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清水参考人 私、ちょっと初めにお断わりしておきたいのでございますが、
最初の御
紹介に
映画評論家という御
紹介をいただきました。そのことでございますけれども、実は私は現在
東亜株式会社という
外国映画を
輸入する
会社の
製作部長という地位におりまして、
昭和三十一年以来すでに七年間
外国映画の
輸入通関の
事務を直接、間接担当する立場にございます。またそういった
外国映画輸入業者の横の集まりである
社団法人外国映画輸入配給協会の
製作渉外部会の
委員をしております。しかし、実は
部長とは申しましても、私は一介のマネジカル・スタッフでございまして、
利益代表者ではございません。そして私がここではっきり申し上げたいことは、これから私が述べることは、私の奉職する
会社一個の
利益の
代弁でもなければ、私の所属する
外配協の
意見の
代弁でもないということであります。誓って申しますが、これから私が申し上げることは、こういった
会社なり
協会から何らの
制肘も受けておりません。もう少し正確に申しますれば、
制肘を受ける機会はございましたけれども、私は敢然とこれを排しまして、
映画評論家として、とにかく私個人の
意見として、私の信ずるところを述べるということでございます。ただ私が七年間対
税関業務を監督してきたという
実務的経験がこれに加わるということで発言したいと思うわけでございます。
まず
最初に、これは
伊藤先生のおっしゃったことを敷衍するにすぎないかもしれませんけれども、現在の
税関でやっております
映画検査は
検閲ではないか、
検閲ならば当然これは
憲法二十一条によって禁止さるべきではないか。これについて
税関当局は、あれは
検閲ではなくて
検査であるということを常に機会あるごとに言っております。しかし私は不幸にして、それでは
税関当局の考えるところの
検閲というものはどういうものかということを聞いたことがないのです。
検閲という定義がなくして、
検閲ではなくて
検査であるということは、いわば酔っぱらいが酔っぱらっていないと言うのと同じであります。そういう
意味で私が考えますところの
検査というのは、これは事物の数量とか
性質とかいうものに対する物理的、化学的な即物的な判断です。たとえばこれを
輸入映画で言いますれば、
インヴォイス通りの題名、
インヴォイス通りの長さのものが来ているか、三十五ミリとか七十ミリ、そういったものが
インヴォイス通り来ているかという
物理的性質をここでは
検査する、これならば当然
検査であります。しかしその
表現する
内容に立ち至って、いささかでも
表現を
制限するということ、これすなわち
憲法第二十一条に禁止するところの
検閲であるということは、これは今さら論を持たないと思うのです。現在
税関でやっております
映画検閲は
合憲であるという
見解を代表しておられます
山内法制局第一
部長においてすら、現在
税関でやっていることは
検閲といわざるを得ない、
検閲とは、
表現が大体行なわれる前に公の
機関がその
内容が違法であるかどうかを強制的に審査して、違法であると認定した場合には、
当該表現に
権力をもって何らかの
具体的制約を加えること、これが
検閲であって、現在
税関がやっていることは
検閲といわざるを書ないと
法制局当局も認められているわけであります。そうすればもう
税関当局がこれは
検閲ではなくて
検査であるという
酒酔は、この際おやめになった方がいいのではないか。これについては
憲法第二十一条は明らかにそういう
検閲を禁止しているではないか。しかしこれにはもちろん
法制局側は、
山内さんの御
意見では、これは
検閲ではあるかもしれないけれども、こういう
検閲は
合憲であるといういわば例外的な
事例としてこれを認められている
意見があるわけでございます。それは先ほど
伊藤先生もおっしゃいました
通り、簡単に
公共の
福祉がこれに優先して、そういう場合には
検閲は許されてもいいのではないかという
結論、これは
法制局の多年の
難問であったと伺っておりますが、この
難問の帰済するところはこういう大へん簡単な
結論でしかないわけであります。しかし
公共の
福祉が優先すれば
検閲を許してもいいのだということが簡単に言えるかどうか。旧
大日本帝国憲法、これが
言論の自由を許したとはだれも常識的に考えないのであります。これはまさに
言論自由の敵であった多くの
事例を残しております。しかし旧
大日本帝国憲法ですら、第二十九条におきまして「
日本臣民ハ法律ノ
範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」と
言論の自由をうたっているのであります。ただここにくせ著なのは
法律の
範囲内にてというただし書きがついていた事実あります。そしてこれが多くの
言論の自由を抑圧する
法律によってほとんど
本体を食い荒らされたという
事例は皆様よく御存じの
通りであります。今回もまた旧
大日本帝国憲法にかわる
現行憲法で、せっかく第二十一条第二項において「
検閲は、これをしてはならない。」と申しても、
公共の
福祉のためにという
制約を付するならば、ちょうど旧
大日本帝国憲法が
言論の自由をうたいながら、
法律の許す
範囲内においてという例外において
本体を食い荒らされたと同様に、これは二階に上げておいてはしごをはずして死文化するのと同様だと私は考えるのであります。
それでは
言論の自由を保障し
検閲を禁止する第二十一条と、それから
公共の
福祉とは全く相いれないものかどうか。
公共の
福祉に関しては
憲法の第十二条、第十三条がそのことをうたっております。私はこの第十二条と第十三条それから第二十一条を繰り返し繰り返しあわせ読みました。そして私はその
条文を忠実に読み取ることによってこういう
結論に達したのであります。
集会、結社及び
言論、出版その他一切の
表現の自由はこれを保障し
——これは
憲法第二十一条の第一項であります。
国民はこの保障された自由を不断の努力によって保持し、これを乱用してはならない、常に
公共の
福祉のために利用する
責任がある、それを乱用し、
公共の
福祉に反した場合はあるいは
制裁があるであろう、しかしそれを
検閲という
事前の
抑制措置によって抑えてはならないということであります。こう解釈することによってみごとに
憲法第二十一条と
憲法第十二条、第十三条は両立するわけであります。私は、現在の
憲法の精神はこう解することが
唯一無二の道である、そう考えざるを得ないわけであります。従いまして、
事前の
抑制と
事後の
処理——事後の
処理は、あるいはその自由が乱用された暁、
公共の
福祉に反した暁それは仕方がないかもしれないけれども、
事前の
抑制というものはいかなる
方法によってもとってはならない。私はいかなる
方法によってもと言いましたが、私が読みかじりましたところでは、たとえば
事後の
処理がほとんど
意味をなさないような場合、たとえば
国家の機密の漏洩があるというような場合は、例外的に
事前の
抑制、いわゆる
検閲が許されるというようなこともあるかと私は読みかじりましたけれども、
映画の
検閲がこういう
事前の
抑制の
範囲内において許されるというものでないことは論を待たないわけであります。それに対してまた
山内第一
法制部長は、
事後の
処罰によってたとえば
刑事責任を問われるならば、それよりは
事前の
抑制によってその
刑事責任を問われる不名誉と不
利益をあらかじめ避けた方がより
関係者のためであろうというようなことを言ってこの
事前の
検閲を
合憲化そうとしておられます。さらに進みまして
法制局の
見解は、
公安を害すべきというのは、破防法第四条第一項第一号に言うところの
刑法第七十七条、第八十一条、第八十二条、これを読みますれば、内乱、
外患誘致、
外患援助、そういうものである。そういうものについて
刑事責任を問われるものは
事前に
抑制した方が、たとえば
映画の場合は
輸入業者のためではないかということであります。また
風俗を害すべきというのは、たとえば
刑法第百七十五条にいうところの
わいせつ文書頒布のごときものであると言っておられます。かりに私が一歩を譲って、こういうものが
事前の
抑制として
事後の
処理よりも
輸入業者のためであるとしてこれを
合憲であるとしたといたしまして
——この点も問題でありますが、そして私が先ほど申し上げたように
検閲はこれをしてはならない、
事前の
抑制はこれをしてはならないという
結論にいささかの狂いもないのでありますが、かりにこれを譲って認めたとして、現在の
税関でやっております
検査もしくは
検閲というものが全くこの
範囲内にとどまっているでありましょうか。
山内部長はこのとき、
税関の
検査というものは、こういうふうな
わいせつを現わす書籍等
刑法第百七十五条にひっかかるもの、あるいは破防法第四条にひっかかるもの等本来
表現の自由の内在的
制約のワク内にあったものに限定さるべきものであると説明しておられます。はたして現在の
税関のやっております
検査あるいは
検閲はこのらち内にとどまっておるものでありましょうか。現在の
税関の
検査は、もしそれが不満であった場合には、
輸入業者の訴追
機関として
輸入映画等審議会というものがありますが、はたして
輸入映画等審議会は十分これを承知しておるのでありましょうか。これは当然承知していないと断定せざるを得ないのであります。それにしては
輸入映画等審議会のメンバーは、そういっては失礼かもしれませんが、何とそうした
刑事責任を問うには職業がら
法律に暗い方々ばかりがそろっておるのでありましょうか。もし
山内第一
部長が言われるように、
事後に
刑事責任を問うより
事前に
抑制というならば、その
輸入映画等審議会のメバンーは当然もっと検察庁的な立場から占めらるべきであろうと思います。
山内第一
部長が、狭い
範囲内において
税関の
検査が許される場合にのみ
合憲であるといっておられるのと、現在
税関がやっておることははなはだしい距離があるといわざるを書ないわけであります。それであるからこそたとえば普通にいうところの有識者が
輸入映画等審議会のメンバーになっておりまして、そしてその
委員長の口から、自分は一種のお毒味役であるというような、およそ
法律的な
刑事責任を問うには縁遠い随筆的な言辞が弄されるわけであります。
私はこれを具体的に申し上げるために、最近
税関で
表現の
制限を受けました
映画の例を持って参りましたけれども、これは長くなりますから簡単に申し上げますが、ただ
一つここで「ニュールンベルグ裁判」という例を引かしていただきたいと思います。この「ニュールンベルグ裁判」は、ゲーリングとかゲッベルスとかいうAクラスの裁判をさばいた裁判のあとに行なわれましたやはりドイツの戦犯をさばいた裁判において、本裁判の裁判長の人間的な悩み、それからさばかれる被告がドイツの法曹界の大立物であるというような設定、そしてそういうふうな非常に問題性の多い裁判におきまして、
アメリカ側の検事とドイツ側の弁護人とが非常にちょうちょうはっしとして真剣な
議論を戦わす。これは
アメリカ映画でありますが、一
アメリカという
利益を全く超越いたしました非常に公正な、現在考えられる限りの最も国際的に公正な高度な立場からこのニュールンベルグの裁判を描いたものであります。この中で一部カットがございます。一部
表現が
制限されておるところがあります。これはナチスの残虐をあばいた部分でございまして、それと同様の場面は、たとえばその前の「わが闘争」とか「左手の幻想」とか「夜と霧」とか、そういった場面でも
制限を受けました。しかし私はここで申し上げたいことは、たとえばこれは比喩にすぎないかもしれませんけれども、たとえばここできょうの何時何分に東京に大地震がある、東京が全滅するというような
言葉は、これは
言論の
表現の自由の
範囲を逸脱しているかと存じます。またこれをたとえばテレビ・ニュースというような形で言うことも、これも
表現の自由
——テレビ・ニュースもそこまで
表現の自由は持っていないと考えられると思います。しかしそういった流言飛語を飛ばす人間が
処罰されるということを
映画で描くということ、たとえばそれを諷刺喜劇で諷刺的に描くということ、そういう者を狂人として描くということ、これは当然
公共の
福祉に反しない、群論の
表現の自由のらち内であると存じます。ここで「ニュールンベルグ裁判」でかつて
表現のカットされたのを
——私は端的にカット、カットと俗な言い方をしますが、カットされたと同じ部分が出てくるといたしましても、これはニュールンベルグ裁判の裁判の法廷におきまして、検事がナチ・ドイツの残虐をあばく証拠として持ってきたフィルムの中の一部であります。つまりその
内容でなくてその意図こそ重視されるべきではないかと思います。こういう
意味で
表現というものを
制限していいかどうかというものさしはこういう点にこそはからるべきではないか、こう考える次第であります。
もう
一つ例を引かしていただきますと、「大陽がひとりぼっち」という
映画がございます。これはまだ未封切でございますが、この「太陽がひとりぼっち」という
映画におきましても、これもごく最近
税関で一部分が
表現の
制限をされました。それはヒロインがつれづれなるあまりボールペンをもてあそぶのでありますが、そのボールペンが、まっすぐ立っているとそのボールペンに女のヌード姿が映っておりまして水着が映っている。そのボールペンをさかさにするとボールペンの水着が脱げてその女が裸になる、そういうボールペンをもてあそぶシーンであります。ボールペンのクローズ・アップは出ません。女がもてあそぶシーンがフル・シーンで出て参るわけであります。ところがこのボールペンのヌード姿は
——こういう公の席で言うのははばかることかもしれませんが、その局部に陰毛のようなものが見えるということでカットされました。こういうことも私は、たとえば前の
わいせつ罪の予防的な削除ならば、削除と言い切っていいでありましょうか、私は大へんに疑問を持つのであります。こういうシアリアスな席上でこんなことを申すのはなんでございますが、それと同様のボールペンを私は現在ここに持っております。なんでしたらお見せします。そうしましたら、こういうものが
わいせつ罪として
制限を受けるならば私も
わいせつ罪としてあるいは告訴されるのではないか、私はそれでもどうぞ告訴していただきたいというわけであります。そういうわけでたとえば
山内第一
部長が言われるような、つまり破防法第四条または
刑法第百七十五条にひっかかるような条項のみを、当然自後の処分にゆだねたならば
刑事責任を追及されるようなもののみを
事前に
抑制しておるということははっきり言えないと思うのです。言いかえれば何ら
法律的に根拠なしに
事前の
抑制をしていると言わざるを得ないのです。それでは先ほど
伊藤先生もお話しになりましたように、こういう
違憲の疑いの濃い、いやもうはっきり言って
違憲と断定していいような
税関の
検閲をかりに廃止した場合に、それではいわば野放しにしていいかどうか、私は野放しという言うは非常に不適当だと思うのでありますが、そういうことを申しますならば、
日本映画はつとに野放しであります。少なくとも戦争の終わりごろに、あの
映画法が廃止されて以来、
日本映画はつとに野放しであります。しかしそれを
自主規制する
機関として
映倫があることは御承知の
通りであります。これはまさに
憲法第十二条にいうところの自由の乱用を自制する
機関であると私は考えております。
外国映画もこれに従いまして、そうしてこの
映倫というのは倫理運動であればこそ、
刑法に抵触するかしないかという以上に、もっと倫理的な道徳的な修正を行なっております。例を
外国映画にとりますれば、
昭和三十三年におきまして、
税関で削除された以上に、
外国映画が十六本について二十二カ所の
表現制限もしくは修正を行なっております。三十四年には
外国映画は十九本、三十三カ所、三十五年、二十五本、四十二カ所、三十六年十本、二十カ所を行なっております。
税関が切ったあとに、しかもなお
映倫はそれだけ切っておるのであります。こういう
映倫になぜまかしておけないでありましょうか。
日本映画は
映倫だけでまかされておりまして、
映倫発足以来十三年、新
映倫に改組されて以来五年、
映倫の審査にまかされておりまして、
映倫の審査後に
刑事責任を問われたものは、私の知る限りでは、ことしの春の「肉体の市場」という
映画ただ一本であります。しかもこの際も
映倫は警視庁と談合いたしまして、今後はこういうことが再び起こらないように警視庁と
映倫は密接な関係、連絡を密にして、このようなことを防止しようと申しております。しからば、今後
映倫にまかしておいて、
外国映画を
税関の
検閲というのをなくして
映倫にまかしても、このようなことはそう起こることではない、いやほとんど起こることはないといっていいと思うのであります。
それからまたもう
一つ、そういう
映倫ならば、
税関で今まで切ってきたところをかりに切らないでおいても、
映倫が切るであろう、
税関で切られても
映倫で切られても同じことではないかという
議論、それはある場合には結果的にはそうであるかもしれません。そうしてそういうケースが実際問題として多いと予想されるからこそ、
輸入業者もある程度
税関の
検査を仕方がないもの、これをパスしても
映倫で切られるのではないかというふうに是認してきたきらいがないとは言えないと思うのであります。しかし、これは文字
通り結果的なものでありまして、将来起こる
可能性について考えるならば、これは非常な相違がある。公権による削除と、それから
自主規制による削除と、たとい削除された結果が同じであっても、部分が同じであっても、将来予測される危険においてははなはだしい差異があるということはもう申し上げるまでもないと思います。
それから
山内第一
部長は、そのほか行政技術上の問題として、たとえば非常に多くの
外国映画が入ってきて、これを実際
刑事責任に問う場合に、
取り締まりが困難だというようなことを言っておりますが、その場合にあげられておる数字は、これは大へん数字の魔術
——あるいは
山内第一
部長がこれは御存じないのではないかと思われるような数字の魔術がございまして、この数字が示す以上に、これは困難なことでもなければ、実際問題として非常に多いものでもないのであります。この点は非常に専門的なことになりますから、もし、あとで御質問でもありますれば答えますが、私はここで説明いたしません。たとえば去年の
検閲件数の中で、ニュースの
検閲が二千二百五十件を占めておりますが、これなどは普通われわれが考えて、二千二百五十件も
外国ニュース映画を見ておるとはとうてい思えないのであります。こういうような数字の魔術については御質問があればお答えいたします。
以上をもちまして、私は、今の
税関が
検査という名のもとに非常に出過ぎた
検閲をしておる、これは明らかに
違憲であるということを申し上げたわけであります。
最後に締めくくりといたしまして、私はほんのこれは読みかじりでありまして、その点は多少気がひけるのでありますが、ちょっと問題が違いますが、東京都
公安条例の判決の中での二人の裁判官の
意見、その点が私は非常に印象に残っておりますので、その裁判官の
意見を申し添えて私の
言葉を終わりたいと思います。
これは最高裁判所において垂水裁判官が、
表現の自由の
制限は、
公共の
福祉のためにという抽象的尺度でもって
制限なされてはいけないと申しております。また藤田裁判官は、
取り締まりの非常に急なるのあまり
憲法に保障する自由の
本質を見失うようなことがあってはならないと申しております。これは直接には集団行動をさしているのでありますが、集団行動のような暴力に犯すべき危険が内在していないとは言えないような問題に対してもかくのごときであります。しかもこれが
映画というような、あるいは
言論というような、非常に平和的な、間接的な
表現において、先ほども申し上げましたように、
検閲というような
事前の
抑制という形をとってはならないということ、これが
憲法違反であるということは、私は明々白々な事実であるということを申し上げまして、私の話を終わりたいと存じます。(拍手)