○高橋
参考人 二、三日前大学で卒業式が終わりまして、学生諸君にはもう諸君は試験をされることはなくなったと申してきたのですが、きょうは私が学生みたいに皆さんからお尋ねを受けることとなって大へん光栄に存じます。
予防線を張っておきますけれども、私は
国会審議のことは何にも存じません。それから
財政制度審議会のことも承っておりません。今日問題になっておりますことについてふだん
考えておりますことを申し上げます。先ほどから
河野さんと皆さんとの
お話を承っておりまして、何か最初に十分くらい述べろという
お話でありますから、ちょうどいいので、今伺ったことに関連して私の
考え方を述べさせていただきます。
こういうことであります。昔私たちが学生
時代に習って、最近まで学生に教えております
経済学、
財政学はこういうふうになっていたわけであります。ある国の
経済全体のことを
国民経済と呼ぶといたしますと、
国民経済の中に
政府財政の
経済と
民間の
経済があるというふうに分けまして、それでは
政府の
経済、
財政、広い
意味での
財政の方の
経済と
民間経済とはどういう
関係にあるか、そういう問題であります。それについて、
民間経済の方は天然現象みたいに自分で自分の問題を解決していくのだ。それでその国全体の
経済なり国民全体の生活がうまく行なわれるにきまっているのだ。従って、
政府の
経済、
財政の方はなるたけ何もしない方がいいのだ。国防とか警察とか、せいぜい義務教育、最低限度の衛生とかいうことくらいをやった方がいいのだ。御承知のように、そういう国家のことを、自由主義
経済はなやかなりしころは野経国家、野蛮な
経理をしている野経国家ということを言いまして、安いほどいいのだ。これは国民の一人々々からいいますと、どうしても税金をとられる
関係になりますから、その点だけを
考えれば税金は安い方がいい、
政府は小さい方がいい、そういう
考え方が強かったのだと思います。そういうことが今日に至りましても
経済学者の中に、私たちもまだそういう古い
考え方から完全には抜け切っていないのですけれども、
財政というと何だか
国民経済全体のうちでは居そうろうみたいな、大した
意味のないものだというふうな
考え方がまだまだあると思うのであります。しかし日本でいいますと、満州事変前後の恐慌、世界的には一九二九年、三三年ごろの大恐慌からこっち、
経済学では御承知のようにケインズという人の名と結びついて言われるような
考え方でありまして、どういうことかと申しますと、自由主義
経済だけでは、
民間経済だけでは恐慌とか不景気とか失業とか、ことに日本のようなあるいはイタリアなんかもそうでありますけれども、相当過剰人口のあるところでは国民のかなりの部分に対してまともな生活を保障できない。すなわち完全雇用と社会保障、それから中小企業、零細企業なんかのあり方に対しては、自由
経済をもとにする
民間経済だけではだめだということが、大よそ
考え方の上でも、実際政策の上でも認められてきたのだと思うのであります。そういう状態でありますと、それでは国の方では
財政の方ではどうしたらいいかということになりますと、そういう
事情の必然的な結果といたしまして、完全雇用とか、社会保障とか、中小企業とか、これは国内においても低開発地域などについては国家、
政府が当然責任を負うべきだという
考え方が起こっているのだと思います。
そういう点で、こういうことを申し上げたいと思うのでありますが、アメリカの
経済学者で、アメリカ
政府の
委員や役もやり、それから戦争後はドイツの占領政策にも
関係した一考でありますが、その人がこういう本を書いております。それは国家資本土義という
言葉であります。その人は国家資本主義という
言葉を
一つに分けまして、
一つは形式上の国家資本主義、
一つは
実質上の国家資本王義というのであります。形式上の国家資本主義とは何だといいますと、
民間経済にまかせておいたのでは
経済の問題、国民の問題が解決つかない。そこでどうしても国家が出てこなければいかぬのでありますけれども、形式上というのは
財政の問題、国家の
支出の問題、これはきょう問題になると思いますけれども、
財政投融資などという金の問題が出てこない点で、
政府が
民間経済、資本主義
経済に対して関与または干渉することによって問題を解決しよう。たとえばある廃業を保護したいというような場合には、保護関税政策をしいてある産業を保護する、あるいは労働基準があまりに劣悪であれば労働基準法などをしいてやろう、そういうような形で形式上
法律や法令などで資本主義
経済の悪い点を直そうというのが形式上の国家資本主義。
実質上の国家資本主義というのは申し上げるまでもなく、
補助金その他価格、いろいろな形で
政府が
財政投融資をすることによってその国の
経済全体を円満にいかせよう、そういう
考え方であります。その学者は、日本の翻訳についての序文でも言っておるのでありますが、日本には、アメリカという国は自由
経済だ、自由企業性をもとにしている
経済だという伝説が伝わっているらしいけれども、そんなことはない。アメリカでは財界でも農民
関係でも労働者階級でも全部が国家の力を形式的にも
財政的にも利用してお互いに均衡を保ちながら損をしないでやっていくのだ、そういうようなことを言っておりまして、日本もその目で見ればそうなっているのではないか。自由な資本主義というのはないので、形式上の国家資本主義か、
実質上の国家資本主義かでない国は今日はないのだということを言っております。
では、そういうことを
考えますと、今日の世界なり、あるいは各国の状態では
財政というものが
民間経済の従たる役割しか演じないということはかなり
考え直さなければいけないのではないか、そういうふうに
考えるわけでありまして、そこでこういうことになるわけですね。景気変動というのが三年間——日本はもっと短くなって三年か五年くらいで景気の上昇があり下降があるわけであります。そういう場合に、だれでも困りますけれども、下降の場合、不況の場合困りますのは、どうしても中小企業、零細企業あるいはそういうところで働いている労働者、あるいは農民でもすその方の人が困るわけであります。そこでもしその国家が民主主義国家であって、社会保障、完全雇用、零細企業などの保護ということに責任を負っている国であるならば、私は日本もまたそういう国であるべきだと思うのでありますが、そうしますと、どうしても
財政の方は一年こっきりの
考え方というのはおかしいのでありまして、もし景気変動が五カ年くらい継続するなら五カ年間全体を通じた
財政計画、
財政政策というものがあるべきだ、そういうふうになると思うのであります。
ただそこでこういう問題が起こってくるわけであります。それは民主主義という問題であります。
民間経済については
一つ一つの資本主義的な企業の中でありますなら、その企業内部の労働者側、経営者側との産業民主的な協商なり、闘争といってもいいのでありますが、そういうことで解決していくことになります。それから今申しましたような大きな
意味を持つようになってきております
財政については、これは中央
政府の
財政については
国会の方々が
政府を監督しながら、あるいは
政府と交渉しながら先ほど申し上げたようなことをやるべきであり、地方
政府については、地方の議会と地方の
政府の問題になりますけれども、そこで民主主義ということからいいますと、
つまり国民が出す金を
政府がどう使うか、あるいは国民のために使う金を
政府がどう使うかという点で
国会による
政府の監督なり、
政府と
国会との
関係がどうかということにかかるのだと思うのであります。
今回の
財政法二十九条の
改正というのは、そういう
意味では前向きの
改正だと言えるわけでありまして、われわれの間ではせんだってまでは、議会の一方の側は従来のようなことをやっていても
財政法には反しないのじゃないかということを言っていたようですけれども、それではどうも
財政法の建前上おかしいじゃないか。しかしわれわれといたしましては、
法律上の
解釈がどうあろうとも、
実質的にいい方に直せるなら早くそういう方向にいった方がいいのじゃないかという
議論をしているのでありますけれども、今度そういうふうな
改正が行なわれることになったわけであります。ただ、あくまでも申し上げなければいけないことは、基本的に大局的にはそういう
意味を持っております
改正であっても、先ほどあとの方で
河野さんと皆さんの間に非常に御
質疑があったようでありますが、その使い方その他が
国民経済全体、日本全体のためから見て思わしくない、圧力が強い方だけにいってしまうんだということになりますと、先ほどから申し上げております、私の
考えているところとは非常に違うことになるのだと思います。
では、一応そのくらいにしておきますが、よろしゅうございますか。