○
八木(一)
議員 少し時間をかけて、私
どもの
考え方をすっかり明らかにさせていただきたいと思います。
今、少し高いところを
考え過ぎているのじゃないかというふうな
気持も含めた御
質問でございましたけれ
ども、私
どもは相当高いところを
考えておりますが、それが当然であろうという
考え方に立っているわけであります。健康で文化的なという点は、非常に幅のある
考え方ですけれ
ども、健康ということは
人間の
ほんとうの一番大事なことですから、これは完全に
考えなければいけないと思います。たとえば三八%
程度の
生活保護法の時代であれば、ただそのとき死なないというだけであって、自分の、たとえば肝臓にたくわえた、筋肉にたくわえた栄養分を食べながら、従ってやせ細りながらそれでその時代を生き過ごしていたというにすぎないわけであります。従って、その寿命は、場合によっては急速に結核になって死んでしまうこともあるし、そういうことを免れ得たとしても、普通の、今までの日本の
生活で生きられる寿命が、五年も七年も十年も縮まったという状態をその当時は示しておった。そういうことであってはならない。それからさらに、このようにいろいろ医学も進歩した、
人間の寿命も延びる要件ができたというようになったときには、そのようなことをやって、今まで、たとえば
昭和の初年あるいは大正年代の寿命を保つだけではなしに、そのような新しく発達したいろいろな科学あるいは
社会的のいろいろな
方法、それが適用されて、少なくともその人が生きられる年限、うまくすれば、たとえば七十五まで生きられる、八十まで生きられる、そういうようなところまでこれを十分に
保障するものでなければ、
ほんとうに健康な
生活を
保障したということにはならない。その
意味で、たとえばビタミン剤が必要であれば、またビタミンの非常に入っているたとえばトマトとか、そういうものが必要であればそういうものが十分に食べられる
生活で、
ほんとうにその人がいい条件であれば命を延ばし得るというような、健康を保ち得るというものでなければならないわけであります。
昭和三十二年度ぐらいはめちゃめちゃですし、その人が普通に生きられる寿命を十年も縮めておったと思います。今の状態でも、これはやはり命を縮めておると思います。従って、少なくとも今度上がったのでよくなったといわれても、延ばし得る命を延ばす、保ち得る健康を確立するということにはならない。
生活保護を受けている
人たちの子弟と、そうじゃなくてしあわせな
人たちの子弟が、ほかの体格が同じだったら、バランスさせてみたら片方は簡単にへたばることは明らかです。片方は栄養が豊かですから、新記録は出さないまでも、どんどん走り抜くでありましょう。そういうように、
ほんとうに健康というものは基本的なものですから、今の科学でそれを延ばし得るもの
——ぜいたくなものは必要ありませんけれ
ども、延ばし得るもの、それを全部補てんするものでなければならない、その
意味の
最低であっていいと思う。ですから、普通でいう
最低生活とはめちゃくちゃに違う高度のものでなければならないと思うわけです。
それからもう
一つ、
生活保護法の
基準をよくすることによって、たとえば
生活保護法の
基準以下の賃金で働くというような間違ったことがなくなると思う。これが
政府の方も、労働
関係でございますけれ
ども、
最低賃金を作るのには熱心だということをいわれる。しかし、私
どもとしては、そんなに十分に熱心であるとは思わない。全国一律の
最低賃金制を積極的にやろうとせられない点で非常に不満でございますが、一応熱心にやっておるといわれている。そういうときに、この
生活保護法の
基準が上がれば
最低賃金も上がらざるを得ないし、その働いている人々全体が、非常に金を持っている人が栄耀栄華をしているのに、その
人たちが働いて
社会を背負って立っているのに、それだけの十分な
生活ができないという状態を押し上げる作用を持つと思うのです。そう申し上げますと、そういう働いている
人たちはそれでいいけれ
ども、働かない
生活保護を受けている
人たちは、それではいけないんじゃないかというような
考え方がまた別に出てくると思いますけれ
ども、
生活保護を受けている
人たちは、私
どもは働きたいけれ
どもその機会が与えられなかった、完全雇用政策が進んでいないために与えられなかった、形式的に職業は与えられても、賃金が悪い、労働条件が悪いから、実質的に雇用されている状態ではなかった、半失業の状態だった。またそれ以上に大きな要因は、医療
保障の
制度が完全でなかったために、たとえば
国民健康保険の五割給付しかない、あるいはいなかの方では、健康
保険制度があっても診療所がないために見てもらえないで病を重くしてしまった。そういうような、医療
保障のそういうことがなかったために予防衛生もない、積極的な健康増進の
制度も非常に不十分であるというようなことのために、からだを弱くして、そういうふうになって
生活保護を受けざるを得ない羽目に陥っている。それから、またはいろいろな障害を受けたときに障害に対する
保障がない、老齢に対する年金の
保障がはなはだ不十分である、今まではなかったというようなことのために、そのような
生活保護を受けるような
基準だった。一切その
人たちの
責任ではない。それは一億に一人くらいは、能力がありながらなまけている
人間があるかもしれませんが、その大部分は政治のやり方の不十分さのために、
社会が冷たかったためにそういうことになったわけでございますから、それは当然
社会全体で、この
人たちの健康で文化的な
生活を保持しなければならないと思います。健康で文化的な
生活というのは、さっき申し上げたように、少なくともその人が、今の進んだ科学、今の進んだいろいろの諸施策を活用しさえすれば、その人の保ち得る寿命を完全に保ち得る、その人の保ち得る健康を完全に保ち得るというような
程度のものでなければならない。後に申し上げますが、これは四月から
改定をされましたけれ
ども、一食当たり
平均が十円台あるいは二十円をちょっとこすというようなものでは、ろくなものが食べられない。算術
計算では、それでもたとえば魚の端くれをたまに、それから葉っぱの端くれをたまに、それで御飯のあまり上等でないお米をたまに食べれば、カロリーが入って何とか生きられる
計算になっているかもしれませんけれ
ども、
人間は生きる動物であります。科学の鉄の機械ではない。虫の食った葉っぱでは食欲が出ないということもある。食欲が出なければ完全消化されない。それが完全に消化されて完全に吸収されて、やっと生存するような
基準、そういうものであってはいけないので、かなり大幅に引き上げなければならないと
考えているわけであります。
少し御
答弁が長過ぎましたので、まだ申し上げたいと思いますけれ
ども、次の御
質問のときに譲りまして、
勤労収入の
認定緩和についての具体的な
考え方はどうかということをおっしゃいました。
勤労収入の
認定の
緩和についても、これは
一般の
生活保護基準、この
法律によれば
生活保障の
基準、この
基準との関連があります。でございますから、この点も
生活保障基準審議会の
方々におまかせをしているわけであります。しかしながら、私
どもとしては、ある
程度の
考え方は当然持っている。その
考え方の根底は、
小沢先生は自民党における
社会保障の
権威者でありますから、十分に御承知であろうと思いますけれ
ども、蛇足と思いますけれ
ども、ごくちょっと御
説明申し上げますと、今の
収入認定の控除の
制度では、働く者一人について幾らという金額しかございません。それからもう
一つ、そういう
勤労控除の理屈立ては、
小沢先生おっしゃったように、必要経費の控除ということになっているわけであります。実際はあまりに冷たいこの
法律でありますから、行政運用を相当あたたかくしないととんでもないことになりますので、厚生省の行政運用はかなりあたたかい配慮がされておりまして、たとえばこの必要経費の控除といっても、そこには何らかのゆとりを持った
計算をしておられるように私
どもは解釈をいたしております。これは何も
政府が全部悪いわけではなくて、
政府もあたたかい配慮をすることもあるという私
どもの
考え方として解釈をしますと、そういうふうに思います。それにしても、もとは必要経費の控除でありまするから、どのような
計算を精密にしていられるかは、厚生省の方でお聞き下さればはっきりわかると思いますけれ
ども、労働する人はそれだけのエネルギーが必要でありますから、それだけの食いもの代を必要経費として
計算しておるとか、あるいは汗が出ればタオルが必要であるとか、顔を洗えば石けんが必要だとか、歩くためにははきものが必要であるとか、下着がよけい要るとか、そういうものを
計算をしていられるものと推定しておるわけでございますから、少なくともその推定が、必要経費の控除でありますから、そういうものは働きに出るために必要であります。従って、そういうものはほかの
生活を潤すことにならない。働くためにタオルが必要だ、そのタオルはどろまみれになりながらもしぼって、うちで顔を洗うときに使えますけれ
ども、働きに出たときに使った石けんは、うちに持って帰ったら分量は減っておるわけでありますし、働きに出るためのエネルギー補てんとしてのものは、ほかの者には回らないわけであります。従って、その理屈でいえば、働きに出て
勤労控除を受けても、その中の勤勉手当は幾分違った
意味を持っておりますけれ
ども、一番大事な
勤労控除の中の基礎控除の部分については、働きに出て必要なものでありますから、それだけ
生活がプラスになる要件は理屈上はないわけです。あたたかい配慮がありますならば、幾分そのうちの何割かは実際の
生活を潤すに役立っていると私は理解しておりますが、基本的には
生活を潤すことになりませんから、結局働いたら働いただけの、働きに必要なものだけはもらえるけれ
ども、あとは
生活のプラスにならない。結局極端に言えば、疲れが残るだけ損だということになるわけであります。そういうことでは
自立助長ができない。従って、
勤労控除それ自体においても、そういうような必要経費の控除という非常にむずかしい理屈を使わなければできないようなことをなくして、
法律的にそういうことを堂々とできるようにして、勤労の
自立助長、
勤労意欲を助長さして、そして
自立助長をするために積極的にそれ以上のものを控除できる、実際にそれだけのものが
生活を潤すということにすべきだと
考えておりますし、また、今の
制度では働く人一人について幾らというきめがございますので、その人にたとえば五才の子あるいは七才の子、病気の妻、そういうものがあった場合でも、たとえば働く者が単身の場合でもこれは金額が同じであります。これでは
ほんとうに
生活を潤すことになりませんし、妻子のために、少し苦しくても
生活を潤して、ちょっとでもおいしいものを食べさしてやりたいというような意欲を起こさせるためには、家族一人当たりについて控除幾ら、
収入のうちで幾ら控除されて実際の
生活に残るかという
制度を作り上げないと、
ほんとうの
自立助長にはならないと
考えているわけです。私
どもの
考え方では、このように家族一人当たりの控除という方にかなり重点を置いて
考えております。その金額が一人当たり幾ら、これは千五百円なりあるいは二千円なり、そのような金額が妥当であろうかと
考えておりますけれ
ども、これも
生活保障基準審議会の全体の
基準の上がったバランスによって、その非常に民主的な熱心な
権威者によってきめていただきたいと
考えておるわけであります。
また、これを永久的にやるかどうかという問題についても、問題があろうと思います。
自立助長をするためには、永久的にその問題に甘え過ぎていたら
自立助長はできないかと思います。従って、その人の金額の何分かは、ある時限を切ってそのようにするという
考え方を
小沢先生は
考えておられるのではないかと思いますが、私はそれを全面的に否定するものではございません。しかしながら、それが半年とか一年というような短期間であれば、本来私
どもの
考えておる
意味は抹殺されるわけです。もう少し長い期間で、しかもずばりと切るのではなしに
考えていく必要があろうと思います。また、今家族一人当たりの
勤労控除の
緩和という点につきましても、一段階にする必要はないと思います。幾らまでは
——たとえば千円までは一律に控除する、次の二千円については半額を控除するというような段階、あるいは二段階ではなしに三段階にするということも
考えておりますが、
ほんとうの
自立助長の
意味を込めるために、そのような配慮が必要ではないかと
考えておるわけであります。しかし、こういう
考え方について、すべてこの民主的な
権威者の
審議会がきめていただくことを期待をして、この
法律を出したわけであります。