、さしあたり、各県によって違うと思いますが、生活保護法の適用を県が行なって当面救済しておるということが、新聞の記事に出ておりますが、あなた方引揚者の中で、県あるいは県関係からどういうふうな生活援護なり、今後の生計対策についての協力なり、助言なり、援助なりを受けておりますか、その点われわれが聞いておく必要があることがあれば聞かせていただきたい。  以上の二点をお尋ねしまして、あとはまた政府当局に質問する過程にあってお尋ねすることがあるかもしれませんが、一まずここで打ち切っておきます。
  40. 高橋義量

    高橋参考人 今の生活保障の問題でございまするが、これはまだ地方の者からの連絡がございませんが、だれ一人として生活保護法の扶助料ですか、あれをいただいておらないような状態であります。私ども現地の方に早く福祉事務所に相談してこれの適用を受けるようにという連絡を、きょうあたりしょうと思っております。私の場合にいたしましても、うちもないので親戚に居そうろうしておるという格好ですから、当然そういう方面の恩恵にまだあずかっていないわけでございます。実際先祖伝来の財産をはたいて、帰ってきて、家もなければ職もない、残ったものは大きな借金だというわれわれは哀れな姿でありまして、これからどういうふうに将来を計画するかを考えるだけの余裕もまだ生まれてこない状態でございます。高木移住局長は、上陸早々、まあ一カ月半ないし二カ月、十分からだを休め、傷ついた心をいやして、それから一つ早く自分仕事に取りかかってほしいという、激励の言葉を下さったわけであります。ところが、家もない、職もない、食うものもなければ着るものもないという状態では、われわれは何と申しますか−日本の国はりっぱな国だ、私どもは五年前に出まして、日本はりっぱになった、文化が進んだ、食品はうまい、交通の便はいい、景色はいいということで、祖国なるがゆえにひそかに尊敬と崇拝の念を持っておったわけでございまするが、帰ってみれば、何か引揚者は、これはならず者、堕落者が来たんだというような取り扱いを受けつつあるという以外に考えられないものでございます。  それからもう一つのことでございまするが、弾圧ということでございます。これは私どもハラバコア地区におきましても日本人会を結成し、本国交渉した関係もございまするが、現地大使館におきましてはこういうことがございました。宮崎重助という方がおりまして、その方がたまたま大使館に行きますと、ハラバコアでは五名の者は強制送還をすると、名前をあげたわけでございます。帰ってそれを聞きまして、その該当者の方々はあわてふためいて、とんでもないことだ、われわれは今ごろ裸で強制送還されては大へんだ、しかも何も悪いこともしていないのに、りっぱに活動して何とか立ち上がるために働いて、しかも借金もある中で、とんでもないことだという考え方で、三人の方は高い交通費を払いまして大使館の方に行きまして聞きますと、いやそういうことは言わないとか、それは聞き違いだとかいう工合にぼかされてしまった。私の場合もその後管理官と申しますか、コロニアの管理責任者が朝私を呼びつけまして、行ってみましたところが、私も言葉不十分ですが、そのくらいのことはわかります。あなたは強制送還だということを耳にしたわけです。ちょうどそのときに群馬県の出納長と議長がハラバコア南米の帰りに寄りまして、同県の方のところに泊まっていましたが、朝のことでしたので海協連の職員に私は申し上げたわけです。今こういうことを聞いたのだ、とんでもない、何かこっちが悪いことがあるかと抗議したわけです。相手になってやろう、安積さんとは違う、大学出じゃない、こちらは小学校出だから体当たりでいこう、民主主義の法則も知らないで何をぬかすか、対決しようということで、あなたたちは人殺しじゃないのだろうということでやったわけです。向こう様はいやあなたのことはよくわかっているということで頭を下げて終わったという工合でございまして、移住者の先に立って人の世話をしたりあるいは何かやると、すぐに強制送還だとかあるいはゴボウ抜きすればいいんだということが常に流れておって、ドミニカ移住地はいつも非常に暗いものがただよっているということでございます。
  41. 小市正司

    小市参考人 生活保護の問題でございますが、私の場合は現在一月の半ばから受けております。今までに六千円ばかりもらいました。弟がありますが、弟もやはり受けております。あと神奈川県の小田原にいる日下部さんでございますが、この人は今親戚におるのですが、親戚の家が非常に裕福というか、今は段ボールか何か作っておりまして、普通にやっておるわけです。それだからお前のところは適用できぬ。しかし親戚親戚だ、自分自分だということを言っても、いや三親等にそういう人がある場合は適用できないのだということで受けていないと言って、この間こぼしておりました。
  42. 田口長治郎

    ○田口(長)委員長代理 石田宥全君。
  43. 石田宥全

    ○石田(宥)委員 両参考人に二、三お伺いしたいと思うのであります。ただいまの足鹿委員の質問に対するお答えやら、あるいは決算委員会の模様などで大体のことはわかったのでありますが、そこで御両名の方に伺いたいことは、高橋参考人小市参考人もいずれも農業に経験を有せられておる。ことに小市参考人のごときは満州開拓をやってこられたということでありますから、そういう方面の経験者であるわけですね。そういう人たち開拓移住者募集要領というものをよくごらんになって、現地に参られまして、その募集要領というものと現地状態が著しく異なるということは、そこに足を一歩踏み入れば明瞭なわけで、そこで一体将来農場をやって生計を立てていけるかどうかということは、一見明瞭だと思うのです。にもかかわらず、その当時直ちに——日本の政府なり出先機関なり、あるいは自分の肉親の人たちどもあるにもかかわらず、募集要領とははなはだしく相違するものであって、将来見込みはないとううことを、直ちに訴えて問題にしなければならないはずなんです。さらにその後になりましてからは、今度は移住執務提要というものが手に入ったということを承っておる。それにもいろいろな点があるわけです。それをさらにごらんになって、もうここでは耐えられないのだ、将来性はないのだということがすぐにわかりながら、いつまでもそこにおられたということについて、私どもは何か割り切れないものが感ぜられるのですが、これは裏にどういう事情があったのか。さっき小市参考人は、親戚やなんかの反対も押し切って行った手前もあって、なるべくならばそれは耐え忍んでいかなければならないということもあって、見込みがあるという手紙も出したというお話があったわけでありますが、そこらの事情は、私ども聞いておっても、どうも割り切れない感じがするので、明らかにしてもらいたいと思います。
  44. 小市正司

    小市参考人 家の方には確かにそういうふうに出しましたが、現実としましては、昭和三十二月十月に渡りまして、十一月の五日でございますが、このときに土地の配分を受けても営農ができないというので、海協連に抗議しております。それから続いて同じ年の十二月の末に、自分たちと一緒に船で行った古関という横浜の移住斡旋所長が、南米に行って移住者を送って帰りに立ち寄られました。そのときに自分たちは、こんな土地でもって何ができるんだ、石ばかりじゃないかということを強く言ったわけでありますが、そのときに古関さんは、石は三年くらいたったら砕けて肥料になるということを言われました。これはみんな聞いておりますから、だれも証言できます。  それから続いて三十三年二月に、やはり海協連の支部に国内転住の件を申し上げております。さらに四月から八月にかけてずっと地図を作って、強硬に長い間転住を叫び続けたのであります。さらに三十四年の十二月には、南米の方に行く道はないかというので、それも陳情してみたわけであります。それに対しまして大林書記官の返事は、そういう可能性は全然ないという返事をもらっております。こういう工合に入植から帰るまで営農はやりながらも、何とか転住さしてくれということは言い続けてきております。
  45. 石田宥全

    ○石田(宥)委員 さらに小市参考人に伺いたいのでありますが、先ほどの陳述の中で、百ドルくらいの収入が上がった年もある、こういうお話があったわけでありますが、農業というのは、気象状況や、なんかで、降雨の状態関係やらいろいろな状況で、たまにそういうことがあるというこもと考えられないことはありませんし、また灌漑の施設等をやればどうにかいけるというようなことも、われわれ想像できないわけではないのでありますが、もしそういうところで灌漑の施設をやるなり、あるいは石ころのようなものを除去するなり、日本の政府、あるいは移住振興会社、その他何らかのところで、そういう点の要するに阻害要因というものを排除する、あるいは灌漑施設をするというようなことをやれば、どうにかいけるのではなかったのか、こういう点について少し伺いたいと思うのです。
  46. 小市正司

    小市参考人 ネイバ地底の場合は、たとい水があっても絶対営農は不可能な土地であると私は信じております。また今度私たちが帰りまして、五回にわたりまして政府の方から視察をされておるはずです。その人たちの報告書は、どういう報告書がきておるか知りませんが、営農可能な耕地であったら、ネイバ地区全員帰国させないと思います。それでその中に池田支部長が内地の海外協会の会長あてに、ネイバ地区は非常にひどいところである、いまだかつて見たことがない、ここでもってよく五年間がんばったと、口には出さないが私たちは認めたという報告書がきておるはずです。私はそれを現地で写して参りました。今手元に持ち合わせませんが、そういう状態で営農ができない耕地であるということははっきりしておると思います。
  47. 高橋義量

    高橋参考人 続いて同じようなことでございますが、水あるいは土地の問題ですが、ハラバコアといたしましては、向こうの国の農務省最初の計画は十五家族、その他はスペイン人あるいはイタリア人というようなものを入れて国際農場にして、そうしてあらゆるものを競争させて力を示させて資料にしたいのだということでございましたが、イタリアの技術者は、ハラバコアに参りましてちょっと見ただけで、これはだめだ、この国はだめだということで絶対に相手にせず取り合わなかったわけであります。それからもう一つはハンガリ一人ですが、これは要するに戦争避難民で、いわゆる国連の難民法に基づいてあそこの国が受け入れた移住者でありますが、それも、もうこんな国ではだめだ、低賃金、高物価で、こんなところにはいられないのだということで合法的に運動いたしまして、アメリカあるいは欧州の方にみんな逃げて帰ってしまいました。またスペイン人も、現在はもう七割は本国に帰り、あるいは南米転住などをいたしまして、私のところの地区におきましても、ほとんどが不良耕地で、水もなければ何もない。しかも百タレアという募集要件でありましたが、しかし私どものような家族構成の非常に多い三人も五人も働けるようなところに五十タレアということで、しかもそれがろくに草もはえないような不毛地帯と申しますか、そういう不良耕地でもなかなか交換をしてくれませんで、私はそれを四年間通して借地をしたり、日雇いをしたり、あるいは子供らに馬車引きをさせたりして、持っていった金も多かったので現在まで借金をしないで帰ってきたわけであります。  なお、水の問題をさっき申し上げなかったので、ちょっとつけ加えますが、ネイバと同じく私たち地区も、最初十五家族であって、それが三十家族になったときにカナルが完成いたしまして、これは支線も幹線も数千メートルを自力でやりました。しかしそのときでさえも水がなかった。そうしてその上に各地区から集まってきて過剰入植になりまして、かつ二年前に農務省の水利局の方におきまして、用水路の上流に原住民の耕地があるのでありますが、それに権利金をわずか払って、用水を許可したわけです。そのために彼らは横暴に水のかけ流しをやる。夜でも何でもそこに水利の監督をやる水利官がおるわけですが、その水利官にわいろをやる、米をやるといったようなことで、彼らも完全な水の配分ができない。結局日本人の耕地には流れてこない。また日本人同士でも水げんかをやる、夜も寝られないというようなことが相次いで二ヵ年、三カ年とやられてきたわけであります。上村報告なるものが海協連大使館にきておると思いますが、実際ああいうところで大ぜいの者がひしめき合っていたところで、とうてい不可能だということで、私たちは早くから大使館の方に申し入れをいたしまして、これはハラバコア二十家族ならちょうどいいのだ、それ以上は無理だ、現在どれくらい希望者があるか、それはいろいろなコロニア政策、あるいは国内の情勢から判断いたしまして、一ぺんにと言っても無理だろう、半分にしてくれたらどうだ、半分でしたら今でも出る用意があるということを申し上げたわけです。それは高橋君もう少し待ってくれ、一ぺんにそういうことを言ったって無理だ、待て待てで、私どもはついに四年も五年も待ったわけであります。  それからもう一つ外地転住の問題も考えて常に交渉いたしたわけでございます。ところが当時たまたま内地の親戚あるいは友人あたりに恥ずかしいものだから、はったりをかけたり、ほらを吹いた手紙を出しております。そういうものが影響しまして、ドミニカ移住は順調に伸びておるというふうに関係庁の方に報告が参るわけですから、われわれがいかに本国の方に運動したってむだだということは判然としておったわけです。そうして私どものように急に渡航した場合には、地元代議士さんあたりにあいさつに行くこともできなかった、黙って行って困ったから助けてくれということは常識上できないので、逐次自力によって団結して南米転住をやるより道がないのだということで、今まで延びたわけですから、その点も御了承願っておきます。
  48. 石田宥全

    ○石田(宥)委員 次に両参考人に伺いたいのでありますが、移住だと思って行ったら国営農場であった、そこで働かせられた。ただいまも発言の中にありましたように、囚人、受刑者が隣接地区などにおっていろいろ被害を受けた人もあるということが決算委員会参考人の陳述などにあるわけですが、国営農場に働かせられている際にも、やはり管理人がおって仕事の様子などを監視をされておるということを述べられておるのでありますが、これらの点を少し具体的に、どの程度に監視、監督を受けておったかということをお尋ねしたいと思います。
  49. 高橋義量

    高橋参考人 私はハラバコアに四年間おりましたので、ハラバコアのことを申し上げます。これはコロニア法に基づく機関でございますので、人員が何名ということはあるのだと思いますが、まず管理官、あそこの国ではスペイン語でエンカルガードと申しまして、管理責任者ですが、それが長になっております。その次にカバタと言っております監督の補助というか、調査や報告を常にする畑回りをするのが二名おりました。それから一番初めのうちは農業技手というふうな身分の者で、農学校を出たか出ないか相らぬが、ろくにわからぬで、こちらから教、えてやるようなのが馬に乗って歩いておりました。それから事務員がおるわけです。タイプを打ってその日の日報を本庁の方に報告するやつです。それから用水路がありまして、そこにもやはり水利の責任者がおりまして、その下にはかぎを持つやつもおりますし、そういう連中が三名、合計常に六、七人がおるわけです。そうして管理官というものが相当の権限を持っておりまして、さっきの話じゃないが、移住者を束縛することも自由であるし、自分の気に入らなければ、こいつは追放だといってコロニアから追い出すこともできますし、また土地に革をはやせばすぐに取り上げる、命令を出して、赤紙を出して三カ月以内に実行しなかったら、これは命令を守らない、要するに公務執行妨害だといったような格好ですぐに土地を取り上げられるという権限を持っておりますし、それからまた農務省、つまり本庁に参りましても、やはり地元の管理管の証明がないと、本庁に行っても大臣なりあるいはその係に面会ができないといったようなこまごまな規則がたくさんあります。そうして大体あそこのコロニア制度というのは、どこかメキシコあたりからならってきたものだそうでありますが、ああいう今世界のどこにもない、ロシヤのコルホーズは知りませんが、おそらくもってああいう野蛮な、非人間的な奴隷制度を今ごろまだやっておるのだということを感じたわけです。そうしてその事務所がどこにもあるわけです。コロニアですから出先機関といってもいいような事務所に、倉庫が何ぼかあるということになっておりまして、そこにはやはりこの国会議事堂に示されたような国旗が立っておるわけです。それは要するに向こうの国の役所の出先ということになっておる。それで毎期八時というと、アテションというわけで国旗掲揚式があるわけです。たとえて言うと、厳格な軍隊みたいな規律的なものがあるわけです。囚人の点ですが、私たちのところには、いわゆる現役の囚人はおらなかったんですが、嘆願書の中にございますこれは俗にコーヒー園と言っておりますが、アグアネグラ、アルタグラシアという名称でハイチとの国境辺の山岳地帯、これは未調査のまま入植者を入れた地区でございます。これは大体スペイン人が逃げ出して現地人が入って、これも逃げ出した。そのあとに日本人の移住者を、農務省の言うことを聞いて、未調査のまま入れたわけです。今度私どもと一緒に二家族帰ってきました。この次にまた数名帰ってきますが、さっき足鹿先生が言われたように、現地の実態が調べてないために、高知県の岡本という人などは、今度帰ってきますが、農機具ばかり二百五十万も買って行ったが、それは一回も梱包をほどかずにいわゆる捨て売りだった。ああいう山の中ではなた、まさかり以外には使い道がなかったわけなんです。そういうようなことが数々ございまして、人権をじゅうりんされたことで、私どもは人権擁護局に訴えたこともありました。そうしてそのときだけ回答がありました。これは何というか、お門違いだから外務省の方に回したのだという回答が一回あっただけで、その後は陳情に対する一回の回答もいただけなかったという状態で、非常に情けないことが続いたわけでございます。
  50. 小市正司

    小市参考人 ネイバ地区の場合は、さっき高橋さんからおっしゃったように、草をはやすと土地を没収するということはありました。ですから、たとい石原で作物を作れないというところでも、やはり草を取らざるを得なかったのであります。そのためによけいな経費が要ったということも言われます。それからそれを怠っていると強制送還するということも言われました。  それから指定作物の件でございますが、これはやはり指定された一年目には、アベチェーラだとかトマトだとかたばことかは、お前はここに何反何々を植えろという工合に指定されて、その通りやりました。米なんかはネイバ地区の場合はもっとも水がありませんからできませんが、大体指定されております。  あとは、コロニアの外へ出る場合は、一応管理官へ報告して、許可証をもらって出る、そういう制度がございました。
  51. 石田宥全

    ○石田(宥)委員 あとは政府の責任者にお伺いしたいと思いますが、ただ一つだけ最後に伺います。  二月八日の決算委員会で、やはりハラバコア地区の当銀という参考人が、こういうふうに言っておるのです。「ハラバコアの場合を申し上げますと、現在残っておる人も、これから次に二月、三月、四月と帰って参ります。そして先ほど申し上げたように、移住振興会社から金を借りたために帰れない人と、個人的に——現地にアメリカそれからドイツ、それからドミニカの肥料会社があるのです。そこから肥料、農薬を前借りして営農をやっているのですが、それが返せずに、その借金のために帰りたくも帰れないという人が大ぜいおります。」こういう発言をしておる。これは私は大問題だと思うのですが、事実かどうか。これはやはりハラバコア地区におった人の陳述でありますので、御両名の方からそういう事実がほんとうにあるのかどうか、一つ承りたいと思います。
  52. 高橋義量

    高橋参考人 ハラバコアもやはり土地が五十タレアで、蔬菜地区であって、しかも水がない。たまたま水があって蔬菜ができるときには相場が下落して、市場が狭いために、トマトは、キンタールと申しまして、五十キロくらいのものが、一ドルにもならないというようなことがありまして、肥料代などなかなか現金で使う余裕のある人は少なかったわけです。そして共同出荷というようなことを続けてみましても、その中間搾取をのがれるために、協同組合を作るとか、いろいろやってみましても、とにかくあそこの消費市場の狭いのには勝てない。たとえば現地におきましては、さっきの話の蔬菜を作らなければ水をやらないのだというような制約もございましたし、結局われわれ移住者は安売りの競争をやり、またやった。そのためには、ドイツとアメリカの肥料会社の出先がございまして、そこには若干の農器具、農薬もございますので、ある程度日本大使館の添え置きがあれば貸してやろうというようなことで借りております。ところが、今申し上げたように予算が違いまして、三ドルか四ドルするべきはずのトマトが一ドルに下がった。それじゃ肥料代の方にいかない。結局自分の生活費にも追われるということが続いて、借金がなかなか払えない。すでに二年も三年もたつ人もありますが、そういうようなことで、借金のある者は向こうの外務省の出国管理局からヴィザが出ないんだということははっきりしております。それから、そういう者のために、われわれもやったのですが、移住振興というものに対してもう少し資金的な融資の援助をしなければドミニカは困るのじゃないか。南米の方は相当やっているのに、ドミニカばかりはまま子扱いだというようなことを常に訴えまして、昨年から移住振興は、若干短期的の資金の一五百五十ドルというものを貸すことになったおけです。それと二重の借金があるわけです。そのために、帰りたくても、あるいは南米に転住したくても動けない。そういう人は定着だといわざるを得ないわけです。私たちが帰るときにも、隣の奥さんが私どもに、あの移住振興の五百五十ドルを借りなければあなたたちと一緒に帰れたのに情けないと泣いておりました。そういうことは事実でありますから申しておきます。
  53. 小市正司

    小市参考人 ネイバ地区の場合は、そういう借金があれば出国できないということは聞いたことはありますけれどもネイバ地区は一人もありませんでした。
  54. 足鹿覺

    足鹿委員 外務省、農林省両当局にお尋ねを申し上げたいのですが、この間の決算委員会以来ただいまに至るまで、ドミニカ移民の惨たんたる失敗はこれは明らかだと思う。お認めになりますか。
  55. 高木廣一

    高木政府委員 お答え申します。  移住を志してドミニカに行かれて、初志が貫徹せられずに帰ってこられることになったことに対しましては、われわれとしても移住当局としてまことに残念に存じております。
  56. 足鹿覺

    足鹿委員 お認めになったようですが、事の発端は、先刻から私が御指摘を申し上げました通り、三十二年度のドミニカ国ドウベルへ地区及びネイバ地区開拓移住者募集要領に発端があると思うのです。これは現地調査あとになって、あなた方が移住を公募されたことが先走っている。あなた方も現地の実態というものをつかみ得ないままにおやりになったこととしか考えられない。この移住要領は——当時高木さんは移住局長であったかどうか知りませんが、資料を山ほど持っておられるので当時のことは御存じだろうと思うのですが、どういう経過でお作りになったのですか。外務省現地へ委託をされて、大使館ドミニカ政府と折衝され、大体こういうことだろうということでそれを報告したものでこの募集要領というものはお作りになられた。そこで今度は農林省はそれを真に受けて地方の方へ送出計画をやった。それに乗ってきた日本国民が一番青壮年の若い有為な時代を棒に振った上に、苦労をして、子供の教育もできずに、借金すら負い込んでこの寒空にほうり出された。かいつまんだ結果はそういうことになると思うのです。ですから、死んだ子の年を数えるわけではありませんが、この募集要領そのものがどうしてできたか、また今後はこういうことはどういうふうにしてあやまちのないようにすべきであるかと反省をし、考えて対策を練っておられるか、これは大事な問題なので、その点を外務、農林両当局から御説明願いたい。
  57. 高木廣一

    高木政府委員 当時私移住局長でございませんでしたので、資料及び当時の関係者で聞ける人から聞いた知識でございますが、このネイバ、ドウベルへの調査につきましては、先般の決算委員会で前農林省の中田技官が申されましたように、ドミニカ政府からあらゆる資料を取り寄せて日本で調べていて、自分の目で見ないとどうしても合点がいかぬところを自分は行って見たのだということを言っておられます。そうして募集要領につきましては、私が了解するところでは、当時外務省と農林省が協議いたしまして作ったものというふうに了解いたしております。従って両省で十分検討の上やったのだ、こういうふうに了解しております。
  58. 齋藤誠

    ○齋藤(誠)政府委員 ただいま、募集の経過並びに今後の考え方についてはどうだ、こういう御質問でございます。移住自身につきましては、国内におきましては、移住募集に基づいて移住希望者を送出するという業務があり、他方海外におきましては、移住適地の調査とそれに基づいて受け入れ条件をきめて参るという業務がございます。そこで現在募集というものにつきましては、一応外務、農林が共管という形で、しかもわれわれといたしましては、農林省の国内担当の従来の経緯からいいまして、国内の送出関係については農林省が主として担当し、海外の受け入れ条件等につきましては外務省調査していただき、両省協議してきめる、こういう経過で従来とも参っておるわけでございます。しかしこれは、それは申しましても、今申し上げたように国内と海外に通ずる関係がございますので、やはりある程度の分担をしてやっている、同時に、一方だけではなかなかできにくい、こういう事情にあるということも御了解願えるだろうと思うのでございます。われわれといたしましては、そういう現地における受け入れ条件等につきましては、今後十分実情がつかめるようにいたしまして、それを的確に応募者にも周知させる。今回の事情を反省いたしましてそのように感ずるわけでございます。
  59. 足鹿覺

    足鹿委員 どうも高木さん、あなたの今のお話なんですが、中田技官が現地においでになる前に、もう募集要領はできて、一般に公募しておられたのでしょう。そこのところが一番問題だと思うのです。今お聞きになったように、また決算委員会でもさんざんあなたもつるし上げられたと思うのですが、それは率直に、そういう問題の出発点に誤りがあった、これだけははっきりしておるのです。私はあなたが個人でおやりになったことだとは思いませんし、別にあなたを追及責めにしようとは考えておりませんが、やはり国の方針なりその意思を受けて海協連というものが現地にあるわけです。ところがその海協連が、ずっと経緯を静かに、委員会のやりとりそれから資料を検討してみますと、ほんとうの受け入れ態勢を作っていくことに対しての任務を果たしておらないと私は思うのです。そこにこういう悲劇が起こる、初めから大きな手落ちがある。これは当然改めなければならぬと思います。またそれによって受けた被害に対しても、国としてはあたたかい態度でもって措置していく義務が当然出てくると思うのです。だれがこの話を聞いてみても、この間、移住の大先輩の上塚さんですか、精神の問題だと言っておられましたが、これは精神の問題もあるでしょう。しかしそういう態度では今後もまたあやまちが何べんでも起こりますよ。そこの辺はこれ以上申し上げませんが、ことしの移住関係の予算を見ますと、相当大きな予算が移住対策には計上されて、去年よりもふえておるのですよ。これを見ましても、予算をふやしただけで向こうの現地におる人々が、すべてとは言いませんよ、すべてとは言いませんが、ほんとうに誠意のある態度をもって受け入れ態勢に万遺憾なきを期す、こういうことが行なわれない限りこの問題は解決がつかぬと思う。去年一億三千三百万程度のものが、ことしは一億三千八百万以上になっておる。相当経費がふえておる。また、日本海外協会連合会に対する補助金も去年四億程度のものがことしは五億円にもふえておる。こういう裏づけは一体どういうふうにしておやりになる所存であるのか。これは私のところに、別な地区ですが、南米のボリビアからきておる手紙ですが、参考のために申し上げます。現地の人々は、過労と、気象その他が悪いために、どんどん倒れていく。それに対して社会保障もなければ、何一つ難民の救済もない。全く見殺しだ。たよれるものは自己のみだと言っておる。だれにたよってもいけないと言っておる。従って自分だけは強くなりたい。まるで野獣の生活だと訴えてきております。こういう悲惨な状態にあるにもかかわらず、海協連のこのボリビア国におる人々の態度は、はたして先ほど来問題になりましたドミニカの何かお互い日本人が責任のなすり合いをする、特に移住者を封建領主のような立場からこれを見ていろいろやっているというような状態がここにも起きておるように思うのです。念のため申し上げますと、いろいろ個人関係のことがたくさん書いてありますが、それは私事にわたりますから申し上げませんが、新車を乗り回しておる。まるで殿様と人民ほどの差だ。現在海協連には大小で合わせて六台の車があります。ほとんど職員のおもちゃです。しかも農協には借入金で買ったトラック一台と大修理の必要になったトラックが一台、海協連より下付され、修理費は七百米ドルをかけてやっと使用できるようになったものと二台だけだ。広漠としたところでありますから、乗用車の必要がないとは言いませんが、ほんとうに海協連が受け入れ態勢を整備して、そしてその現地の移任者をどうして盛り上げて育てていくかということに対するここにも熱意と努力とが足らず、従って任務も果たしておらない、こういうことが言い得るのではないかと思うのです。これに対して批判がましいことを言った者に対しては、どんどんその地位を引きずりおろす、いわゆる権力をバックにして陰に陽に圧迫を加えて、そして次から次へとその地位を引きずりおろす、こういう詳細な、涙なくしては読めないような手紙もきております。またブラジルからも別なのがきております。国会でこういう論議が行なわれておるということが、向こうにもほのかにわかるのでしょう。そのことの反応がいろいろな形で出てきておるのです。これはあなた方が昭和三十二年以来四、五年間を空費し、そして苦労のみを背負って帰ったドミニカ移民の失敗の反省を現実におやりになっておるかどうかという点について私は疑わざるを得ないのです。一体これはどこにこういう事態が起きる原因があるのでしょう。送出については農林省はいろいろ反省をする。これからどうやられるかということはまだ今後の問題でしょうし、今後お尋ねもいたしますが、直接の海協連の今度の監督の立場に立たれ、国費を五億円も昭和三十七年度に出そうという予算を要求されておる外務省としては一体——移住政策というものは一応紙にはできた、機構も一応できた問題はその中味がどうも充実しておらないのみか、政府の目の届かない先でほんとうに弱い移住者に対してたよりになるような役割を十分果たしておらない、これをどうするかということにあるのではないかと私は思うのですが、その点はいかがですか。
  60. 高木廣一

    高木政府委員 ただいま足鹿先生のおっしゃったことは私も同感であります。そこでこの移住の問題は、金と人、金よりも人の問題であると思います。そして海外協会連合会が十分の施策を持っておらない、また充実された人を十分持っておらないということも事実でございまして、われわれといたしましては、三十七年度の予算におきましても移住者の世話をする移住実務機関の拡充強化、それから移住地における援助の強化ということに重点を置いているのですが、予算もなかなかむずかしいのでございますが、それに合うべき人を充実さすことがさらにむずかしい問題でございます。そして戦後の移住は昭和二十七年の暮れから始まりましてまだやっと十年にならないのでございます。ドミニカ移住も話がありましたのが昭和二十九年から、実際出たのが三十一年ということでございまして、われわれは今の体制、調査その他においてすべてが完全であるというふうには申しておりません。調査についても十分の予算をいただいて、できる限り十分な調査をいたしたい。この調査につきましては、単に移住地の土壌調査だけでなく、経済調査その他幅の広い調査も十分やっていかなければならぬ。すべては足りないづくしであるというふうに言っております。  それからもう一つ、われわれは、戦後の移住は戦前の移住と違って移住者を出しっぱなしでもいけないのだ、移住者が行ったならば、これが十分活動できるようにしなければならない、移住者に対して常に目をかけていなければいけないのだ、こういうふうに思っております。ただこの点につきまして私たちとしてもう一つ非常に心配いたしますことは、戦前の移住者と戦後の移住者というものの考え方が非常に違います。先般上塚先生が言われましたのは、先生の考え方は精神主義の非常に強調されたものであると思います。他方戦後における移住者において、これは全部でなくごく一部でありますが、南米へ行けば楽に暮らせるのだというような考え方、これはだんだん減りつつあります。私たちが非常に大事だと思うことは、政府が棄民でなくて、移住者ができるだけ活動できるように協力しなければならないということを強調すると同時に、しからば移住者がもたれかかる態勢に一たんいたしますと、これはとんでもないことになっていくと思うのです。その点で一方移住者自身は不撓不屈でがんばっていくという精神力は一そう強化してもらわなければいけないとともに、政府としてはできるだけの援助協力をやっていかなければならない。この二つを並行しなければいけない。混合されてはいけないと思っております。  それからもう一つ、戦後の移住は戦前の移住と比べますとずっと楽になりましたが、移住者が成功するためには五年、十年の努力が必要であって、三年、四年で簡単に目鼻がつくということは言えないと思います。ドミニカ移住の場合には移住者の責めに帰せられないような事情で営農がむずかしくなったということは事実です。それはドミニカ移住地についてのいろいろな苦情、帰国あるいは転住の申し出を振り返ってみますと、昭和三十五年の六月にアルタグラシアの方が広島県へ手紙を出されたのが最初であります。それまでは移住者はもっと耕地をほしいという苦情がありました。これに対して出先の海協連大使館も先方政府には強力に申し入れております。ただそれが達成せられないうちは移住者にはそう言えないものですから、板ばさみになって移住者からは非常に冷淡なように思われていると思います。ドミニカ政府としては与えた移住地を十分耕しもしないで、さらに多くの土地を与えるわけにはいかない、そのようなことを言って反抗しながらぼちぼちふやしているような実情でございます。しかるに三十四年の六月ですか、さっき先生も申されたようにキューバのカストロの飛行機がドミニカのまん中の日本人のいるコンスタンサのところに入ってきたということが一つの契機になりまして、国境地帯のアルタグラシアの人が心配し出した。それも三十五年六月になって、生活補給金が削られたり、どうもなくなりそうだという内報があってその問題が起こったのが最初でございました。それまでの間は、むしろ移住者御自身も案外楽観的な情報を日本にお流しになっていたというような実情でございます。われわれ外務省としては、在外邦人のめんどうを見るのが責任でございます。ことに移住局といたしましては、移住者が十分成功してくれるように見る責任があり、これが不幸にして初志を貫徹せずに帰ってこられたということに対して、われわれは十分の責任を感じておりまして、移住者が日本において更生し得るように、できるだけ前向きで協力したい。  それから、ドミニカ移住問題につきましても、戦後の移住のいろいろの弱さが重なっていると思います。たとえば、ドミニカのような島国で、そしてああいう三町とか六町とか、せいぜいマキシマムで八町というような小さい移住地に入れるということがいいか悪いかという問題もあると思います。また月六十ドルとか百ドルの生活補給金をもらう。これは表面上はよろしゅうございますが、こういうことが移住の本義であろうかというような問題もあろうと思います。昭和二十九年の話がありましたときの日本の情勢は、やっとアマゾンに十七家族が行きまして、これもベレンあたりで戦前と戦後の移住者意見が合わないで、全部がそこを出るということもあって、またそのころはなかなか行く国が少なくて、日本の中は窒息するような空気であった。そこへドミニカの問題が起こったので、みんなが引きつけられたということは、当時の事情としてはやむを得なかった、こういうふうに思われるわけであります。また海協にしても発足間もないときでありまして、ドミニカ移住者の話が出ましてから大使館ができたというような事情でございますし、いろいろな要素がたまっておりますので、こういう点をわれわれは十分反省して、将来の移住政策に少しでも支障を来たさないようにやりたい、こういうふうに感じておる次第であります。
  61. 足鹿覺

    足鹿委員 御弁明なり、反省の上に立った今後の御善処のお気持はわからぬではありませんが、移住者に精神の問題、石にかじりついてもという精神の問題を強調されるようですが、先ほど来お聞きになったように、一物もないところにかじりついたわけです。これをなおどのように奮発せよと言われるのか、私どもにはよくわかりません。これ以上のがんばり方というものは、おそらくないと思うのです。故郷に帰っても一物もないのです。従って、現地でがんばる以外にないというので、石の上に三年どころか、四年も五年もがんばったわけですから、これは精神が足りないなどという問題ではないと思うのです。が、しかし、すべて政府に寄りかかるというような考え方が誤りであることは、私もわからぬではありません。その通りでありますが、問題は、移住者はそれだけがんばっておっても、あなた方がこれだけの予算に値する仕事をほんとうにしておるかどうかということを私は疑わざるを得ない。これは一つには移住機構とその運営がうまくないというところにもあるでしょう。去年の一月から三月にかけて行管が昭和三十四年の実績を中心として勧告を出したものを読みましても、その点は指摘しておる。昭和三十四年の実績ですから、このドミニカ問題も当然入っておるはずです。ところが、その後、外務当局あるいは海協連その他移住関係に携わる農林省等が相互に連絡、協議をし、そうして改める点をどう改めていくかということがなされていないから、こういう結果が起きてくることになるのじゃないかと思うのです。私はあなたと議論をするわけではありませんが、国会で問題になると一応反省もするし、今後の対策を考えるのだとおっしゃいますが、一面必ず精神の問題を強調されますが、精神の問題は私は遺憾はないと思います。先ほど私が朗読いたしましたこの一文のほんの一部にしましても、野獣のような生活に耐えながら原始林も取り組んでおる、そうしてばたばたと倒れていっておる。その中にあって、移住者が政府に何らかの協力の方法を求めようとしても、ハイヤーはたくさん持っておっても伐採、開発、開墾というものに対するところのほんとうの近代的な力も貸してもらえない、わずかにトラクターその他のものが一、二台おるという程度で、その利用もはかばかしくない。結局、人力と自分自身にたよらざるを得ない。こういう原始的な受け入れ態勢とその後の現地開発というものに対して、あなた方はこれを一体どう進めていかれるのか、自信がなかったらもうおやめなさい。やめたらいいです。罪を作っていくようなものですよ。しかも年間に七千家族かそこらの移住ではありませんか。イタリアの場合は五方、六万はおろか、十数万をこえた年もあります。国費を使うならばもっと生きた使い方をしてもらいたいとわれわれは思うわけです。これは当然予算委員会でも、先日井手委員が運営について小坂外務大臣にいろいろ質問されたことを私ども知っておりますが、反省の実が上がっておらないのです。ですから、この点はただ言葉の上や計画の上で幾らおやりになっても、今の移住行政とその運営の根幹を正していかなければ、私は問題の根本的な解決はないと思う。こういう点を指摘しておるわけでありますが、現在のままでおやりになる御所存でありますか。現在で連絡調整をやればうまくいくというお考えでありますか。それとも、行管の勧告その他を中心に、このドミニカ問題その他現に起きつつある移住政策のいろいろな矛盾や失敗にかんがみて、この際政策を立て直す、機構についても必要な機構を検討し直す、運営についてもさらにつつ込んだ検討の上必要があれば変える、そういう何らかの基本的な対策が必要だと思うのです。その点についてはいかがですか。
  62. 高木廣一

    高木政府委員 われわれもそのように思っておりまして、移住につきましてはまず海外移住審議会自身も刷新強化されなければいけないと思っております。そういう方向で関係者と話しております。また、移住機構につきましても、移住基本法をできるだけ早く作れという衆議院の御意見もございました、一昨年の日伯移住協定の御承認のときにもそういう御意見がございましたが、われわれといたしましても、移住基本法及び長期移住基本政策、との二つはどうしてもできるだけ早く確立しなければいけないということで、関係各省及び関係者の御協力を仰ぐことにいたしております。
  63. 足鹿覺

    足鹿委員 押し問答いたしましてもいたし方ありませんから、根本的に再検討するという御方針のようでありますので、この点はいずれまた別な機会に、大臣等の御出席を得ましてさらに検討してみたいと思います。  問題は、ドミニカの問題にもう少し入って、先ほどお聞きになっていろいろとお考えになったと思うのですが、これは断片的ですけれども、この移住募集要領による国営の農場ということについて、ドミニカ政府と約束が違うのですね。どういう約束を取りつけられて、この募集要領で内地の農民の諸君を送られたか。当然約束が違えば話が全然違うのです。これについては、その後外務省ドミニカ政府とどういう外交折衝をおやりになっておりますか。
  64. 高木廣一

    高木政府委員 国営農場、及び最初お話が違うということでございますが、ドミニカの植民法については外務省でもよく存じておりまして、最初先方と話しましたときにも、その点は十分承知しておったのであります。ただ、この法律をそのまま適用すべきでない、できるだけこれの緩和をすべきであるということで、初め交渉していたように聞きます。  それから、国営農場における雇用農業労務者のような御感想を、移住者がお漏らしになっていたのですが、この植民法におけるコロノというのは、農業定着者というか、農業移住者という意味なんでございます。ブラジルの植民法にも同じ言葉がございまして、農業地帯に定着する移住者コロノと言うことになっております。通俗、サンパウロあたりで農業雇用労務者もコロノと言っておりまして、これは二つありますが、法律で、ブラジルの場合もコロノと言っておりますのは、セントロ・アグリコラ、農業地帯に定着する農業定着者、こういうふうに言っております。ドミニカの場合も同じでございます。このドミニカの植民法も、国営じゃございません。ただ日本人の移住者を保護するためにいろいろの援助をして、それからこういう移住地を開発しますために、あるいは水路を作ったり、あるいはその他の整地をしたりいたしております関係上、ドミニカ政府がいろいろの注意をする。耕作物の指定も、これは初めから話がございました。  それからもう一つ移住者移住地から出られるときに許可がなければだめだ、これはドミニカの国内を歩きます場合にも、みな身分納税証明書のようなものが必要でございまして、それがないといろいろ不便があるので、移住地を出る場合にそういう許可をとって、それがこの納税証明善のかわりになっておるということでございます。この移住地におきましては、自分で作って自分で販売するのでございます。それからもう一つ、原則としてそういうふうにドミニカ政府が整地をしたりして金をかけておりますので、なるべくそこに定着すべきでありますが、実際上はそこに入られた移住者、これはどこの地域でもそうですが、できるだけいい地帯に行きたいという気持がありまして、ハラバコアのごときは、すでに入っておられる知り合いの方が、あとから来られた者に、お前こっちへ来いというようなことで入ってしまったというようなこともございまして、農場における奴隷労働のようなもので、そこに縛りつけられておるというような厳格なことは決してございません。ただ生活補給金等をもらう関係もございまして、先方政府の了解ということが必要であり、あとからその了解をとったというようなことも聞いております。
  65. 足鹿覺

    足鹿委員 日本の国内で農家が応募する場合に、この募集要領のドウベルへ地区自営開拓農ネイバ地区自営開拓農という言葉があるのです。自営開拓農というものは、内地の場合の開拓農の通念としては、先ほど両君からるる話されたような制約下にあって行なわれるものではないのです。だれでもそう理解するのです。その辺のあなたたちの理解が、通り一ぺんと言っては言い過ぎかもしれませんが、ほんとうの実態というものを詰めて考えておられないところにこういう状態——どこの世界にピストルを下げて監督に来る自営開拓農がありますか。国内の開拓地に入った場合、それは住民保護の立場で警察官その他が、一年に何回か、どうだというわけで歩く程度のものでありますが、資料によりますと、二十回前後もちゃんと監察官が来て調べている。ところが海協連やその他の人々は、おい、どうしているかとも、めったに声もかけない。頼みに行っても、全く木で鼻をくくったような話だ。これでは、現地に行った人々は立つ瀬がないと思う。そういうところに自営開拓農、いわゆる自営農家になるのだ、みなそういう気持で行っているところに食い違いがあるから、話と現地の実情というものが全く食い違っている。その上に営農条件としての土地、農地、気象、水利、ことごとく全く営農条件を満たさないどころか、反するような事態であった。ここにも、永住の目的を持って行った人々が、残念ながら帰らざるを得なかった、転住を希望しても受け入れられなかった、従って帰った、こういうことにならざるを得ないじゃありませんか。ですから、この点ははっきりお認めになって、そして今後もこういう点は、向こうの政府とあなた方の間に、しっかりした文吉による交渉をして、その交渉の過程にあって、こちらの移住者のほんとうの意思に反しないような条件をちゃんと確保しておくということが、これは外務当局としては——農林省はそういう出先機関を持っておらぬわけですから、あなた方が当然なさらなければならない義務であり、責任だと思うのです。  それと、これは農林省に伺いたいのですが、中田弘平という人は、四時間あれば走っていける現在を、報告書によると、四日間もかかって行ったという報告書の一節があるのです。一体これはどういう実情なのか。私どもは、本気で現地調査をしたのかしないのか疑わざるを得ない。この人は現在農林技官を退職しておられるようでありますが、いつ、どういう理由でやめたんですか。このドミニカ移民の失敗の責任を感じてやめたんですか。やめさせたんですか。この間も決算委員会において、現地調査は間違いなかったというようなことを、るる強弁していました。私はそれを聞いて、良心を疑わざるを得なかった。何人かがそういうことを言わしめたかいなかは別として、お互い日本人がここまで追い詰められているにもかかわらず、自分の責任の回避のみに終始している。悪かった、自分調査が不行き届きであったと陳謝しても、なお足らないものがあるのが、私は人間だと思うのですが、そういう点で、私は全く人間性を疑わざるを得ないような気持になりましたが、それは別としまして、この中田弘平という人は、現地調査にほんとうの任務を果たしておらない。そのことは、農林省を代表して現地に行かれた——外務省の役人は、営農条件等についてはわからぬ。だから石ころも三年たてば肥料になるというような、これは悪意か、素朴な意見かどうか知りませんが、全く人を愚弄したような言を吐かれるようなことになると思うのですが、私の手元にある、昭和三十六年五月十七日、ド発第十二号、海外協会会長あてにドミニカ支部長の池田源太郎氏が、「ネイバ移住地実情報告の件」というものを出しております。その写しがありますが、途中無用なところは省略してありますが、これによりますと、大使館で事前打ち合わせをして、昭和三十六年の五月の八日にトルヒリヨを出発してネイバ地区へ行っておる。その一節を見ますと、「候補地夫決定のまま前日の一行は五月八日午前七時トルヒリヨ発、約四時間で二百三十キロ走り、ネイバ地区着、上村氏の報告書は過日の調査報告者(中田氏)等の立場も考慮して表現も内輪であるが、池田の経験よりしても先年視察したブラジル、パラグアイ、ボリビア、アルゼンチン諸国の邦人入植地や青森、宮城、岩手、山梨等戦後の開墾開拓地に比較しても、このネイバ入植地ほど悪条件が重なっている移住地は他にちょっと見当たらないと考えた。」こう言っておるのです。これは前に調査した人の立場も考えて、お互いに役人、同僚の立場だから、あまり傷つけないために、実に表現の方法は苦心の跡が見えますが、それでもこれだけのことを言っておる。この国会においてもし証言を求められれば、人間であればこういう証言をすべきものだと私は思うのです。いずれ当委員会も何らかの——まだ参考人等の意見も聞かなければならぬと思っておりますが、さらに語を次いで、「飯島事務官も同感であった。われわれも口には出さなかったが、内心ネイバ入植者等がよくここまでがんばってくれたものだとこの点は率直に認めたことである。」とちゃんと書いてありますよ。こういう一文をよく読んでみても、いかにこの事前調査というものがずさんきわまるものであったかということは、もう疑う余地がありません。農林省は大した予算はもらっておられぬようですが、今後事前調査等をやるためには、どういう機構と予算の裏づけによって移住者が行った場合の受入地の営農条件その他の調査を的確につかむつもりであるか。送出について責任があると同時に、問題はその後にあると思う。農業移住に必要な経費としては、ごくわずかしかありませんね。こんなことでは、調査官をやっても、ろくな調査はできないのではないですか。まだほかにもあると思うのですが、私の手元にある資料では一億三千五百九十三万六千円、しかも波濤を越えて現地へ行って、ほんとうにその地帯の営農条件というものあるいは気象条件、社会境環、教育、衛生その他万般のそういう調査をやる自信があるのですか。事を出先の海協連の責任にのみ負わしておくということは酷だと私は思うのです。この人々は、農業について何ほどの知識を持ち、また何ほどの理解を持ち、また熱意を持っておるか。職務として海外におれば、いろいろおもしろいものにも会えるでしょう。珍しいものも見られるでしょう。そういう職務感情から行っておる人もあるでしょう。ほんとうにその人々に対して農業移民の世話もし、指導もし、その人々の相談引手になるような機構をあなた方の責任において現地にどう組み合わせていくかという対策なしに、今後はこういう移民をやってはいかぬと思うのです。年間わずか六千や七千の移住をやるのに、外務省には移住局、農林省にも移住関係の機構を作って、そうして海外協会から移住会社、さらには農協関係の別な開拓農協、もういろいろな機構が出ておって、そうして得た成果というものは、一体どうですか。こういうばかばかしいことで移住政策などということは、私は少しおこのさたではないかとも極言したいくらいな気持があります。一体中田技官がどういう調査報告を農林省に出したか。そしてこれが今日問題になっておることに対して、跡地の実情把握に対する農林省の態度、送出についての的確な調査、また携行農具なんかは、先ほどの証言にもありましたが、膨大なものを持っておる。四馬力から五馬力のトラクターは今は二十万円では買えますまい。三十万、四十万のものを持っていけ、動力脱穀機も持っていけ、一体そういうことをうのみにしたのですか。そういうばかな話は私はないと思うんですよ。その点一体農林省は、今後これをどう考えて対策を立てていく御所存でありますか。本年の予算に現われた海協連の増額された分くらいの予算で一体何をおやりになる所存でありますか。
  66. 齋藤誠

    ○齋藤(誠)政府委員 入植の万全を期するために現地調査を的確に行ない、今後入っていく者に対する営農の指導の適正をはかるということは、先生の御指摘の通りでございます。ただ、この間におきましてわれわれとしてやるべきこと、また移住全体としてどうあるべきかということにつきましては、先ほどから申し上げましたように、なお検討すべきものもあろうと私は率直に申し上げるわけでございます。農林省といたしましては、現地に対するかような調査につきましては、全般的にはやはり、これは海外の事情のことでございますので、海協連の組織なり、移住会社なり、あるいは在外公館の組織を通じて、現地の的確な調査をする以外には方法は現在のところないわけでございます。ただ、農林省としては技術者を持っておりますから、従いまして、このような調査に参加させるための技術者につきましては、要望に応じまして積極的にこれに協力して出す、こういう建前をとっておるのが現状でございます。しかし、募集関係あるいは送出の関係上、われわれといたしましても、新しく入るととろに  ついての調査のほかに、現に入っておるところにおきまする営農の実態調査ということについても承知しておく必要が十分あるわけであります。そういう意味におきまして、予算としてはきわめてわずかな二百万円程度の予算を計上しているわけでございますが、これは必ずしも適地調査あるいは今後の営農の的確な指導を行なうための調査というふうなものではないわけでございまして、いわば募集なり送出するための必要上そういうふうな予算を計上しておるわけでございます。しかし、限られた予算ではありますけれども、それ以外に、外務省現地調査に必要な技術者等に対しましては、これは積極的に送出するという意味で在外公館にも農林省から人を派遣さしております。また移住会社にも人を派遣しております。そういうことで、そういう調査を行なうに適格な人はそういう形で協力申し上げておるということでございまして、現在のところは、農林省独自でそういう調査をやるという建前になっておらないわけであります。今後の移住全体を考える場合にどうあるべきかというようなことは、先ほど移住局長からも答弁がありましたように、どういうふうに今後やっていくか検討すべきものもあろう、こう私は率直に思うわけでございます。
  67. 足鹿覺

    足鹿委員 中田弘平の退官年月日、理由。
  68. 齋藤誠

    ○齋藤(誠)政府委員 中田弘平技官は三十五年の八月に農林省を退職いたしたわけでございますが、これは個人的な理由で、友人の設立した会社に入るということで退職したわけでございます。
  69. 足鹿覺

    足鹿委員 中田弘平という人はどういう経歴の人ですか、技術者ですか、農林事務官ですか、技官ですか。技官ならば、どういうことを勉強し、農林省ではどういう部局にあって専門的な知識なり経験を持っておったのですか。
  70. 齋藤誠

    ○齋藤(誠)政府委員 ここで詳しいことを申し上げる履歴書を持っておりませんけれども、農林省に入りましたのは戦後でございまして、京都の農業土木を出た技術者でございます。
  71. 足鹿覺

    足鹿委員 農業土木といわゆる農学を修得したものとは違うはずなんです。少なくとも未開の地域へ適地調査に行く、その営農条件を把握に行くという場合は、農業土木に配するに当然農業関係の特に土壌関係、それを中心とした技術者というものを配してもいいはずなんです。農業土木で営農条件の外的な要因、あるいは農業土木上からなせばこういう営農条件ができ得るのだという何ほどの見当がついても、その土壌そのもの、またその上に営まれる農業経営は内地と違って熱帯農業でもありましょう。従って営農事情というものは全く一変するわけですね。そういう点にも、形式に流れて実態上遺憾な点があると私は指摘したいと思うのです。もちろん農林省だけの予算でやられるとは私は考えません。海脇連には農業関係のどういう技術者を置かれて、そして今後適地調査はどういう形において行なわれようとしておりますか。今までの適地調査のやり方というものは、今の振興局長の御答弁とにらみ合わせて、どういうふうにして技術者の意見を入れ、営農条件を把握しておられますか、それがあったら、一ぺん適地調査の報告書というものを参考資料として当委員会に御提出を願いたい。私どもは他の委員会と違いまして、内地の農民を家財道具を売り払わせて行かせる立場にあるわけです。行ってからも重大関心を持たざるを得ない。ですから、われわれはもっと本気の、地についた検討をしたいのです。そうでないことには、幾多の移住政策の大論陣を張ってみても、根本がくずれてしまうのではないか。そういう点について海協連が技術者を持っておる、大使館にも農林省の職員がなるほど出向して一おるところもありますが、出向していないところもある。大国には出向しておるし、買付その他で必要なところにはおりますが、移住関係で必要なところには移住者の指導を通じて相談相手になるような人を特に常駐させておるような制度がありますか、ブラジルとかその他、ドミニカにはあったのですか。——ないでしょう。現在移住関係の特に相談相手になるような農林省の職員をどこどこに派遣をし、海協連とはどういう形においてそれを組み合わせて適地の調査なり、その後におけるところの営農指導なり、邦人の発展向上のために尽くしておりますか、その事実を、口の上ではなしに、文書によっても私どもは知りたい。ついででありますから申し上げておきますが、昭和三十二年か三年に移住白書が出て以来、その後移住関係の白書らしいものを見ておりません。今までの移住地、今後の移住せしめようという適地、これに対する計画、過去の実績等をあわせて、そう込み入ったものでなくてもけっこうですが、御準備があると思うのです。これだけの問題を起こしているのですから……。それらの集大成したものを一ぺん当委員会に御提示願いたいと思う。それらの資料をよく検討してみて、私どもはまた次の機会にいろいろとお尋ねもし、意見も述べたいと思うのですが、それは御用意がありますか。なければ用意をしていただけますか。
  72. 高木廣一

    高木政府委員 海協連で作ってあるのがございますから、それを場合によれば提出するようにいたしましょう。
  73. 足鹿覺

    足鹿委員 きょうはだいぶ時間がたちましたので、さっきの水かけ論になるようなことは一切きょうは省略いたしましょう。それは他の委員会で相当掘り下げた検討があるようですから……。先ほど移住者希望はどうかという私の質問に対して、もう海外移住はこりた、もう再びだまされないんだ、こういう素朴な気持を言った人もありますし、それのみに限らず、もう一ぺんまる裸ではあるが、南米その他に行きたいという人も中にはあるでしょう。それから内地にとどまって再起、更生をはかろうという人もあります。その中には、農業以外の仕事に就職したい、入植地があれば農林省その他の世話を願って入植をして、さらにがんばりたい、大体三通りに分かれて出ておるようなんですが、一月三十一日の外務省高良業務課長が示された案というのですか、これと高木さんが二月五日の決算委員会で言われたのと比べますと、高木さんは簡略に言っておられるようですし、高良さんは相当こまかく言っておられるようですが、どういう対策を持っていますか。出国の旅費、帰国の旅費、持っていったものの損、家・屋敷を売り渡して無一物になった損、あげれば限りがありませんが、それをみな国がめんどうを見るかどうかということについては、よく話し合って検討してみなければわからぬと思いますが、これは高良さんの話ですけれども、当面の措置として世帯、更生資金二十万円、雇用促進事業団十万円、国民金融公庫百万円、こまかいことは省略しますが、拓植基金二十万円、農林中央金庫二十万円、離農資金三十万円、この離農資金というものは何のことか私もよくわかりませんし、こういう内訳は省略しますが、項目だけをあげる。ところが高木局長の救済策によると農林省関係では拓植基金、これは法律によらざる拓植基金制度による融資保証の最高三十万円、建設省関係では百戸分をドミニカ移住者のために振り当てる、こういうことを言っておる。これの当否は別にして、厚生省関係では世帯更生資金の活用として三万から五万、労働省では就職のあっせん、職業訓練、大蔵関係では国民金融公庫百万円、個人保証で二十万円程度融資、この程度のことではとてもやれませんね。これはこういう委員会で言葉のやりとりでは片がつかぬ問題だと私は思うのですが、大体その後の経過から見て外務、大蔵、農林等でどのように検討されて、補正の措置等も必要が出てくればとる用意があるのですか。  それから生活保護法を適用している県もあるし、適用していない県もある。援護物資等を送って慰め激励しておる県もある、ない県もある。この問題が起きてから相当な日数がたっておるにもかかわらず、統一された、曲がりなりにもこれでやるのだということの御用意の表明すらも伺えないということは、私は非常に遺憾に思います。その点はどう考えておられるか。あらゆる知能をしぼって大体こういうことだということならば、それを一つ明らかにしてもらいたい。時間がきょうはありませんが、特にもう一度、今度は大臣等の出席の機会に——重要な問題でありますから、事務当局で答えられる限界もあると思うのです。移住政策の問題等は各省にまたがっておりますし、海外の問題でもありますし、それと当面の問題としましても、これは大蔵関係も出てくるでしょうし、別な機会に、先ほど野原委員長にも御了解を願っておりますので、御考慮をいただくこととして、もう少し突き進んだ対策というもの、当面の緊急措置、それが次の更生措置にもつなぐような一貫性のある措置が必要だと思うのです。たとえば入植の問題にしましても、入植はもうこりたという人もいるのですよ。いるのですが、今さら三十づら四十づら下げてどこかへ雇われるにしても、門番か夜警か雑役夫か臨時雇か、そんなものですよ。大した、ろくな職はありません。全く気の毒ですね。とするならば、入植条件というものについてももっと考えて、集団入植希望するならば集団入植をさすとか、もっと都道府県と連絡をとり、いろいろ検討はしておられると思いますが、あるなら誠意のあるところを、ここで一つ御披露願いたい。その上でまた伺います。
  74. 高良民夫

    高良説明員 ただいま足鹿先生の御発言中私の名前があげられまして、一月三十一日にどなたと会ったか、ちょっと私思い当たりませんから、先生にお伺いしたいと思っておりましたが、実は私は帰還業務をやっておりまして、従って閣議決定できまりました見舞金の支給とか、そういうことをやっておりますし、それからただいま先生のおっしゃいましたようないろいろな対策の研究、それから交渉を命ぜられてやっておりますが、外部に発表したという記憶は全然ございませんので、先生の御発言は記録に残ると思いますから、ちょっとお伺いしたいと思います。
  75. 足鹿覺

    足鹿委員 これはきょうの参考人から聞いたのじゃないのですが、もう毎日のように引き揚げをされた人々が寒空にたずねてこられるわけです。どなたから聞いたのかわかりませんが、私は忙しかったものですから、その人にこれを、あなたから聞いたことをちゃんと書かしたのです。どこで会ったか、それは三十七年一月三十一日、外務省移住高良業務課長から聞いた、その要領がここに書いてあるのです。今決算委員会でおやりになった高木さんの話は大体この程度だと思うのですが、これは目的別に本人たち移住失敗をして帰った、その失敗の責任は本人たちの責任とは私は考えませんが、とにかく失敗ということは失敗なんです。そこで再渡航をブラジルならブラジルにしたいという一部の人もあるのですよ。それに対してはどう考えるか。それから入植をしてもう一ぺん百姓をやる、死んだつもりで百姓をやる、外国で苦労するよりも、国内で苦労した方が見込みがある、こういう人に対する措置、それからどうしてもいやだ、もうそういうことはとてもおぼつかない、他へ転職する、そういう人々に対してどう措置するかという詰め方をしないと、これは抽象的にこういうことをずらっと並べて、それで解決がつくものではないでしょう。現に帰ったって住む家がないでしょう。今のネイバ地区の人たちはどこか横浜の寮かなんかにおっておるようですが、国へ帰っても帰る先がない、親族もいつまでもいい顔をしない、こういうことになるわけなんです。厚生省関係にしても建設省関係にしても、たとえば第二種の住宅を建設省が百戸くらい考えると言ったって、それはみんな各地に分散しておるわけでしょう。どこへ定着するかという見当もつかぬでしょう。その者に百戸の、何か証明書でも渡して、どこへ行ってもこれを出せば家に住めるのだ、こういうことならこれはけっこうでしょう。それも何かの役に立つでしょうが、そうもいきますまい。とすると、やはり本人たち希望をよく聞いて、それに必要な手当をしてやらない限り、本人たちの更生ということはできないじゃないですか。そうだと思うが、どうですか。
  76. 高木廣一

    高木政府委員 仰せの通りでございます。そこで、そういう趣旨で移住者を送り出しました各県の地方海外協会の方々及び県の方が横浜まで迎えに来られまして、そして御家族を連れてお帰りになり、ある方は別に帰る先がないから、神奈川県あるいは東京で就職したいという方もございましたが、大体はそれぞれ国へお帰りになりました。そして中央におきまして関係各省と打ち合わせたいろいろの援護措置につきましては県に伝え、また海外協会連合会から地方海協に伝えまして、地方海協及び県がいろいろ御指導する、引っぱるということで世話をするということになっております。この点につきましては私たちも、お帰りになった移住者一人々々がどういうように落ちついていくか、どういうお世話を推進しなければいけないかということを心配いたしまして、絶えずその動向は県及び地方海協とも連絡して聴取しているような次第でございます。生活保護法による適用につきましてもいろいろな事情もございますが、県海協連が中心になりましていろいろ世話するということで、すでに適用されている方が生活保護の方は十八世帯、就職の方の決定者は、内定者が一、二ございますが、十五世帯というようなのがここにございます。それからそのほかにもわれわれの方として、大体どういうふうに動いておられるか苦慮いたしております。概略先生も申されたのですが、われわれの援護措置といたしましては、まず第一には、現地から日本へ帰すということで百二十世帯と考えまして、七千三百万円の金を予備費から回付していただいて、これで日本へ帰す、また帰りましてからは八百九十九万円、一世帯当たり平均いたしまして七万五千円、うち現金で約五万…余り、そのうち見舞金はおとな一人一万円、子供五−千円という額でございます。そのほかにも横浜から国へお帰りになる車中のお小づかいが、おとなはところによりまして、千五百円とかあるいは千円とかございますが、そういうものを平均いたしまして、一世帯大体七万五千円、それから関係県では、これは県がそれぞれにやられるので、われわれの方が命令するわけにいかないのですけれども、一番少ない県で、大体一家族五万円、多いところは十万円の、これは知事さんの見舞金のような形で出していただいております。それから関係各省の御協力を願ってやりますことにつきましては、農林省関係では、国内開拓地への入植あっせん、国庫補助、開拓者資金融通法に基づく営農資金の融資農業拓植基金による融資、この最後の拓植基金による融資は、従来は、移住する人だけに適用していたのを、今度は帰った人にも適用するということを農林省の方でアレンジしていただきまして、これが適用される。建設省関係は、これは県で住宅のことをいろいろ心配してくれるわけなんですけれども、県だけにたよるわけにもいかぬし、県からの希望もございまして、これは三十七年度の予算でございますが、第二種公営住宅のうちから戸分は、ドミニカ移住者への割当ということで、建設省の了解を得ております。これに関連しまして、和歌山の方から、すでに五戸の申し出がございました。建設省からも話をしていただくようにアレンジしております。それから厚生省関係は、生活保護法の活用、世帯更生資金の活用、それから労働省関係は、就職あっせん、これは横浜及び落ちつき先における職安が、県海協の人と協力してお世話する、主として地方海外協会が表面に立っていろいろのお世話をする。それから雇用促進事業団の活用、これは新しい職業につくまでの訓練とか宿舎の問題まで雇用促進事業団においていろいろやられますが、これの世話を願っているのもすでに数件ございます。それから大蔵省関係では、国民金融公庫資金の活用、これは法律上は百万円までとなっておりますが、実際上、人的保証だけでやりますから、大体炭鉱離職者並みで、二十七万円くらいが実際上の最高であろうということでございます。これも先般熊本からの連絡で、国民金融公庫に具体的にお話しを願ったものもございます。こういうことを、できるだけ外務省といたしましても、県地協を通じ中央の関係各省の御協力を願って推進していく、こういうことでやっております。
  77. 足鹿覺

    足鹿委員 第一のブラジルへ再渡航の問題はどうですか。
  78. 高木廣一

    高木政府委員 この問題に関しましては、われわれとしても慎重に、移住者自身どの程度行きたいと言われるかも考えなければいけませんし、もう一つは、ドミニカ失敗したから、また一南米ブラジルへ送ればいいということだけでもいけません。慎重に考慮して、たとえば家族構成その他十分の能力があるかどうかということも検討しなければいけないということで、今お帰りになって早々でもございますので、その点は十分検討したい、こういうふうに思っております。
  79. 足鹿覺

    足鹿委員 最初ブラジル再渡航の問題は、どれだけの希望があるのか、あっても全くのすかんぴんですからね。ですから、渡航の経費から、向こうへ定住してからのめんどうから、よほど慎重に考えてあげなければ、言葉の上でそう言ってみたところで成り立ちませんね。それから住宅の問題は、これは都市その他に農業をやめて就職をする場合にはそれでいいでしょう。年令の若い人々は他へ転職するということもあるいは考えられる。しかし中年過ぎたものは、先ほど私が言いましたようになかなか容易じゃない。従って、やりつけたことだから、やはり百姓でも、こういうことになった場合、齋藤さんどうなんですか、家は百戸分は移住地についてのそのワクの中で、建設されたものに対する優先権あるいは建設資金等の融通、そういう総合性がないと、これは全然だめです。それから集団入植なら入植、これに必要な対策というようなことも練っておられることはほのかに聞いてはおりますが、官庁のことでもあるし、国会開会中だし、なかなか進んでいないとも考えられますが、この点も一つ聞きたい。  それから高木さん、あなた、金を貸す、金を貸すと言われますが、農業の近代化をやるためにいろいろな資金の制度が新しくできた。それでもなかなか出ないのです。なぜかというと、農協系統から出ていく者は理事が三年の任期です。十年も十五年も長期の金を——三年の理事が十何年も勤めるという保証はない。従って、やめたあとまでその保証はいやだ、こういうので、信用のある、農業を近化代していこうという人々にとっても、その運営がなかなか容易ならぬ。要するに、金利の補給と、いわゆる国家補償、万一の場合には国がそのめんどうを見るんだ、こういう保証のない限り金は出ませんよ。そこまであなた方は考えておるのですか。国民金融公庫にしろ、あるいは拓植基金にしろ、あるいは先ほど高良さんの話にあった離農資金というのはどういうものか僕はわかりませんが、いろいろなものが並べられてある。だが、それは借りたものはやはり返さねばならぬ。利子も必要になってくる。利子が払えないとき、あるいは償還が円滑にいかないときには、これだけの悲劇を巻き起こした立場上、ある程度国がめんどうを見る、こういう裏づけがなけらねば、だれも保証なんかする人はありませんよ。第一、担保に入れる品物はないじゃないですか。そういうものですよ。今の資本主義の社会機構の中にあって、政府資金の息のかかったものでもそうなんです。金はなかなか出ない。あの融資もする、この融資もして金を借りてやると言われましても、国なり県なり、一つの大きなうしろだてとその保証がない限り、実際問題としてそう簡単には出ない。私どもはこの問題を農林委員会で何べんも議論し、近代化その他のためにもつと前向きにやるべきだということを言っても、既存のものはなかなかできない。今度の引き揚げの場合は特殊なケースですから、そのワクが今では足りません。もっと広げていかなければならず、その利率もうんと低めて、償還期間も長期にして、そしてその保証をどういう形でするかということがない限り、その問題は絵にかいたもちですよ。もっと検討してもらいたい。もっともっとあなたたちの力の入れ方が足らないと思うのです。これだけの大問題を起こしておきながら、今まで五万や七万の見舞金程度で、あとは今おっしゃったようなそういう程度では、とても問題になりません。御再考願いたいと思うのですが、いかがですか。もっと実情をお調べになったらよろしい。
  80. 高木廣一

    高木政府委員 ただいま申し上げましたのが、全部そのまま自動的に適用されるとは思っておらないのです。たとえば国民金融公庫の融資にいたしましても、担保はなくて、その人間の対人信用といいますか、これでやるわけであります。だから、決して簡単だとわれわれも思っておらないのです。
  81. 足鹿覺

    足鹿委員 じゃ、どうしてそれを裏づけしますか。
  82. 高木廣一

    高木政府委員 それについては県及び地方海外協会の人々が引揚者と一体になって、更生のための計画を考えていただく、計画だって、実行できる計画でなければいけないわけですから、そういうものを御相談に乗って、できる限りこういうような制度を活用していきたい、こういうことであります。
  83. 足鹿覺

    足鹿委員 それから渡航費を借りたものと帰国旅費、帰国旅費は催促なしと引揚者は言っておりますが、それでいいんですね。催促なしで、これは金ができたときに払う、それに間違いないですか。渡航費はどうしますか。
  84. 高木廣一

    高木政府委員 これは非常にむずかしい御質問でございますが、返さなくてもよろしいと私から申し上げるわけにはいかないのであります。国援法にいたしましても、法律の建前がございますから……。しかしながら、金のない人から強制取り立てをするというようなことは決してございません。渡航費につきましても、今さら返せない人から無理に取り立てるということはできないと思います。
  85. 足鹿覺

    足鹿委員 ただし三カ月、三カ月に請求書を発すると聞いておりますが、やはりそういうものを突きつけられれば憂うつで何かおっかぶさっていますね。人間である以上、だれでも借りたものは払いたいのです。だがしかし、本人たちは払えるようないわゆる更生対策ができていくことを期待しておるわけですね。だから、国のみに依存しておるわけではないでしょうが、今だれを相手にしますか。だれも相手にする先がないのですよ。海協連の県支部とおっしゃっても、これは一体どこに骨があるのかないのか、やはり政府がうしろだてにならざるを得ない。この跡始末の問題については、また私は口をかえてさらにいろいろと検討していきたいと思うのです。  最後に、一応きょうの質問をやめるに際して、あなたたちはどうですか、引揚者の人々の将来の希望を大体とっておられるようですが、国会が開かれておるから、重大関心を持ってほとんど東京に来ておられるようですが、その人々のほんとうの信ずべき代表者と話し合って、そしてその人々の希望をつぶさに聞き、その人々の希望に十が十こたえることがかりにできないししてみても、少なくとも八なり九なりの希望を満たすために、団体交渉というとこれは語弊がありますが、とにかく話し合いの場を、今までも非公式には出迎えをし、その後たずねていけばまんざら追っ払うわけにもならぬから、あなた方も会っておられるでしょう。だが、それじゃらちがあかぬから、国会でこれが問題になってきておるわけです。われわれもこの問題だけをどの委員会でも取り上げるわけに参りません。ですから、責任を持った当事者同士がもっと虚心たんかいに今後の、更生対策、当面の応急措置、この問題をめぐって話し合いをしなさい、そういう場を作る用意がないのですか。私はそれは絶対必要だと思うんです。そういうところから問題を解決していくべきではないですか。ただこれを国家賠償法によって云々とか、いろいろな方法はあるでしょう。それはよく検討してみたいと思いますが、まずそういう最後の手段に出てみても、解決のつくのはおそらく長い先のことでしょう。そういうことでは当面やれない。ですから話し合いの場を作る、外務、農林——大蔵というわけにも参りますまいが、同省が中心となって話し合いの場を作られる、こう御言明はできませんか。そういうことを考えられる必要はないとお考えになりますか。問題を前進さしていくためには、この問題の跡始末がつかない限り、今後の移住問題には大きな障害になりますよ。幾ら予算を細みましても、われわれは追及の手をゆるめません。徹底的にやります。あらゆる機会にこの問題については迫りますよ。こういうことは、たといそれが百人であろうと一人であろうと、私どもは黙視することはできません。あらゆる機会にこの問題は究明をして、誠意を示さないならば、政府の責任として追及します。徹底的にやります。この点についてほんとうにあなた方が考えられて必要を認められるかどうかお尋ねしたい。
  86. 齋藤誠

    ○齋藤(誠)政府委員 今の御質問、並びに先に農林省として国内入植についてどういうふうに考えておるかということについてお答えいたしたいと思います。  農林省といたしましても、ともかくも今回お帰りになりました方に対しましては、事実は事実の問題として、今先生のお話しになりましたように、現実的に問題を解決していくことが一番必要であろうという見地に立ちまして、帰国なさった方で農業入植いたしたいという方に対しましては、農林省としても、できるだけの措置を講じたい、こういうことで昨年の十二月早々には農地局長と私の振興局長名で各県に通知を出しまして、国内入植のあっせんについては万般の措置をとるように、こういう依頼をいたしたのでございます。その後におきましても、さっき移住局長からお話がありましたように、特に海外移住者に対する援護措置として、農業拓植基金協会がございますが、国内へ入植する場合に対しましてもこれを対象とするという意味で、法の運用の改正を大蔵当局と話しまして、事務次官通牒でこれも各県に流したわけでございます。その後の経過によりますると、各県からどのような農業者の就職希望があるかということを、随時県に照会いたしておるわけでございますが、現在まで各県からあがって参りました農業者として入植したいという希望戸数は、現在のところ四家族でございまして、この四家族につきましても、まだばく然たる状態であるということでございます。われわれといたしましては、もしこのようなことが確定的にきまりましたならば、三十六年度においては農地局におきまして実施が困難だけれども、三十七年度におきましては、入植地の中に当然希望者については受け入れる用意が十分あるということでございますので、従って、従来の入植者と同じように、住宅については約十五万円の助成、営農資金については約五十万円とか、あるいは開墾助成、土壌改善の助成とかいうようなことについては、一般入植者と同じような条件でお世話いたしたい、こう考えておるわけでございます。  そこで最後の、具体的にこういう問題を処理するために話し合ったらどうか、こういうことでございますが、お言葉にもありましたように、関係省で団体交渉的に話し合うというのはいかがかと思いますから、むしろ、農業入植したい、こういう希望者につきましては、喜んでわれわれがお会いいたしまして、どこの県でどれだけある、ほんとうはそういうことをわれわれはもっと早く承知したいわけなんです。実は何回も電話連絡で県に照会しておりますが、現状においてはまだ確たる希望がとりにくいという状況のようでございまして、もちろん私としては、そういう御希望の方にはいつでもお会いいたしまして、農業に対してはどれだけ入植したいのだという戸数が早く確定いたしますことが、むしろ現実的に事業を進めていく場合に早くなるかと、こう考えておるわけでございます。
  87. 高木廣一

    高木政府委員 移住局長といたしましても、お帰りになった方が私のところへおいでになれば、喜んでいろいろ相談したいと思っております。ただ、先ほどのお話にありましたような団体交渉という形式はどうかと思います。むしろ、それぞれ帰郷しておられますので、地方海協を通じて一人々々について御希望を伺って、これに協力するということが一番実際的かと思いまして、その方向で就職その他についてもお世話しておるのです。ただ先ほど齋藤局長も言われましたように、お帰りになって就職その他についても、そういうお話を持っていきましても、まだほんとうにそれを決定するというようなお気持になっておられないというのが大部分でございますが、そういうことはある程度やむを得ないと思いまして、われわれとしてもときをかけてでもできるだけそういう就職その他についてお世話をするようにしたい。これに伴う入費その他についても、具体的に問題がありましたならば、われわれ自身も関係省その他にも取り次ぎまして、さらにそれを促進するというふうにやっていきたいと思っております。
  88. 足鹿覺

    足鹿委員 今の御答弁ですが、私は団体交渉ということを申し上げたわけじゃないのです。まとまりがつかぬわけですから、個人たちも迷っておる。ですから大体の希望も一ぺんよくあなた方が——何もお互いが警戒し合ったりなにする必要はない。ですからおもなる地区ごとにそれから希望ごとにみな条件が違うわけですが、大体気持も定まりつつあるという方向に向かっておると思うのです。そういうときにはあなた方が積極的にめんどうを見る、こういう気持で、むしろ、相談をしてくれば乗ってやるというのではなしに、集まってこい、こういうことについてはどうだ、この点についてはこうだというふうに、むしろおなた方がリードもし、助言もし、指導もして、そして、それに必要なことは責任を持ってやってやるというふうに勇気づけなかったら、今この迷っている人々はふん切りがつかないですよ。そのことを私は言っているのです。何も団体交渉というふうにだけ解釈しないで、いわゆる決算委員会高木局長お話を聞いておりますと、何か責任の追及をあなたは横道へのがれるというと語弊がありますが、何かそういう印象を受けて私は帰りました。きょう話を聞いてみると、必ずしもそうではない。あの雰囲気と当委員会の雰囲気は——もうほとんど人もおらぬですが、おってもおらなくても、必要なことですから私は申し上げますが、話し合いをされたがよろしい。それは目的別に一応あなた方としても誠意を示されて、そしてそこから必要な措置を、あなた方は大体の輪郭ができる前に当委員会に御報告を願いたい。  委員長、先ほど申し上げたような事情でありますから、きょうはこの程度で終わっておきますが、よろしくお願いいたします。
  89. 田口長治郎

    ○田口(長)委員長代理 本日のドミニカ農業移住問題に関する調査はこの程度にとどめます。  参考人各位には、長時間にわたり本委員会調査に御協力いただきまして、まことにありがとうございました。厚く御礼を申し上げます。  本日はこれにて散会いたします。    午後五時四十四分散会