○
高橋参考人 それで、結局は、われわれ帰ってきた者の約三十名の者も、同じような境遇で、
自営農業をやっておったものでございまして、いずれも話を伺いますと、
外地に勇躍して一旗あげる、あるいは子孫の
基礎を築くのだという、そういう大きな野望を持った熱血漢ばかりのようでございました。いずれも同じでございまして、
ドミニカという、その
募集要領を信じて渡航したものでございます。ところが、実際問題、渡航してみますると、昨日のこの
請願書並びに
嘆願書にございましたように、全然事が違う。
自営開拓農として
募集されたけれ
ども、私
ども行ってみますと、
国家が
経営する
国営農場の
コロノ、いわゆる
管理農業といいますか、いわゆる農林省の役人が数名おりまして、その
農場管理をやっておる。配分された
耕地の約一割しか
自由作は認めないといった強い制約のある
管理農業という中で、われわれ努めて参ったものでございます。
それから、私
ども現地に参りまして、すぐに
出先機関の
大使館、
海協連に
交渉を続けたわけでございます。ところが、これはいわゆる仕方ない。
海協速いわく、これはまあ
募集要領は
つまり契約であって、何も
宣伝ビラじゃない。
大使館の方では、これは
一つの
宣伝ビラだということで、
海協連、
大使館が
現地で摩擦を起こした
事態があったのでございます。それから私
どもも、これはいかない、こんなことじゃ、とにかく
コロノというものはこの国の一番
身分の低いものであって、こういう黒んぼにわれわれは監督されて一生
農業をやるわけにはいかないのだということを訴えた
事態もございましたが、
小長谷大使は、これはわれわれの方で
外交交渉をするべきものであって、いわゆる砂糖か何かの貿易の
交渉のときに話をすれば、たとえば五年くらいで
土地の
所有権も与えられるようになるかもしれないから、気長く待ってくれというようなこともあったのでございます。ところが各地とも、私
どものところは
ネイバ以外の人が全部集結しておって
事情は十分わかりますし、また私としても
入植当時は若干お金がございましたので、全国をあっちこっちいわゆる
土地を買うなりして
自営農業にならなければいけないのだというつもりで
調査に歩きましたので、大体よくわかっております。しかしなかなか
土地を売るという者はなかったのであります。それからスポンサーと申しますか、初めの…うちは来ないかといってくれた方も数名ございましたが、しかし語学が十分でないので、勉強してからということで延ばしておりました。
ハラバコア地区といたしましても、
最初は十五
家族というのでわれわれ
入植いたしました。ところがほかの
地区の
環境が悪いために、
農務省あるいは
大使館、
海協連の了解も得たのでございますが、自然続々と
ハラバコアに
住宅が建てられた。一応そういう形で入ってこられて八十五
家族、ますます営農困難と申しますか、
過剰入植で
土地もなければ水もないというふうな形に相なったわけでございます。その問いろいろと苦しいことばかりが続いたわけでございますが、
土地が悪い、水がない、あるいは作ったものは安い、
赤字経営だということが相続きまして、だんだんとジリ貧を深めまして、持っていった金も使い果たし、農機具あるいは着る物な
ども売りまして、私
どもは裸の姿で帰ってきたという
状態でございます。また残っておる
方々も、
現地におきましては
借金があって動けないという方も相当ふえたわけでございます。
それから昨年の五月でございましたか、その前一カ年間われわれは
外務省並びに
海協連に
陳情、
嘆願と申しますか、
交渉を続けて参ったわけでございますが、一回の返事も、回答もございませんでした。そのために私
どもはしびれを切らして、もうこれは相ならぬ、これ以上延ばされたんでは
借金に首を絞められて動けなくなるということから、
外務省当局に最後の断と申しますか、もう何の
対策もやってくれないのではわれわれはデモをやるのだ、ただし何月何日を期す
——そのときは二十五日ということでありましたが、五月二十三日に初めて
外務省から
海協連の連中とともに
調査に参ったわけであります。これが二日前です。そのときに
南米転住をさしてやろうというようなことで大体話がつきまして、私
どもは
南米転住を期待して待っておったわけであります。ところがその後
飯島事務官、これは
外務省の
振興課の者でございますが、参りまして、何か
南米への
募集のような格好で、選考のような形のもとに、どちらに行きたいか、
ブラジルかパラグァイかアルゼンチンか、あるいは
本国に帰りたいか、ここにおりたいかということでございました。そのときの
数字を申し上げますと、当時
南米転住が八割、それから残って様子を見てみようという者が一割でございます。それから
本国の方へどうしても
家庭事情やいろいろなことで帰りたい者が一割、そういうような。パーセンテージになったわけでございます。
それから二、三カ月待ちまして、東京におっていろいろな
交渉を続けて、結果によって
対策をするからとにかく待っていただきたいということでありましたが、その間数カ月を経まして、
飯島三男事務官がまた
ドミニカに戻って参りまして、そのときに
移住振興の方からの
永田晃さんという方とともに来られて、困った者には五百五十ドルの
短期営農資金を貸し付けるのだということで、困った人は飛びついて借りて、動けなくなったというのが大半であります。
それからまた
南米転住の方は、われわれの
陳情、
嘆願には、
特別融資を一般よりも少し水増しを
お願いしたいということがうたってあったわけであります。ところが、あなた方の方は
融資の要求が大きいから、これは当然
大蔵省で認められないので、一応困っておる者だけは
国援法によって帰したらどうかということを申しまして、私
どもは
南米転住は当分見込みがない、あるいはいつになるかわからないと言われたものですから、われわれも裸の姿で五年、六年で
故郷に帰るわけにはいかないのだということでずいぶんねばったのでありますが、何ともいたし方がない。これは国の政策であり
大蔵省の
関係で予算を伴うことであってなかなかむずかしいのだ、やはり時がたたなければ成熟しない問題だと言われるものですから、やむを得ず恥を忍んで私
どもは裸で破れた姿で帰ることを決意したわけであります。
先ほど申しましたように、私
ども農業移住というものは、
自営開拓にあこがれておったものでありまして、やはり相当の
経営をやって、その資産を処分いたしますときには当時二、三百万のものでありましたけれ
ども、今こちらに帰りまして、そうしたもとの姿をざっと聞いてみますと、大体二倍から三倍、
都市近郊などは五、六倍にもなっておるわけであります。この間
国会請願をしておりますが、
国会請願の内容の
数字は船の中で考えたものです。これは実際われわれは最低の生活の
基礎さえあれば、また何とかして自力でやるのだ、たとえばまた
南米に行ける人は行くのだという
気持の上で現わしたものでありまして、今申し上げた
通り当時二、三百万で売ったものが今一千万以上になっておる、
いなかの方でもやはり二倍、三倍になっておるというようなことが普通であるということが、今ごろ調べた結果わかったわけであります。これはいささかの
数字を示して
お願いしてあるわけでありますが、実際今考えてみますと、そんなものがわれわれの
再起更生ができる一助になるかならないかということは、非常に疑問に思っておる次第であります。それから
現地におきまして
大使館の方に、帰る三カ月ほど前に
団体交渉をいたしました。そのときに私
どもは、これは
国家のやったミスである、いわゆる
外務省の
措置の誤りであって、この
国援法というものは、
国家の責任において帰してもらいたいということも訴えたわけであります。ところが
小長谷大使いわく、この
国援法はりっぱな法律であり温情あるもので、決して帰ったからといって無理に催促するものではない、無期限、無利息のようなものだ、あなた方安心して帰ってけっこうだ、いわゆる
住宅もあるいは就職もあるいはふとんもあるいは什器も、みな各
関係官省と話し合いがすでについておって、
対策は万全にできておるから安心して帰ってくれということでございました。
なお
一言申し上げておきますのは、
現地におきまして、われわれは
仕事も十分やった、やり尽くしたわけでございます。
土地も足りない、水もないところに早魃で、
借金だけは辛うじてせずに帰ってこられるような
身分でございまするが、
大使いわく、
ドミニカの
移住は
有史以来の
失敗である、
皆さん、よく
仕事の上に、あるいはまた
交渉の上に粘ってがんばってくれた、あなた方の
おかげで
ドミニカの
移住問題は解決の端を発することができた、まことにありがたかった、いわゆるこの
有史以来の汚点を将来の試金石として災いをしあわせに転ずることができるのだ、これは
皆さんの粘った
おかげだという
一つの
水師営の会見といったようなことで別れを告げてきたわけでございます。
この前の
参考人のどなたかが申されたような、
移住者の精神的な欠陥が原因だというような御指摘がございましたが、われわれの方はそういうことを申されるのは非常に遺憾千万だと存ずるものでございます。それで私
たちは、特に
お願いを申し上げたい点は、
ドミニカに参りまして、いろいろ
失敗と申しますか、
親戚あるいは
友人の非常に反対されるのを押し切って、しかも
送別会をされ、あるいは駅まであるいは船まで見送りをされ、そして激励をされて、太平洋を渡って勇躍、
外地の
開発、建設を
希望したものでございます。しかるにかような破れた敗残の姿で
故郷へ帰りたいという
気持は毛頭なかったのでございますが、やむなくこうした裸の姿で恥を忍んで帰ってきたわけでございます。今後諸
先生方の御同情にいただきまして、われわれ
帰国者の立ち行くべき
援護措置について一段の御協力と御援助を
お願い申し上げるものでございます。
一言ご
あいさつを申し上げます。