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1962-07-10 第40回国会 衆議院 大蔵委員会 第42号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十七年七月十日(火曜日)    午前十時三十分開議  出席委員    委員長代理 理事 毛利 松平君    理事 鴨田 宗一君 理事 黒金 泰美君    理事 細田 義安君 理事 山中 貞則君    理事 有馬 輝武君 理事 平岡忠次郎君    理事 堀  昌雄君       足立 篤郎君    伊藤 五郎君       岡田 修一君    金子 一平君       久保田藤麿君    正示啓次郎君       田澤 吉郎君    高見 三郎君       津雲 國利君    永田 亮一君       濱田 幸雄君    藤井 勝志君       坊  秀男君    吉田 重延君       久保田鶴松君    佐藤觀次郎君       田原 春次君    広瀬 秀吉君       藤原豊次郎君    武藤 山治君       安井 吉典君    横山 利秋君       春日 一幸君  委員外出席者         法制局参事官         (第一部長)  山内 一夫君         大蔵政務次官  天野 公義君         大蔵事務官         (関税局総務課         長)      武藤謙二郎君         国税庁長官   木村 秀弘君         参  考  人         (東京大学教         授)      伊藤 正己君         参  考  人         (映画評論家) 清水  晶君         専  門  員 抜井 光三君     ————————————— 七月十日  委員岡良一君及び芳賀貢辞任につき、その補  欠として岡田利春君及び安井吉典君が議長の指  名で委員に選任された。 同日  委員岡田利春君及び安井吉典辞任につき、そ  の補欠として岡良一君及び芳賀貢君が議長の指  名で委員に選任された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  参考人出頭要求に関する件  外国為替に関する件(税関における輸入映画の  取扱いに関する問題)  税制に関する件      ————◇—————
  2. 毛利松平

    毛利委員長代理 これより会議を開きます。  委員長所用のため、指名により私が委員長の職務を行ないます。  税関における輸入映画取扱いに関する問題について調査を進めます。  本日は、東京大学教授伊藤正己君及び映画評論家清水晶君のお二人から御意見を聴取することにいたします。  参考人には、御多用のところ御出席をいただきましてまことにありがとうございます。  まず本問題について参考人から御意見を述べていただき、その後に質疑を行なうことにいたします。  それではまず伊藤参考人にお願いいたします。次に清水参考人にお願いいたします。
  3. 伊藤正己

    伊藤参考人 それでは私から最初に私の意見を述べさせていただきたいと思います。  この輸入映画税関検査の問題につきましては、当委員会においてすでにいろいろな御意見が出ているように拝察するのでございますが、きょうは時間もございませんので、非常に簡単に私の意見要点だけを申し上げてみたいと思います。  結論を先に申し上げますと、私はこの税関検査、ことに輸入映画につきまして税関検査を認めておりますところの、関税定率法第二十一条一項の三号というのは違憲である、あるいは違憲のおそれが非常に強い、そういうふうに考えております。  以下簡単にその理由のようなものを申し上げてみたいと思いますが、まず第一に、憲法二十一条の二項には、御承知の通り検閲は、これをしてはならない。」ということが書いてあるわけでございます。ここにいう「検閲」と申しますのは、これは申すまでもないと思いますが、公の権力一定表現行為について、その行為に先だって検査をし、場合によって一部または全部の表現行為を禁止する、そういうのが検閲でございます。税関検査と申しますのも、税関という公権力が、映画という表現行為を、国内における上映という公開に先だって検査をして、一部または全部の公開を禁止することができるのでございますから、まさにこれは検閲と言うほかはないわけであります。ほかの国の憲法はどうかわかりませんが、とにかく日本国憲法では、検閲をしてはならないと書いてありますから、まずもってここで非常に違憲の疑いが強いということが言えると思います。もちろん私も常に憲法条文を文字通り厳格に解釈しなければならないとは考えておりません。憲法というものはどうしても一般的な法則を定めておりますから、そこに柔軟な解釈を加えて、そうして時代の変化に応じなければならない場合が多いのですから、必ずしも常に文字通り解釈せよということを申すわけではございませんが、またしかし条文によりましては、非常に厳格に解釈しなければならない場合が多いことも申すまでもないわけであります。  たとえば拷問をしてはならない、そういうことが書いてありますけれども、これは場合によっては犯罪の摘発に有利だから拷問を例外的に許されるというふうには考えられないわけであります。この検閲をしてはならないという規定もまた同じくきびしく解釈していかなければならないのではないかというふうに考えております。これはなぜか。それにはやはり相当実質的な理由があるからでございます。  まず第一に、つまり表現の自由というものも、むろん絶対のものではございません。いろいろな形で制限を受ける可能性があるわけであります。その制限理由を簡単に公共福祉という言葉表現するならば、表現の自由と公共福祉というものは、常に調整をしなければならない対立する利益である場合が多いわけであります。しかし、この二つ利益は、常に対立調整しなければならないのでありますが、われわれの人類の多年の経験から、日本国憲法はその調整をした結論がこの第二項になって現われていると私は考えております。つまり日本国憲法は、表現行為制約する場合には、事後制裁事後処罰という方法でやるべきである。これを事前に押えることはいけないのだ。これが何百年にもわたる表現の自由のための戦いの一つの成果として憲法の中に現われている、私はこう一つ考えているわけであります。  それから事を実費的に考えましても、検閲制というものは表現の自由の非常に大きな敵であったということはだれしもが指摘しているところであります。  まず第一に、なぜ表現の自由が必要であるかということになりますと、あらゆる思想、あらゆる表現が自由に持ち出し得るというところに重点があるわけです。国民はあらゆる思想、あらゆる表現というものを自由に見たり聞いたり読んだりすることができる。それが表現の自由の本質であります。検閲は、そういう思想自由市場という言葉を使いますと、そういう思想の自由なるマーケットに、ある表現行為が出ることを最初から押えてしまうのでありますから、これは表現の自由にとって非常に危険なことであるといわなければなりません。  また第二に、検閲というものは秘密裏に行なわれるということが原則であります。従って、その検閲が適正に行なわれているかどうかを批判することができません。場合によってはこれは自発的に協力したという形をとりますけれども、それがほんとう自発的協力であるかどうかということをわれわれは知ることができない。  それから第三に、われわれの過去の経験は、検閲制というものがともすれば必要以上に拡大をして表現を押えるということを知っているわけであります。  それから第四に、検閲というものは、たとい全部が全部検閲をパスいたしましても、とにかくすべての表現行為というものが権力規制、少なくとも検査に服するということから、やはり権力に望ましくない表現行為というものはおのずから押えられる危険性が強い。そのほかにもいろいろな理由があると思いますが、そういう理由によって、検閲制というものが非常にきびしく近代憲法のもとにおいては排除されている。特に日本国憲法はそういう点がはっきりしていると見ておるわけでありますが、それが私の第一の最も重要な論点でございます。  第二に、輸入映画検査の場合にも、公共福祉ということがよくいわれるわけであります。私もまた一短の基本権について、公共福祉との対立調整しなければならないということはよく考えております。ところが普通公共福祉としばしばいわれる場合には、必ずしも公共ほんとう福祉のために必要不可欠というのではなくて、何か公共の便宜というものが考えられることが非常に多いのでございます。つまりある権力の側が取り締まりのために非常に便利であるということが、公共福祉の名のもとによく行なわれる可能性があるわけです。ことに表現の自由の場合には、最も慎重でなければならないと思います。税関検査の場合にいたしましても、確かに日本に入ってくる玄関口でそれを検査して、望ましくないものは抑えるというのは非常に便利でありますけれども、はたしてその際表現の自由というものが民主政治にとって必要不可欠の価値であるということが十分認識されておるかどうか。そういう点から見れば、ほんとう公共福祉のために必要不可欠なものであるかどうかということが十分論証されていないように思います。かりに一歩を譲って、そのようなものが取り締まりにも便利である、あるいは場合によっては輸入業者のためにも便利であると考えましても、表現の自由というものは、決してそういう人たちのためにのみあるのではなく、主としては国民全体の見る自由、読む自由、聞く自由に本質があると考えますけれども、ときにはそういう点で、ただ取り締まりに便利である、あるいは場合によっては輸入業者のために便利であるといたしましても、それは認めるわけにいかないと思うのであります。  それから第三に、輸入映画につきまして、外国映画について行なうのだから差しつかえないじゃないかというような議論があるかに思いますが、これも私には十分納得できないわけです。これには二つの点があるわけで、一つ外国作品であるというのであります。これは確かに外国作品を取り締まるのには税関でやるのが一番便利でありますけれども、何も日本憲法は、そういう外国作品であるといたしましても、それを見るのはわれわれ日本国民であり、またこれを上映するのは日本国民である場合が多いわけですから、これは単に外国で製作されたものだから日本憲法保護を受けないということは言えないと思うのであります。  第二に、映画だから差しつかえないじゃないかという考え方もあり縛るかと思います。これは映画というものはもっぱら営利的な表現行為であって、憲法表現の自由の保護を受けないというような考え方は、アメリカなどでも相当長くあったのでございますけれども、しかし、最近では映画といえども、ニュース映画などはことにはっきりと新聞報道写真とは区別されない。さらに劇映画にも一定思想を含んでおるものがある。さらに芸術的価値を含んでおる表現行為であるということから、当然憲法表現の自由の保護を受けるという考え方になっていると思います。私もまたそうでなければならないというふうに考えております。従って、外国映画であるという点からも十分にこの税関検査をかげんする理由にはならないと思うのであります。  それからその次には、この税関検査をやめる、違憲であるからやめなければならないとすると、望ましくない映画が野放しになってしまうではないかという議論がございます。私も再々申し上げます通り幾ら表現の自由が見る自由である、何でも見ることができる自由であるというふうにいたしましても、そこにはおのずから限界があり、表現の自由というものの乱用はやはり国民として押えなければならないというふうに考えておりますけれども、しかし押えるには押えるだけの憲法の認めた方法というものがあるわけであります。それではそれはどういう方法が許されるかということになりますと、表現自由一般について私はそう考えているのでありますが、何と申しても表現行為というものが今言ったように民主制の基本的な価値でありますから、表現の自由を享受するものみずからの意思によって自主的に規制をするということが本来の原則でなければならないと思います。従って、この場合でも、まずもって映画輸入する人、上映する人が自主的にこれを押えていく、そういう望ましくない映画が出てこないように抑えていく。幸いに映画には映倫のような機関がございまして、そういう自主的な規制をしているわけであります。さらには、今申しましたように、表現の自由を最も享受しているものは一般見る側であります。映画の場合なら観客でございますから、観客自主規制というものが必要でなければならない。もしも映倫自主規制に及ばないことがあるとするならば、これは世論に大いに訴えて、そういう形で見る側での自主規制としてこれを押えていかなければならないと思うわけです。それでもだめな場合にはどうか。もちろんその場合には国家権力が出ていって、わいせつあるいはその他の方法でもって事後制裁という形で行わるべきであるというふうに思うわけであります。ですから私は、これをやめて、望ましくない映画を野放しにしておけというような意思は毛頭ないわけです。憲法の認める方法によってこれを規制していくべきであるというふうに考えているわけであります。  それから時間がございませんから、最後に、私がこの輸入映画憲法問題の議論を拝見しておりまして考えることは、この輸入映画税関検閲合憲である、この程度の表現の自由の規制は差しつかえないのだ、公共福祉理由によってこれは認められるのだという考え方の中には、憲法二十一条の問題として非常に危険な考え方が含まれているように考えるわけであります。そうなりますと、私は必ずしもこれは輸入映画のみの問題ではないというふうに考えるわけであります。と申しますのは、その論理の中には、「検閲は、これをしてはならない。」と書いてありますけれども、場合によっては、これは検閲をしても差しつかえないのだという考え方が含まれているわけです。私が今まで申しましたような検閲は、表現の自由にとっては非常に危険な行為であるということがやはりそこではややもすれば忘れられ、そうしていわば思想——アメリカの裁判官の言っている言葉で、あまり適当な言葉ではないかもしれませんが、思想自由市場思想というものはフリー・マーケットがあって、どれでも持ち出せるという、そういうものがこういう考え方では消滅してしまうのではないだろうか、たとえばさしあたって関税定率法二十一条の一項三号に現われておりますところは、言うまでもなく映画だけではありません。むしろ映画というのはそこにはっきり現われておらないわけでありまして、公安風俗を害する図書その他になっております。従って、公安を害するという理由図書輸入も抑えられる可能性がある、これまた合憲であるというふうにいわれてくると思うわけであります。戦前これと同じ条文が、私たち経験によりますと、発動されて、多くの図書公安を害するという理由によって輸入が禁止されたということも、これは決してそう遠い経験ではないわけでありまして、そうなりますと、われわれの思想の自由、そういうものが非常に抑圧されてくる。さらには、この論理、こういう考え方は、国内検閲表現行為に対する検閲でも場合によっては許されることがあり得るのではないかということを引き出す可能性も持っているわけでありますから、やはりそういう考え方そのものについても大いに反省する必要があるのではないだろうかというふうに考えられております。もちろんこの輸入映画の問題につきましては、いろいろ論点があると思います。これまでにもすでにこの委員会でいろいろ御議論がされております。私も何か書いたこともございますので、時間もありませんので、私の意見は非常に簡単でございますが、要点と考えるところだけを述べさしていただいたわけでございます。(拍手)
  4. 毛利松平

    毛利委員長代理 次に清水参考人にお願いいたします。
  5. 清水晶

    清水参考人 私、ちょっと初めにお断わりしておきたいのでございますが、最初の御紹介映画評論家という御紹介をいただきました。そのことでございますけれども、実は私は現在東亜株式会社という外国映画輸入する会社製作部長という地位におりまして、昭和三十一年以来すでに七年間外国映画輸入通関事務を直接、間接担当する立場にございます。またそういった外国映画輸入業者の横の集まりである社団法人外国映画輸入配給協会製作渉外部会委員をしております。しかし、実は部長とは申しましても、私は一介のマネジカル・スタッフでございまして、利益代表者ではございません。そして私がここではっきり申し上げたいことは、これから私が述べることは、私の奉職する会社一個の利益代弁でもなければ、私の所属する外配協意見代弁でもないということであります。誓って申しますが、これから私が申し上げることは、こういった会社なり協会から何らの制肘も受けておりません。もう少し正確に申しますれば、制肘を受ける機会はございましたけれども、私は敢然とこれを排しまして、映画評論家として、とにかく私個人の意見として、私の信ずるところを述べるということでございます。ただ私が七年間対税関業務を監督してきたという実務的経験がこれに加わるということで発言したいと思うわけでございます。  まず最初に、これは伊藤先生のおっしゃったことを敷衍するにすぎないかもしれませんけれども、現在の税関でやっております映画検査検閲ではないか、検閲ならば当然これは憲法二十一条によって禁止さるべきではないか。これについて税関当局は、あれは検閲ではなくて検査であるということを常に機会あるごとに言っております。しかし私は不幸にして、それでは税関当局の考えるところの検閲というものはどういうものかということを聞いたことがないのです。検閲という定義がなくして、検閲ではなくて検査であるということは、いわば酔っぱらいが酔っぱらっていないと言うのと同じであります。そういう意味で私が考えますところの検査というのは、これは事物の数量とか性質とかいうものに対する物理的、化学的な即物的な判断です。たとえばこれを輸入映画で言いますれば、インヴォイス通りの題名、インヴォイス通りの長さのものが来ているか、三十五ミリとか七十ミリ、そういったものがインヴォイス通り来ているかという物理的性質をここでは検査する、これならば当然検査であります。しかしその表現する内容に立ち至って、いささかでも表現制限するということ、これすなわち憲法第二十一条に禁止するところの検閲であるということは、これは今さら論を持たないと思うのです。現在税関でやっております映画検閲合憲であるという見解を代表しておられます山内法制局第一部長においてすら、現在税関でやっていることは検閲といわざるを得ない、検閲とは、表現が大体行なわれる前に公の機関がその内容が違法であるかどうかを強制的に審査して、違法であると認定した場合には、当該表現権力をもって何らかの具体的制約を加えること、これが検閲であって、現在税関がやっていることは検閲といわざるを書ないと法制局当局も認められているわけであります。そうすればもう税関当局がこれは検閲ではなくて検査であるという酒酔は、この際おやめになった方がいいのではないか。これについては憲法第二十一条は明らかにそういう検閲を禁止しているではないか。しかしこれにはもちろん法制局側は、山内さんの御意見では、これは検閲ではあるかもしれないけれども、こういう検閲合憲であるといういわば例外的な事例としてこれを認められている意見があるわけでございます。それは先ほど伊藤先生もおっしゃいました通り、簡単に公共福祉がこれに優先して、そういう場合には検閲は許されてもいいのではないかという結論、これは法制局の多年の難問であったと伺っておりますが、この難問の帰済するところはこういう大へん簡単な結論でしかないわけであります。しかし公共福祉が優先すれば検閲を許してもいいのだということが簡単に言えるかどうか。旧大日本帝国憲法、これが言論の自由を許したとはだれも常識的に考えないのであります。これはまさに言論自由の敵であった多くの事例を残しております。しかし旧大日本帝国憲法ですら、第二十九条におきまして「日本臣民ハ法律範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」と言論の自由をうたっているのであります。ただここにくせ著なのは法律範囲内にてというただし書きがついていた事実あります。そしてこれが多くの言論の自由を抑圧する法律によってほとんど本体を食い荒らされたという事例は皆様よく御存じの通りであります。今回もまた旧大日本帝国憲法にかわる現行憲法で、せっかく第二十一条第二項において「検閲は、これをしてはならない。」と申しても、公共福祉のためにという制約を付するならば、ちょうど旧大日本帝国憲法言論の自由をうたいながら、法律の許す範囲内においてという例外において本体を食い荒らされたと同様に、これは二階に上げておいてはしごをはずして死文化するのと同様だと私は考えるのであります。  それでは言論の自由を保障し検閲を禁止する第二十一条と、それから公共福祉とは全く相いれないものかどうか。公共福祉に関しては憲法の第十二条、第十三条がそのことをうたっております。私はこの第十二条と第十三条それから第二十一条を繰り返し繰り返しあわせ読みました。そして私はその条文を忠実に読み取ることによってこういう結論に達したのであります。集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由はこれを保障し——これは憲法第二十一条の第一項であります。国民はこの保障された自由を不断の努力によって保持し、これを乱用してはならない、常に公共福祉のために利用する責任がある、それを乱用し、公共福祉に反した場合はあるいは制裁があるであろう、しかしそれを検閲という事前抑制措置によって抑えてはならないということであります。こう解釈することによってみごとに憲法第二十一条と憲法第十二条、第十三条は両立するわけであります。私は、現在の憲法の精神はこう解することが唯一無二の道である、そう考えざるを得ないわけであります。従いまして、事前抑制事後処理——事後処理は、あるいはその自由が乱用された暁、公共福祉に反した暁それは仕方がないかもしれないけれども、事前抑制というものはいかなる方法によってもとってはならない。私はいかなる方法によってもと言いましたが、私が読みかじりましたところでは、たとえば事後処理がほとんど意味をなさないような場合、たとえば国家の機密の漏洩があるというような場合は、例外的に事前抑制、いわゆる検閲が許されるというようなこともあるかと私は読みかじりましたけれども、映画検閲がこういう事前抑制範囲内において許されるというものでないことは論を待たないわけであります。それに対してまた山内第一法制部長は、事後処罰によってたとえば刑事責任を問われるならば、それよりは事前抑制によってその刑事責任を問われる不名誉と不利益をあらかじめ避けた方がより関係者のためであろうというようなことを言ってこの事前検閲合憲化そうとしておられます。さらに進みまして法制局見解は、公安を害すべきというのは、破防法第四条第一項第一号に言うところの刑法第七十七条、第八十一条、第八十二条、これを読みますれば、内乱、外患誘致外患援助、そういうものである。そういうものについて刑事責任を問われるものは事前抑制した方が、たとえば映画の場合は輸入業者のためではないかということであります。また風俗を害すべきというのは、たとえば刑法第百七十五条にいうところのわいせつ文書頒布のごときものであると言っておられます。かりに私が一歩を譲って、こういうものが事前抑制として事後処理よりも輸入業者のためであるとしてこれを合憲であるとしたといたしまして——この点も問題でありますが、そして私が先ほど申し上げたように検閲はこれをしてはならない、事前抑制はこれをしてはならないという結論にいささかの狂いもないのでありますが、かりにこれを譲って認めたとして、現在の税関でやっております検査もしくは検閲というものが全くこの範囲内にとどまっているでありましょうか。山内部長はこのとき、税関検査というものは、こういうふうなわいせつを現わす書籍等刑法第百七十五条にひっかかるもの、あるいは破防法第四条にひっかかるもの等本来表現の自由の内在的制約のワク内にあったものに限定さるべきものであると説明しておられます。はたして現在の税関のやっております検査あるいは検閲はこのらち内にとどまっておるものでありましょうか。現在の税関検査は、もしそれが不満であった場合には、輸入業者の訴追機関として輸入映画等審議会というものがありますが、はたして輸入映画等審議会は十分これを承知しておるのでありましょうか。これは当然承知していないと断定せざるを得ないのであります。それにしては輸入映画等審議会のメンバーは、そういっては失礼かもしれませんが、何とそうした刑事責任を問うには職業がら法律に暗い方々ばかりがそろっておるのでありましょうか。もし山内第一部長が言われるように、事後刑事責任を問うより事前抑制というならば、その輸入映画等審議会のメバンーは当然もっと検察庁的な立場から占めらるべきであろうと思います。山内第一部長が、狭い範囲内において税関検査が許される場合にのみ合憲であるといっておられるのと、現在税関がやっておることははなはだしい距離があるといわざるを書ないわけであります。それであるからこそたとえば普通にいうところの有識者が輸入映画等審議会のメンバーになっておりまして、そしてその委員長の口から、自分は一種のお毒味役であるというような、およそ法律的な刑事責任を問うには縁遠い随筆的な言辞が弄されるわけであります。  私はこれを具体的に申し上げるために、最近税関表現制限を受けました映画の例を持って参りましたけれども、これは長くなりますから簡単に申し上げますが、ただ一つここで「ニュールンベルグ裁判」という例を引かしていただきたいと思います。この「ニュールンベルグ裁判」は、ゲーリングとかゲッベルスとかいうAクラスの裁判をさばいた裁判のあとに行なわれましたやはりドイツの戦犯をさばいた裁判において、本裁判の裁判長の人間的な悩み、それからさばかれる被告がドイツの法曹界の大立物であるというような設定、そしてそういうふうな非常に問題性の多い裁判におきまして、アメリカ側の検事とドイツ側の弁護人とが非常にちょうちょうはっしとして真剣な議論を戦わす。これはアメリカ映画でありますが、一アメリカという利益を全く超越いたしました非常に公正な、現在考えられる限りの最も国際的に公正な高度な立場からこのニュールンベルグの裁判を描いたものであります。この中で一部カットがございます。一部表現制限されておるところがあります。これはナチスの残虐をあばいた部分でございまして、それと同様の場面は、たとえばその前の「わが闘争」とか「左手の幻想」とか「夜と霧」とか、そういった場面でも制限を受けました。しかし私はここで申し上げたいことは、たとえばこれは比喩にすぎないかもしれませんけれども、たとえばここできょうの何時何分に東京に大地震がある、東京が全滅するというような言葉は、これは言論表現の自由の範囲を逸脱しているかと存じます。またこれをたとえばテレビ・ニュースというような形で言うことも、これも表現の自由——テレビ・ニュースもそこまで表現の自由は持っていないと考えられると思います。しかしそういった流言飛語を飛ばす人間が処罰されるということを映画で描くということ、たとえばそれを諷刺喜劇で諷刺的に描くということ、そういう者を狂人として描くということ、これは当然公共福祉に反しない、群論の表現の自由のらち内であると存じます。ここで「ニュールンベルグ裁判」でかつて表現のカットされたのを——私は端的にカット、カットと俗な言い方をしますが、カットされたと同じ部分が出てくるといたしましても、これはニュールンベルグ裁判の裁判の法廷におきまして、検事がナチ・ドイツの残虐をあばく証拠として持ってきたフィルムの中の一部であります。つまりその内容でなくてその意図こそ重視されるべきではないかと思います。こういう意味表現というものを制限していいかどうかというものさしはこういう点にこそはからるべきではないか、こう考える次第であります。  もう一つ例を引かしていただきますと、「大陽がひとりぼっち」という映画がございます。これはまだ未封切でございますが、この「太陽がひとりぼっち」という映画におきましても、これもごく最近税関で一部分が表現制限をされました。それはヒロインがつれづれなるあまりボールペンをもてあそぶのでありますが、そのボールペンが、まっすぐ立っているとそのボールペンに女のヌード姿が映っておりまして水着が映っている。そのボールペンをさかさにするとボールペンの水着が脱げてその女が裸になる、そういうボールペンをもてあそぶシーンであります。ボールペンのクローズ・アップは出ません。女がもてあそぶシーンがフル・シーンで出て参るわけであります。ところがこのボールペンのヌード姿は——こういう公の席で言うのははばかることかもしれませんが、その局部に陰毛のようなものが見えるということでカットされました。こういうことも私は、たとえば前のわいせつ罪の予防的な削除ならば、削除と言い切っていいでありましょうか、私は大へんに疑問を持つのであります。こういうシアリアスな席上でこんなことを申すのはなんでございますが、それと同様のボールペンを私は現在ここに持っております。なんでしたらお見せします。そうしましたら、こういうものがわいせつ罪として制限を受けるならば私もわいせつ罪としてあるいは告訴されるのではないか、私はそれでもどうぞ告訴していただきたいというわけであります。そういうわけでたとえば山内第一部長が言われるような、つまり破防法第四条または刑法第百七十五条にひっかかるような条項のみを、当然自後の処分にゆだねたならば刑事責任を追及されるようなもののみを事前抑制しておるということははっきり言えないと思うのです。言いかえれば何ら法律的に根拠なしに事前抑制をしていると言わざるを得ないのです。それでは先ほど伊藤先生もお話しになりましたように、こういう違憲の疑いの濃い、いやもうはっきり言って違憲と断定していいような税関検閲をかりに廃止した場合に、それではいわば野放しにしていいかどうか、私は野放しという言うは非常に不適当だと思うのでありますが、そういうことを申しますならば、日本映画はつとに野放しであります。少なくとも戦争の終わりごろに、あの映画法が廃止されて以来、日本映画はつとに野放しであります。しかしそれを自主規制する機関として映倫があることは御承知の通りであります。これはまさに憲法第十二条にいうところの自由の乱用を自制する機関であると私は考えております。外国映画もこれに従いまして、そうしてこの映倫というのは倫理運動であればこそ、刑法に抵触するかしないかという以上に、もっと倫理的な道徳的な修正を行なっております。例を外国映画にとりますれば、昭和三十三年におきまして、税関で削除された以上に、外国映画が十六本について二十二カ所の表現制限もしくは修正を行なっております。三十四年には外国映画は十九本、三十三カ所、三十五年、二十五本、四十二カ所、三十六年十本、二十カ所を行なっております。税関が切ったあとに、しかもなお映倫はそれだけ切っておるのであります。こういう映倫になぜまかしておけないでありましょうか。日本映画映倫だけでまかされておりまして、映倫発足以来十三年、新映倫に改組されて以来五年、映倫の審査にまかされておりまして、映倫の審査後に刑事責任を問われたものは、私の知る限りでは、ことしの春の「肉体の市場」という映画ただ一本であります。しかもこの際も映倫は警視庁と談合いたしまして、今後はこういうことが再び起こらないように警視庁と映倫は密接な関係、連絡を密にして、このようなことを防止しようと申しております。しからば、今後映倫にまかしておいて、外国映画税関検閲というのをなくして映倫にまかしても、このようなことはそう起こることではない、いやほとんど起こることはないといっていいと思うのであります。  それからまたもう一つ、そういう映倫ならば、税関で今まで切ってきたところをかりに切らないでおいても、映倫が切るであろう、税関で切られても映倫で切られても同じことではないかという議論、それはある場合には結果的にはそうであるかもしれません。そうしてそういうケースが実際問題として多いと予想されるからこそ、輸入業者もある程度税関検査を仕方がないもの、これをパスしても映倫で切られるのではないかというふうに是認してきたきらいがないとは言えないと思うのであります。しかし、これは文字通り結果的なものでありまして、将来起こる可能性について考えるならば、これは非常な相違がある。公権による削除と、それから自主規制による削除と、たとい削除された結果が同じであっても、部分が同じであっても、将来予測される危険においてははなはだしい差異があるということはもう申し上げるまでもないと思います。  それから山内第一部長は、そのほか行政技術上の問題として、たとえば非常に多くの外国映画が入ってきて、これを実際刑事責任に問う場合に、取り締まりが困難だというようなことを言っておりますが、その場合にあげられておる数字は、これは大へん数字の魔術——あるいは山内第一部長がこれは御存じないのではないかと思われるような数字の魔術がございまして、この数字が示す以上に、これは困難なことでもなければ、実際問題として非常に多いものでもないのであります。この点は非常に専門的なことになりますから、もし、あとで御質問でもありますれば答えますが、私はここで説明いたしません。たとえば去年の検閲件数の中で、ニュースの検閲が二千二百五十件を占めておりますが、これなどは普通われわれが考えて、二千二百五十件も外国ニュース映画を見ておるとはとうてい思えないのであります。こういうような数字の魔術については御質問があればお答えいたします。  以上をもちまして、私は、今の税関検査という名のもとに非常に出過ぎた検閲をしておる、これは明らかに違憲であるということを申し上げたわけであります。  最後に締めくくりといたしまして、私はほんのこれは読みかじりでありまして、その点は多少気がひけるのでありますが、ちょっと問題が違いますが、東京都公安条例の判決の中での二人の裁判官の意見、その点が私は非常に印象に残っておりますので、その裁判官の意見を申し添えて私の言葉を終わりたいと思います。  これは最高裁判所において垂水裁判官が、表現の自由の制限は、公共福祉のためにという抽象的尺度でもって制限なされてはいけないと申しております。また藤田裁判官は、取り締まりの非常に急なるのあまり憲法に保障する自由の本質を見失うようなことがあってはならないと申しております。これは直接には集団行動をさしているのでありますが、集団行動のような暴力に犯すべき危険が内在していないとは言えないような問題に対してもかくのごときであります。しかもこれが映画というような、あるいは言論というような、非常に平和的な、間接的な表現において、先ほども申し上げましたように、検閲というような事前抑制という形をとってはならないということ、これが憲法違反であるということは、私は明々白々な事実であるということを申し上げまして、私の話を終わりたいと存じます。(拍手)
  6. 毛利松平

    毛利委員長代理 これにて両参考人意見の陳述は終わりました。     —————————————
  7. 毛利松平

    毛利委員長代理 続いて質疑に入ります。通告がありますので、これを許します。藤原職次郎君。
  8. 藤原豊次郎

    ○藤原(豊)委員 伊藤先生、それから清水さん、本日はお忙しいところどうもありがとうございました。  いろいろ伺っている間に憲法二十一条の非常に重大なる問題だということが特によく感じられます。考えてみますと、戦争中に言論の自由が非常に圧迫せられました。もし伊藤先生がそういうふうな歴史的のことをよく御存じでしたら教えていただきたいと思うのですが、とにかくいずれにしても言論の自由が非常に圧迫せられました。その言論の自由を圧迫した大きなものは検閲でございます。検閲のおかげで言論の自由が非常に圧迫せられた。同時に、今憲法三十六条で拷問は禁止せられていますけれども、当時のひどい拷問。こういう二つのことでいろいろな先覚者の人たちが血を流されたことはもう過去の旧憲法時代のことであります。そうして新憲法になりまして、こういう旧憲法時代の言論の自由の圧迫を取り除かなければいけないということで、いろいろ流された血の中からそういうふうなことが生まれ出てきた、こういうふうに思っております。従って、二十一条、それから三十六条というふうなあの禁止規定は、公権力に対して、こういうふうな弾圧はしてはならないという戒めだというふうに私は理解しておる。従って、二度と再び昔のような言論の圧迫、検閲というものが繰り返されないということをうたっているものだと、こういうふうに感じているのでございます。そういう意味で今度の二十一条、それから関税定率法の二十一条を見て参りまして、その意味で、私、両先生の御説明でほとんど尽きておりますが、重ねて二、三のことをお伺いしておきたいと思います。  それは、関税定率法と関税法の六十七条によりまして、いろいろフィルムを検査する、その検査ということと、それから検閲ということ、これは先ほど伊藤先生から伺いましたが、この点ははっきりさしておいていただきたい。検査というものはこういうふうなものだ、同時に検閲というものはこういうふうなものだという定義が法律上ございましたら、それをはっきりとお伺いしたい。これが一つでございます。その点を一つお願いいたしたいと思います。  その次にお伺いしたいことは、憲法に保障されている表現の自由というものは公共福祉によって制約せられている、こういうことは先ほど両先生から伺いました。そうあるべきだと思います。けれども、公共福祉ということを、伊藤先生のお話のように、公共のために悪刑するというふうなことがあってはならないということもよくわかりましたが、その公共福祉のために表現の自由を制約するということは、私から見ますと事後制約だというふうに感じられるのです。従って、制約するのは、裁判によって決定していくんだ、こういうふうに感じております。そうしますと、検閲はこれをしてはいけない、公共福祉という理由のもとに検閲をするというようなことがあってはならないんだと感じておることとどういうふうに抵触するのか、事後でいいのではないかということなんです。検閲ということは別の問題である、そういうふうに感じております。この関係をちょっとお聞きしたいのです。  もう一つお聞きしたいことは、この前も山内第一部長さんにお伺いしたのですが、山内さんの論文にも出ておることですが、違憲説は、税関の強制検閲の技術的必要を無視しておるのではないかということを書いておるのです。そうしますと、このことは、行政技術というものが憲法に優先するのか、いつの場合でも行政技術のために、憲法はどうにでも理解していいのかどうか。これが私にはどうにもわからない。この点、行政技術が憲法に優先するのかどうかということをはっきり教えていただきたい。  それからもう一つお伺いしたいのは、これも山内さんの論文の中に出ておるのですが、押収という言葉が出ておる。物を押収したり没収する、そのことと、税関検閲との問題が出ておる。物を押収する場合は、事後行為だというように私は理解する。それから没収する場合には、裁判の結果、それがいけないから没収する、これは二つとも事後のことだと思うのですが、これが考え方によると、事前のように理解せられる点があるように書かれておるのですが、この点一つ伊藤先生からもお伺いしたい。押収とか没収とかいうことは、事前の行動ではなくて事後の行動ではないか、従って、検閲とは問題が違うものじゃないかと思うのですが、その点一つ伊藤先生にお伺いしたい。  その次にもう一つお伺いしたいのは、残虐のものをカットする、これは一つの犯罪を犯したことになるからするのでしょうが、残虐に対する法律上の罪がない。刑法のどこに出ておるか、私知りませんが、調べたところではない。山内さんも法律上は残虐の表現に対する罪がない。罪がないのに、どうして刑罰を加えるか。法律で罪をきめていないのに、それに刑を加えるということは、どうも納得がいかない。この点はどういうふうの関係でございましょうか、伊藤先生から、その問題に対して、こういうふうの法律的の解釈ができるという御説明をいただければ、まことにけっこうです。
  9. 伊藤正己

    伊藤参考人 藤原議員からいろいろな御質問が出たのですが、すでに私がお話の中に申し上げた点もございますし、あるいは清水参考人の方が適任だというような点もございましたが、簡単に私の考えていることを申し上げてみたいと思います。  第一に、憲法二十一条の背景をなしておるものでありますが、これはもう藤原議員がおっしゃいました通り日本の戦前の表現の自由に対する非常にきびしい弾圧の歴史というものが背景になり、さらに、世界の各国の憲法経験が合わさって二十一条の線になっているんだろうと思います。ただ、日本にどのような歴史があったかというようなことにつきましては、私みずから経験したわけでもございませんし、また、適当な方の御意見を伺いましたらけっこうかと思います。  第二の、検査検閲、これにつきましては清水さんから先ほどお話しになりました通り、私もそうだと思います。物品として検査する、これは税関として来然やらなければならぬことでありますから、これをやる、ただ、そういう表現行為内容を公権力が審査して、望ましいか望ましくないか、法律があれば、法律に合致するかどうかという内容検査する、そうして場合によっては、これを一部または全部禁止できる、これは検閲だろうというふうに考えておりまして、清水さんの御説明につけ加えるところはございません。  それから第三に公共福祉の問題でございますが、これも藤原議員が申された通りだと私は思うのでありまして、およそ公権力がある一定規制をするには、事前にやる場合と、事後にやる場合、二つ方法があるわけであります。そうして、対象によりましては、もちろん事前規制が許される場合、あるいは望ましい場合もあるかもしれません。たとえば職業選択の自由というようなものについては、これはある一定事前規制、たとえばタクシーの運転手に対しては一定事前規制をするということがあり得るわけであります。しかし、私がすでに申しましたように、この表現行為については、ことに集団行動といったようなものはやや別にいたしますけれども、こういう言論、出版といったような、それ自体の行為の中に非常な暴力性というようなものの危険のないような表現行為につきましては、これもまたもちろん公共福祉調整をしなければなりませんけれども、そういう調整結論が、一つ原則が、これは肝前の抑制はしないのだ、検閲はしないのだという形で憲法二十一条の二項に表われているのではないか、必要がある場合には、事後処罰という形でやるべきだということだろうと私は思っております。  それから第四番目の行政技術という点でございますが、これももちろん今申しましたように、職業選択の自由その他の場合には非常に行政上の必要があるという形で、いわば一つの政策的見地から一定規制を加えるということが必要かと思いますけれども、表現の自由というものは、繰り返すようですが、民主制一つ本質とつながる基本権でございまして、これを行政上必要である、便利であるというような形で憲法基本権というものを制限することは、これは許されないのではないだろうかというふうに考えるわけであります。本質的な公共福祉、つまりそれを許すことによって公の秩序なり公の道徳なりがくつがえされてしまう、そういう場合に、事後処罰という方法規制をするということになるのではないかというふうに思います。  それから第五番目の押収あるいは没収の件でございますが、これは確かに表現行為——押収というものはそういう刑事的手続の、つまり裁判の前提として行なわれるものでありますから、本来性質的にいえばやはり事後処罰に関連した行為であるというふうに考えます。ただ、これもやり方によりましては事前抑制にきわめて近くなることがあるという危険性を持っておりますから、私はそういう点につきましては、われわれとしても非常に注意しなければならない点があるかと思いますが、性質しはいわゆる検閲とは区別されるべきものであるというふうに考えております。  それから最後に、残虐の場合でございますが、つまり残虐というものは、本来そういう刑法上の犯罪になっていないということでありまして、そういうものについても、あるいは場合によっては望ましくないものがあるかもしれない、まさにそれゆえにこそ自主規制というものが必要なのでありまして、自主的な規制においてこれはあるいは刑法上の犯罪でないかもしれない、しかしある場合には乱用に及ぶのではないかということで自主的に規制されることが望ましいというふうに思うわけであります。こういう残虐もいいじゃないかという考え方の中には、関税定率法さらに関税法でその処罰規定があるわけですが、そういうところで、法律で禁止できるのだからというような考え方でその憲法解釈が引き出されるのは、私はやはり逆じゃないかというふうに考えております。非常に簡単ですが……。
  10. 藤原豊次郎

    ○藤原(豊)委員 今のお話で大体よくわかりましたのですが、公共福祉のためということで拷問も自由であるということにならぬようにしたいと思う。もし公共福祉のために、それから行政上の都合によってという理由でこういう犯罪が犯されては困るということで三十六条の拷問などという問題が起こってきては困りますので、この点で非常に参考になりました。  それからもう一つは、最後の、法律できめられていないことなんだ、法律で規定していないことはどんなことをやっても犯罪にならないのだという感じを私はしておるのであります。それは憲法十一条の立場から自主的には規制していくのですが、しかし法の建前からいえば、法で規定していない以上その規定していない行動をとったからといって、これは犯罪にならない、こういうふうに思われるのですが、その点、伊藤先生はどういうふうに解釈なさいますか。
  11. 伊藤正己

    伊藤参考人 おっしゃる通りだと思います。これはもう罪刑法定主義ということでありますから、法律で規定がないことは犯罪にならないということは確かだと思います。
  12. 藤原豊次郎

    ○藤原(豊)委員 それから清水さんにお聞きしたいのですが、いろいろカットせられていることで、私はカットの問題は相当に調べまして、不愉快に思っているのです。ただ最近の問題で、先ほどお話しいただきました「左手の幻想」という映画があるが、その中にカットの部分がございます。そのカットの部分は、日本兵が中国人を銃殺しているシーンがカットせられているように伺っているのですが、それは残虐であるということでカットしていられる。ところが、日本兵ではないほかの兵隊が銃殺しているところはカットしていない。こういう関係に対して何かお気づきの点があったら教えていただきたい。一方の日本人が中国人を銃殺しているところは残虐だ。外国人が外国人を銃殺しているのは、同じことをやっても残虐ではないというのか。たとえばほかの例を引きますと、「無防備都市」の中で、牧師さんが銃殺せられるところがあります。ドイツの兵隊さんたちが牧師さんを銃殺するときに、良心的に苦しかったとみえて鉄砲でどこかほかを撃っちゃった。そうしたら将校が出ていって頭から撃った、それを子供が見ている場面がありますが、ああいうところは平気で映される。どういう意図でこういうことになったのかわかりませんが、そういう点で何かお気づきの点がありましたら教えていただきたい。
  13. 清水晶

    清水参考人 私は、先ほど申し上げました通り税関もしくは税関の諮問機関である輸入映画等審議会で行なわれるカットにつきましては非常にふに落ちない点が多いのであります。ですから、私は現在、申されましたような点、たとえば日本兵が中国人を虐殺するところをカットした、その場面を見ておりませんし、またそういうカット自体がまことに不合理であるという論拠に立っておりますから、お答えする必要はないのではないかと考えるのです。ただ、こういう場面は、おそらく映倫ではこれはカットされるのでありますが、映倫は先ほども申し上げました通り倫理運動であります。国民感情というものを尊重するということをうたっております。ですから、映倫ならば、国民感情という点で、たとえば日本兵というものを特に重視してカットすることはあり得ると思いますが、税関がそういう立場に立って一種の道徳的な制限をする、道徳的な見地から規制を行なうということは全然立法的な根拠がないと考えるのであります。
  14. 藤原豊次郎

    ○藤原(豊)委員 それから輸入映画等審議会の委嘱せられた委員の中で、私はどうしてもいやだといって入らなかった人があるように伺っておるのでありますが、そういうふうなことがありましたならば、お気づきならばお聞きしたい。その人はどうしてもいやだと言ったのにもかかわらず今入っているというようなことを伺っているのですが、そういうことはありましょうか。
  15. 清水晶

    清水参考人 たとえば輸入映画等審議会委員に就任してくれと言われた際に、その人個人がどういう返事をしたか、これはもちろん私の知る範囲外でありますから、その点は何とも申し上げかねるのでありますが、ただ、その輸入映画等審議会は、最初の顔合わせを含めまして過去七回開かれまして、極度に出席率の悪い委員がおることは事実であります。そうしてまた、私はもうそういうことに興味がないのだということを文筆の上でも表現されている委員があることも事実であります。それから、これはちょっとよけいなことかもしれませんが、先ほどもちょっと私は輸入映画等審議会委員の個々の名誉を棄損したようなことを申し上げたような印象をお受けになったかもしれませんが、輸入映画等審議会の委員が何という方々ばかりであろうと、決して名誉を棄損しているのではなくて、こういう角度で選ばれている輸入映画等審議会委員——山内さんのおっしゃるところの検閲合憲化する意味検査範囲とは非常にずれているということを申し上げただけで、輸入映画等審議会委員の個々の名誉を棄損する意味は毛頭ないことを、よけいなことかもしれませんが申し上げておきます。
  16. 藤原豊次郎

    ○藤原(豊)委員 どうもいろいろありがとうございました。私の質問はこれで終わります。
  17. 毛利松平

  18. 佐藤觀次郎

    ○佐藤(觀)委員 きょうは政府委員は来ていますけれども、政府委員にはいつでも聞けますから、参考人の方に……。  私も実は、だいぶ前にそういう検閲を受けてひどい目にあったことがあります。一体、この検閲制度というのは戦争前には非常にひどいやり方で、そのために今度の新しい憲法ができて言論の自由、そういうようなことになったと思うのです。清水さんにお伺いしますが、戦後いつごろから検閲のような形が出てきたかということの御記憶がございましたならば、それを教えていただきたいと思います。
  19. 清水晶

    清水参考人 この映画税関検閲というのは戦前もずっとございます。戦前は、外国映画には税関検閲と内務省の検閲と二重にございます。それから戦後はGHQがこれにとってかわりまして、その間関税定率法二十一条、いわゆる税関検閲といわれる項目がございましたけれども、そのGHQがやるところの検査が優先しておりまして、実際は死文化しております。私、何年何月とはっきり申し上げられませんけれども、実質的には占領政策の終えんとともに戦前と同じ関税定率法二十一条が戦前と同じようによみがえった、こう解釈していいと存じます。
  20. 佐藤觀次郎

    ○佐藤(觀)委員 それから日本を除いてはこういうようなひどい検閲をやる、たとえばフランスとかイギリスとかその他イタリアとかというようなそういうところには、日本のような今の税関がやるような検閲のようなことをやっておられるのかどうか、あなたは外国に行ったことがあると思いますが、そういう点はどうなっておりますか、清水さんにお伺いします。
  21. 清水晶

    清水参考人 私、外国に行ったこともございませんし、それから外国のそういった状態については特に関心を持って調べませんでした。と申しますのは、私はあくまでもこの日本憲法、そして日本の戦後置かれている特殊状態というもの、そういったものを中心に考えまして、私はあくまでも日本憲法の精神、日本の戦後あるいはこれからの日本というものを中心に考えまして申し上げているわけであります。
  22. 佐藤觀次郎

    ○佐藤(觀)委員 伊藤さんにお伺いしますが、国内には高橋誠一郎さんが委員長になって映倫というのがあって、だいぶ自主的にやっておられて、非常に好成績を上げておられると思うのですが、そういうような形で自主的に映画業者の方に、今映倫というものがあって、いろいろ問題になるようなことを解決しておられるようですが、そういう問題にからんで、世間で非常に非難を受けるようなことがあるように思うのですが、そういう点についてどのようお考えになりますか、伊藤さんにお伺いします。
  23. 伊藤正己

    伊藤参考人 おっしゃる通りだと思うので、私は先ほども申しましたように、表現の自由というものが非常に貴重な権利である。しかしその反面貴重であるだけに非常に大きな責任というものが行使する者に伴うのではないかということを思うわけです。もしその責任を忘れて非常に言論が自由なんだということになれば、これはおのずから公的な権力による焼制を招くことになるから、非常にその点は慎重にやってもらいたいと思うわけです。これは映画に限らず、マスコミ一般、さらにこういった表現を行使する人々すべてだと思うわけで、さしあたって映画でいえば映倫などは非常に慎重な態度でやっていただくことが必要じゃないか。そしてまた私はこれまでやってこられた映倫の行動というものがやはりそういう意味では適正な自主規制をやってこられたのではないだろうか。むろんいろんな批判はあるかと思いますが、そういう意味もあるわけであります。もしそのやり方がいけないときには、先にも申しましたように言論の自由、表現の自由を享受するのは国民一般でありますから、国民としての映倫に対する強い批判をしていくべきだろう、そういうふうに考えて、やはりそういう形で映倫というものをわれわれとしても見守って、映倫自身にもそういう点に努力していただくことが必要だろうというふうに考えております。
  24. 佐藤觀次郎

    ○佐藤(觀)委員 清水参考人にもう一つお伺いするのですが、外国映画日本輸入する、買ってくる場合には、おそらく私は、あなた方業者の方がやはり現物を見て、これは日本に持っていったらどういう影響があるか、そういうようないろいろな勘案をして輸入されると思うのですが、そういう点についての判断。お役人というものは、大蔵省に限らずどうもおせっかいをしないと自分の役目柄工合が悪いような傾向がある。日本はそういう点で一番官吏がきらわれる国だといわれております。外国映画をお買いになってくるときには、おそらく日本検閲してはならぬということになっておりますけれども、検査という名目でいろいろカットすることがあると思いますが、そういうような判断を一般の業者はどういうようにやってきておるのか、そこに一つ問題があると思うのですが、どういうようにお考えになっておりますか。
  25. 清水晶

    清水参考人 映画の買付の実際については、話せば長くなりますが、現在は外国に出向いて買い付けるというケースもございます。同時に外国からの売り込みが大へん盛んでありまして、そしてそれを私たち国内で保税という段階、つまり輸入以前の段階で見るというわけであります。その場合に私たち長い経験から、これは税関でやられるのではないか、こういうことはやはり映倫の自主性上好ましくないのではないかといろいろ考えます。しかしときどき、私先ほど申し上げましたように、どうしてもふに落ちない切られ方がある。これはたとい十回に一回であっても大へんに問題にすべきだと考えるわけであります。そのほかいろいろ映画輸入、買付に関しましては、買付の条件もそうでありますし、いろいろなマーケットの情勢などを判断いたしまして買付をいたすわけであります。  表現制限ということで御質問でございますが、それもこういう場面はやはり税関でやられるのではないか、映倫制限されるのではないかということは、経験的にもちろん予測して考えているわけであります。
  26. 佐藤觀次郎

    ○佐藤(觀)委員 それから、実際は何でもないことでも、カットしたことによってかえって表現が強くなることがあると思います。カットしたためにかえって逆作用するような場合が往々にしてある。私以前中央公論でやっておったときにそういう感じを受けたことがある。実際はわいせつ行為ということは個人、主観の判断、検閲官の判断でやるので、これは非常に危険きわまりないことだ、そういうふうに思っておるし、最近は御承知のように映画が非常に不振で、今まで十五億くらいあった映画の観覧者が、今年あたり八億くらいといわれております。こういう点で映画界にとっては非常に大きな打激があるということはいろいろなところに出てきておるのですが、藤原君からも先ほどいろいろ質問がありましたが、検閲が厳しい関係上非常に観客数が減ったというようなこともあるように聞いております。そこで「チャタレー夫人の恋人」など、われわれ見てさほどでもないようなことでも、お役人の考え方だとややもするとそういうような考え方が浮かぶんじゃないかと思うのですが、こういう点について今の税関検閲検査、そういう点についての影響はどのようになっておるのか、これを一つ伺っておきたいと思います。
  27. 清水晶

    清水参考人 カットされたためにかえって効果が強くなるという場合、これはそういうことも考えられるかと思いますが、これはなかなか複雑な問題で一がいに言えないと思います。ただカットされた場合に、そのカットされた個所というものは、おおむね非常に不自然な形で残りまして、そしてここがカットされたということは、少し映画を見られた者ならば容易に想像できるわけです。そういうことがかえっていろいろ、卑俗な言い方をすれば、想像をたくましゅうして、あるいはその不自然感というものが非常に作品の芸術的質を下げまして悪影響を及ぼすということはあるかと思います。たとえば今たまたま「チャタレー夫人の恋人」をおっしゃいました。これは文芸作品でございますが、たとえば「恋人たち」という映画におきまして非常に大事な部分がカットされましたために「恋人たち」という映画の芸術性がそこなわれまして、凡百のわいせつ映画のような目で見られざるを得なくなったということは最も遺憾な例の一つであると考えます。
  28. 佐藤觀次郎

    ○佐藤(觀)委員 もう一点。先ほど清水さんから検閲検査ということについていろいろ説明があったのですが、われわれはいろいろ事情は聞いておりましたけれども、検閲してはならぬ、ということに憲法はなっているのです。しかし、検査の中で勝手にせっかくの名画を——これはいつかの大蔵委員会で問題にしようと思っているのですけれども、きょうは同僚議員の質問がたくさんあるようですからあまり言いませんが、どうもその点が逆用されているのじゃないか。おそらく税関の役人の方も職務があるものだから多少やらなければならぬじゃないかというような職務上の一つのあれもあると思うのです。そういうことと、映画検閲、出版物の検閲、そういうものとの関連で、私たちは戦争前に非常にひどい目にあっております。いろいろ苦い経験を持っている関係上、とのまま押していくとやはり昔のように平気でやってしまうんじゃないかということが憂えられて皆さん方参考人を呼んだと思うのですが、検閲検査ということについての見解ですね。これをもう少し簡単でけっこうでありますが、これとこれはこうだということを承っておいて、きょうは総務課長が来ておられますが、そういうことについて、この次に十分質問をして参考にしたいと思いますので、そのことだけちょっとお伺いしたい。検閲検査の限界です。
  29. 清水晶

    清水参考人 検閲検査の限界については先ほど申し上げた通りでありまして、現在税関では、憲法第二十一条に対するおそらくおもんぱかりでありましょうが、検閲という言葉を一切使っていない。検査だと言っておりますが、これは明らかに検査範囲を逸脱して検閲になっている、こう申し上げたのであります。検査というのは、貨物がインヴォイス通りであるかどうかという即物的な検査をする、これが検査であります。これはあらゆる貨物について必要なことでありまして、税関検査というものは、それが検査である限りにおいてはまさに文字通りその範囲にとどまるべきだと思います。それが表現内容をいささかでも規制するということはまさしく検閲であって、こういうことは違憲である、こう申し上げているわけであります。
  30. 毛利松平

  31. 安井吉典

    安井委員 時間の制約があるそうでございますので、伊藤参考人清水参考人に一点ずつお尋ねをいたしまして問題点を明らかにしていただきたいわけでございます。  まず伊藤先生に伺いたいのでございますが、率直に問題点を申し上げますと、政府側の表現の自由制約についての論拠を突き詰めていきますと、最後の点におきまして、外国には関税法あるいは関税定率法輸入禁制品の規定、それの予防的効果が及ばないのだ、だから輸入映画については別なのだ、最後はこういうことに落ちついているようであります。昨年の春私がこの問題を取り上げましたときの政府側の答弁も、「外国においてそれを製作する場合におきましては、わが国の刑事法規の担保というものが事柄の性質上ないわけでございます。従いまして、関税制を設けて、一定のところで検査をいたさない限り、輸入禁止という実体的な規定自身の実効性がないというふうに私どもは考えざるを得ないわけでございます。」こういうような答弁です。先ほど来のお話でも相当程度明らかにされているわけでございますが、あらためてこの点さらにお答えをいただきたいと思います。
  32. 伊藤正己

    伊藤参考人 その点、たとえばわいせつ罪のいろいろな実務について私よく存じませんけれども、一歩譲りますと、外国で作られたものですから日本国内で作られた場合よりいろいろな形で刑事訴追をする場合に不便を生ずるということは確かだろうと思います。そういう意味税関で抑えるということが取り締まりに非常に便利であることは私自身認めるにやぶさかではないわけでありますけれども、取り締まりに便利であるからやってもよいという論拠はどうしても納得するわけにはいかないのであります。事実今までいろいろ税関検査で問題になりました映画を見ました場合に、一体それで取り締まりが非常に不便なのかということになりますと、私にはとうていそういうふうには思えないわけで、いささか不便はあるにしても、それによって合憲性を理由づけるだけの論拠にはならないではないかというふうに考えているわけであります。
  33. 安井吉典

    安井委員 行政手続上の便宜と憲法の大きな法益とを取りかえっこするわけにはいかないという御趣旨であると思うのでありますが、その点同感でございます。さらにまた政府側の答弁の中では、刑事手続で持っていくか、あるいかまた行政処分、不許可処分の当否を裁判で争わせるか、そのどちらでいくかというのは、これは一つの条理の問題として、現行法ないし改正法の内容が正しいというふうな言い方を実はされているわけです。ところが、さらにまた、それではその行政処分に対して不満な人が裁判というふうな権利の行使をした例があるかということをお聞きしますと、それはないという答弁です。  そこで、これは清水さんに伺いたいわけでございますが、私も輸入業者側の弱い立場といいますか、そういうような立場を十分に理解できるわけでございますけれども、今の裁判という救済措置があるではないかというふうな政府の答弁に対しまして、輸入映画を取り扱う立場においてのお考えを伺いたい。
  34. 清水晶

    清水参考人 私はそういうふうな訴訟法的なことは全然しろうとでございますから、ただほかの先生方から教わったことを申し上げるだけでございますけれども、私が聞いておりますところでは、そういうふうな裁判をかりに起こすといたしますれば、その映画輸入ということを全く保留して、その利害関係をその当時の形において保留して、その利等に直接関係のある当事者が原告となって争わなければならないというふうに聞いているのであります。言いかえれば、たとえばその裁判が相当日数がかかるとすれば、その間全くいわば保税のままでその映画を寝かせておくということになるわけでありますが、この点は非常に高いロイヤリティを払って、そしてまた公開すべき時期に対するある程度の予定もあるとすれば、これは業者にとって耐えがたいことである。私の仲間で、たとえば外国映画輸入配給協会というような利益代表団体でそういうふうな制限違憲であるというような一般的訴訟を起こせないものかどうかということも研究したのでありますが、これは私しろうとで、その道の方から伺ったところでは、そういうことはできないのだというふうに聞いております。そうすれば、今申し上げたようなことで、なかなか当該業者がそのまま寝かせてまで争うことはできない。事実今までないのもそのためであります。
  35. 堀昌雄

    ○堀委員 政府の方から発言を求められておるようでありますから、先に政務次官から、本問題についての御発言を伺って、それに関して、そのあとで、両参考人から御意見を伺いたいと思います。
  36. 毛利松平

    毛利委員長代理 この際、天野大蔵政務次官より、本問題について発言を求められております。これを許します。
  37. 天野公義

    ○天野説明員 この問題は、前々から問題になっておるなかなかむずかしい問題でございますが、基本的に考えますと、日本国憲法並びにそれに付属するいろいろな法律というものは、日本国内にこれが適用されるものでございます。従って、日本国憲法並びに日本国憲法に基づくいろいろな法律の及ばないところ、すなわち、外国で、風俗習慣を異にしたところで製作をされたいろいろなものが日本国内に入ってくる場合においては、これは、日本国憲法の精神並びに日本国の法律秩序に合致するかせぬかということを正しく見きわめる必要があると思うのであります。それでなければ、日本国憲法の精神を正しく守っていくということは困難な場面が考えられます。  そういう基本的な立場に立ちましてこの問題を考えてみますのに、映画フィルム等を輸入しようとする者は、他の貨物と同様に、税関に申告し、貨物の検査を経て輸入許可を受けるわけでございますが、現在のやり方でございますと、検査の結果、映画フィルム等が関税定率法第二十一条第一項第三号に該当する物品であると認められたときは、その旨通知されてこれが輸入されるわけでございますが、この通知で、カット等をいたして、不服のある場合には、一カ月以内に不服の理由を付して異議を申し立てすることができるわけでございます。そしてその申し出があったときに、税関長は、輸入映画等審議会に諮問をして一応決定をする、それでも輸入業者が不服な場合には、当然裁判に持ち込むことができる、そういう建前になっておりまして、いろいろな面で業者の立場がここに確保されておるわけでございます。  そこで、今問題になっております公安または風俗を害すべきものの輸入の禁止と、憲法に定める表現の自由との関係につきましては、基本的には先ほど申し上げたような観点でございますが、風俗習慣並びに法律等いろいろ違っているところから、日本国に入ってくる場合におきましては、いろいろな弊害をもたらすおそれがあるわけでございます。そこで、先ほどいみじくも清水参考人が申されたボールペンの例でございますが、北欧のコペンハーゲンとかストックホルムとか、ああいうところでございますと、私も行ったのでございますが、ひっくり返すと裸体になって出るというペンも一般に市販されておるわけでございます。ところが日本では、市販されたならば、これはおそらくわいせつ物として押収されるであろう、わいせつ物として押収されるであろうことがはっきりしているものと、不特定多数の人々に映画をもってこれを見せるということは、やはり非常な疑義を持つのでございまして、そういうところに、風俗習慣上のいろいろな相違ということも、われわれは考慮しなければならないわけでございます。従って、この関税定率法条文におきまして、そういうようなおそれのあるものが、ただ無制限に、国内の一般不特定大衆並びに青少年等にどんどん見せられるということは、これは非常に大きな問題でございますので、先ほど申し上げたような手続をとりまして、業者の立場も守りつつ、また表現の自由という面も守りつつ現在やっているような次第でございます。従いまして、言論集会、結社その他の自由というものが、憲法上でいろいろな制約を受けておるということは、これはもういなめない事実でございます。しかしながらそのいなめない事実といいましても、これは、今言ったような手続をとることによってできるだけ確保するということで処理をいたしておるわけでございます。特にわいせつ物等に関しましては、国際条約がございまして、猥褻刊行物の流布及取引ノ禁止ノ為ノ国際条約というのがありまして、日本もこれに対して批准をいたしております。国際信義上からいいましても、やはりこういう問題はきちんとしていかなければならないと思います。  それから検閲禁止と憲法との関連の問題でございますが、現在税関でやっておりますものを通俗的な考え方検閲ということを通称言っておりますけれども、これがはたして憲法上にいうところの検閲であるかどうか、検閲の概念ははたしてどういうものであるかということにつきましては、まだ定説がないようでございます。しかしわれわれは、その税関でやっております検査は一応検査である、こういう建前をとっておるのでございますが、現存税関でやっておりますことについて申し上げますと、貨物は税関検査を経て許可をしなければならないことになっております。従って、税関検査する立場といたしましては、関税額を確定するという意味におきましての税法の立場と、それから他の法令に違背するものでないことを認定する通関法の立場と、二つの立場があるわけでございます。  この二つの立場からいろいろな検査をいたしておるわけでございますが、先ほど申しましたような関税定率法第二十一条第一項第三号で公安風俗を存する書籍等の輸入禁止を規定しておるわけでございます。この規定に基づきまして、かりに、先ほど伊藤教授の申されたように、また清水参考人の申されましたように、ただ単に税関はものを入れるだけの機械的な作業にすぎないということであると仮定いたしますと、いろいろな矛盾がそこに出てくるわけでございます。税関は輸出入貨物の取り締まりをその任務といたしまして、輸出入貨物は原則として税関検査を受ける状態に撒かれるのでありますが、行政運営上も第一義的には税関公安風俗を害するものであるかどうかの認定をするのが、この法律条文からいっても合理的であるわけでございまして、税関にこの認定を行なわせない場合というものを仮定した場合におきましては、税関としては輸入貨物の検査は行なわなければならない。税関におきましても、その検査に当たる者は税関職員で公務員でございます。その貨物を見るところの職員たる者が公安風俗を得するものであろうと考えた場合におきましては、その職員は、刑事訴訟法の二百三十九条第二項で「官吏又は公吏は、その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない。」という条項もございます。従って、そういう観点からいたしましても、これを告発しなければならないということになるわけでございます。そうなりますと、かえってこの措置が現在よりも非常に強くなるということは御了解願えると思うわけでございます。  それから輸入業者にとりましても、税関においては公権力をもって輸入を許可されておりながら、しかもその輸入した行為等について告発されたり刑罰権を発動されるということは非常に不利益であるという面も見られるわけでございます。従って、そういう面からいたしましても、税関でこれを一応検査していくという現行の建前が非常に合理的であり、日本国憲法並びにその付属法令を守る上からいたしましても、きわめて適切なことであるというふうに考えるわけでございます。特に映画におきまして問題になっておりますのは、思想的な問題等はほとんど問題になった例はございませんで、大体エロであり、また残虐である、こういうことでございます。  これは問題の性質がちょっと違うわけでございますが、この際各方面に対しまして真剣に考えていただきたい問題がございます。この違憲違憲でないかという問題と離れまして、ここで一つ皆さんの御参考のために読ませていただきたい文書がありますので、これを読ませていただきます。これは東京都世田谷区青少年問題協議会第七地区委員会というところが審議会に対して出した文書でございまして、これに基づきまして、審議会でも一度協議をいたしております。   不良映画の審査を厳重にしていただきたいお願い。  近頃青少年の非行は激増を続けて止まるところを知りません。青少年による婦女への暴行は益々増加し、都下や神奈川県下では、数人の青少年による輪姦はも早珍らしい事件ではなくなりました。また青少年の殺人事犯もあきれるばかりの増加を示し、甚だしいのは巡査を毒殺して制服とピストルを奪い、そのうえ顔を見知られたというので運転手をも射殺すという十九才の少年が熊本県に現われました。  これらは全部が全部映画の悪影響でないにしても、近頃姦通やベッド・シーンや暴力を売物にした煽情的な映画が余りにも多く街に氾濫し、その内容が一段とあくどくなり、これが青少年に異常な刺激を与えていることは、私共の周囲を見廻してみても、争えない事実と思います。  最近上映された外国映画を例に取ってみても、数人の暴漢による一少女の輪姦とそれに対する残忍極まる報復を取扱った「処女の泉」、性格異常者の何重もの姦通を取扱った「危険な関係」、弟が自分の情婦と仲良くなるので、弟のいる前で女を犯し、その末殺してしまう「若者のすべて」、姦通とヘッド・シーンを売物にした「青い女馬」、「逢う時はいつも他人」等々枚挙に暇はありませぬ。これらは外国でも問題化した映画であり、上映を禁止した国もあると聞きます。しかも日本映画はこの外国映画内容は勿論題名まで真似て作られ上映されているのです。  数年前、「暴力教室」という米国映画に対しごうごうたる非難の声が起りましたが、その後それよりも数段とひどい内容の「危険な曲り角」、「墓につばかけろ」、「狂った夜」、「怒れる若者たちの遊び」、「変人たち」、「いとこ同士」、「勝手にしやがれ」、「甘い生活」等々煽情的映画に対し、大きな非難の声があがらなかったのは、も早世論が不良映画に麻痺した証拠ではないかと恐れます。  かくて今や衝動的性映画、不倫もの、暴力もの、ベッド。シーンものが、これでもか、これでもかと次第に刺激を強くして国民に押しつけられ、それがまた青少年にはうけて喜ばれ、こんな映画に限り、私共地域の映画館でも満員を続けているのです。これでは国民的危機ではないかと憂えられます。云々  こういうような文書で、輸入映画等審議会にその陳情がなされておるわけでございます。そういうような状況でございます。従いまして、先ほど伊藤教授の言われたように、輸入業者並びに映画関係者の方々が、ほんとうに正しい映画を、青少年の正しい育成のため、また社会の浄化のため、そういう意味合いにおきましてどんどん入れて上映していただくということは、これは非常に望ましいことであり、喜ぶべきことだと思います。しかしながらあまりにもおもしろくない、不良文化財に近いような映画というものは、やはりこれは業者の自主的な立場から、大いに考えていただかなければならないのではないか、かように考える次第でございます。  なお、本件につきましての詳細につきましては、山内部長より報告いたさせます。
  38. 堀昌雄

    ○堀委員 今の天野さんのお話の中で、最後におっしゃった点ですが、業者が自主的にやるべきだということについては、昭和三十五年三月二十五日、当時の大蔵大臣であった佐藤さんが私の質問に答えて、やはり自主的にやるのがいいんだ、しかしただ映倫だけでは強制権がないから、そこでそういうふうな強制権的な部分については、税関等で処理するのが適当ではないかという御答弁があったわけです。その後事実はそういうふうになっておりませんが、今の問題を二つに分けますと、一つはやはり風俗習慣という問題が、憲法制限をはずし縛る一つの要件のようなふうにお話がありましたが、これについて、伊藤参考人はどのようにお考えになりますか。
  39. 伊藤正己

    伊藤参考人 その点は、私先ほど話したときには、非常に簡単に触れたのでございますが、つまり風俗習慣が違う、従ってわれわれには非常に目新しい違ったものが入ってくるということも確かに事実なんですが、これはやはりまた逆から見ますと、私たち表現の自由の実質をなすものは、国民の知る権利だろうと思うわけです。いろいろなことを知る権利をわれわれは持っておる。それが表現の自由を実質的に基礎づけている、こう思います。そういうわけで、つまり外国のことについて、われわれはある意味においてはいろいろなことを知る権利があるのではないか。それがなければ、われわれの文化というふうなものも発展しないのじゃないかというふうに思うわけであります。ただ逆から申しますと、確かにわれわれからいって、われわれの日常生活にショックを与えるようなものがあることは事実である。またそういう面では、外国映画についてはやはり自主的規制というものを、ある面についてはきびしくしなければならない点があるだろうということは、私も認めているわけなんですけれども、しかし、だからといってそれを公権力が押えるという理由にはならないのじゃないかというふうに考えております。
  40. 堀昌雄

    ○堀委員 後段の世田谷区の青少年問題協議会が、不良映画追放の申請をされている。この問題は、われわれでもそういう不良な映画が上映されることを望むわけではないのですけれども、ここに問題がすりかえられる危険があると私どもは感じておりますが、今の不良映画という問題の取り扱いと、要するに検閲という問題と、この問題を二つ並べて、もう一回その点について……。
  41. 伊藤正己

    伊藤参考人 その問題は、再々繰り返しますように、確かに表現の自由を行使する人の非常に大きな責任だろうと思います。青少年問題協議会というのが、いろいろな地域にあることも私存じ上げておりますし、その人たちが非常に心配されていることも知っております。私たちその人たちの善意は疑わないわけですが、ただ私たち、その人たちの見方もかなり一面的なものがあるのじゃないかという気がする。ほんとう表現の自由の重要性というものを心得た上で、そういう点について発言していただきたいと思います。たとえばある青少年の犯罪がありますと、テレビや映画で似たのがあるから、これはすぐテレビの影響である、映画の影響であると言う。もちろん、私は全然それがないとは申しませんけれども、やはりいろいろな事由が重なってそういう犯罪を生み出しているわけで、それを直ちに、これは表現の行き過ぎであるから何とか押えなければならないということになる前に、いろいろ考えていただきたい点があるわけであります。直ちに表現を、ことに自主的な規制でなくて権力で押えるということを引き出してくるとするならば、やはり考え方としては、もう少し十分考えていただかなければならないのではないか。今政務次官の方からお読み下さったものを聞きながら私も感じたのですが、そういう考え方が、私が最後に申したように、国内映画だってひどいのがあるから検閲したらいいじゃないかという論理にすぐつながってくるのでありますから、やはりそういう方々もいろいろな形で話し合って、そういう表現の自由の重要性というものをわきまえた上でいろいろなことを考えていただきたい。その上で、映画を作る人も、あるいは上映する人も、あるいは見る人も、そういう点で非常に責任を持っていただくべきだろうというのが、私の結論であるわけです。
  42. 堀昌雄

    ○堀委員 清水参考人に伺いますが、今政務次官は、いろいろと政府側の立場をおっしゃったと思います。清水さんの方は輸入映画の当事者の側でございますので、今の政府側の見解に対して何か御意見がありましたら、一つお答えいただきたいと思います。
  43. 清水晶

    清水参考人 私は今政務次官の言葉を聞いて、実は大へん失望したのであります。それは税関検査だと言っているのは、これはあくまでも検閲であるということは、伊藤先生も口をすっぱくしておっしゃり、私もその点は特に力説したと思うのであります。そしてまた、これは法制局第一部長山内さんすら認めていることであります。それで私は、税関がこれは検閲でなくて検査だという遁辞は——あえて遁辞と申しますけれども、その遁辞は、酔っぱらいが酔っていないと言うのにひとしい。これはやめた方がいいと申し上げたのでありますが、それを天野政務次官はお聞きになったかお聞きにならなかったか、とにかくあのような千編一律の、まことに聞きあきた答弁を聞きました。これには、私は大へん失望いたしたのであります。それから事後抑制において刑事的な責任を問われるより事前にということも、まことに聞きあきた言葉であります。私も先ほど、非常に時間が限られていたので大急ぎではありましたけれども、その点を十分究明したと思いますが、その点について少しも新しい見解を聞けなかったことを、私は大へん失望せざるを得なかったことを申し上げなければならないのであります。
  44. 天野公義

    ○天野説明員 先ほど税関検査について申し上げたわけでございますが、これを検閲という言葉で言われようと御自由でございますが、われわれは税関でこういう処置をするということは、日本国憲法及びそれに付属する法制並びに日本国の風俗習慣を守る上において正しいことである、そのように考えております。
  45. 毛利松平

    毛利委員長代理 藤井委員から関連質問を求められておりますので許します。藤井勝志君。
  46. 藤井勝志

    ○藤井委員 今、天野政務次官からいろいろお話がございましたので、私の質問したいという内容はすでにお答えがあったように思うのであります。法は両刃の剣ということをよく言われるわけでありまして、運用のいかんによっては、いわゆる表現の自由を守るということのために公共福祉が阻害される、反対に公共福祉を守るということに行き過ぎがあると表現の自由がそこなわれる、この問題に、先ほど来のいろいろな話の結論は結着するのではないかというふうに思うのであります。ただ、先ほど両参考人から非常に貴重な体験に基づかれたお話がございましたけれども、二人ともいゆる憲法論議を中心として、現在のやり方は憲法違反である、こういうお話でございました。私はその意見にはいささか疑義を持っておるものであります。その疑義は天野政務次官のお話によって私としては代弁してもらったと思いますので繰り返しません。従いまして、一応実務に携わっておられます法制局山内部長がおいでになっておるようでございますので、一つ具体的にお話を承りたい。同時にこれは今後の大蔵委員会の運営において参考人の御意見は両論をお聞かせ願いたい。これをつけ加えてお願い申し上げると同時に、それを補足する意味において山内部長の、先ほど両参考人からお話がございました具体的な問題について、一つ実務から見た御見解を承りたいと思うのであります。
  47. 山内一夫

    山内説明員 私、今の税関検閲制度というのは合憲であるということはここでしばしば申し上げました、ただいま両参考人から御意見を承ったのでございますが、私の考えを改める必要は毛頭ないというふうに考えるわけであります。私と両参考人意見というのは基本的な考え方においてそう食い違いはないと私は思うのであります。たとえば今の税関がやっておられることを検査と呼んでジャスティファイするという意思は毛頭ございません。それから検閲禁止の歴史的な背景というのは両参考人の言われた通りであります。それから、映画というようなものが特に表現の自由に入らないのだ、こういうような考えを私が持っておるわけでもありませんし、また外国からくる映画だから日本人がそれに接する機会を奪ってもいいんだ、そういう考え方でもない。根本的に違うのは、私の考えによれば、検閲禁止の背景というものは、事後処罰の効力というものが十分にある国内において、事後処罰で効果があるのに何を好んで事前禁止をするか、そういう弊害の多い事前検閲をするかという観点からそれを否定されていることが、税関検閲禁止の根本的な趣旨だろうと思うのです。外国からくるところの映画あるいは書籍、そういうものを日本の中へ入れるということに対してとう処罰規定を設けようとも、外国にいる人たちがその気になればそれを抑えるという効果はないのは、私は歴然とした事実だと思うのです。伊藤参考人はそのことはある程度は認められるのですが、そういう事態があるから一応税関で押えるということが便利だからということだけでは、税関検閲というものを憲法上ジャスティファイすることはできない、こうおっしゃるのですが、私は便利だとか便利でないという問題じゃないと思うのです。これを検査をしなければ、私はもう堂々と入ってくると思うのです。現在一番関心のまとになっているのは、外国から大きな会社が入れた映画国内で普通の映画館で上映されるところの問題を一番視野に置いて議論をしておられるのでありますけれども、ある意味国内の上映というものは映倫にまかしたって私は一向さしつかえないと思うのです。ところが税関検査がなければ最終需要者に渡るときの措置は何もできないと思うのです。たとえばわいせつ罪について申し上げれば、青少年でも成人でもそうですか、わいせつ表現に接することによつて堕落の道をたどって社会の健全性がそこなわれるといったところから刑法百七十五条が設けられているのです。だから問題は最終需要者に渡るということがここの関心事なのです。国内の場合には、そういうものを業者が頒布すれば、それはつかまえて処罰する、その持っているものは押収するという手はありますけれども、外国から入るものは、直送する限りにおいてはどんな手も打てないと思うのです。外国からそういうものが入ってくることが日本国内における頒布よりも自由であるということは、私はとうてい納得ができないと思うのでス。私の申し上げた税関検閲の必要性ということはそうなんでありますけれども、そういうことを言うと、国内においても一般的な検閲を復活するのじゃないか、言論の弾圧を今後招来するのではないか、こういう懸念をすぐ持たれるが、それは私は誤りだと思うのです。私は税関検閲のその特殊な必要性から論及して合憲性を言っているので、国内事後処罰の規定があり抑制的な効力を持つその場面において一般的検閲ができるのだということは、憲法の規定からもどこからも私は出てくることではないと思うのです。外国でも私の知る限りにおいては、ほとんど検閲税関でもって押えていると思うのです。それは国外と国内とにまたがるそういった制度の特殊性からくるところでありまして、その現実を無視してこの検閲をはずすということになりますれば、外国から入る不必要な害毒というものをわれわれは手をこまねいて見ていろ、こういうことになると私は思うのです。これは伊藤参考人のお書きになったものでも、事前抑制の理論というのはイギリス、アメリカからずっと発達した理論だと思うけれども、これについては例外がないわけじゃないのだ——その伊藤参考人の著書では二つの例をあげておられたと思うのです。一つは、戦争または重大な内乱の場合に、一つ国家なり当該の行政当局の秘密が漏れるということは、事後処罰しても国内の状態を危殆に陥れることを抑制することはできないのだから、そういう場合はいいということ、あるいはデモ、集会の場合というような特殊な事態だったらいいと言われる。だから英米で発達した歴史におきましても、そういった事前抑制の理論に一つの例外があるということを認めておられるわけですが、今私どもの考えているのは、その場合伊藤参考人が視野に置いておられるのは、自己抑制の規定があるにかかわらずなおかつそういう場合には事前抑制ということは許されるのだというお考えだと思うのですが、この税関検閲の場合には、そもそも自己抑制の規定は働かない場合と思うのです。今、現在いやそうじゃないのだ、フィルムや書籍でもみな日本人が持ってきているじゃないか、こうおっしゃるのですが、それは今の制度があるからそうなんでありまして、検閲という制度をなくすれば、必ずや外国にいる者が輸入者になって立ち現われるということは、これは火を見るよりも明らかじゃないかと思うのです。一番問題は、映画というものが今世上の的になっているのは、先ほど申し上げましたように堂々と映画館に上映されるものばかりだと思うのです。ところがそういうものを押える必要がないじゃないかという御議論はわかるわけでありますけれども、映画というものが、これがはたして上映されるものか、あるいは最終業者に渡るものか、あるいはいかがわしい業者に渡るものかということは、映画それ自体を見ただけではとうていわかるものじゃないと私は思います。制度というものは論理的な関連があるものですから、どうしても映画一般でそういうものは押えざるを得ない、そういうところからいって、どうしても、今の映画について議論はされておりますけれども、書籍についてもそういう一般論として、やはり制度を私どもの法律技術の頭では考えざるを得ない、私はかように思うわけです。かいつまんで申し上げれば、以上が私の見解でございます。
  48. 藤井勝志

    ○藤井委員 ちょっと伊藤先生にお伺いいたしたいのですが、自主的規制ということは一般的には民間でそれぞれの団体が申し合わせをする、こういったことが一応いわれますけれども、私は特にきょう問題になっているような事柄は、先ほど天野政務次官からもお話がございましたように、国際法上からもいろいろ申し合わせをされておる、こういったことについては、やはり国際信義の上からも、民主的に選び出されたいわゆる国民の代表である国会において関税定率法の第二十一条というようなものができてきておるわけですから、そういった線に従って規制することも自主的規制の範疇に入るというふうに考えていいのじゃないか。自主的規制というと、いかにも戦後の世の中では民主的ということから一般には耳ざわりがいいわけでありますけれども、やはりそれぞれの機会を通じて、事柄の段階に応じてきちんとしておくということが必要ではないかと思うのでありますが、その点伊藤先生はどのようにお考えになりましょうか。
  49. 伊藤正己

    伊藤参考人 今のお話ですが、私たち自主的規制と申しておる場合に、そういうふうなお考え方も成り立ち得るかと思いますけれども、私たちは一貫してやはり自主的規制というものは、公の権力がタッチしない規制であるということを考えているわけです。もちろん国際的な協力ということもありますが、やはり国家権力が入ってくると、それがかつての検閲制の弊害を生み出したわけです。それを映倫のように、あそこで一定の規律を作りましてそれで判断していくということが本来の自主的規制なんで、ちょっとそこまで、私自身税関のやっていることも自主規制ではないかというところまでは、ちょっと言えないのじゃないかというふうに思うのですが……。
  50. 藤井勝志

    ○藤井委員 国家権力という一般的な表現で言われますが、戦前と戦後とは内容的に全然違う。国家権力は一体だれか。結局現在は民主的に選び出されて、一応中身については議論の余地はありましょうけれども、一応民主国家として、ともかくそういう手続を経てきておる。現花池田政権が政権を担当しておる。こういう場合、昔の概念で天皇制を前提とした国家権力というものとは根本において質が違う。従って私は、今もお話がございましたような考え方はやはり昔の概念にとらわれたような一般的な国原権力、これでは新しいこの時代のものの判断の仕方として不十分ではないかというふうに心配いたすわけでございます。あらためて一つお伺いいたします。
  51. 伊藤正己

    伊藤参考人 だいぶ大きな問題になってきたのですが、確かに私は国家権力という言葉で一律に申して、それは戦前と戦後とは非常に違う、民主制国家になった場合に違うということを考えております。それからまた、非常に掘り下げていえば、たとえば基本権の保証というような問題でも、単に憲法にあるから保障されるというのではなくして、われわれがほんとうに民主的に基本権を守っていく、育て上げていく、そうしてそれを政治的な面において実現していくということでありますから、国家権力というものは確かにわれわれ民衆のものになっているという  ことは、これは建前としてはまさにその通りであると思うのです。しかし残念ながらわれわれはやはり国民主権という、これはどうも釈迦に説法という  ことになるかもしれませんが、国民主権と申しますのは、国王の主権のような場合と違って、権力とは直接結びつかないというのが国民主権の建前で、国民主権の一つの特質なんで、つまり国民が主権を持っている、国家権力を指導しているということは、一つの建前であり理念であるわけです。現実の権力と主権者である国民とは結びついていないというのが特色だろうと思うわけです。ですから、幾ら国民主権の国になり民主国家になりましても、権力というものは国民意思に沿って動かないということはあり得るわけです。それをもちろん規制するものとして、たとえば世論あるいは国民が主権者として選挙の場合に意思表示をする、これは確かにけっこうだと思います。イギリスなどでは、そういうやり方で憲法を守っていこうとする。私は、本来憲法を守るというのは、そういうことだろうと思うんですね。しかしやはりそれでは不足なところがあるものですから、私たちは裁判所に違憲審査権を持ってやらせるとか、いろいろな形でもってやらせているわけです。そこに憲法というものは、国家権力の作用、働きを抑えるという機能を果たしているわけですから、幾ら私は国民主権の国だという建前は建前としても、その権力を行使する検閲制と民間の自主的な規制というものの差は依然としてなくならないんじゃないかと考えているわけです。
  52. 藤井勝志

    ○藤井委員 ただ先生のおっしゃるのは、私は運用の面において、たとえば建前を認められておる以上は、それはやはり先ほどのお話、ちょっと承服しかねます。ただ運営上先ほどもお話ししたように、法は両刃の剣であって、国民を守る法が国民を弾圧することもしばしばある。選挙法の運用などはそういうことがときどき起こります。ですから、よほど慎重に取り扱っていかなければならないという御心配から、いろいろお話があったのでございましょうけれども、私はこれはやはり先生方社会的にも影響力の多い方でありますから、一つ両刃を考えて、片一方の刃だけでものを論じられないように一つお願いしたい、これは希望であります。
  53. 伊藤正己

    伊藤参考人 じゃ、その点一言だけ……。確かにおっしゃる通りだと思うのです。法律というものは、いい面があると同時に悪い面がある。そこでわれわれ主権者としての国民が、それが悪い面に使われないように努力していくことが必要なんですが、しかし憲法というものはそういうもので、運用上やはり違憲になるという、それは運用で押えていけばいい。しかし場合によっては両刃の剣でありますけれども、悪い刃の方が非常に強くていい方の刃が非常に弱いということもあり得るわけで、それが限度を越したときには、やはりわれわれは憲法違反という判断をしなければいけませんし、裁判所が違憲審査権を持っているのも、やはりそういう点から憲法を保障しようというものだろうと私は思っているわけです。ですからおっしゃることはよくわかるのですが、私としてはそのように考えるわけです。
  54. 堀昌雄

    ○堀委員 山内法制部長からの意見がありまして、われわれ意見がありますけれども、時間がございませんから保留しまして、次回の大蔵委員会において取り上げていただくことを要望いたします。
  55. 毛利松平

    毛利委員長代理 この際、委員長より参考人に一言ごあいさつ申し上げます。  両参考人には、御多用のところ、長町間にわたり御出席をいただき、貴重かつ忌憚のない御意見を述べていただきまして、本委員会の調査に非常に参考となりましたことを厚くお礼を申し上げます。まことにありがとうございました。(打手)      ————◇—————
  56. 毛利松平

    毛利委員長代理 この際、参考人出席要求に関する件についてお諮りいたします。  金融に関する件及び証券取引に関する件について、それぞれ金融及び証券に関する小委員会参考人出席を求め、意見を聴取いたしたいと存じますが、御異議ありませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  57. 毛利松平

    毛利委員長代理 御異議なしと認めます。よって、さよう決しました。  なお、参考人の人選、出席の日時等につきましては、委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ありませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  58. 毛利松平

    毛利委員長代理 御異議なしと認めます。よって、さよう取り計らいます。      ————◇—————
  59. 毛利松平

    毛利委員長代理 税制に関する件について調査を進めます。質疑の通告があります。これを許します。横山委員
  60. 横山利秋

    ○横山委員 長官が今度更迭をいたしまして新しく就任をなさったのでありますから、これから私が申し上げるこことは長官としては御存じないことであるかもしれません。また次長もその点は同様であるかもしれません。しかし、それなればこそその冒頭に税制及びその行政等について、私どものかねての主張を実は山ほど聞いていただきたいと思うのであります。しかし、さりとて本日は先ほどまで映画検閲検査につきまして、熱心な質問がそれぞれ同僚委員から行なわれまして、十分な時間がございません。まあ三十分ぐらい御了承を願いまして、むしろ私の力から、私が入手をいたしました問題の一つに限定をしてお話をして、そうして後日私の注文に応じて御同等な願いたい。きょうはその心がまえなり、どうなさるかという点をお伺いをした方がいいと思うのであります。  問題は幾つもございますが、きょうは時間の関係上、労働問題についてお伺いをいたしたいのです。もとより労働問題といたしましても、これは社会労働委員会に関連する問題でありますが、それにいたしましても税務行政に多大の影響を与えておる。しかも本委員会においてたびたび私を初め同僚委員が取り上げて、注意をしてもらいたいと言うておいたにかかわらず、あたかも参議院の選挙のまっ最中に、全国津々浦々にわたって現象が起きたということは、何かそこに意図するところがあると思わざるを得ないのであります。従いまして、私もきょう一日でなくして、一回新長官、次長のものの考え方も十分に資料をもって承わらなければならぬと覚悟をしておるわけであります。時間の関係上項目的に列挙をいたしまして、これが事実であるかどうかについてお伺いをいたしたいと思います。  事案は全国にわたって、全国の国税労働組合の組織について、多大の不当労働行為が行なわれた疑いがあるということであります。たとえば今から一例をあげて参りましょう。  五月二十二日、二十三日、仙台局で全管署長会議が開かれて、国税庁の遠山労働組合担当審議官もこの会議出席した。ここで全国税等の組織についてことさらに強調をして、組織についてのいろいろな攻撃を加えた。  五月二十九日、四国愛媛県伊予西条税務署長今垣正毅は、全国税伊予西条分会の数人に対して、本庁の遠山審議官の言を引用いたしまして、全国税の組織に対して誹謗を加えた。  六月一日、今治税務署長岩田徹二郎が、直税課法人税第二係田村欣一(全国税愛媛支部局支部長)を署長室に呼んで、国税の組織について組合の協力を求めた。  高松税務署では、六月二日書留郵便で郵送されてきた脱退届約八十通を、名宛人である全国税分会長に渡す前に、受付係員に命じて階上総務課に持ち運ばせ、差出人を記録した上で、再び受付に戻し、名宛人に渡すという方法がとられた。この間分会長が、受付係員に郵便物の引き渡しを要求したが、「これだけしか来ていない」と言って数通を示したのみであったが、そのときすでに約八十通の郵便物が総務課に持ち去られていることがわかった。  徳島税務署会計係長古川一臣は、六月二日約四十名の者に脱退届郵送用封筒及び切手を支給した。  六月四日、今治税務署長岩田徹二郎は、全国税今治分会執行部の抗議に対して「分裂は自分として本意ではない。局がやかましくて往生している」と述べている。  六月九日、今泊税務署長岩田徹二郎は、課長会議を招集し、「脱退樹を今日中に出せ」と命令した。これに対する分会執行部の抗議に答えて、岩田署長は、「局がやかましくて仕方がないのでやった。課長に「今日中……」云々と言ったことは取り消す」と言い、再び課長を集めて、「今日中でなくてもよい」と伝達した。  徳島税務署法人税課法人税第三係長は、六月八日係員に「君にだけ言わなかったので気を悪くしているかもしれぬが、実は課長に「執行委員をやっている者には言うな」と厳達されていたのだ、了解してくれ」と脱退工作の問題について弁明をみずから行なってきた。  六月五日午前中、鳴門税務署所得税係では、執行委員である係員を除く六名に出張命令を出し、主任石川の自宅に集合せしめ、そこで前記石川、高田が係員に全国税誹謗、脱退工作を行なった。この際、ビールが供応され、また「このようなことが勤務時間中に出張命令という形でやられることにそもそも問題もあろうが」と弁明を行なった。  六月六日午前中、鳴門税務署所得税係において、主任石川何がしが、連記式脱退届に署名捺印をさせようとした。  六月二日、十二時二十五分ごろから午後一時過ぎまで、徳島税務署所得税課所得税第一係長七条何がしは、徳島駅前平和食堂に係員を集め、全国税に対する誹謗、中傷を行なった上、「この係は全員一致して脱退しよう」と脱退強要を行ない、「このことは外部には絶対秘密を守る」ように命令した。  五月工十七日、徳島税務署総務課総務係長美藤何がしは、小使福島、久野に対し、小使室において脱退届の様式を示し、「今後これを出すことになったから、六月二日までに書いて捺印しておくように」と申し渡し、六月一日から六月二日の三回にわり「書いたか」と督促を行なった。  茨城県では、県下各署間税課長会議を水戸で五月十日に開き、「全国税を脱退して、茨城だけでも第二組合を作る」と申し合わせ、その後の分裂活動の中心となった。  新潟県小千谷署では、間税課長、徴収課長などは、自己の課の全国税組合員を一酒税倉庫に呼び出すなどして、個別的に脱退理由書を配付、脱退を強要した。また五月二十六日、これらの行動に分会が署長交渉を行なったところ、署長は公然と「全国税の体質改善はできない、つぶすべきだ、六月二日に臨時大会を開き解散しろ」と暴言を吐いた。  新潟県柏崎署では、係ごとの事務打ち合わせで、係長が「第二組合に加入すれば特別昇給、配置転換の恩典がある。早く脱退した人ほど優遇される」と言って加入を強制した。  栃木県鹿沼署徴収誤長は「今月一ぱいに全国税に脱退届を出さないと、配転に責任を持ちませんよ」と言って脱退を配転に結びつけて強制した。  茨城県麻生署、直税課長が全国税副分会長に対し「配転したかったら第二に入れ」と強要した。  茨城県竜ケ崎署長は「第二組合結成のためなら幾らでも金は出す」公言した事実がある。このような事例は他署でも見られる。  長野県上田署は五月二十六日、五十七名脱退させられ、その中で十数名の者が労金より約十二万円の借り入れがあったが、五月二十八日、全員一斉に一時払いしてきた。話によると「課長から金をもらった。返済については、今まで通り、月賦で課長に返済せよと言われた」と言っている。  五月七日、高松税務署徴収課徴収第一係の徴収事務打ち合わせ会が開かれた。その席上において、徴収第一係長は、国税庁遠山審議官から聞いたことだと前置きして、東京地連沼波副委員長が免職処分となった暴力事件については、当局側の発表している通り、全く組合側の一方的な暴行事件である。  今の全国税中央執行委員は、大半が共産党員である。  いろんなことを決定するときには、共産党員が過半数に達したときに採決をしてきめているのだ。  今、皆の払っている組合費の三分の一は、首切られた専従役員のために使われている。  しかし、組合はないといかぬ。組合がないと悲惨な目にあう、と第二組合結成の必要を力説した。  五月三十日午後、高松国税局総務課長松本克也は、全国税四国地連幹部の抗議に対し、前期児玉の行為について次の通り述べている。  前記児玉の発言は、徴税事務の遂行上必要な情勢分析を伝えたものであって、管理者として必要かっ適正な行為である云々。  六月一日、新居浜税務署徴税課長和田清忠は、前記吉岡と同様のことを述べて係員に脱退を求めた。  五月二十八日、丸亀税務署総務課長多田羅義夫は、総務係本津、中川ら職員に対して「総務は官房的な事務をやっているから組合員であることは望ましくない」と伝え、さらに「脱退は、うちだけではないから安心せよ」と発言した。  また中西に対しては「君の勤評はCになっている。これは以前の香川係長がそのようにつけたからだが、わしが頼んで直してもらってやる」と発言した。  全国税を脱退した人が書いた脱退の理由の中に、たくさんございますが、こういうことがある。  最近こんなことを耳にしました。社会党の議員が、原長官の退官について、退官を思いとどまるようにと大蔵省へ申し入れたと。理由は、全国税の過激さには社会党自身も困っているので、その点で原長官は信ずるところを堂々と述べ、行き過ぎの全国税に対しよい押えであると。まんざら作り話とも考えられないことと思います。  時間の関係上、まだたくさんの事実があるのでありますけれども、もうこれだけ読めばおわかりだと思うのであります。私はこのような事実というものが、単に、そこの一人の税務署長なり、あるいは課長なり、あるいは係員が、思想、結社の自由の気持に基づいて偶発的にやったとは、どうしても考えられない。私は従前から本委員会において国税庁における労使関係というものは、まことにまずい。これを力説し続けて参りました。それはかりにお互いに意見の相違があっても、お互いに信条の相違があっても、あるいは政策的な違いがあっても、少なくとも話し合いをして、時間をかけて、円滑なる労使関係を作るべきだと力説をしてきました。この点については本委員会の税制小委員会の取り上げるところとなって、その中間報告において、地方地方において円滑な話し合いが行なわれるようにと中間答申を出して、これは国税庁としても了承したはずである。その当時の記録が必要ならば、私は次会に提示をいたします。しかるにかかわらず参議院選挙のまっ最中に、まさに全国的意図と考えてもいいほどの事態というものが起こって、そうして続々全国税の組織からたくさんの組合員が脱退をしていくということは、決して偶発的な事実ではないと私は確信をしております。先般、原長官に対しまして、穏やかに条理を尽くして私がお勧めをいたしました。長官もまたそれに対して率直な御意見をおっしゃった。ところがまことに遺憾なことに、その速記録を国税の広報でございますか、労働関係の載っている広報に、私の発言したこときわめて少なく、原長官の発言したことをきわめて大きく取り上げて、全く私の条理を尽くしたことまでも当局の労働政策に引用をして、そして全国の職員諸君に宣伝をするがごときは言語道断だと私は憤慨にたえません。ああいうようなことは、私に対する侮辱とさえ考えておる。一体編集責任者はだれでありましょうか。私はあの際条理を尽くして話をして、しかも今日のところは不当労働行為の問題はないと私は考える、まあ、いろいろなことはあるけれども、不当労働行為の疑いになるということだけは断じてやめてもらいたいと言いましたら、長官もその点については、私も十分注意をいたしますと答えた。そういう雰囲気の中での質疑応答を自分の方に有利なことだけ国税広報でありますか何かに載せて、私の質問した、私の条理を尽くしたことを縮小をして載せるがごときは、国税庁としても恥ずべき行為であると私は思う。一体与党、野党あるいは政府、野党の違いこそはあっても、ともに税制の行政というものを正しく運営させて紛争を解決して、円満な行政を達成しようとする私どもの気持というものは全くじゅうりんされたように私は考えたのであります。私は機会があったならば、いかなる立場で、いかなる気持で本委員会における質疑応答を聞いておられるのか私はただしたいと思っておるのであります。今やその最高責任者である原長官も、それから次長もいらっしゃいませんから、過ぎたることを言って、責任を追及しようとは思いませんけれども、こういうようなあり方が今後続いたならば、私どもは本委員会においてあなた方に申し上げる立場というものを全く異にして申さなければなりません。強くこの点については指摘をしておきたいと思います。  そこで長官にお伺いをいたしたいと思うのでありますが、これらの事実をあなたは御存じでございますか。
  61. 木村秀弘

    ○木村説明員 ただいま御指摘になりましたいろいろなたくさんの事実のうちで、そのうちのあるものは組合側の機関紙で私読んでおります。もちろんその多くの事実のうちには私たちの目にまだ触れておらないものもございます。ただいま御指摘になりました偶発的じゃなくて、何か陰で指令を出してやっておるのだというような意味合いにとれることがただいまの御発言の中に受け取れたわけでございますが、われわれといたしましては、特別に指令を出してこの干渉あるいは介入をするというようなことはやっておりません。ただこれが関東信越国税局あるいは高松の国税局の各税務署において起こっておりますことにつきましては、われわれ必ずしも偶発的ではない、その理由として、やはり組合員各自の、何と申しますか、従来の組合のあり方に対する反省、批判というものが——相当関信、高松両局とも過去において問題が続発した局でございますので、あるいはそういう反省と申しますか批判と申しますかそういうものが起こったのではないかというふうに判断をいたしている次第でございます。
  62. 横山利秋

    ○横山委員 それが組合の内部だけであるならば私はかくも申しません。今例示いたしましたことは、署長ないしは課長ないしは実権を持っております係長、それらの人が言っておることなんです。また行動しておることなんです。長官にお伺いいたしますが、遠山さんという人は私は顔と名前がしっかりわからないのでありますけれども、審議官とは何をする人でありますか。どういう役割でありますか。
  63. 木村秀弘

    ○木村説明員 国税庁の審議官は大蔵省組織令の規定に基づいて設置されておるものでございまして、遠山審議官の職務権限といたしましては、服務、分限、厚生その他職員の待遇に関する事項及び職員団体に関する事項、要するに職員の待遇あるいは職員団体に関する事項を取り扱わせておるものでございます。
  64. 横山利秋

    ○横山委員 その遠山審議官が各局を回って各局の首脳部を集めて、そして労働組合の組織を誹謗し、脱退を慫慂するがごとき態度をとり、そういった言動をしたら、適切だと思いますか。
  65. 木村秀弘

    ○木村説明員 遠山審議官を各地の局に出張させたことはございます。高松、仙台、名古屋、札幌等でございます。その際の用務といたしましては、職員組合の現状を全体的な視野に立って説明をするという用務でございまして、御承知の通り庁といたしましては職場内の秩序をいかにして維持するかということについては、かねてより非常な関心を抱いておるところでございます。従って、一般の労働情勢また税務内における職員団体の一般的な情勢、そういうものを説明をさせるということ、それからまた各局における職員団体の動向等について事情を聴取して私に報告するということ、こういうことを命じまして出張さしたわけでございます。
  66. 横山利秋

    ○横山委員 私の言うことにすなおに答えて下さい。遠山審議官が各局へ行って全国税の組織について誹謗を加に、そして暗にそれの脱退を慫慂するがごとき態度をとり、言動したことを適切だと思いますか。
  67. 木村秀弘

    ○木村説明員 ただいま申し上げたような川向きでもって出張を命じております。組合の機関紙等に組合を脱退しろとかあるいは全国税を誹謗しておるというような記事もございましたので、本人を呼んで、どういう説明をしたか、どういうふうな事情の聴取をしたかということの報告を求めておりますが、これは組合を誹謗するあるいは脱退をさせる、第二組合を慫慂するというようなことはいたしておりません。
  68. 横山利秋

    ○横山委員 組合を誹謗した事実はないとおっしゃるのですか。
  69. 木村秀弘

    ○木村説明員 私の調査した限りでは、ございません。
  70. 横山利秋

    ○横山委員 長官がこの席上で、あなたの就任早々の第一の発言で、ないとおっしゃるならば私はそれを信じてもよろしゅうございます。しかしあるのですよ。しかしあなたが今新長官としてないとおっしゃるということは、今日まではまあないと断言をし、将来において絶対させないという方向に理解をいたしたいと思います。それでよろしゅうございますか。
  71. 木村秀弘

    ○木村説明員 それでけっこうでございます。
  72. 横山利秋

    ○横山委員 わかりました。特に申し上げておきたいのでありますが、ちょうどあたかも国鉄労働組合が新潟及び金沢におきまして不当労働行為の救済を公労委に申請をいたしましたところ、七月五日に国鉄本社に対しまして不当労働行為に対して公労委から救済命令が出ました。この救済命令の内容事案は私も知っておるわけでありますけれども、非常に新潟及び金沢の国鉄当局のやったことはよくなかった。しかし私の知る限りにおいてはそれよりもまだ今回国税庁管内において行なわれております事実の方が悪質だと私は思っております。これは何回も申しますが、労働連動というものは時計の振子の自律作用というものがあるのです。無理にあなたの方がいろいろなことをなさるよりも、もしも労働連動みずからにそのあやまったものがあるならば、みずからの中に自戒作用というものあるいは振子の作用というものが必ず起こる。私もその体験者の一人でありますが、それは労働者みずからを信じてよろしいのだと、私は体験上確信を持っておるわけです。もしそれその際に、経営者が、当局側がその時計の振子を無理に動かそうとしたならば、必ず両刃のやいばで当局側も傷つく。そしてその中における混乱というものは、単に労働問題でなくて、行政的な内部において大へん私はまずいことが起こる。一つの税務署の中で第一組合と第二組合があって、それが仕事に非常な支障を及ぼすということは、特に私は新長官に考えていただかなければならぬと考えます。今の遠山審議官の例をとってお話をしたのでありますけれども、これは遠山審議官のみならず、すべての、あなたが今回部下としてお持ちになった各局長、署長、課長、職制に対しまして、不当労働行為のような事実はさせないというふうにおっしゃったものと理解してよろしゅうございますか。
  73. 木村秀弘

    ○木村説明員 ただいまおっしゃったように、私の部下である、審議官のみならず、各局長、署長がそういう組合の結成あるいは運営等に不当に介入するというようなことは私させないつもりでおります。ただ問題は、正常な組合活動の範囲を越えて、従来の例に見られますように違法な活動に入っていく、あるいは国家公務員としてふさわしくないようなあるいは税務職員としてふさわしくないような活動をするという場合におきましては、これは組合としての正常な活動とは思いませんので、この点についてはあくまでも職場内における秩序の維持あるいは税務行政の円滑な運営という見地からこれを取り締まっていかなければなりません。正常な活動に対して干渉をするということは、私は絶対に行なわないつもりでおります。
  74. 横山利秋

    ○横山委員 その点で一、二注文があるのです。それは先般私が例をあげました名古屋における数年前に作られた庁舎管理規程を例にとってお話をいたしたのでありますけれども、おそれのある場合、なになにのおそれのある場合というような言葉を使って、すべての労働運動に対して厳重な制圧を加えておる。名古屋は今回問題はございません。ございませんけれども、このように今日の国税庁の労使関係というものは、他の国家公務員及び二公社の労使関係と違いまして、中火地方にわたって話し合いが十分行なわれておらない。これが決定的な問題。それからもう一つは、労使双方にあまりにも敵愾心が多過ぎる。これはやはり国税庁としてもまず話をよく聞く、そして十分にできることとできないことを間断なく話し合うという税制小委員会の中間報告を尊重してもらうならば、いかに多くの弊害がなくなるかということを私は痛感をいたしておるわけであります。そこで御検討を願いたい二、三の問題を申し上げておきたいと思うのであります。  一つは、今申しました中央地方にわたって話し合いを十分にしてもらいたい。これは中間報告における委員会の希望でございました。  もう一つは、今度定期の大異動が行なわれるようであります。その大異動にあたって今回こういう紛争のようなことが起こっておるわけでありますが、組合運動を云々したということで人事の配置転換をしてはいけないということであります。これは原長官も前にもおっしゃったことでありますが、今あなたもおっしゃったように、間違ったことがあるならば、これは譴責とか処分の問題で、人事の配置転換は、これはあくまで業務上の問題というふうに区別をいたしますから、もしもそういう事例がございましたら教えて下さいというふうに話されたことがございます。地方の某局長も私にそう言われました。その点も間違いなく、以前からのお約束でございますが、御履行を願いたい。  それから第三番目は住宅の問題であります。これは労使関係と直接関係はないかもしれませんが、今日国税庁ほど大転勤の多いものはないわけであります。それが常に住宅の問題で非常に支障がある。もちろん地域給の問題もございますが、これほどの転勤率の高いところであるから、住宅には新長官として格別の御配慮を願わなければならぬということであります。一回機会を見て、数字をあげて私の承知をしておるところをお話し申し上げたいと存じます。  それからその次には、冒頭に申しましたように、不当労働行為があったと私は考えておるわけでありますが、少なくとも従前の問題については、時間がありませんから今ここでは申しませんが、今後の新長官の方針として、不当労働行為は中央地方の職制にわたってしない、またそういう誤解を与えるようなことはしないという点については十分に徹底方をしていただきたい、こう考えておるわけであります。  時間がございませんので、きわめて簡単でございますが、私もここまで発言をいたします上については、いろいろと各方面の事情も聴取をいたし、それから地方の当局者の御意見も聴取をし、そして少なからぬ私としての確信を持って申し上げておるわけであります。御理解を願いたい。  先ほど申し上げました事例につきましては、できるならば一回、遠山審議官なり、あなたの直接の担当者でなく、別な方法で各方面のこれらに関する情報を入手していただきたい。そう言っては部下の方にまことに恐縮な話でありますけれども、前からの引き続きの問題もあるでありましょうから、いろいろな方面から、どうしたらこの労使関係がもっと円滑にいくか。そしてあなたの新長官としての、労働問題を円滑にいかせる、今日の労使関係を円滑な方向に回転をさせるという御努力が願いたいと思うのであります。  今申し上げました点につきまして率直な御意見を伺うか、あるいは後日検討の上御問答下さるか、どちらでもけっこうでございます。
  75. 木村秀弘

    ○木村説明員 ただいま御指摘になりました話し合いをするという点は、私も全く同感でございます。すべての組合と管理者側の関係というものは話し合いの上に成立するものでございまして、円満に話し合いをして、そしてすべてのことを処理していくということは、私は前面的に賛成でございます。今後その方向で進みたいと思います。  それから、組合運動をする方々の配置転換の問題でございます。配置転換をするということは、これは役所の仕事の都合でするわけでございまして、組合連動とは何ら関係がございません。従って、組合活動をしておるからといってその人を特に配置がえの対象にするというようなことは従来もやっておりませんし、今後ももちろんこういうことはやるつもりはございません。  それから住宅の問題でございますが、これはわれわれ管理者としてはなはだ不行き届きと申しますか、力の足りないところをおわび申し上げなければならぬと思いますが、今後住宅問題については格段の力を尽くしまして、職員の配置がえとそれに伴う不便が幾分でも緩和できるように力をそそいで参りたいと思います。  また不当労働行為につきましては、先ほど申し上げましたようにもそういう誤解を生ずるような指示をすることは絶対にいたしません。  それから、私の部下が言い、あるいは行なったことについて第三者からのいろいろな情報を聞いてはどうかというお話でございますが、これは私として特にどうこういうきまった筋道でなく、広く一般の意見も聞き、情報はでき得る限り集めたいと思っております。
  76. 藤井勝志

    ○藤井委員 関連して。ただいま横山委員から、私も常日ごろ非常に関心を持った問題について御意見の発表がありましたので、きょうは時間がございませんので、当局側に一応お願いをして、次会ゆるゆると事情をお聞かせ願いたいと思うのであります。  横山委員も御指摘になりましたように、今度の全国税労働組合のまとまった脱退については、それ相応の理由があると思うのであります。ただ私は横山委員とはいささか角度が違った考えでありまして、最近の労働情勢を見ますと、日教組あるいは全逓、国鉄等、過去において相当急進的な活動をした組合についても、批判的な勢力と申しますか、そういうものの動きが活発になってきておる。従って、今回の全国税からの脱退ということは、このような大きな流れの一環として把握されるべきではないかというふうに考えるわけでございまして、そういう事情について、一つ国税庁の長官が実態を直接見ておられる内部の事情をつぶさに次会適当な時制にお話を願って、私は自分が常日ごろ考えておりますことを申し述べてみたいと思うのであります。  特に私は全国税労働組合の綱領を見て実は驚いたのであります。私の見解でありますが、率直に申し上げまして、共産党と何ら変わらないような綱領になっておるとしか思えない。およそ国家活動の中枢は国の財政運営であることは多書を要しませんが、その一翼をになっておる第一線の職員の組合が、具体的に申し上げることは時間の都合上省略いたしますが、驚くべき綱領を掲げておる。こんなことでいいのかというふうに思わざるを符ないのであります。そういう面において、私の私見は、反国家的破壊活動をはっきりと明示しておる共産党に入党しておる諸君は、なるほど憲法においては思想の自由を許されておるけれども、それとまた別の角度から、むしろ本人が自己矛盾を感ずるべきである。従って、これは追放すべきであるというふうに結論として考えざるを得ない。そういう観点から、私は今後いろいろ意見を申し述べたいと思います。これは大問題でありますので、これは私の個人の意見として申し述べたわけでございまして、それこそ言論の自由でありますから、大いに一つ申し述べてみたいと思います。  そういう点が第一点と、それから後段は横山委員に私は全面的に賛成いたします。というのは、福利施設、住宅問題、こういった問題については私も四国をずっと国政調査で回りまして、国税庁の関係当局からも聞きました。何とかしてあげなければならぬということでございまして、国税庁の庁舎の問題、これも皆さん方は仕事の性質上非常に地道な態度で無理を要求されてはおらぬ、お気の毒だという感じを持っておるものでありますので、一つこういった点は、仕事の性質上苦労されておるわけでありますから、事務能率の向上から言っても、あるいはまた配置転換がひんぱんに行なわれるというような職務の性格から言っても、思い切った予算要求を三十八年度はやっていただきたい、これは与野党をあげて賛成する、こういうふうに申し述べておきたいのであります。一つよろしくお願いいたします。
  77. 横山利秋

    ○横山委員 まあ言論の自由でございますけれども、あなたは少し自己矛盾をしていらっしゃるのではありませんか。まああなたに言うつもりはないのでありますが、ただ私の主張を明らかにしておきたいのであります。藤井委員が言われましたように、とにかく庁舎がひどい、働きにくい、住宅が悪い、それで転勤はもう全国公務員に比類のないほどの比率である、そういうところで労働問題が起らないということは不思議なことなのです。従って、その労働問題が起こっておる、これがうまく、はけ口がいかないところに問題が生ずるのですから、私とあなたと前段の情勢分析は異にしますし、全国税の綱領が全く共産党と一結なんというのは、共産党の綱領と全国税の綱領を今度見せてあげたいと思いますが、私はそうは考えていない。しかし話半分としてあなたの言うことを認めたとしても、あなたが後段に言った働く場所が悪くて自民党のあなたですらこれはひどいと言われておるというところに、あなたも少し自己矛盾を考えていただきたい。そういうことだからこそそれを改善さえすれば、かくも問題は起こらないと思うのであります。  それから国税庁側に御注文なさったわけでありますが、この御注文の点が実は筋違いだと思うのであります。これは国税庁に要求して全国税の組織の実体を私どもに知らせよということでは、やはり今私が文句を言っています遠山審議官が調査だ調査だと言って各地で不当労働行為を犯すような結果をますます招来させるのでありますから、委員長にもお願いしたいのでありますが、私と藤井委員とを一緒に現地調査に出していただきたいと思います。そうして住宅の悪いところも一緒に見、問題があった税務署も一緒に行って、二人で一つ何が一番真実であるかあなたのおっしゃるように、もしも労働組合が左の方へ行き過ぎて自律作用が起こったことだとか、右の方へ行き過ぎて左の方に自律作用が起こったことであるならば、これは社会党としても、自民党としても国会で取り上げる問題ではないと思うのです。私が国会で取り上げたのは、労働組合法、人事院規則に明らかに違法となっておる不当労働行為のおそれがあるからいけないと言っておるのであって、その点をあなたも一つ区別をして考えていただかなければならぬと思うのであります。  幸いなるかな、後段の方であなたと全く意見が一致いたしましたことは、心から欣快にたえないところであります。今日の事態を一つ与野党で協力をして現地調査をする機会を与えていただくように、私は要望しておきたいと思います。
  78. 藤井勝志

    ○藤井委員 横山さんと議論をしようとは思わぬのですけれども、自己矛盾だというふうに指摘されたから一言なかるべからず……。私の申し上げたことは実は全国税の綱領の一項、二項、五項、こういったところを私としては指摘したかったわけであります。これは全く政治的な偏向であって、労働組合が経済問題を取り上げて団体交渉によって解決するという範囲から逸脱をしている。しかもその文句は、全く共産党と同じような文句である。ここに綱領がありますので読み上げてみましよう。  「第一項、われわれは政府資本家が掲げておる低賃金重労働を中心とする搾取収奪の攻撃をはね返し、豊かな生活と明るい職場を確立するために戦う。」第二項「われわれは民主主義的諸権利を剥奪しようとする一切の反動政策に反対し、自由と民主主義確立のために戦う。」第五項は、これは非常な問題だと思うのでありますが、「われわれは大衆収奪を機軸とする徴税政策に反対し、市税反対の全国民的戦いに積極的に参加して戦う。」  なるほど重税という名前はよろしくない。しかし税を取る立場におる人たちがこういったことをスローガンに掲げるということは、われわれの常識としては納得できない。こういった考えを持っております。  それから横山委員は長年の体験者であり、大先輩であるわけでありますが、資本家と労働者という概念でものを考えられておる。私は官公労の場合には違うという考えを持っております。これはお教えを願いたいと思うのだが、出す方ともらう方という関係において多少似通ったものがありますけれども、根底は違うということを私は申し上げたい。それを労使の対立と同じ概念で官公労の労働問題を敷衍されるということは、私の考え方とはちょっと違うということを申し上げておきたいと思います。この点は議論はこれで終わります。
  79. 毛利松平

    毛利委員長代理 次会は追って通知することとし、本日はこれにて散会いたします。    午後一時十七分散会