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1962-02-08 第40回国会 衆議院 決算委員会 第5号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十七年二月八日(木曜日)    午前十時五十二分開議  出席委員   委員長 鈴木 仙八君    理事 木村 公平君 理事 高橋 英吉君    理事 小川 豊明君 理事 勝澤 芳雄君    理事 西村 力弥君       宇田 國榮君    久保田藤麿君       鈴木 正吾君    濱田 正信君       藤井 勝志君    久保 三郎君       森本  靖君    古賀  了君  出席政府委員         外務事務官         (移住局長)  高木 廣一君  委員外出席者         外務事務官         (移住局外務参         事官)     鶴我 七蔵君         外務事務官         (移住局業務課         長)      高良 民夫君         外務事務官         (移住局調査官)田村 坂雄君         農林事務官         (振興局参事官)橘  武夫君         農林事務官         (振興局拓植課         長)      三善 信二君         参  考  人         (ドミニカ国サ         ンチェス地区漁         業移住帰国者) 川畑太一郎君         参  考  人         (ドミニカ国ダ         ハボン地区農業         移住第二船帰国         者)      峯 市之助君         参  考  人         (ドミニカ国ネ         イバ地区農業移         住第三船帰国         者)      久保 文雄君         参  考  人         (ドミニカ国ネ         イバ地区農業移         住第三船帰国         者)      森  正次君         参  考  人         (ドミニカ国ハ         ラバコア地区農         業移住第四船帰         国者)     当銀 芳次君         参  考  人         (ドミニカ国ド         ベルヘ地区ハラ         バコア地区農業         移住第四船帰国         者)      石田 友吉君         参  考  人         (ドミニカ国コ         ンスタンサ地区         ハラバコア地区         農業移住第四船         帰国者)    星川嘉一郎君         参  考  人         日本海外移住         振興株式会社監         査役)     上塚  司君         参  考  人         (日本海外協会         連合会前ドミニ         カ支部長)   横田一太郎君         専  門  員 黒田 久太君     ————————————— 二月七日  昭和三十五年度国有財産増減及び現  在額総計算書  昭和三十五年度国有財産無償貸付状  況総計算書 は本委員会に付託された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  参考人出頭要求に関する件  昭和三十四年度一般会計歳入歳出決  算  昭和三十四年度特別会計歳入歳出決  算  昭和三十四年度国税収納金整理資金  受払計算書  昭和三十四年度政府関係機関決算  書      ————◇—————
  2. 鈴木仙八

    鈴木委員長 これより会議を開きます。  昭和三十四年度決算を議題とし、外務省所管、特にドミニカ移住問題について審査を行ないます。  本日は、さきにドミニカ移住され、最近帰国された方々参考人として御出席を願っておりますので、これから参考人方々より現地状況等について実情を聴取いたしたいと存じます。  御出席いただいております参考人川畑太一郎君、峯市之助君、久保文雄君、森正次君、当銀芳次君、石田友吉君、星川嘉一郎君の諸君でございます。  この際一言ごあいさつ申し上げます。参考人各位には、お忙しいところ、また遠路本委員会に御出席いただき、まことにありがとうございました。厚くお礼を申し上げます。  さっそく参考人よりの実情聴取に入りますが、実情聴取委員質疑によって行ないたいと存じますので、さよう御了承いただきます。  なお、参考人各位に一言申し上げておきますが、御発言の際は委員長の許可を得て発言をしていただくようお願いいたします。この際参考人各位に特に御注意申し上げますが、当委員会における意見の開陳は、全く自由な立場で、何ものにもこだわらずに行なっていただきたいと存じます。  まず参考人の皆様より、各自五分間程度各位の経験せられた現地実情等につき御発言いただきたいと存じます。川畑太一郎君。
  3. 川畑太一郎

    川畑参考人 自分といたしましては、漁業移住者として、昭和三十一年の九月の五日、横浜を出帆いたしました。そして昭和三十一年の十月の二日マンサニリョ港に到着して、その後一カ月で船が到着して操業にかかりました。それから、その付近一帯が一月半くらいボラの漁獲がありまして、非常によいと思っておりましたですけれども、沖合いの漁業がほとんどだめな関係に終わり、漁群が少なく、そして昭和三十三年十月十二日にベアタ島に移転となったのであります。そしてベアタ島において漁群調査昭和三十三年の十月から始めまして、約一年間、昭和三十四年の九月四日まで、この土地において漁獲調査をして努力を続けてみましたですけれども、全然自立のできる漁獲はないし、なかなかその間の生計というものは困難を感じたのであります。  それから、その土地陳情の結果、三十四年の九月の四日ミッチェスに転居となりました。そして、昭和三十五年の八月一日までその地において操業を続けましたですけれども、ここにおいてもなかなか自立する漁群はなくして、なおその後昭和三十五年の八月一日よりサンチェスにおいて調査をいたしましたですけれども、どうしてもわれわれ漁業者というものの生計を維持する漁獲がなくして、今度帰国したような結果であります。  これが自分たち漁業移住者の経過であります。
  4. 鈴木仙八

    鈴木委員長 次に、峯市之助君。
  5. 峯市之助

    峯参考人 私は昭和三十二年二月四日日本を出発した峯でございます。当時の上陸は昭和三十二年三月九日、約一カ月をもって行ったわけであります。そしてダハボンに入植したのは昭和三十二年三月九日でございます。それから、第一次配分地を受けたのが昭和三十二年五月、そうして第二次配分耕地に植え付けた年月日は三十二年六月、マニー、これは落花生であります。米も植えました。それから、第二次配分といたしまして昭和三十三年四月受けまして、十タレア、それにマ二一とウズラ豆をまきましたが、早魃のため皆無の状態でありました。だから、第一次配分、第二次配分耕地不良のため土地交換を要求したのが三十四年五月であります。それは耕地が悪いからかえてあげようということになって、昭和三十五年の三月ころ植付を停止されました。それで、何回も政府——農務省でございますが、農務省にその土地交換を早急にというふうに頼みましたが、一向にできず、そのままになってしまったのであります。そのころ第四次でありますが、第四次の入植者のうち十六家族ハラバコア地区に転入してしまいました。私としては何とかしてここでがんばろうと思って、あの沼地帯でありましたが、排水溝も掘り、暗渠排水もし、いろいろな方法をとってみましたが、腰までぬかるあの沼地ではどうすることもできなかったのであります。そこで、再三昭和三十五年の六月土地交換方を申請しましたが、これもだめ、そこで、今度は借地のためにカスタニョエラというところに行きまして、土地交換方をお願いしましたのでありますが、だめでありました。それから約三カ月後、再三また土地交換方トルヒーヨ元帥に申請しましたが、これも全然反響なしでありました。返事がありませんでした。で、あまりにも苦しかったものですから、大使館に行って、その土地拡張方、またその資金貸し出し方をお願いしたのでありますが、そういう金は移民者には一銭もありませんと、すげなくけられた次第であります。だから、とにかく何とかして生きていかにゃいかぬということで、日本人の山下さんという人から三十タレア分だけの資金を融資してもらいまして、そして植え付けて、とにかくその日その日を食うだけの米をとっておりました。これではここでは死んでしまうということになりまして、家内と話しまして、これじゃいかぬから、とにかく日本に帰ろうじゃないか、その帰る方法一つ聞きに行こうじゃないかと言いまして、また大使館に出向きまして、その帰国方法を教えてもらった次第でありますが、帰国方法は、一番初めには政治犯だ、それから二番目は自費で帰ることだ、三番目は国援法があるのだ、こういうふうなことをおっしゃったものですから、自費で帰るのには金もないし、また自費があるようだったら自分日本に帰りません。で、その最後国援法にお願いしまして帰ったわけでございます。それが昭和三十六年十一月中旬でありました。
  6. 鈴木仙八

    鈴木委員長 次に、久保文雄君。
  7. 久保文雄

    久保参考人 私どもネイバ地区の場合は、この写真にもありますように、こういうみじめな耕地状態でございまして、このことにつきましては、今まで報道もされましたし、私ども請願書嘆願書を通じてその事実の通り申し上げておりますように、最後には家族が食っていくことさえできないというような、食べものも作れないというような土地条件であったというのが、今回の私ども帰国を請願いたしました——昨年三月以来ですけれども、その最大原因、根本的な問題はここにあるのでございます。  それで、ついせんだって五日の決算委員会におきまして、私ども傍聴させていただきました。それによりますと、ネイバ地区帰国、その根本的な原因は、あそこの場合は水であるということを局長さんも言われておりましたが、これは事実に反するわけであります。と申しますのは、昭和三十六年五月二十六日に鶴我参事官一行調査の際にも、ネイバ地区帰国請願運動最大根本的原因灌漑水量削減米州機構よりの経済制裁のためではない、土地であると私ども申し上げ、耕地の実態と照らし合わせてこのところをよく認知してほしいと申し上げて、了承を得ておるはずであります。それから、九月十二日に高木移住局長を初め小長谷大使一行が来られまして、帰国決定の通知を持ってきてくれたわけでありますが、その際にも高木局長がどう言われたかと申しますと、あなたたち責任はない、政府責任だから卑屈にならず堂々と帰ってくれ、日本では厚生省もあたたかく迎えるために準備をしておると、こういうふうに言われたのであります。しかるに、せんだって五日の決算委員会を傍聴さしていただいておりますうちに、それとはまるきり逆な答弁がなされておるのに、がく然とした次第でございます。それで、事前調査最終的責任の所在は主務官省外務省にあるが、移住を決意した移民にも責任はあるというような言い方をしておられるわけでありますが、これは何事であるかと私ども憤慨にたえない次第であります。と申しますのは、だまされなければ、われわれは移住する意思は持たなかったのであります。ずいぶんといいところであるし、土壌もいい、こういうふうなえさにつられて、私ども移住する意思を持つに至ったのでありまして、これが、たとえで申しまするなれば、牛カンのその中身馬肉であった。こういうことも世の中にはあるわけでありますが、中身馬肉であるということがわかっておれば、私どもはそういうものに飛びついて買わなかった。それで、ネイバの場合も、中身は石であったわけであります。石を、優秀な、驚くほど優秀な土壌として欺瞞宣伝をしたがために、私ども移住する決意になったのでありまして、それで移民にも責任の一端があるというような議論は、人道的にもまた道義的にも許さるべきことではないと思うのであります。それで、本日私ども参考人として機会を与えられましたこの席上を通じまして、外務省移住業務に携わっておられる方々に、なぜあなたたちうそをつかなければならないのかということを申し上げたいのであります。  と申しまするのは、「移住執務提要」というものがございます。移住実務を担当されておられる所管の方が絶えず持っておられるはずのものであります。私ども移民にとっては、こういうものは募集以前にも見せていただいたこともなければ、見る機会の与えられない書物であります。それで、この「移住執務提要」の内容につきましては、「啓蒙宣伝」と題しまして、「方法手段」という項がございます。そこに、正確さを犠牲にしてもよい、より刺激的でなければならぬ必要を説いておりますし、商業宣伝十分手本として、下品にならぬ限りあらゆる方法手段を繰り返し繰り返し動員することが肝要であると教えておるのであります。それで、私どもにしてみれば、これは計画的欺瞞性がある、こういうふうにして応募者を欺けと教えておる、こう考えるわけであります。  それから、五日の決算委員会傍聴の際に、木村さんという代議士の方が言われておりましたのに、移民申し立て政府事前調査の結果——これは中田農林技官報告でありますが、表土が一メートル以上あるというこの報告との食い違いをあげて、もし移民が虚偽の申し立てをして代議士先生の力をかりて帰国したとすれば、事は重大であると発言されました。が、私どもネイバの場合、前後五回本省正式調査団調査の結果、移民の主張はもっともであるという結論のもとに帰国実現いたしたはずであります。そして、これはなるほどよいことを言われたと思いますのは、政府委員が虚構の答弁質疑に当たった代議士さんをだましていたとすれば、これも同じく事は重大であると私ども考えるのであります。と申しまするのは、昨年五月三十日、八月一日、それから十月二十日、この参議院予算委員会外務委員会を通じまして、その議事録を帰ってから読ませていただきますと、あまりにも事実と相反することばかり答弁がなされておる事実があるわけであります。外人部隊の件にいたしましても、横田支部長は、絶対に自分としてはそういうことを、移住者に登録しろということを勧誘した事実はありません、と申し述べておるというのが、八月一日の議事録に載っておるわけでありまするが、これは事実無根であります。その後同じ議事録に、外人部隊勧誘の件についても認められておるわけであります。  それで、その場当たり主義に、だまされるものであったら、その場その場をだましていこうというやり方は、非常にけしからぬと思うのであります。と申しますのは、私ども現地にありまして、飢えに泣く、腹が減ったといって泣いている子供を、もう少ししたら助けてくれる、それまでがんばろうじゃないかといってなだめながら、絶望の底であえいでおりますときに、高木移住局長は、餓死の心配のないだけに万全の措置が講ぜられておるとか、当面の生活の保障については心配ない、こういうふうに答弁されておりまするが、私どもに正式に当面の生活問題に対する保護措置が生まれましたのは、昭和三十六年九月八日付の大使館からの公文によって、初めて月最低二十五ドルというわずかな金でありまするが、日本政府の方から生活保護措置がとられた、こういうふうな工合でございまして、それ以前におきましては、私ども大使館海協連にたびたび足を運びまして、助けて下さい、何とか保護措置を講じて下さいといって、必死にすがりついてお願いしておったのであります。そのときに、最初のうちには三十ペソ、四十ペソと個人の小づかいを借用することができました。しかしこれもほんの一部のものだけであります。それで、それからあとの九月までの間に胆のう炎、じん臓炎、そういう病に冒されまして、治療代を貸して下さいといってお願いに行きました鹿児島出身久保悟という人たちに、出先機関から投げつけられた言葉はどうであったかと申しますと、移住者病気移住者自身のからだが作ったものであって、われわれとしては関係ないことだ、こういうふうに申されたのであります。それから福岡出身の矢野という人も行きまして、これじゃ家族ともども死んでしまうから何とかして下さいとお願いしたわけであります。そうすると、死んだってしかたがないじゃないか、君たちには該当する法も、従ってまた予算もない、われわれとしても月給取りだから、ポケット・マネーをいつまでも貸してやることはできないという話であったわけであります。それから私どものうちで五人ほどそれから以後に参りまして、そして何とかこれは人間同士の話として、また日本人同士として、一つ何とか早く本省の方へ連絡をとって措置が生まれるようにしていただけませんでしょうかとお願いしたのでありまするが、そのときに大使館から示されましたものは、ブラジル国及びドミニカ国内転住をするということを一筆書けば、当面の生活を見てやろう、しかしながら帰国を希望するという文字が一字でもあったらこれはだめだといって、向こうが見本を書いて示したのであります。そうしてあくまでもドミニカ国内のほかの地域または南米ブラジルドミニカからそのまま移れ、そうすれば助けてやるが、そうでなければ助けてやらないとはっきりみんな言い渡されているのであります。それでありますが、私どもとしましては、何とか生き延びなければならぬ。しかしながら、新しいものはパンツもシャツもみな売り尽くしてしまった。それでドミニカのバオルコ州の州知事を通じまして賃仕事を探してほしい、みんな身体の障害が起こりまして、いろいろ胃の病気とか肝臓、胆のうまた肋膜というふうに病を得たからだで、賃仕事をしてでも生きつないでいこう、そうして必ず帰るんだ、帰る以外に望みはない。なぜかと申しますと、私どもとしましては、この次再移住すれば必ず殺される、こういうふうな切迫した感じしか抱いておらなかったわけであります。というのは、私ども三月二十日に第一回の大使館への陳情を申し上げて、その以後、二十一日のことでございましたが、公文書とともに、ドミニカで一番いいところがあるが移ってはどうか、それはバーバ・デ・ピーニャという個所でありますが、そうして勧められ、また公文書をいただいたのでありますが、その公文書もただいま持っております。そして、そこがどんなところであるかと申しますと、私ども調べまして判明しましたのには、以前にスペイン人移民が入っておったわけであります。しかしながら、そこで営農ができないというので引き揚げて、その現地人たちの言う話では逃げてしまったというような土地柄であるわけであります。それで、ネイバの場合は、七カ月も雨の降らぬときもあるくらい乾燥した地域でありますが、そのバーバ・デ・ピーニャというところは、乾燥季でもひざまでぬかるみだという個所もあるという湿地帯であるということがわかったのであります。さんざん、かわいたところでやれないと言ったから、今度は徹底的にそういう湿地帯へ追い込むのかと、私どもは憤慨したわけであります。  それで、これからまた御質問をいただきまして、真実に基づきまして私ども申し述べます。一つ何とぞ早急に更生の面とかいろいろな面で早く実現いたしますようにお骨折りをお願いいたすわけであります。と申しますのは、私どものうちにもほとんどの者が身体に故障ができておりまして、それでだまされたがために、結果として運命も狂わせ、また生活機能さえも破壊されたというような状態でございます。どうも失礼しました。
  8. 鈴木仙八

    鈴木委員長 この際重ねて御注意申し上げます。審議の関係がございますので、なるべく五分間程度に、参考人各位の御発言は、御体験と実情、特に帰国に至った事情に重点を置いてお述べを願いたいと思います。森正次君。
  9. 森正次

    森参考人 私は昭和三十二年にドミニカに渡ったことに間違いありません。そうして帰ってきたことに間違いありません。そうして今久保さんが言われたことにも間違いがありません。  なぜ帰らねばならなかったかということですが、まず、石ばかりであったという点です。こういうことは何回も言うことで言いたくありませんが、当時調査に来られた神奈川県の移住あっせん所長古関さんは、との石だったら三年もたてばこわけて肥料になるというのです。こんな石です。こんなものを、だれが見たってこわけて肥料になるわけのない石です。あまりにも移住者をばかにしておる。移住者のみじめなものに対してこういう言葉を吐かれたときに、私たちはがくんとしました。  次に、時間がもったいないので急ぎますが、われわれが帰ったのは、政府の方では水の問題であると言われますけれども、水じゃなくて石です。土です。耕地であります。漁師から水をとったら船はひっくり返る、百姓から土をとったら百姓はひっくり返る。そのかんじんな土が石なんです。いかにそこに水をたくさんやっても、作物が根を出さないのです。これはどんなしろうとでもわかることだと思います。  それと、この間、国内政変によって移住者は帰らぬばならないということを言っていましたが、私たちは来る日まで、ドミニカ政府牛乳をもらって飲んで出てきたのです。それはどうかというと、日本人は熱帯にはなれておらぬからからだが消耗する。それだから牛乳をやろうという工合で、来る日までもらって飲んできました。それと生活補給金も切れたからがたがた言うとは言っていますが、来る三日前までもらった事実もあります。それで、国内政変は私たちが出るまでに何ら関係なくわれわれは待遇を受け、今でも感謝しております。そういうことで、国内政変ということはわれわれに対して適用しないのであります。  それと、市場性の不足ということもこの間出ておりました。移住者市場性が不足しておるということでありますが、作物がとれなくて、私たちも外へ買いにいって食べたのであります。野菜も買いにいって食べたのであります。そういうところに市場性云々ということは当然考えられないことであります。それと政府で言われるのは、移住者転住を要請したけれども移住者は行かなかったと言っていますが、それはうそです。われわれは一向にそういうことを受け取ったためしはありません。転住をさしてくれ、こんな悪いところじゃだめだからいいところへやってくれと言ったら、君たちはどういう法令があるか——移住者義務というものがございますが、移住者義務にはどういうことが書いてあるか、政府の定めた土地よりもほかへ移るな、移ったものにはどうするかと言ったら、日本へ強制送還する。親や兄弟と別れのちぎりをして、失敗して帰るなんという、こんなむざんな姿はありません。私たちも好きで帰ったのではありません。それと、結論的には私たち調査が不十分ではなかったかと思うのですが、中田技官との対談内容がここにありますので、少し時間が超過したようですが読んでみます。日時は昭和三十七年一月二十四日午後十二時十分。場所は神田学士会館対談者は私と小市さん対中田弘平氏。時間がございませんので、大事なところだけ読みますが、「問(森、小市)現実に今こんなみじめな姿となり帰ってきていますが、これも中田さんの調査に、もう少し親切に移住者の身となり調査をしていただいておれば、こんなことにならなかったと思います。私たちは残念で仕方ありません。あの悪い土地を、よい土地だ、耕土が深く土地の優秀なのに驚く、とまで発表しています。中田さんには当時政策的にそう言わざるを得ないような事情でもあったのでありますか。答(中田)そんなものはありませんでしたが、当時私が政府の役人という立場ネイバ調査に行きましたが、ほんとうを申しますと、私が調査に出る二カ月前に、すでにあなた方の入植がきまっていましたので、そんな先入感、つまりそんな気持で調査をいたしましたので、その当時のことを聞かれましても、調査を十分にやったと私も言えません。大へん気の毒なことで、あやまっても申しわけありません。私も大それたことをやったものです。内地でも、開拓地を作るには何カ月も調査して入植するのですが、それでもあとからいろいろな問題が起きるのですが、まして外地での調査を一日や二日での調査で決定づけねばならないところにも大きな原因があると思います。お話を聞きますと、ほんとうにお気の毒です。」調査した本人がそう言っておるのです。大体五分や十分の時間でわれわれの苦しかった当時の現実は発表できませんので、今度質問のときに、ほんとうに基づいてわれわれの体験をお話ししたい。そして聞いていただいて、一日も早くこんなみじめなわれわれに再起の道が開かれるように、諸先生方にお願いをいたしたいと思う次第でございます。よろしくお願いいたします。
  10. 鈴木仙八

  11. 当銀芳次

    ○当銀参考人 私は昭和三十二年十二月に横浜を出帆しまして、ドミニカハラバコア地区入植して、最後までそこで営農して、先月の二十一日に帰ってきたものであります。それでいろいろ事情があったわけですが、限られた時間ですから、簡単に、われわれが恥を忍んで故国に帰ってこなければならなかった大事な点を申し上げておきます。  まず私たちが行ってみてたまげたのは、われわれを募集した募集要項と現地の受け入れ条件があまりにも違う。われわれは自営開拓農で行ったのですが、現地に行ってみたら、西部劇のような腰に拳銃を下げた管理官、助手、水利官もいて、われわれをコロニア法によって束縛して、作付の自由もない。それから耕地の中には大石、小石があったり、それから湿地帯等があって、とても何も植えられないところがあるわけです。そういったところでも、草一本はやしたら土地を取り上げてコロニアから追い出すといつも言われるわけです。そのために耕作不能の土地でも、むだな経費を使って草取りもしなければならない。それからこれもやはり中田技官調査ですが、土地条件ども募集条項と違って、現地に行ってみたら、ほんとうにいいところというのは数えるほどしかなかったわけです。三〇度近い傾斜地でしかも砂地のところに、何と思われるような大石があって、とてもブルドーザーでも動かしきれないような石がごろごろあるところもありますし、それからさいの川原のように小石のざくざくというところもあります。それから牛がはまり込んで死んだというような湿地帯もあって、碁盤の目を切るように排水路を掘ってもとても水が抜けなくて、とうとう帰ってくるまで一生懸命その水掘りばかりやったというような土地もあるわけです。それで、あすこがまた天候が不順でして、乾燥季に入りますと、何カ月も雨一滴降らないことがあるのです。私などでも、二十タレア近くのものを乾燥のために放棄して収穫皆無の例もありました。そういったところにわれわれが入った場合に、初めは全然カナル、用水路がなかったのです。それをわれわれが再三陳情しまして、やっと約一年たってできたのです。それもできたといっても格好だけでもって、肝心の末端はまだできていない。それから、われわれの耕地に引く支川の用水路がないわけなんです。それでわれわれはやむを得ず人夫を雇い、またわれわれの手で何日もかかって千何百メートルも自分耕地まで支川のカナルを掘ったのです。そうやってやっと水が来たのですが、その水がほんのわずかでもって、乾燥季に入ったらば三日に半日、いいところで三日に一日の配水量だったわけです。そうしますと、われわれは募集要項では百タレア六町歩というやつで行ったのですが、現実には土地がないためにとうとう半分の五十タレアしかもらわなかったわけですが、その五十タレアの中でも、わずかに五タレア内外きり完遂できなくて、あとの四十五タレア内外は、物をまいても全然収穫する望みがない。まいておいて運よく雨でも降ればいくらかとれるだろうという程度で、全然安定した営農ができないわけです。そうやって、現在われわれ直接ハラバコア地区へ入った者だけでも、耕地もない、水もないで苦しんでおるところにもってきて、現地大使館が全然しっかりした移住政策というものを持っていなくて、われわれがこうやって現実に困っていることを知りながら、それも困った結果どうしてもそこで営農が成り立たないというところから、何でもかまわない、押し込めばいいということで、われわれがいたハラバコア地区へ、コンスタンサから十五家族、ドベルへ地区から三十九家族集団転住さしたり、そのほかダハボン、アグアネグラ、アルタグラシアその他各地から続々来て、日本人だけで八十数家族になった。そのほかにスペイン人もおりますし、現地ドミニカ人も大ぜい入っているわけです。そこで、あとから来た人たちも、耕地がないためにずいぶん長い間われわれ先住者の畑のすみを借りて、辛うじて野菜を作って生活を維持してきたような状態だったわけです。  私は、この件についていろいろしゃべれば半日くらい言いたいことがあるのですが、限られた時間ですから大事な点だけ申し述べます。われわれは、決してドミニカ国内政変、そういった問題で帰ってきたのではなくて、また補助金をもらいたくて行ったとか、そんなこじきをしにわざわざ外国にまで行ったのではないのです。われわれは内地にいてもりっぱに生活を営んでいたものなのですが、それを国策に沿い、またわれわれ自身の発展のために海外発展の希望を持って先祖伝来の資産を処分して出ていったものです。われわれは何もこじきをしに、補助金をもらいに行ったものではないのですから、国内事情が悪くなったからといって簡単に内地へ帰れるものか、またそんな気持になれるか、それは皆さん方もよくおわかりになると思うのです。私たちハラバコア地区の者が最終的に帰国しなければならなかったという原因は、要するに外務省、農林省の事前調査の不備という言に尽きると思うのです。  簡単ですが、これでやめておきます。また必要に応じて、私は質問に答えて実情を申し述べたいと思います。
  12. 鈴木仙八

  13. 石田友吉

    石田参考人 私は、昭和三十二年十二月横浜出港のぶらじる丸でドミニカに渡ったのであります。入植地はドベルへ地区でありました。当時、入植者はド国最大の灌漑用水カナル・クリストバルを利用できるため、水量は豊富であると申されて行ったのでありました。入植にあたっては、ド国政府は同地方在住の自国農民を優先的に入植きせ、これに次いで一般自国民及びスペイン人、ハンガリー人、その次にわれわれ日本人入植という順序であったため、われわれは、塩分のやや少ない、しかも用水の豊富な土地にはすでに入植済みという状態であった場所へ入植したのでありました。それで、日本人入植地は小高い丘の波状的な位置で、上流の用水路はいかにも水が充満しておるように見えましたのでありますが、耕地が高いために水が最後まで来なかったのであります。入植後、直ちに全員共同作業をやりまして、湿地帯あるいは自分たち配分された耕地まで橋をかけ、道路を作り、耕作の準備にかかったのでありました。ですが、そうこうしているうちに一カ月も過ぎてしまったのであります。しかし一カ月くらい過ぎても水路の工事はさっぱりはかどらず、支川カナルはあったのでありますが、肝心な水が来ないわけです。それで三週間あるいは四週間と、もう少しで来るというような管理官のお話であったため、二、三カ月の間は当局を信じておりまして、文句も何も言わずに待っておったわけであります。しかし時期が経過するにつれて、水が来ないという見通しがますます濃厚になったので、そのころから現地海協連支部及び大使館に、何とか自営開拓農のできる道を開いてくれるようにとお願いしたのでありましたが、なかなか取り合ってもらえなかったのであります。そして、何を言うか、やってみてできなかったのなら話にも相談にも乗ろうが、まだやってみないうちに何を言うかということを言われて自分たちは引っ込んでおったのであります。しかし、それには限度がありまして、一年半ドベルヘで草を取り、木片を拾い、そしてほうきではいたようにきれいな耕地にしておったのでありますが、ついに水がないために何一つの収穫物も得ず、私どもはしびれを切らし、そしてドミニカ農務省にお願いに上がったのであります。農務省に行きましたところ、あのドベルヘは塩分が強いのと水がないので放置してあるんだ、あれはもうだめなんだから、ほかに転住せよというようなお話でありました。それで当時ハラバコア地区はすでに過剰入植を叫ばれておったのでありまして、われわれは他地区に転住をさせていただきたいと申し出たのでありましたが、他地区のコロニアといっても、約三十家族の戸数が集団的転住というようなことはでき得ないから、とりあえずハラバコア地区に仮転住をしていろということでありました。それで昭和三十四年五月、全員ハラバコアに転住したのでありましたが、先ほど当銀さんのお話のあったように、やはり肥沃な土地と申されておったのですが、なかなかそうはいかないで、われわれは、新耕地約三千タレアを開拓する予定地がありまして、カナルはなし、自分たちの手で、日本人約二十二名くらいの人たちは支川カナルえんえん三千メートル以上を掘って、そして水を引いて作物を作付するという状態にしたのであります。  大体先ほどから各地区の方々が申されているように、現在のドミニカ事情によってわれわれドミニカ移住者が帰ってくるというようなことではなく、真実われわれは事前調査の不備と同時にその処置が悪かったところに、どうしても内地へ帰らなければならなかった原因があるということを強く申し上げておきます。  以上です。
  14. 鈴木仙八

  15. 星川嘉一郎

    ○星川参考人 僕は三十一年十二月にコンスタンサに入植しました。コンスタンサは耕地に石ころがたくさんあるし、水は足りないし、そこで一年はがまんしました。石があんなにあったのじゃ何が作付できますか。石は少しずつ出しましたが、リヤカーやら人間の手でとても出せない石なんです。石を出したあとに少しずつ作付しましたが、作付したところには水は来ないし、それで、しょうがなしに、ハラバコアに転住したのです。ハラバコアで耕地もいただいて耕地を見に行きましたが、すごいやぶの湿地帯です。原住民が言うことには、この耕地で牛も殺したし、人間もあぶないというような耕地をもらいました。そこで排水掘りをやったり、どうにかこうにか作付しようと思ってやりましたが、牛は入らぬし、人間の手でやったわけなんですが、そのころにはもうお金は一銭もなし、食うだけがやっとだったのです。これじゃどうしてもおれないので、外国へ転住しようと思って大使館にお願いしたのですが、大使館ではだめだと言われたので、帰国したわけなんです。あとは当銀さんのおっしゃった通りです。
  16. 鈴木仙八

    鈴木委員長 以上をもって、帰国参考人の説明は終わりました。     —————————————
  17. 鈴木仙八

    鈴木委員長 引き続き質疑に入ります。西村力弥君。
  18. 西村力弥

    ○西村(力)委員 皆様方非常に希望を抱いてはるかドミニカまで参られまして、今ここにすっかり自分の計画を捨てられた形で帰国されたことにつきましては、心からお気の毒に存じます。私たちこれからこの問題につきまして審議を進めまして、こういう工合に裸一貫になって帰らざるを得なくなったということのほんとうの責任の所在はどこにあるかということ、それから今後の移住政策で改めるべき点はどこにあるか、こういう点、あるいはまた皆さん方のこれからの更生の道をどうすべきかというような点、そういうような点について、真剣に検討して参りたい、こう思っておるわけでございます。ただいまの陳述を聞きましたことを基礎にしまして、いろいろと実情を知るためにお尋ねをいたしますが、どうか一つ真実を率直にお述べになっていただきたいと思いますとともに、私の尋ねる点に対しまして、簡単に要点だけを御答弁願いたい。そうでないとなかなか時間がかかりまして困りますので、さように一つお願いしたいと思うのです。  それで第一番目には、皆さん方がドミニカ移民をなさろうとする、そういう募集があるということを知った、それは何によって知られたかということ、この点につきまして皆さん方のお答えを願いたいと思うのです。
  19. 峯市之助

    峯参考人 朝日新聞によって知りました。
  20. 川畑太一郎

    川畑参考人 外務省から流れて県に来たその募集要項の写しが県から流れてきて、拝見しました。
  21. 久保文雄

    久保参考人 私の場合はラジオ放送であります。それがどの放送局であったかということは、はっきり記憶はございませんけれども、ラジオ放送でその好条件を知りました。
  22. 森正次

    森参考人 私も外務省あるいは海協連の本部から県の方へ回ってきました書類によって知ることができました。
  23. 当銀芳次

    ○当銀参考人 私も県の海協連で、このたびドミニカハラバコア地区を募集しているということを聞いて応募しました。
  24. 石田友吉

    石田参考人 私もラジオを聞き、出身県県庁に問い合わせをしましたところ、海協連発行の募集要項を拝見させていただきまして、応募したわけであります。
  25. 星川嘉一郎

    ○星川参考人 僕は海外新聞で拝見しました。
  26. 西村力弥

    ○西村(力)委員 いろいろな契機からドミニカ移民募集のことを知られたわけですが、そのことを聞かれて大いにドミニカ移民に意欲を燃やされた、行ってみよう、こういう気持を起こされた、その一番大事な点はどういう点であるか、お一人お一人おっしゃっていただきたいと思うのですが、委員長の指名を待つまでもなく、各自自分の氏名を言って答えるような工合にされたらよかろうかと思うのです。そちらから順次一つ……。
  27. 川畑太一郎

    川畑参考人 自分といたしましては漁業移住者でありますが、非常に沿岸漁業というものは塗炭の苦しみにあるのであります。鹿児島県といたしましては、以前相当の漁獲のありましたイワシもほとんど漁が少なく、非常に倒産のうき目をみる。なお沿岸漁業の一般の衰微の起こっておることも事実であります。そういう中にこの募集要項がありましたので、何とかそういうものに基づいて海外に雄飛し、しかしてこの窮境にある自分の同郷の漁業者を何とかして呼ぶこともできたならなお幸いである。そしてなおそれに基づいて自分が成功せられるものならそれに越したことはないという希望に燃えて出ていったのであります。しかるに実情は、かかる引き揚げをしなければいけないというようなみじめな結果に終わったわけであります。何とぞよろしく御賢察をお願いします。
  28. 峯市之助

    峯参考人 募集要項によりまして、耕地三百タレアを支給する。その三百タレアのうち百五十タレアは開墾して与える。次に百五十タレアをやる。百五十タレアは原始林をやって、百五十タレアを植えつけてしまえば、残りの百五十タレア自分らで開墾すれば三百タレア自分たちのものになるのだという好条件。それから住宅はブロック作りを与える。奨農金も与える、補給金も与えるというえらいいい条件でありましたので、応募した次第であります。
  29. 久保文雄

    久保参考人 私の場合、先ほど申しましたようにまずラジオで知りまして、それから県の方へ参りましていろいろな資料を拝見したわけであります。その中にこういうのもございました。「ドミニカ移住者に対する現地の歓迎振りは大したものだった。入植地迄立派な護衛が着くし、現地に着くや否や日用品をごっそりと、収穫期迄の生活費を支給してくれる、就労してから何くれとなく世話が行きとどいているというわけで、移住者も薄気味悪く思う位。ところがあまり政府が邦人移住者に便宜をはかるので、ドミニカ人が恐れはじめたとのこと。ドミニカの国を日本人にとられると新聞に掲っていたそうだ。そしたら政府がいうのに、それならお前達も精出して仕事をせよ。よく働けば当然日本人と同じ待遇をしてやる、と新聞でしっぺ返ししたそうだ。」これは一例でございます。
  30. 森正次

    森参考人 いずれにしましても、移住そのものに対して私たちは家もやる、土地もやるということは興味は持っていましたが、要はそんなものではありません。まず自分で土台を築いて金をもうけてやるという熱意に燃えておった次第であります。その熱意をいかにして高めさせたかというと、移住政策そのものがまず一つ商業宣伝のようである。言いかえれば、知らぬ者が聞けば外国へでも洋行するような宣伝振りでやっておる。肥沃な豊庫が移住者を招いておるというような、そういうどこにでも見受けるようなポスターです。そういうことをアメリカ人に言ったら、肥沃な土地があれば、近いアメリカ人がほっておかない。日本人はそんなばかなことを言っておるのか、私の知っておるアメリカ人がそんなことを言っておりましたが、そのくらいのもので、当時の状態は、熱意を沸かすそういう環境にあったわけでございます。
  31. 当銀芳次

    ○当銀参考人 私は、私が行く約一年前、私の義兄がコンスタンサ地区入植しまして、そのときからドミニカ日本人が入って、ドミニカとはこういうところだということを初めて知ったわけです。それから県の海外協会の方へもときたま行きまして、そして私もやはりどこかへ出たいという希望があったわけです。それでブラジルのアマゾン地区とか南伯地方なんかの条件をいろいろ調べたんですが、その場合に比較すると、ドミニカは戦前渡った者がいなくて、これから日本人が発展していくんだから、そういう点もいいだろう、ブラジルあたりは先に渡った者が新移民を食いものにするというあれがある。いろいろ話も伺って、比較的、今後の発展や受け入れ条件などを考えた場合に、ドミニカがいいだろうというので、ドミニカハラバコア地区へ行きたいという決心をそのときしたわけであります。
  32. 石田友吉

    石田参考人 私はやはり若いころから海外に出たいという希望を持っておったもので、ちょうど終戦後間もなくドミニカ移住の募集がありまして、窓は小さかったけれども、いろいろ条件などはいい、同時に米大陸にも近いというので、とりあえずあの辺に行っておれば、また広いところへも行けるのじゃないかという気持を持っておりました。実際いろんな条件があまりよかったためにつられたような形でありました。
  33. 星川嘉一郎

    ○星川参考人 僕は、行くときは父と一緒に行きましたが、大耕地で仕事をやるのがおもしろくて行ったわけなんですが、向こうに行ったらとんでもない耕地をもらって、それでやむを得ず帰ってきたんです。
  34. 西村力弥

    ○西村(力)委員 そういういろいろな好条件あるいは自分の前から持っている希望なんかと照らし合わせて、大いに食指を動かされたわけですが、最終的に行くときめられるまでに、どういう方から勧誘を受けたり説明を受けたりしましたか。これは煩瑣になるようでございますけれども一つお聞かせを願いたいと思うわけです。
  35. 石田友吉

    石田参考人 私は群馬県の出身でありますが、群馬県庁の外務課の方に問い合わせをしましたら、いろいろ資料をいただいて、ドミニカは現在世界的な夢の天国であるということを冒頭に言われたのでありまして、とにかくあそこは土地は肥沃であり、気候的にも島が小さいために恵まれているということ、そしてなおさらに米ドルとペソの価値などからいってもいいのじゃないかということで、大体そういうことから自分も、島は小さいが気持が動いてきたわけだったのです。
  36. 森正次

    森参考人 私の場合、ドミニカへ希望したというものじゃございませんでした。それで私の家族構成、私の許す条件によって行かれるところはどこかと探したわけです。そうしたら、君はまだ若い、それに働き手が二人で子供が一人だ、それだったら現在あいているところはドミニカだ、ブラジルは労働人員がだめで君には向かぬ。それに、ドミニカはいいというたよりを何通も見せて下さいました。こうしてやっておる、ああしてやっておるということを県の海外協会の人から聞いたわけでございます。県では、外務省及び海協連本部の方からの指示によって募集の担当をしておるわけでございます。その担当員から、ドミニカということに対して勧誘を受けたわけでございます。
  37. 久保文雄

    久保参考人 私の場合は、県民課というところで移住の手続をいろいろやってくれておりますので、そこでいろいろと現地での入植条件とかそういうものを聞きただしまして、それで向こうへ移住することに踏み切ったわけでありますが、もちろんただ条件がいいというだけにあこがれて行ったというだけでなく、開拓は非常に骨の折れるものであるというので、非常な決心もともに抱いて渡ったわけであります。それで、今度帰るにあたりまして、ドミニカ農商務省よりこれをいただいて帰っておりますけれども、私ども向こうで、ネイバの者がずるけたのでなく、一生懸命やったというあかしはみな持って帰っておるわけであります。
  38. 西村力弥

    ○西村(力)委員 大体似たようならけっこうです。  それで、いろいろな人々から聞いたりまた募集要項というものを見せられたりして、それを真に受けて現地へ行ったら、それと全然違うという点、あるいは現地へ行くまでに知らされなかったことがある、こういうようなことがありましたら——違うという点は、先ほど、肥えている土地だといったところが石ころだらけだ、どういうような点はお聞きしましたからよろしいですが、今まで申されなかった点、募集時に何ら知らされないで、向こうに行ったらそれを知った、こういうことがありますか。
  39. 森正次

    森参考人 それは、調査したのは三十二年の九月でございます。私たちが応募したのは七月であります。二カ月ずれております。それで、募集は全然ないものをさもあるようにして作ったのだから、当然一から十までみんな違っておりました。そういうことです。
  40. 峯市之助

    峯参考人 ダハボン地区の場合は、耕地は三百タレアやるというのにもってきて、ただ九十タレアだけの支給でありました。ずいぶん面積的に違います。
  41. 久保文雄

    久保参考人 この議事録によりますと、ネイバ地区の場合、五十タレア以外は天水——天から降る雨でまかなうということに向こうの政府日本の方と取りきめができているそうですが、私ども移住前に知らされたのは、それはみな灌漑水量でやれるというように聞いておるわけであります。これが一つ違いますことと、それと、自営開拓農、それで行ったのでありますが、実際は向こうの監督のもとに指定の作物をやるという、いわゆるコロノという身分であったわけです。
  42. 川畑太一郎

    川畑参考人 漁業の場合は、まず最初募集要項には、イワシ、アジ、サバ、サンマ、いろいろ何でもおるようにうたわれておりましたけれども、こういうような青ものがさっぱり見えないのであります。それと、現地に着いた場合、海区を限定されまして、毎日々々行く漁というものは、一定の地区より外には出られないのであります。それからまた出港する場合においては、絶対毎日これも許可をとらなければいけないのであります。許可証をもらって行って、また帰ってきたらその許可証を返すというような状態で、毎日が絶対に束縛された漁業を続けたような結果であります。そういうようないろいろというものが、内地では全然想像もつかないことがあるのであります。
  43. 当銀芳次

    ○当銀参考人 私が行ってまずたまげたのは、募集要項では、ただ単に自営開拓農、こう書かれていただけなんですが、現地へ行ってみたら——われわれの解釈では、自営開拓農とは、小なりといえども一国一城のあるじだ、何をしようが、ときには草をはやそうが、だれからも何の制約を受けない、また、自分で作りたいものを、自分で勝手に選んで作れるというあれで行ったのですが、行ってみたらば、現地にコロニアがあって、そこにわれわれは入れられて、ドミニカの役人の管理官、それからそのほかの助手とか水利官などがおって、われわれを監督して、そうして作付の制限もあるわけです。それから水も自由にとれない。それから、外出するにも、ペルミッソをもらわなければ外に出られない。許可証ですね。外出するにも、許可を一々もらわなければ外出できない。そういったように、われわれはあらゆる面で束縛を受けている。それでわれわれは、こういった形態は自営開拓農と言えるのだろうかといって、この点については再三海協連支部や大使館と交渉してきたのです。そのときに大使いわく、あんた方は、芸妓にたとえれば、一人前の芸妓ではなくて半玉だ、あんた方は過渡期だ、今は多少制限を受けても、十年すれば土地をもらえば自由じゃないか、こう言ったのですが、その土地の所有権の十年でも、募集要項には、単にドミニカの法律の諸条件を順則の上は、無償で譲渡される見込みであるというだけであって、十年後とかそういったことは書いてないわけです。それで、私たちが考えた場合に、これは内地の開拓地に入ったのと同じような条件だろうと思って行ったわけです。その精耕検査を受ければ自分のものになる。ところが、行ってみたらば、十年というあれがあるわけです。それで、一体そういったあれは何をもとにして、われわれはこういった束縛を受けるのだということでいろいろ調べたのですが、わからなかったのです。そうしたらば、おととしの八月の十五日に、現地のコロニアの管理官が、われわれコロノを全部事務所に集めて、われわれに、どうも最近コロニア法を守らぬ者がおる、コロニア法を読み上げるから、これを完全に守ってもらいたいというので、われわれに示されて説明されたのです。それで、そのとき初めてわれわれこういったコロニア法なんというものがあって、われわれがこういった束縛を受けるのかということに気がついたわけです。そうして、それを、幸いメキシコ生まれの立山吉之助さんという人がおるものですから、すぐ日本語に訳してもらったのです。そうしたらば、今から十年前にもう施行されていた法律だったわけです。そうしたらば、外務省海協連本部は、その事実を知らないはずはないじゃないか。コロニア法があって、われわれが入ったらば、決して自営開拓農じゃない、コロノという身分であって、こういったいろいろの制限を受けて、十年たったら土地がもらえる。ところが、その土地の所有権なるものも、四親等以内は譲渡できるが、他人には譲渡できない、または、銀行やその他の融資機関から金を借りるために、担保に入れることもできない、はっきりコロニア法に禁じられているのです。そういうようなことを何ゆえにわれわれに事前に知らせずに、われわれを一番あこがれの自営開拓農といった名前のもとに募集したのか、解釈に苦しむわけです。その点がわれわれの方からいって、一番違っていたということですね。
  44. 西村力弥

    ○西村(力)委員 コロニア法が向こうにある、そういう法律を十分に守って、それに適合する諸条件を満たさなければ、十年後といえども無償譲渡はならぬ、こういうことになっておる要項でありますが、その基礎になっておるコロニア法、これの説明は、皆様方には事前には全然なされなかったということは、はっきりそのように私たちも認めざるを得ないのであります。  それからもう一つは、あの土地は三千タレアないし百タレアとか、そういう条件がありますが、そういうものは、皆さん方が要求することのできる権利であるかどうか。これは権利としてあるのかどうかということは、どういう工合に聞かされましたか。それは向こうがよこすのであって、こちらは権利として主張できないのだということをはっきり言われたかどうか。
  45. 当銀芳次

    ○当銀参考人 ハラバコア地区の場合は、募集要項に百タレアとありまして、百タレアは行ったらもらえるものというように、内地にいるときも地方の海外協会の方に聞いております。それが当然だろうと思っていたわけです。ところが、実際には五十タレアもらって、それ以後再三要求しましたが、とうとう土地がないということでもらえなかったわけです。それで、その点については、現地ドミニカ農務省も、悪い、まことに相済まないということを言っております。あなた方には百タレアの約束で入れたのだが、土地がないために五十タレアしかやれなかった、まことに済まないということを再三われわれは、公文書でも現地にいるときにいただきました。
  46. 森正次

    森参考人 私たちの場合は、百タレアというところを二百タレアもらいました。けれども、石ころばかりのところをどれだけもらっても何にもならないということで、面積そのものについては、数字的にはより以上にもらいましたけれども、間に合うところは一割か二割ということで、実際農耕に適している土地は、百タレアのものが二百タレアもらいましたが、その中のまず二十タレア内でありました。
  47. 石田友吉

    石田参考人 私は、ドベルへ地区の場合は、先ほど申し上げました通り、塩分は多少あるが、肥沃な砂質壌土である、水は豊富であるという募集でありましたが、現実には、水はなし、塩分はまつ白く雪が降ったようにやや低地の方はあった。説明しますと、一部低地には、霜柱のような塩柱、これを間違わないように願います。
  48. 西村力弥

    ○西村(力)委員 いやいや、質問に合う答弁だけやってもらいたい。私が言うのは、いろいろ募集要項には、土地はなんぼやるということがあるが、それは皆さん方の権利である、こういうことを言えるように説明されたか。それは言えないのだ、向こうがやるというだけであって、こちらは権利として向こうに要求できないのだ、こういうようなことをはっきり募集に際して皆さん方に説明があったかどうかということを聞いているのです。
  49. 鈴木仙八

    鈴木委員長 川畑君。
  50. 西村力弥

    ○西村(力)委員 ちょっと待って下さい。川畑さんのことは、後ほど久保君がいろいろお尋ねすることになっていますから……。
  51. 峯市之助

    峯参考人 海協連支部の横田一太郎さんは、三百タレア要求してもいいのだ、こうおっしゃったわけなんです。ところが、農務省の方とかまた州知事の方にお願いしても、まあお前らは九十もらっているのだ、五十あれば三百タレアに近いじゃないか、六十あれば三百タレアに近いじゃないかという考えなんです。
  52. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それでは次に移りますが、皆さん方は向こうに行かれる前に契約をしたか、向こうに行かれてから契約をしたか。その入植に際して、先方といろいろの契約をなさった、御自分々々々で契約をなさった、こういう事実があるかどうか。それは契約をなされぬとすれば、どっかで契約をしておるだろうと思うのですが、そういうところはどうですか。
  53. 当銀芳次

    ○当銀参考人 私の場合は、渡航前に、海協連本部と渡航契約というものは結びましたが、別に現地へ行ってから、現地ドミニカ政府との間に何の契約もしておりません。
  54. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それじゃ当銀君に聞きますが、その海協連との契約、それの大事な点はどういうところですか。
  55. 当銀芳次

    ○当銀参考人 ここにあります移住者契約者によりますと、要するにトルヒーヨーにおります海協連支部長の横田一太郎氏がわれわれを受け取って、そして現地において就労に精励してドミニカ国開発に寄与することといったような内容の契約書です。
  56. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それでは次に、行かれる場合にはいろいろ品物をたくさん何年分か持っていくように、金はどのくらいとか、いろいろ指示があったと思うのですが、それぞれ金額に見積もって金その他品物を入れてどれくらいお持ちになったか。そういうものはどうやって都合せられたか、こういう点についてお答えを願います。
  57. 峯市之助

    峯参考人 私は会社の退職金五十万円を持ち、別に貯金及びせんべつを合計して八十万円という金を持っていきました。このうち農機具、衣類、家具類を六十三万円買いまして、十七万円の営農資金を持っていきました。以上です。
  58. 森正次

    森参考人 私は山とたんぼを売りました。それで合計二百三十万円の金額であります。それでできれば農機具も持っていけ、それから大体五年間の必要なものを全部そろえていけ、古いものが入っておってもいいけれども、新しいものに越したことはない、こう書いてあります。それで大体五年間何も買わぬでもよろしいだけの品物をそろえて行きました。それで現金は、その年は最高が一千ドルでありましたので、現金は一千ドル、その他みな品物にして持って行きました。以上であります。
  59. 当銀芳次

    ○当銀参考人 私の場合には、募集要項によりまして、衣類、地下たび、そういったものを少なくとも三年間現地で買わなくても済むだけのものを用意していけということを指示されて、それでいろいろ聞きましたら、ドミニカはいろいろ物価が高いし、品物も悪くてなかなか手に入らない、三年間一応安定するまでなるたけ現金出費の少ないようにという指示で、営農資金は別として、金で持つよりは品物で持っていけ、品物ならばある程度よけいでも運賃に関係ないということを言われまして、私は衣類、地下たび、長ぐつ、そういったものを約三年間——三年間というあれだったのですが、私は約五年おりまして、五年間一枚も買わずに済み、それだけでなくて生活の足しにするために処分しました、というように五年間利用しておりました。そして営農資金は私は十万円持って行きました。行くときの資金ですが、私は行く以前は自衛隊の新町部隊におりまして、退職金と貯金で二十万円くらいありました。それからそのほかの家とか、その他資産を処分しまして、現金、品物で金額にしましたら約百万円くらいのものを持って行きました。
  60. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それだけ一切がっさい全資産を傾けられたということになっておるわけだろうと思うのです。そうして準備万端整えられて出港になったわけですが、募集から出港までの期間というのは、大体どのくらいで行かれましたですか。このことはもう自分の運命をかけてのことでありますし、相当の期間を要するのが、普通だろうと思うのでありますが、今回の募集に限って相当短期間に早急に事を運ばれた、むしろそういう方向を外務省側においてとったのではないかという疑いが私たちにはある。皆さん方をせき立ててあおって、そうして早目にどんどん送り込んだという疑いが十分に持たれるのでありますが、どうですか。
  61. 森正次

    森参考人 私たちの場合は三カ月しかございませんでした。
  62. 当銀芳次

    ○当銀参考人 私の場合は、十二月三十一日に横浜からぶらじる丸で出港したのでありますが、合格の通知が十一月二十五日で、これは正式の文書は来なかったのですが、県から電話でもって、あなたが今度行くときは三十一日出港のぶらじる丸に乗船するようになったからということで、それから約一週間だったと記憶いたしますが一週間ぐらい前に、横浜のあっせん所に入所するようにというお話でもって、実際に行けるという合格が決定したということを知らされてから入所するまでの間が約一カ月であります。それでもって持っていた全財産を処分するのに大へん苦労いたしまして、あるいはその財産の処分ができないために行けないのじゃないかという懸念も一時は抱きました。ほんとうに時価の何分の一というたたき値でたたき売って、金にかえて行ったような次第でございます。
  63. 木村公平

    木村(公)委員 ちょっと西村委員質疑に関連をいたしまして、一、二お尋ねいたしたいのでございますが、その前に、私ども委員会委員は、国政調査の一環といたしまして、政府の行ないましたドミニカ移住が失敗であったかどうか、失敗であるとするならば政府はいかなる責任をとるべきであるかということを調査するために、この委員会の審議を続けていくつもりでございますので、率直にいろいろのことをお伺いいたしたいのでございますが、常に私たちはあなた方の味方として、絶えず国民の味方として好意ある審議を続けたいと思いますから、その点御安心の上、いろいろ御発言を願いたいと存じます。  そこで、西村委員のまだお尋ねでない二、三の点でございますが、大体今までのあれでわかりましたが、この中で川畑さんは大体わかっておりますが、あとの方の前歴、そうして農業の経験がおありになったかどうかということを一応お尋ねいたしたいのであります。この中で森正次さんという方は新聞記者の経験があるとかなんとかいうお話でございましたが、それも一つ伺っておきたいと思います。
  64. 森正次

    森参考人 私は新聞記者の経験は少しもございません。町の小学校を出て、中学校を出て、高等学校を出て、それから少し細菌学の方を勉強しました。それで家ではほんとうの百姓でございまして、嫁をもらったのは二十三です。それからかかとともに、土とともに暮らして参りました。それで、こういう寒村のちっぽけなところより、広大な土地で気持のまま働けるということに興味を持って出たわけでございまして、そのほか何もございません。
  65. 峯市之助

    峯参考人 私は新三菱重工の保安係員でありまして、おやじは百姓をやっておりまして、現在もやっております。
  66. 石田友吉

    石田参考人 私は、新潟県で生まれまして、旧高等小学校を終わりまして、実家が農業でありましたので、徴兵検査まで農業をやっておりました。その後分家して東京へ出ましたので、その後とだえておったのですが、農業の経験は、自分は三町歩以上あるいは六町歩以上の米作をやった経験があったので、それでドミニカのドベルへ地区に渡ったのであります。あそこは米作地帯だということでありましたので……。
  67. 久保文雄

    久保参考人 私の場合は、普通高小を卒業しましてから、ちょうど戦争も激しい時分がありたので、岡山の三井造船所へ入りまして、終戦後国へ帰りまして、それからずっと農繁期にいろいろな賃仕事をしながら農業の方を手伝ってやっておりました。そして応募する二日前まではミカン畑の開墾の仕事を続けておりました。
  68. 当銀芳次

    ○当銀参考人 私は戦時中母方の里の福島県の山の中に疎開してずっと暮らしていたのですが、そこで農業をしておりました。それから渡航する一週間前まで自衛隊におりました。
  69. 木村公平

    木村(公)委員 もう一つ、やはり調査の一環として大事なことだと思いますのでお伺いいたしますが、この中で、政党へ正式に入党されておる——自民党へ入った経験があるとか、現在入っておる、あるいは社会党に入っておる、あるいは共産党に入っておるという、政党へ正式に入党されておる方がございましたら、ちょっとそれも伺っておきたいと思います。
  70. 西村力弥

    ○西村(力)委員 議事進行。今の件は、それはちょっと行き過ぎじゃないかと思うのです。これは拒否する自由があるのですから、どういうことを質問されてもかまわぬですが、しかしそれを要求されるというようなことは控えられてはどうかと思います。
  71. 木村公平

    木村(公)委員 国政調査の一環として、本日参考人方々の御出席を願って、参考人方々から、あらゆる面において参考人に同情を持ちながら伺いたいと思っておるのですが、その私の調査の一環として、政党等にもしも御加入であるということであれば、そのことをもぜひ知悉しておく必要があると思いますので、伺っておるのです。これは他の委員から何も容喙される必要はいささかもないので、委員長はさようお取り計らい願いたいと思います。
  72. 西村力弥

    ○西村(力)委員 前例になりますから、よほど慎重に扱ってもらわなければならぬ。
  73. 勝澤芳雄

    勝澤委員 質問をされることも自由ですし、答弁をされることも自由だと思いますが、これは質問されたことについて答弁をしたくなかったらその質問に答えなくてもよろしいのだ、こういうことを一つ委員長の方から参考人方々に十分周知徹底しておいてから、今の質問に答弁をさせてやって下さい。
  74. 鈴木仙八

    鈴木委員長 ちょっと申し上げますが、先ほど委員長から御注意申し上げたように、自由な気持でもって発言をして下さい。これは、あらかじめ御注意してありますから、その線に沿ってお願いします。
  75. 宇田國榮

    ○宇田委員 ただいま木村委員が質問したことは、何も容喙したり干渉したりすることにはちっともならない。ことに西村委員は収入やあるいは出発の当時の財産がどうという質問をしているのであるから、従って政党に所属しているいかんを聞いても、それは何らそういうことには関係がないと思いますから、一つその点は委員長においてよろしくお取り計らいを願います。
  76. 鈴木仙八

  77. 森正次

    森参考人 私の場合は、百姓に生まれて外地に出ましたので、政党云々には何も関係ございません。だけれども、政策そのものについては関心を持っております。ただそれだけです。
  78. 久保文雄

    久保参考人 私も政党というものに関しては、何ら今までに関係を持っておりません。そうして私たちの悲痛な現地での状況を率直に述べるだけであります。
  79. 鈴木仙八

    鈴木委員長 前もって重ねて申し上げますが、発言したければする、またそういう質問に対してしたくないと思えばしないでも御自由ですから……。
  80. 峯市之助

    峯参考人 私も別に政党には関係ありません。
  81. 川畑太一郎

    川畑参考人 自分漁業でありますから、全然そういう政党には関係ありません。
  82. 当銀芳次

    ○当銀参考人 私は、渡航前に全然政治的な活動をした経験はありません。また私は自衛隊に入隊して以来そういうことは固く禁じられていて、全然政治活動には関与しておりません。
  83. 石田友吉

    石田参考人 私も農業をやるのには一生懸命ですが、政党関係には何らかかわりは持っておりません。
  84. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それで向こうに行かれてから大へん御難儀されましたが、生活補給金が支給されたということになっておりますが、大体どのくらいの期間、どの程度の金額が支給されましたか。
  85. 峯市之助

    峯参考人 補給金の件でありますが、昭和三十二年三月から昭和三十三年九月まで一人当たり四十セントの補給金を受けました。私の家族は五人でありまして、かけ〇・四〇、二ペソという計算でありまして、月六十ドルということです。  それから補給金は、大体入植して六カ月だけしか支給しないという条項でありましたが、何分食えませんものですから、これを延期して三十三年九月から三十三年十二月まで月十八ドル、一人頭〇・一二、十二セントであります。それで六十セントにかけ三十は十八ドル、このような補給金を受けました。
  86. 当銀芳次

    ○当銀参考人 私の場合、約一年半いただきました。金額は私が行ってから妹が現地で結婚しまして、それから母親は弟の方に行きましたので、私と妻だけ二人で月に三十ペソ、それを約一年半もらいました。
  87. 西村力弥

    ○西村(力)委員 苦労をされながらいろいろ物を作られたが、その収穫物の処理は自由であったか、そしてその収入が大体収穫を見るに至ってから年間金額にしてどのくらいあったか。
  88. 森正次

    森参考人 生産物は販売は自由でありました。けれども残念ながら私のところには何もできなかった。それで生産物はゼロじゃなくて赤字であります。こういうことでございます。
  89. 石田友吉

    石田参考人 私の経済白書とでもいいましょうか、ざっと書いてありますのをちょっと読んでみます。入植当年目水稲が七タレア、セボジン——セボジンというのはこれはネギでございます。これが五タレア、それで水稲八百七十五ポンド、これはモミのままです。ネギは十五キンタール収穫いたしました。売り上げ価格はセボジンの場合九十ペソ、水稲の場合七十ペソ。二年目上半期は用水路不備のため作付不能及び塩害にて全部枯死してしまいました。これがドベルヘの場合でありました。  二年目の下半期、五月十日ハラバコア地区転住したのでありまして、トマト、セボジン等を作付しましたが、やはり水がないのでこれも無収穫、三年目、水稲、マ二一——マニーは落花生であります。トマト、その次には第二回目のトマト、第三回目のトマト、第四回目のトマトと次々にやったのでありますが、総体といたしましては二万五千本のトマトで千五百ペソの収入がありまして、その中に肥料が三百六十五ペソ、これがたった一回やや黒字で当たりました。その次四年目、水稲、陸稲、バレイショ、トマト、大豆、小豆、キウリ、ニンジン等を作付いたしましたのですが、トマトは一万本程度次々に植えましてとうとう赤字経営で成り立たなかったのであります。それで最後に雨季に入ったので米作の植付をやったのですが、それも収穫を見ずして青田のまま安く売って帰ってきたような状態でありました。
  90. 西村力弥

    ○西村(力)委員 まあ収穫があったにしてもほとんど取るに足らない状態であったということだろうと思うのですが、今のことは速記録を見てからまた詳しく検討してみたいと思います。  それで現地の、気候風土の違うところに参られましたのでいろいろ病気なさったりしたでしょうし、御不幸にあったりしたこともあるだろうと思うのですが、一体どのくらいおなくなりになられましたか、そしてその死因はどういう病気であったか、おわかりになりましたらおわかりになった範囲で。
  91. 森正次

    森参考人 ネイバ地区の場合は、入植当時の状態からしても、まず健康な者というのと、若い者で、割に死人はありませんでしたが、不幸にして一人だけ栄養不良ということで——母体もいかれ、子供もいかれ、西沢さんの子供さんが一人そういうことでなくなりました。それだけであります。
  92. 当銀芳次

    ○当銀参考人 ハラバコアの場合は、われわれが出てくるまでに三名なくなりました。その方は改原さんの家長さん——父親ですね。その方が、病名は私よく覚えていないのですが、胃潰瘍か何かだったと思うのですが、胃腸の何かで病院へ入院する途中でハイヤーの中でなくなりました。これが約二年半か三年ぐらい前じゃないかと記憶します。それからおととしの十一月に私の実の姉がなくなっております。これは産後の処置が悪かったため出血多量のために死んだ。それから二日おいて鈴木という人が——これは男の方で家長ですが、その方がやはり病院に入院して肝臓の障害で死んでいます。何ですか、話では農薬か何かのあれじゃないかということで、結局水がこないために割当のときには夜間でも畑へ出て水を入れて、その水でもって農薬を溶いて消毒するわけで、そのために徹夜が幾日も続いて、また消毒するのに完全な防除をやったのでしょうが、農薬を吸い込んで肝臓の方がいつの間にかやられたというようなことが原因だろうというように言われているのですが、肝臓の障害でなくなっております。三名でございます。
  93. 峯市之助

    峯参考人 ダハボン地区の場合は、静岡出身の国松さんとそれから名前は忘れましたがあと一人、それから奥さんが一人と合計三人なくなられました。子供さんはずいぶん死んだようであります。
  94. 川畑太一郎

    川畑参考人 漁業者の場合は一人死んでおります。ハイチの方で死んだということは聞いておりますけれども、その死因のことは、自分と同じ場所におらなかった関係上、詳しく知りません。
  95. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それから現地日本人会の組織についてでありますが、これは各地区々々に日本人会を自主的に作って横の連絡はあったのか。それから加入をしなかった人がどのくらいおるか。加入しなかった理由はどういうところにあるか、これについて一つお尋ねします。
  96. 峯市之助

    峯参考人 ダハボン地区の場合は第一次と第四次との入植者がありまして、第一次の耕地はまあとにかく何とかやっていける耕地であります。第四次の耕地はとにかく二十年間現地人が使い古した土地政府が強制買収か何かで買い上げて与えた土地であります。それがために一次の方は収獲は非常によろしい、四次の方は少ないということで、なかなか日本人同士の組合がスムーズにできなかったということですね。それと向こうの現在の組合は株式みたいな、何と言いますか、一口何ぼというふうな方法をやっていますもんですから、四次のわれわれとしてはその株は買い切らぬというような状態でありまして、ほとんど一次のうちでもその約半数がまた二つに分かれて、三つのグループになって今組合を組織しているという次第であります。
  97. 森正次

    森参考人 日本人会のいきさつ、その内容でございますが、ネイバも初めは農業協同組合というものがございまして、そのほかに何でもないのが一つあります。これは何でもないのです。そのうちに農業協同組合が解散になりまして、日本人会というものに一本になりました。
  98. 当銀芳次

    ○当銀参考人 ハラバコアの場合は、初め何もなかったのですが、大使館、海協の支部で、組合を作ってお互いに助け合っていく方向にいった方がよろしいというので、大体大使館の主唱でもって、各コロニアに、名称はまちまちですが、そういう農業協同組合とか、日本人会というようなものができたのです。ハラバコアも、その当時農業会というものがありましたが、それがその後解散しまして、また、各地区に出身別にいろいろ会があったのですが、それが一昨年の八月に全コロニアの家長会議を開きまして、ハラバコアに日本人会を結成して、そのときは、コロニアのほんの二、三を残して全員加入しました。そしてわれわれが現在困っている実情をいろいろ大使館、海協の支部へお願いしたのですが、そのとき、一昨年の十月一日に小長谷大使を初め、大使館の方や海協連支部の方が来られまして、そしてわれわれを管理官の事務所に集めて、まず第一番に言ったことは、私は天皇の御信任によって日本国を代表する特命全権大使である。私は天皇の御名代である。あなた方は何か困ったことをいろいろ内地へ陳情するそうだが、そういうことを私をそっちのけにしてやった場合には、あなた方は不利益をこうむる、また、そういうことはとても本国政府で取り上げるものじゃないということを申したわけです。そうして大へん威嚇的な態度でした。そのため、そのことがあって以後、約半数近くの者が脱会しまして、そして三十名くらいになりまして、われわれはずっとハラバコア日本人会で活動してきた。そしてハラバコアの場合には、われわれが出てくる直前は、われわれが約三十名、それから会員外が約五十名おりましたが、それにもいろいろグループがありまして、トラクター組合は、借銭の関係があるので日本人会には入らない、しかし趣旨は一緒だということでした。そしてほかの方も大体われわれと同じですが、さきにも述べたように、大使館あたりの圧迫をおそれて、みな鳴りをひそめたものです。そのほか朝日新聞を見ますと、なんですか、われわれに対抗するような農業協同出荷組合とか、生産組合というようなものがあるということが書いてありますが、あれは事実無根でありまして、ああいうものは全然ないのです。全然活動もしておりませんし、組合員もおりません。一人の人間が自称理事長を名乗っていただけなんです。そしてその後の連絡では、現在はコロニアが全部一緒になって日本人連盟を結成して、われわれに連絡をしてくれております。
  99. 西村力弥

    ○西村(力)委員 次にお尋ねしたいのは、今ハラバコア地区でしたか、一人が扇動者というレッテルを張られまして、強制移住をさせられたということがありまするが、あの強制移住はどこが命令したのですか、どこに行ったのか、その強制移住させられたところには日本人がおったのかどうか、そういう点はどうですか。ネイバでしたか……。
  100. 久保文雄

    久保参考人 姫路から出身されておった安積武已という人ですけれども、その人が、昭和三十三年の八月のことですが、大使閣下も来られまして、それでドミニカ政府の方から扇動者という汚名をきせられて強制送還ということになったけれども、私がその間を取り持ってハラバコア地区というところに強制転住ということになりましたと、そう私どもは大使閣下の口から聞いておるわけであります。
  101. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それで大体お話は伺いましたが、ただ私たち、皆さん方の請願書あるいはただいまの陳述、そういうことを聞いておりますると、大使館の人々とかその他の関係者が、私たちとしては常識で考えられないような暴言、放言をたくさん言っておる。こういうことが移民者に対する、やはり基本的態度を示すことになるのではなかろうかと思うのですが、今ここで皆さん方の立場を証人に切りかえて、はっきり記録にとどめるというようにしても、皆さん方はそれでよろしい、こういう工合に仰せられるかどうか、たとえば小長谷大使が天皇の御名代である、こういうようなことを言う、あるいは直接本国の方に言ってやると、生命の安全の保障はできない、こう言うたり、あるいは病気で都市の病院に入院するのを、移住者としては、これは分不相応だ、地方の病院に入るべきだ、こう言うたり、あるいは横浜の古関所長さんですか、三年たてば石も砕けて肥料になるんだ、こう言うておるというようなこと、さまざまございますが、皆さん方の立場を証人に切りかえて、今のことを言ってもらうことはよろしゅうございますか。
  102. 森正次

    森参考人 けっこうです。
  103. 久保文雄

    久保参考人 よろしゅうございます。
  104. 西村力弥

    ○西村(力)委員 その件は証人に切りかえて、一つ記録にとどめてもらいたいと思う。
  105. 鈴木仙八

    鈴木委員長 午前中の会議はこの程度にとどめ、午後引き続き審議を行なうこととし、午後二時まで休憩をいたします。    午後零時四十八分休憩      ————◇—————    午後二時十七分開議
  106. 鈴木仙八

    鈴木委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  参考人に対する質疑を続行いたします。小川豊明君。
  107. 小川豊明

    ○小川(豊)委員 私はあとでほかの委員の質問がありますから、ごく簡単な点について一点だけお尋ねしておきます。  これはあなた方の関係したことではないが、私もここへ来て資料でドミニカ国の農務大臣あての書簡というものについて読んでみた。ちょっと疑点が出てきたので解明するわけですが、あなた方これはどなたでもいいですけれども、大体この書簡、協定、覚書で、営農に十分な土地を与える、適当な住宅を与える、最初の耕作に必要な種子を与える、耕作開始に必要な農具を与える、教育、衛生施設を供与する、こういう点が出ているのですが、こういうものをあなた方は与えられたかどうか。  その次に、大体これは百家族当たりを単位としてこの覚書がかわされている。ここに、これは言語が不通だ、習慣等も違う、そこで百家族当たり一名の日本人のお医者さん、及び五十家族当たり一名の通訳を、適当な条件と期間のもとに、ド国政府の負担において雇用することが望ましいとなっておるが、これはなされたかどうか。  それから同時にドミニカ政府は、日本人の農業技師をドミニカ国の負担において採用することが望ましいということが覚書にあるが、そういう日本人の農業技術者というものをあなた方に配置されたかどうか。あなた方はこういうものをそれぞれ供与されたり配置されたりしておったかどうか、この点をお尋ねしたい。
  108. 久保文雄

    久保参考人 私はネイバ地区の場合ですけれども、その医師の件につきましては、その他にはそういうふうに日本人の医師がおったというお話がございました。ネイバ地区の方では、通訳の北村さんという方が、海外協会連合会の方から、一年半ぐらいと記憶しますけれども、来てくれておりました。それから農耕に必要な小農具、つるはし、現地ぐわ、それからスコップ、こういうようなものから種子、若干の肥料、こういうものをドミニカ政府からいただきました。それから施設については、ドミニカ側の診療所、小学校、教会、倉庫、事務所、こういうものを私ども日本人入植しておりまするコロニアに設置していただきました。  それから、その次に技術者のことですけれども、これは私どもネイバの場合はそういうことはなされませんでした。  それから、十分なる耕地を与えるということにつきましては、全然そういうようなことはなかったわけです。写真でごらんのように、非常にひどいところでございまして、それで十分な耕地を与えられた事実はございません。  住宅は一戸ずつ割り当てていただきました。
  109. 鈴木仙八

    鈴木委員長 西村力弥君。
  110. 西村力弥

    ○西村(力)委員 午前中の終了時に、皆さん方に証人に変わっていただいて、関係当局の人々、こういう方々の、われわれから見ると暴言に類する、こういうことについてはっきりした証言を求めよう、かように申し上げまして、皆さん方もそれに同意する、こういうことでありましたが、いろいろ検討した結果、本日は参考人として来てもらったので、突然証人に切りかえることは、やはりいささか検討を要するということになりましたので、証人の切りかえは、後日証人なら証人として最初から来ていただく、かような方向をとりたいと思います。御了承願います。ただ皆さん方の申されたことを、あるいはいろいろな書類に載っておること、これを証人として求められる時期が参りましたら、何ものにもとらわれることなく、はっきりした証言を願いたい。これだけはお願いしておきます。  それで、あと少しだけ私質問を申し上げたいと思うのでございまするが、皆さんが現地に参られまして、現地人との関係はどういう状態であったか。ことにコーヒー園の方に入植された方々、アグアネグラとかアルタグラシアとか、こういうところの方々がおいで下さればはっきりするのでございましたが、本日はおいで願えないことになりましたのでやむを得ませんけれども、皆さん方でも、現地人との関係においてはいろいろ苦労せられたことであろうと思うのです。それが当初からずっとどういう関係にあるか、ことにトルヒーヨ政権の転覆後はどうであったかということ。それから、国有地に入植して、周辺にその地主たちが相当おったということでありまするが、そういう関係からのいろいろなトラブル、圧迫、こういうような形はどういう工合に現われておるか。それからその土地が何年前にその旧所有者から国有地に移ったということになっておるか。そういうふうな点について各地区ごとにお話を願いたいと思うのですが、ただ現地人との関係は、だれか一人述べていただいて、あとそれに追加する部分がありましたら言っていただく、こういう工合に審議を促進したいと思いますので、どなたかに一つお願いいたします。
  111. 久保文雄

    久保参考人 私どもネイバ地区の場合、昨年三月以来帰国請願運動を起こしましてから、三月二十日に大使館へ全員でもって陳情に参ったのですけれども、そのときにトルヒーヨ元帥あて、また農務省あて、電報とスペイン文の嘆願書を送りました。そうして、もうやるだけやってみたが、これ以上は、からだも悪くなり、また営農資金もなくなり、農耕機具もなくなり、衣類もなくなりというような現状で、やることはできませんから帰して下さいといって、スペイン文でドミニカ政府の方へも嘆願申し上げたのであります。そうすると、トルヒーヨ政権におきましては、閣議を招集してネイバ問題を取り上げて審議して下さったのであります。そうして結論としましては、ネイバ地区移住者が最も希望する帰国をかなえてやりたいということで、バウルカ州の知事及びバウルカ州の司令官、それとドミニカ政権のドミニカ党の人たちが、私ども家長連中を知事官舎に招きまして、そうして閣議決定の模様を伝達して下さったのであります。それは先ほど申し上げたように、ドミニカ政府の方から日本出先機関及び政府の方へ勧告をして、帰国希望のかなえられるようにいたしましょうという結果でございました。  そうして周辺の現地人との問題につきましては、私ども非常に気をつかって、機会あるごとに、集会の席では、とにかく一個人のやることすべて対日感情につながるから、そこのところを考慮して好かれるようにせにやならぬということを始終申し合わせておりまして、それでネイバ地区はうまくいっておりました。一部水の件について話し合いがあった以外は大過なく現地人とのつき合いは続けられたのであります。そうして今度私どもが帰るようになってからでも、現地の住民達は、バスを見送って、そうして別れを惜しんで下さったような次第でございます。
  112. 当銀芳次

    ○当銀参考人 ハラバコア地区の場合には、土地が国営となっていたのです。われわれが入植する大体一年くらい前に買収になったというような話ですが、買収ですが実際には金を一銭も払ってない。そうして周辺に地主連中がいるわけです。そうしてトルヒーヨ元帥健在当時は、そういったことを言ったら自分が消されるから、表面的には言わないのですが、やはり陰ではこそこそ言っていました。それが、トルヒーヨ元帥が暗殺されてからは、これは元帥にとられた土地だからお前たちは出ていけ、あれはおれたち土地だということを地主たちは公然と申しております。それから、その後できました政党のユニオン・シビカ・ナショナルとかカトルセ・デ・フーニオの連中は、われわれをどろぼう呼ばわりしました。そして、小型トラクターやトラックに乗って、こん棒や蛮刀を持ってきて、われわれに石を投げて、日本人は早く帰れ、お前たちトルヒーヨ元帥が連れてきたのだ、元帥は大どろぼうだった、お前たちもおれたち土地を盗んだ、早く帰れということを盛んに申します。元帥が健在当時は、私たちは付近の原住民とも比較的友好的だったのですが、元帥がなくなってからは、もう毎日々々家をあけて畑に行っていれば家のものが盗まれる、家にいれば畑のものが盗まれる、物置から動噴から農薬、そのほか農機具類がごっそり持っていかれる。しまいには、天井のトタンまではがして持っていかれるというような状態で、ハラバコア地区は特に現地人のあれが悪かったです。そして婦女子に対する暴行事件といったようなことも、明るみには出なかったですが、再三そういうことも聞いています。暗やみから抱きつかれたとかなんとかということもですね。そしてほかのコロニアと違ってハラバコア地区は、早い話がハラバコアという町の地続きなんです。そして付近にドミニカでも最下層の人間が大ぜい住んでいるわけです。そういった連中がわれわれに対して、自分たちのみじめな生活から比較して、われわれが土地も持たないで困っているのに、元帥が日本人を入れた、それでおれたち土地を取り上げたということを言うわけです。そして私たちがいた当時は、どろぼうはあったのですが、それでもそのほか焼き打ちとかなんとかはなかったのです。ただ、裁判問題で、これは日本人の青年とドミニカの青年が初めけんかしたのですが、そしたらドミニカ人の親が出てきてその日本人の青年を袋だたきにした。そして結局告訴して、裁判したのですが、そのときなどにもドミニカ人の青年が、二、三十人こん棒を持って、日本人をたたき殺してやると言ってコロニアに押しかけてきたこともあります。これは事実です。そして裁判になったのですが、結局、裁判長が裁判の席において、日本人はなまいきだ、ドミニカへ来て、家を与えられて、土地をもらっていて、ドミニカ人とけんかするのはもってのほかだ、ドミニカへ来て日本人ドミニカ人とけんかしたり、裁判したりして勝てると思っていたら大間違いだというので、一方的に判決を下されて、日本人の青年二名は十ドルずつ——初めは二十ドルと言われたのですが、金がないから払えぬと言ったら、それじゃ十ドルにまけてやるから払えと言うので、その十ドルも持たぬと言ったら、それじゃ留置場へ十日間入れというので、二名の者は留置場へ十日間入りました。そのとき私は、日本人会の代表として大使館へ参りまして、何とかしてくれと言ったのですが、大使館では、われわれが口出しすると内政干渉になるから何もできぬということで、何もしてくれなかったのです。それで、ハラバコア地区はいつも現地人と摩擦があった。そうして盗難の多いことは、一日として物をとられないことがなかった。特に最近は、どろぼうでなくて強盗です。人がいても五、六人で来て、トタン屋根を二、三十枚ばりばりはいで持っていってしまうという実情で、ドミニカ人のわれわれに対する感情はとても悪かったのです。要するに、お前たちを連れてきたのはトルヒーヨ元帥だ、トルヒーヨ元帥はどろぼうだ、悪魔だ、お前たちトルヒーヨ元帥が連れてきたのだからお前たちも同じくどろぼうだ、帰れ帰れと言って、コロニアにいても、こん棒を振り回したり、蛮刀を振り回したり、石を投げるのです。その後の事情は、私たち日本人連盟の方から連絡をいただいておりますが、十二月二十六日、不藤さんという方の倉庫が焼き打ちされて、全焼しております。その後も集団的にコロニアを襲撃するという計画があったが、それはどうにか軍隊が出て鎮圧したという連絡をいただいております。そうして、現地の方からの連絡ですが、現在では非常に身の危険まで感じている、何とか早くしてくれと、今大使館に対して人命の保護を頼んでいるという手紙を代表の方からいただいております。
  113. 森正次

    森参考人 私たちネイバの場合、トルヒーヨ元帥が死んだ以後と死ぬ前につきましては、一向変わりなく、現地人は心よくつき合いをしてくれました。死んだのは五月でございますが、それから七月、八月、九月、十月、飛行機でたつまでの短い期間ですが、それ以後はどうなったかわかりませんが、私たちの来るまで、ネイバ地区においては現地人から恩恵をこうむっております。そうして、出るときの別れの言葉現地人はこう言いました。日本に帰れば人口が多いだろう、仕事も見つからぬだろうから、行ってみて悪かったらまた帰って来いよ、こういう別れの言葉を言う人が数多くございました。それで、午前中も言いましたように、来る日まで政府牛乳をもらって飲んできました。ある人は補給金をもらってきました。そういうことで、ネイバ地区の場合は、国内政変によって云々という問題はございませんでした。
  114. 峯市之助

    峯参考人 私は三十二年三月九日入植したのでありますが、耕地はそのときはまだトラクターで耕起していました。そして入植して大体四カ月後——三カ月後かよく覚えていませんが、とにかく二、三カ月後いただいたわけであります。現地人との関係は、別に大きい事件はなかったのですけれども、賃金の問題で、加藤さんという山形県の人ですが、うしろから回って頭を打たれて脳震盪を起こして入院しました。それから四カ月後、四国の小松さんが、水係長だった関係で、水のことでやはり現地人と争って、後頭部をたたかれて脳震盪を起こして入院しました。それくらいの程度で、別に圧迫されるとかなんとかいうことはありませんでした。
  115. 石田友吉

    石田参考人 ドベルヘの場合はドミニカ人との折衝があまり深くなかったので、ありませんでした。というのは、ドベルへ地区は砂漠のために国有地であったのであります。しかし、われわれの水がないということに対しては、ドミニカ人も——彼らは先に入植しておったために、ハポン——日本人のことですが、ハポンは水の来ないところが当たってかわいそうだ、どこかハラバコアに行っても水のあるところが当たったらいいなと、そういう心配までしてくれて非常に友好的でありました。あえて取り上げて言うこともありません。
  116. 西村力弥

    ○西村(力)委員 そこで、当銀君が大使館現地人との紛糾あるいはこちらの危険な状態の救出方を陳情した場合に、大使館としては内政干渉になるからそういうことは何もできない、こういうことを言われたそうですが、それはどなたがそうおっしゃったのですか。
  117. 当銀芳次

    ○当銀参考人 大林書記官です。それ以前も日本人現地人と紛争を起こして裁判になったことが再三あって、そのつどいつも申されております。そのつどほかの方も、正式に代表をお願いしても、二言目には内政干渉になるからできないと言って、あるときには、お前たちがそんなに裁判でいつもやられて不利益をこうむるのだったら、大使館で顧問弁護士を雇っておくから、申し出れば派遣してやるということまで申されました。そうしてその次にまた日本人が裁判でもって不当な判決を受けて、膨大な罰金を課せられたので、またお願いに行ったところが、今度は大使館は、この前はああいうふうに言ったが、予算がないから経費を自弁で出せば弁護士を探してやるということで、われわれはその経費がありませんから、もちろんこれはお願いできなかったのですが、実際問題として、われわれがあちらにいていつも現地人から暴行を加えられて、留置場にまで入れられても、大使館では、二言目には、内政干渉になるからわれわれにはできぬというだけであって、何のあれもしてくれなかったのです。
  118. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それから皆さん方が現在負っている負債、それは移住振興会社から借りておられるかどうか。それから帰国のときの渡航費、これは証書を入れて借りておられるのだから、借財になっているのだと思うのだが、移住振興会社から現地で融資を受けたりなんかして、それが荷になっておる人がおるかどうか。もしそういう人があるとするならば、帰国の際にそれが障害にならなかったかどうか。現実にそれが障害で帰国ができないでおる人がおるかどうか、こういう点についてどなたか……。
  119. 当銀芳次

    ○当銀参考人 私たちハラバコア日本人会の場合は、現に会員の野口幸雄さんは、正式に政府から、あなたはこのたび国援法によって帰国させてあげますという証書をいただきました。ところが現地出先機関移住振興会社の永田という方が、余白の白いところへ赤インキでもって、あなたはこれこれでもって貸し付けた金があってまだ未納になっているが、早く支払ってくれと言うて、そのあとから正式に公文書で送ってよこしました。そこですぐ本人が行って事情を話して、この通り自分も困って帰らなければならない、金はとても全部払い切れぬということを申したのですが、いや、その事情とこの借金は別だ、貸した金はあくまでも貸した金なんだ、現地融資はあくまでも現地で返済するのが原則になっているから、返してもらわなければ困るということでもって、とうとうその方は、政府からあなたは帰してあげますという通知を受けながら、それを返済できないために帰国査証を差しとめられて、現地に残っております。
  120. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それでは大体この程度にしたいと思うのですが、委員長にお願いしますが、冒頭に森君でしたか、中田技官——今技官ではないですけれども中田弘平氏、その人と学士会館で一問一答したという何か記録があります。それを要約して森君が申しましたが、それを全文速記録に入れる、こういう工合一つやってもらいたい、こう思うのです。
  121. 森正次

    森参考人 ぜひそういうふうにしてもらいたいと思います。なぜならば、徹底してこの内実をみんなに知ってもらうために、ぜひそういうようによろしくお願いいたします。
  122. 鈴木仙八

    鈴木委員長 西村君の発言は適当に取り計らいます。
  123. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それではあと久保君にお願いしまして、私これでやめたいと思います。本日は関係各省の方々においでを願っておりますが、私としましては、引き揚げの皆さん方に十分にその真実を述べてもらい、そのことと皆さん方のおっしゃることの食い違いはどこだ、こういうことにこの次に問題を進めていこうと思いますので、せっかくお見えでございましたが、何一つお答えを願わないで失礼しておりますが、さような意味でございます。それではこれで終わります。
  124. 鈴木仙八

    鈴木委員長 久保三郎君。
  125. 久保三郎

    久保委員 最初に川畑さんにお尋ねをしたいのでありますが、一つは、あなたが移住される前に、この移民募集にあたって、あなた方がお聞きした、あるいは書類を見せられた、いわゆる募集要項というものはどういう内容のものであったか、それを一つさしあたり伺いたい。
  126. 川畑太一郎

    川畑参考人 最初の漁業移民の募集要項といたしましては、アジ、サバ、イワシ、サンマ、また沖合いにはありとあらゆるものが多い、魚の財売は自由である、それから土地、家屋を支給する、土地は菜園三畝を支給する、それから別途に三町歩から五町歩の土地を支給するということも書かれておったことを記憶しております。
  127. 久保三郎

    久保委員 重ねてお伺いしたいのでありますが、漁業はどういう漁法でどういう漁具を持っていったらいいか、こういう条件はございましたか。
  128. 川畑太一郎

    川畑参考人 そういう漁具や漁網に対しては指示は何もありませんでした。そして初めての土地であるだけに、日本の初回の漁業移住者であるという建前上、私たちといたしましても、その募集要項に基づきまして、ありとあらゆる資材を準備したわけであります。そしてなお自分でやる上にも、いろいろなものを準備しないことには、その国にどんな魚がおるかもわからないので、万全を期したような状態であります。
  129. 久保三郎

    久保委員 持っていかれた漁具、漁船類はどの程度のものでありますか。
  130. 川畑太一郎

    川畑参考人 漁船は、当初指示せられたところによりますれば、一トン四馬力というものを限定としてありました。それで自分たちとしては、それではあまり小さ過ぎるというので、自分の場合といたしましては、二トン八馬力を携行したわけであります。
  131. 久保三郎

    久保委員 そうしますと、その募集の際に、この地区における漁業について、あなたは十分承知しての上じゃなくて、大体こういうことだろうということで行かざるを得なかったということでありますか。
  132. 川畑太一郎

    川畑参考人 自分としましては、アヅ、サバ、イワシ、サンマというような魚群がおるという建前ならば、自分が持っていっただけの資材に基づいて、十分将来自立し、成功し、そしてまた、その魚群のあり方というものも十分調査し得るという自信を持って出たわけであります。
  133. 久保三郎

    久保委員 それであなたが持っていった渡航費というか、向こうへ行ってからの漁業資金といいますか、そういうものを含めて、資材は大体どの程度の金高のものをお持ちになって行ったか。
  134. 川畑太一郎

    川畑参考人 当初自分が出ていきますときの資金として、手持ち現金四十三万四千円持っておりました。それに家屋を売却して五十三万六千円、三輪車五十万円、これは二トンの新車です。それから海産加工を当時続けておりましたから、この資材及び別途借入金、これは振興会社から別途に借り入れた分の五十二万五千円、それから宅地を売却したものあるいは株を売却したものを入れて、総計三百三十一万三千円という金を作って出ていったわけであります。
  135. 久保三郎

    久保委員 先ほどの話で、行ってから大体一月ぐらいはある程度やったが、それ以上できなかったというようなお話があった。その通りであったかどうか。  それからもう一つは、先ほどお話しの、漁業区域が非常に指定されていったというのだが、どの程度に狭められたのか、広さというか、あなたのやろうとする漁業からいって非常に窮屈な場所であったのかどうか。そういう点一つ
  136. 川畑太一郎

    川畑参考人 自分たち漁業の区域としましては、はっきりした線は、マンサニリヨ湾の場合におきましては、今のモンテクリストの河口の付近まで制限されておりました。その間約三十キロぐらいあったと考えております。ただし、それは各海軍の警備地区の関係で、その海軍のあるうちの人の権限内における警備地区の間だけの許可ではなかったか、こう考えておる次第です。
  137. 久保三郎

    久保委員 それで、その漁業区域というのは、日本を立つまでの間に詳細に関係当局なり機関から御説明がありましたか。
  138. 川畑太一郎

    川畑参考人 そういうものは全然ありません。
  139. 久保三郎

    久保委員 次いであなたは、マンサニリョから続いてベアタヘ移られたというか、転住を勧められて調査をしたわけですね。
  140. 川畑太一郎

    川畑参考人 はい。
  141. 久保三郎

    久保委員 その結果は不適当ということになったのでありますが、そのときのお話では、外務省の出先から、ここで落ちついてやらぬと好意を無にすることになるから、そういうことにしないでやったらどうかという勧めがあったそうでありますが、その通りですか。
  142. 川畑太一郎

    川畑参考人 自分たちが当初マンサニリヨに入植いたしまして、二十何日ぶりに船を送ってきたわけであります。そしてその間というものは、支給された菜園をば開墾しまして、それに野菜を作ってやりましたけれども、十一月の四日と思っております。当時台風がきまして浸水して、これも全滅に帰しました。その後はその菜園というものの使用は、そういう塩分の関係——非常に早魃地で、雨の少ない関係上、全然耕作は不可能になりました。その他の土地、マンサニリヨ付近一帯に対しましては、耕地として耕作するような場所はありません。そして到着して約一カ月半ぐらいは当時マンサニリョにありましたバナナ会社の運河にボラのおることに気がつきまして、一カ月半ぐらいはそのボラ漁によって相当漁があったわけであります。しかし、当時としては何分言葉はわからないし、また売るにしても、地形がわからぬ関係から、地元に売るだけのことにとどめて、あとほとんど売り切れないものは農業者に支給したりいろいろして終わったような結果であります。そうしてそのボラをば一カ月半ぐらいとりましたところ、ボラもおらぬようになりましたので、いよいよ外海に出て操業してみましたけれども、どうしても目ぼしい漁獲がないのであります。そこで、これではいけないというので、どうしてもドミニカ漁業ではだめだ、自分たちといたしましては、操業してみますれば、そこに将来性のある漁獲であるかないかということは、魚の種類やいろいろなことによってある程度察知されるのであります。それで他の国に転住させてくれということを、すでに行きまして三カ月目には大使館に口頭によって陳情したようなわけであります。ところが当時としましては、入植して日も浅く、まだ来てから二カ月じゃないかというようなことで、まあ東光丸もそのうちに来るというような話もありまして、そのままマンサニリョで補給金をいただいて過ごしたのでありますけれども、しかし、その間にも非常に苦しくなりまして、補給金は打ち切られるし、どうしてもやってはいけない。そういう海軍の許可以外の地まで今度乗り出そうというようなこともやったことがあるのであります。しかし、幸いにして、また補助金も再交付になりまして、それからというものは、どうしても魚のいるところに移転させてくれというようなことを再三再四陳情にも上がったのであります。ところが、それから今度ベアタの方に移転させるというようなことが起こりまして、いろいろ現地人から話を聞いてみましたところ、地形的にも非常に悪い場所で、沿岸漁業者のわれわれが操業するような場所に適当しておらないというようなことを内々聞くことができたのであります。それだから、今度自分といたしましては、大使館に再度参りまして、一回そのベアタ島を調査してもらわない限りにおいては、どんな強制的な手段でもって自分たちをそこにやろうとしても、絶対行かないということを断言しました。ところが、いよいよ海軍の軍艦を派遣して、自分たち家族——家族は当時まる一年でもって漁業の将来というものは見込みがないとして、農業に転向したのであります。そして残った三家族によって、その漁場の調査にかかりました。そして当時海協連の方から一人、大使館から一人ついて行っていただいて、そのベアタ島の調査をいたしました結果、一見してわれわれ海に生きる者というものは、その島に上陸して、あるいは海岸線の波の打ち方、あるいはその付近の砂の吹き上げた姿による風測のあり方、あるいは木の生長度によって風の吹き方というようなことも、長年漁業をする人においてはわかるのであります。そしてこの場所は、とうていわれわれ沿岸漁業者が、操業する場所でないということを見取ったのであります。それからその日、その軍艦から大使館の方に帰りまして、海外協会連合会の支部長及び当時同行しました大使館の中川事務官、それに大使三人と、私たち三人の漁業家長等が寄って、行くか行かないかというようなことで相当口論し合ったのであります。しかし私たちとしては、そういう過去における漁業の知識と海に生きる知識をもちまして相当戦いましたですけど、最後的には、大使といたしましても、まあ君たちがそれまで言うならば、一応ベアタ行きはやめようと言ってとどめました。ところがどういうわけか、海協連の支部長が、そら、大使というようなことで、また話はもとに返って、再度自分たちに強硬に行くように勧めたのであります。そうして行かなければあとどうなるか、自分たちとしては責任を持ち切れないというようなこともありましたので、今マンサニリョにおきまして生活もできないのに、万一補助金でも打ち切られて将来食えないということにでもなったら大へんだというような危惧もわいたのであります。それで自分の方としましては、家族だけはとうてい連れて行かれる場所ではない。万一家族を連れて行って、これでわれわれ操業する男の者が死んでしまったときその島に家族を残してどうなるものか、非常に危惧しました。実はベアタ島といいます島は、全然地方人は一人もおらないのであります。海軍の警備兵が十名と、それに類する家族若干がおるだけでありまして、一般の地方人というものの出入りは全部禁止されておるのであります。日本で言いましたら、これは一つの要塞でありまして、そういうところで自分たちが死んだら、これはどうにもならないということははっきりするのであります。その島には港湾施設の一つもあるわけでもないし、鉄工場があって機械の修理をするわけでもないし、またとった魚を処理する場所も何もないのであります。いろいろな点から考えてみましたときに、とうていだめであるということは、われわれ漁業者に限らず、当時同行しました海協連の支部長及び大使館の中川書記官も十分知っておったことと思うのであります。にもかかわらず、何がゆえに強制的に行かなければいけなかったかということを、いまだに自分たちとしては不可解としておる次第であります。
  143. 久保三郎

    久保委員 それで、話は前後しますが、先ほどのお話で、最初の一カ月半ほどはボラがとれた、そして、地場でさばいたり、あるいはそれを農業従事者に配ったりということでありますが、漁獲物に対するところの販売、あるいはその他の問題について、出先である外務省大使館あるいは海協連の出先、こういうものはあなたたちに指導はしなかったのでありますか。いかがでしょう。
  144. 川畑太一郎

    川畑参考人 当時、魚の販売やそういう面につきましては自由ということになっておりましたが、マンサニリョにおきましては、当時とりました魚も売れないということも出たような関係にあるのでありますけれども、しかし、あとになっては徐々に言葉もわかるし、そのマンサニリョから約百五、六十キロ離れたドミニカ第二の都市のサンチアゴ市付近までかけて、五家族共有の携行の三輪車で売りましたことも起こりました。しかし、とり尽くしてしまったあとは、魚がおらないので、これ自体もあとは継続して進めることはできないような結果になったのであります。
  145. 久保三郎

    久保委員 そういうわけで、ベア女島への転住は勧められたが断わった。そのあと三十四年の九月になってミッチェスに移住をされたということでありますが、ここでは漁獲はどの程度にあったのでございますか。
  146. 川畑太一郎

    川畑参考人 まずそのベアタ島においては、三十三年の十月十二日にベアタ島に到着いたしまして——家族はダハボン及びマンサニリョに残しまして、稼働能力のある男だけ乗り込んでベアタに行ったわけであります。それから、ベアタ島そのものでは約二十日間操業してみましたけれども、何せ風速は思いもよらない強さをしておるのであります。それから、徐々に示された海区で、西の方はハイチ国境より、東の方はベアタ島より約四、五十キロ離れた付近までを許可されたのでありますけれども、そういう関係で、まず一番遠いハイチ国境から漁群調査にかかりまして、いろいろ調査をいたしてみましたけれども、どうしてもその付近に思うような漁群はないし、それから中途のカブローホといいますアメリカ軍のアルミ鉱の積出地に基地を設けまして、船上生活を約五カ月続けて、その付近一帯の漁場の調査にかかりましたけれども、目ぼしい漁群がほとんどない関係で、またベアタ島に帰ったような次第であります。そして、ベアタ島で三カ月続けましたところ、エンジンのフライホイールを割って、それから大使館に早急に移転方も陳情したような結果でありましたけれども、当時キューバのドミニカ国に対する侵攻が起こったり、いろいろそういうような問題が起こりまして、なかなか思うにまかせず、自分たちのミッチェスに対する移転は九月まで延びたような結果だったと記憶しております。
  147. 久保三郎

    久保委員 ミッチェスには、魚がここならとれるということで移動をされたのでありますか。いかがです。
  148. 川畑太一郎

    川畑参考人 もうその場合におきましては、自分たちとしてはどこという指示はしなかったのであります、ベアタ島からどこにでも直してもらいさえすれば——この場合はこういうとれないところに置いてもらったのだから、どうしてもとれる、自立のできる場所に移転さしてくれということを陳情したところ、ミッチェスに直すようにしたというようなことがあったわけであります。
  149. 久保三郎

    久保委員 重ねてお伺いしますが、ミッチェスに移られたときに、大使館では、ミッチェスならば魚がとれるだろうというお話があって行ったのでありますか。それとも、もうベアタはだめだから、どこでもいいから適当なところに移してくれという要請に基づいて、ミッチェスに移られたのですか。どうですか。
  150. 川畑太一郎

    川畑参考人 ミッチェスに対しましては、以前自分たちがマンサニリョにおるころ、どうしても漁獲のない関係上、ドミニカ現地人の話を聞きまして、この国で一番魚の多い場所はどこだというようなことを聞いたことがあるのであります。そうしましたところが、サマナ湾——結局ミッチェスはサマナ湾外になるわけでありますけれども、その付近がこの国では一番魚が多いということを申し述べて、一時はミッチェスにでも直してくれということを言ったことを記憶しております。
  151. 久保三郎

    久保委員 そこで、話は前後しますが、三十二年六月に水産庁の調査船東光丸がこのドミニカ周辺の漁業調査に行ったはずです。この東光丸の調査の結果について、非公式でもあるいは公式でも、どちらでもけっこうでありますが、あなたたちは、このドミニカ漁業について、東光丸の調査の結果を幾分でも知ることができたか、お話を聞いたか、いかがですか。
  152. 川畑太一郎

    川畑参考人 東光丸が来ましたときに、実は私どもとしましても、そういう漁業の開発が行き詰まったような関係にありましたので、東光丸到着と同時に、さっそく自分たちは首都トルヒーヨに飛んでいって、団長及び皆さんにも面談したのであります。そうしまして、どういう漁法でどういうところに魚がおるかということも見せていただくために、船に同行させていただいて、乗船させていただくようにお願いをしたのでありますけれども、しかし、当時としては船室のない関係から、船長さんに断わられたような結果でありました。そして、しょうことなしにマンサニリョに帰っておりましたところ、その後調査を進めて、最後的にマンサニリョに来ましたので、いろいろお伺いしたような結果でありましたが、団長さんのお話では、自分としてはこの国においての漁法としては大敷網を据えて、半農半漁をしつつ、朝夕網を揚げるということが一番適当ではないかということも耳にしたのであります。そして、大使館の方から、川畑君大敷網というものはどのくらいかかるものかということを問い合わせていただきましたが、一千万以下ではできないでしょうということを自分としては回答したことを覚えております。
  153. 久保三郎

    久保委員 そこで次に移りますが、最後はミッチェスからサンチェスに移られたのですね。サンチェスではやはり漁業をされたのでありますか。
  154. 川畑太一郎

    川畑参考人 私たちがミッチェスに移転しましたときには、すでにベア女島におきまして機械を割ってしまって、自分の船の使用ということが全然不可能になったのであります。しかして、最初はミッチェスのところに家も作ってやる、あるいは借りてやるというようなことを農務省の方からも話されておったのでありますけれども、ミッチェスの市から約二十二キロ離れた場所に住宅を指定されまして、その付近から二十二キロも離れた場所にかけて、漁業を続けられないような結果にあったのであります。そして、再三、再四、ドミニカ農務省及び大使館の方にも、家の支給方と機械の支給方、いろいろな家族の呼び寄せ方も陳情してみましたけれども、なかなからちがあかずに、その後ミッチェスで一年問続けましたけれども現地人の廃船を借りたり、いろいろな苦汁をなめて、なおいたんだ船を自分で大工もするし、あるいはかじ屋もやる、また現地人の船に乗って指導もして、それからサンチェスに移ったのであります。
  155. 久保三郎

    久保委員 小長谷大使が視察に来られたのは、どの場所で、いつごろですか。
  156. 川畑太一郎

    川畑参考人 サンチェスに直るときに農務省の役人が言いましたことは、サンチェスの方には大きな家を二軒借りてある、そうしてその家賃は月十ドルずつである、六カ月は政府の方で支払うも、あとは自分で支払うようにしろというようなことで、自分はその機械のない破損しておる船を、漁業を指導した現地人の廃船に引いていただいて、ミッチェスからサンチェスまで約四十五マイル程度引いていったのであります。ところが、向こうに着きましたところが、市長及びその土地のおもな政府の顔役やいろいろな人に聞いてみましたけれども、全然そういう家も何にもないのであります。それから、そういろ一部始終を大使館に書いて報告しましたところ、それから一カ月ぐらいして大使が訪問をして下さいまして、当時寝る家もありませんでしたが、幸いに日本人を知っておる、以前税関署長をしていた現地人が材木倉庫を貸して下さいましたので、その中で三人自炊をしまして、そうした過ごし方をしておるところに大使も見えたようなわけであります。
  157. 久保三郎

    久保委員 そこで、小長谷大使がサンチェスに見えられたときに、いろいろ実情を訴えられたと思いますが、その際小長谷大使はどういう配慮をしてくれたと思いますか。
  158. 川畑太一郎

    川畑参考人 大使が見えたときに、漁のあり方はどうかというような質問も受けたのでありますけれども自分たちとしては、その間そこに直ってきてまだ一カ月にもならないし、なお機械は破損しておったのを、ようやくその場所にありました政府の鉄工所に直していただきまして、ようよう二、三日操業を続けたところでありました。それから、大使の言われるには、漁業がだめならば農業にでも転向するかということであったのであります。それとも日本に帰るか、どちらにするか、この際二時間のうちにはっきり答えよというようなことであったのでありますけれども、しかし、自分たちといたしましては、その場所に来てまだ一カ月余りしか経過しておらないし、その一カ月といいましても、仕事らしい仕事はしていない、その付近一帯の魚族の調査もしておらなかったのであります。そういう関係で、その時期がちょうど九月だったと記憶しておりますが、それから大使に対しまして、でき得れば来年の三月まで、でき得ないとしますならば本年一ぱい、このサマナ湾の調査をさしていただきたい、そうして漁業によって自立できる見込みがあるといたしますならば永住もしようし、その魚族のあり方がどうしても今までのあり方で見込みがないとするならば、最後的に帰国の嘆願もせざるを得ないということで見ておったのであります。なおまた、当時としましては二カ年半家族とも別居して、家族自分たちのおるサンチェスからなお三百五十キロ程度離れておって、その間に仕送りもほとんどできずに貧窮した生活をしておるし、帰るといたしましても、すでに家族が借りておった米代やいろいろなものも相当な額になっておるし、これの返済もつかないし、即決してお願いすることもできなかったような結果にあるのであります。
  159. 久保三郎

    久保委員 そうしますと、あなたはサンチェスが最後——最後と言ってはおかしいが、ドミニカにおける引き揚げの最後の地がサンチェスであったわけでありますか。
  160. 川畑太一郎

    川畑参考人 はい。
  161. 久保三郎

    久保委員 その最後の地に行ってまでも、やはり何とか当初の考え通りドミニカにおける漁業開拓をしてやっていこう、こういうことであったわけですね。
  162. 川畑太一郎

    川畑参考人 はい。
  163. 久保三郎

    久保委員 それでは次に移りますが、そこで、最後帰国せざるを得ないというのは、今の事情調査の結果、もうだめだ、こういうふうになったのはいつごろですか。
  164. 川畑太一郎

    川畑参考人 まあその結果すでに三十五年の五月ごろ、今まで四カ所を回った手前、どこの魚のあり方を調べても変わるところがなかったのであります。そうして、自分といたしましては、この国の魚のあり方というものが、なぜこの国に少ないのか、どういうわけで自分たちがとり尽くしたあとの入れかわりがないのか、漁業としてのいろいろの疑問がわいたのであります。それだけの結論を出すために、最後までがんばったような次第であります。それまできましたですけれども、どうしてもだめだということで見切りまして、大使館にも他の漁業で立つような国に転住さしてはいただけないかということもお願いいたしましたけれども、それ自体も、本庁の方でそうした許可もないというようなことで、万やむを得ずに帰ってきたような結果であります。
  165. 久保三郎

    久保委員 ただいまのお話だと、それは漁業をやめて農業に転向しようかという考えもあったんだが、大使館の意向としては、それは不可能だというようなことでお帰りになった、こういうことでございますか。
  166. 川畑太一郎

    川畑参考人 はい。
  167. 久保三郎

    久保委員 それでは、次にダハボンの関係でお尋ねしたいのでありますが、ダハボンは峯さんですね。私がここに持っているのは当時の募集要項でありますが、そこで先ほどのお話を確認するようなことにもなりますが、開拓自営農ということで募集されて、そのつもりで行ったところが違ったというお話がありますが、それには間違いはないでしょうか。しかも、われわれよく事情を知りませんけれども、自営開拓ということと、コロニアという言葉はどんなふうに違うのか。あなたのお話ではコロニアというので——そのコロニアというのは、向こうのコロニア法に基づいて言うのであるか、それとももっと違った概念があるのか、その辺のところをおっしゃっていただきたいと思います。
  168. 峯市之助

    峯参考人 私らは自営開拓という名目のもとに行ったのでありますが、向こうに行って実際に見たところ、国営農場であります。それで、たとえばここに十なら十の耕地があるわけです。その耕地は一番と二番がよくて、三番と四番は非常に悪い、こういう個所があったわけなんであります。私らはその三番という悪い耕地に入ったんですが、その耕地に入れば絶対動けないわけなんです。というのは国営農場が何も別にないわけなんです。いいところに入った人はどうにかすればできるというような状態で、悪いところに入った人は沈む一方というような状態でありました。
  169. 久保三郎

    久保委員 同じくあなたらがごらんになって応募されたこの要項でありますが、入植条件の中の土地には一世帯三百タレア土地が無償譲渡されると書いてある。ただし、世帯員数、栽培する作物の種類等により配分面積は増減することがあるというから、基準は三百タレアだが、その通りではない。しかし土地が無償譲渡されるというのだが、これはその通りになっていなかったというんですね。
  170. 峯市之助

    峯参考人 無償で譲渡されるということは、その耕地に入って八年作らないと自分土地にはならないというふうな話でありました。この三百タレアの問題は、とにかく行ったら三百タレアやるのだ、そのうち最初とにかく百五十タレアを開墾して、播種できるような状態にしてあげましょう、残った百五十タレアは、その家族人員の構成によって、できるんだったら百五十タレア原始林を切り開いてもいい、開墾しなさいというふうなことでございました。
  171. 久保三郎

    久保委員 そこで、募集要項にも今あなたがおっしゃる通り書いてあるのです。ドミニカ政府の負担において、入植初年度においては百五十タレアを整地の上配分される、こう書いてあるが、その通りでなかったということですね。
  172. 峯市之助

    峯参考人 その当時といいますと、とにかく入植当時はまだ開墾中でございました。ありません。
  173. 久保三郎

    久保委員 続いてあなたの入植されたのは——地理的観念がないので、ただダハボンと承知しているだけなんですが、ダハボンにもいろいろあると思うんですが、あなたが入植された土地はダハボン地区のうちのどの辺であったか。さしあたり入植可能地はキャニオンの西南部地帯を中心に約一万タレア、こう要項に書いてある。その地区であったのですか。
  174. 峯市之助

    峯参考人 ごもっともでございます。しかし一万タレアというタレアはございます。しかしそこで水田可能な地はその半分もございません。あとはサボテンの山と日本でいういわゆるバラの木の山でございます。
  175. 久保三郎

    久保委員 たとえば募集要項で病虫害の防除・これは政府が直接防除に当たっている、こう書いてあるのだが、あなたらがお入りになってからはそういうことがあったかどうか。病虫害の防除は政府がやってくれたか。
  176. 峯市之助

    峯参考人 病虫害の予防は直接政府は当たっていません。
  177. 久保三郎

    久保委員 あなたらがお入りになったその地区は四名ほどの前所有者がいたそうでありますが、あなたらが聞いた範囲、知った範囲では、いつのころからか。国が買収したようなときだったのですか。
  178. 峯市之助

    峯参考人 その点は私よく存じません。
  179. 久保三郎

    久保委員 次には、やはり同じようでありますが、入植予定地周囲においてはすでに表土の流亡等の現象が起こっているので云々と書いてありますが、あなたらがお入りになった土地は表土が流亡してございましたか。
  180. 峯市之助

    峯参考人 私のところはそういうふうな状態ではなかったように思います。
  181. 久保三郎

    久保委員 次に、コンスタンサの星川さんにちょっとお尋ねしますが、あなたのところも同じようでありますが、一世帯当たり百タレア土地が無償で使用を許可された。将来あなたの方では、諸条件充足の上にはドミニカの法律によって無償譲渡される見込みである、こうあるわけです。そうしますと、先ほど峯さんからお話があったように、この文章を考えると、土地が無償で使用を許可される。将来ドミニカの法律の諸条件を充足したときに、初めて無償譲渡される見込みであるということを承知されて行ったかどうか、あるいはそういうものをどこからか聞いたか、いかがですか。
  182. 星川嘉一郎

    ○星川参考人 コンスタンサでは、行くとき募集要項のあれは百タレアでしたが、入植して仕事にかかってやり出したら、さしあたり五十タレア与えるといって、五十タレアいただいてあれしましたが、その五十タレアの畑も半分は石で、起こすのに楽じゃなかったのですが、百タレアのあれは耕地がないからやれないと言っておったのです。
  183. 久保三郎

    久保委員 お尋ねしたいのは、私が持っておる募集要項には、いわゆる将来無償で上げる、ドミニカ国の法律に基づいて上げるということを書いてある。それを行く前に承知されておいでになったかどうか、そういう説明があったかどうか。それとも——峯さんの場合は、最初から無償譲渡ということでお話があった。この募集要項を見ると、あなたの場所にはそういう要項が書いてあるが、あなたはそれを承知されて行ったかどうか。それを聞いて行ったのかどうか。最初は使用は無償でしてくれる。なるほど反別は少し少なかったのですが、しかし将来は無償譲渡されるのだということで行ったのかどうか、それとも最初から無償譲渡ということで行ったのか、どっちなんです。
  184. 星川嘉一郎

    ○星川参考人 募集要項には十年たったら土地を与えるというので行ったのです。
  185. 久保三郎

    久保委員 あなたの行かれた土地は、募集要項には、やはり盆地である関係上、排水が悪い、農耕不能状態に先にあったが、その後排水溝が完備し、今後水害のおそれはないと思われる、こういうようなことが書いてあるが、あなたの先ほどのお話では、結局行ってから排水溝を掘った、こういうようなことを言われておりますね。全然排水溝はなかったのですか。
  186. 星川嘉一郎

    ○星川参考人 最初入植したときはコンスタンサですが、それから移転してハラバコアに移って、もらった耕地湿地帯だったのです。
  187. 久保三郎

    久保委員 次に、ドベルヘですが、ドベルヘの入植条件の土地に関しては、一世帯当たり初年度五十タレア、これが無償使用を許されて、一年後には日本ドミニカ双方で成功検査をやって、完全に耕作し、なお余力がある者については、さらに五十タレア増加配分する、こういうようになっておるが、そういう実態だったかどうか。これはどうですか。
  188. 石田友吉

    石田参考人 申し上げます。ドベルヘの場合は五十タレアということでありましたが、現地に行きましたら百タレア配分がありました。しかし、先ほども申し上げましたように、豊富な水ということであったのですが、水が表土面に一年半の間とうとう乗らないでしまって、営農ができなかったということであります。
  189. 久保三郎

    久保委員 そこで、先般われわれがこの委員会外務省移住局長からお話を伺ったのでありますが、その際、移住局長は、今回皆さんが帰国せざるを得なかった理由の一つと言った方がいいでしょう、全部と言っては語弊があるから。それはいわゆるドミニカ国における政情不安定というか、そういうことにあったんだ。これに対してそういう要素はないという方もいますが、たとえば米州機構から締め出しを食って、農作物等は暴落しておる、こういうようなこととか、あるいは補給金でありますか、こういうものが支給されなかったとか、あるいは灌漑排水の施設等が完備していなかった、こういう理由にとっているようでありますが、皆さんのお考えとしてはいかがでしょう。念のためにお聞きしたい。峯さん。
  190. 峯市之助

    峯参考人 私が帰国運動を始めたのは政変前であります。何も関係ありません。  それから、補給金の問題でありますが、補給金は入植して六カ月、こんなふうに限定されています。そしてこの六カ月の補給金が切れたら当然もうもらえないはずなんです。これに補給金が切れたから帰ったんだということは逃げ道じゃないか、こう思うのです。なぜならば、六カ月切れたらもうすでに食えないということはわかっておったというようなことになるのじゃないかと思うのです。
  191. 久保文雄

    久保参考人 私ネイバですけれども、いつかの決算委員会での高木局長答弁によりますと、政情の不安、そしてネイバ地区の場合は特に水の問題、こういう問題でもって不可抗力であった、それで責任政府にない、そういうふうなことを言われておりましたが、私どもにしてみれば、そうではない、不可抗力では絶対ない、事前に予防措置は講じられるべきはずの性質のものであるということを叫ぶわけであります。と申しますのは、昨日の朝日の夕刊にも載っておりますように、朝日の記者の方と事前調査官の中田農林技官とが会われまして、そして中田農林技官の言われるのには「土層の下になにがあるかということまでは調べなかった。」これはけしからぬと思うのであります。なぜなれば、大事な事前調査の任務を帯びておりながら、上っつらをながめただけというのでは、これは科学的な技術調査ではないわけであります。それで中田農林技官は、「確かにネイバ地区については、私にも関係がある。調査にミスもあったようで、移住者には申しわけない。」こういうふうに申されております。  それから、文春の記者の角田さんを中にネイバ地区移住者二名が対談いたしました際に、中田農林技官の申されるには、私が九月に調査現地に行った時分には、すでに二カ月前に外務省の方で募集をやっておった、だからそういうふうな調査報告を出さなければ、やむを得なかったということが、その文春の記事にも載っております。その後、これがために、五月八日、九日、上村農業技師がネイバへ実態調査に来られまして、その現地調査報告、上村報告によりますと、結局これではあそこは土地柄自体がだめだということが書かれておるわけでありますが、これ以前に、海外移住協会連合会の方から、その当時一緒に調査に来ました飯島事務官、それから池田海協連支部長、この人たち報告というものにド発第十二号というのがあります。昭和三十六年五月十六日発信でございます。これに書いてありますように、ネイバの場合は事前調査の非を認めてやらなければならぬということを、当局の方へ報告しておるはずであります。そして、この上村さんの報告も、以前の中田農林技官調査結果の発表に遠慮して、表現も内輪であるがということを書かれております。それで一たんこういうふうな間違いが起こると、あとのものは、次々と第二、第三と、それを正当づけるためにそのうそを繰り返していく、こういう悪循環のもとに、私ども犠牲になったと断言して過言でないのであります。  そこで、私どもネイバ地区の場合、はたして土地か水か、またはその政情不安——米州機構からの経済制裁が根本原因であるかということになりますと、私どもはあくまで土地であるということを叫び続けて譲らないわけであります。なぜかと申しますと、私どもは余分にもうからなかったから、そういうような問題で帰国を決意したのではありません。家族が生命を維持する食物を作ることさえできなくなったという、そういう土地のために帰国を決意したのであります。そこで、かりに水がドミニカ政府から削減されたために帰国を決意せざるを得なくなった根本原因ということになれば、これは非常にけしからぬ考え方であると思うのであります。と申しますのは、農業者が農業を営む上におきましては、水のことも、また降雨量も、そうしてまた市場性も、土地柄とあわせてこれは欠くことのできない条件であるはずであります。ところが、水が削減されたためにこうだ、市場性がこうであったというのは、これは事前調査のずさんでなかったという理由にはならないと思うのであります。それから、帰りましてわかったのでありますが、私ども応募の際には、募集要項に、五十タレアずつ三回に分けて合計百五十タレア土地というものを、その能力に応じて配分してくれる——この募集要項でございますけれども、八月一日の政府委員答弁されておるのによりますと、「昭和三十二年七月現地大使とドミニカ国農林大臣との間の往復文書で、ドミニカ政府移住者各戸に対し入植と同時に五十タレアを割り当てる。」そして最初の五十タレアをこえる増配分は天水地となる場合があるとのただし書きがついておったという事実を、私どもには知らされずに、その募集要項は、次々に三回に分けて百五十タレアもらえる、つまりそれだけのものを耕作し得るというふうに募集されて、それから豊橋の講習所におきましては、この募集要項にはございませんけれどもネイバの土質ということについては、非常に優秀なところであらゆる作物が育ち、いいところだ、こういう話であったのであります。現実は、向うへ渡ってみますと、一月後に、われわれはだまされた、だからこれではどうにもならない、何とかしてくれぬかといって、全員ふんまんをぶちまけて食いついていったわけでございます。それで、その後におきましても、先日局長さんも答弁されたように、コロノとは雇用労務者である、こうはっきり申されました。私たちの場合、いわば善行証明、それと耕作反別、それから上がった金額、こういうものもドミニカ農務省からいただいて帰っておりますが、とにかく自営開拓農のつもりで行ったにもかかわらず、雇用労務者の扱いで四年余り過ごさねばならなかった。と申しますのは、草が少しはえますと、命令書が回ってきて、それが一週間ないし十日という短い期限つきでございます。その間にドミニカ側の管理官に草をとってしまってきれいになったところを見せなければ、その命令に反したる場合は没収されるという農地法と申しますか、向こうの法律がございまして、それでわれわれのネイバ地区におきましても、いつの間にか自分配分を受けた耕地がそうでなくなっておったという事実もあるのでございます。それでネイバの場合は、幾ら面積を広くいただいたところで、雨もなければ水もない、そういう工合でございまして、作ることはできません。それで私ども仕方なしに転住もできず、そして四年余りやりました間、十銭のものをとろうとすれば二十銭、三十銭、また場合には四十銭という割高の投資をしなければ、十銭の収入を得ることができなかったというのが現状でございます。そこで昨年三十六年三月帰国を請願いたしました際、そのころは携行物資もまたなけなしの営農資金も、それから衣類も、食糧を買うために使い果たしてしまって、それでもうこのままでは死んでしまう、親だけならまだしんぼうもできるが、親の身にかえても子供の身を救いたいというのが人情でございます。ですから、恥しい思いをするかもしれないが、そんなことは何でもない、とにかく子供たち日本に連れ帰さなければ、これはともどもに飢え死にしてしまうというので、帰国に踏み切ったわけでございまして、政情不安がどうの、また水の削減の影響がどうのというようなことは、私ども帰国請願の理由の根本的な問題ということにはならないのであります。
  192. 久保三郎

    久保委員 そこでお伺いするのでありますが、大へんお伺いしにくいことでありますが、率直に私お尋ねしたいのは、この前のこの委員会での移住局長答弁の中で、こういうふうなことを言われているのであります。いわゆる移住者の心がまえとでもいうか、そういろ点にふれられているわけであります。これは、戦前の移住者から見れば、「最近の日本人は努力が足らぬとか非常にむずかしいことを言っております。われわれは、そういうふうな昔式な考え方はだめだと言いながら、同時に、移住というものは南米にさえ行けば楽で暮らせるのだというような考え方だけでは困る。」このまん中ごろのことですが、これに対して帰られた皆さんはどう思いますか。この言葉は、皆さんが非常に努力されたかどうかということであろうと思うのです。私も推測でありますから、移住局長に再び聞かなければならぬと思うのでありますが、どうも努力が足りないのもありはしないかということを、何か婉曲に言おうとしているのじゃないかと思うので、私はその気持だけじゃなくて、帰られるまでのあなたらのいわゆる努力の立証されるものが一つか二つおありになりましたなら、一つ御披露いただきたい、こう思います。
  193. 森正次

    森参考人 人権じゅうりんもはなはだしいと思います。私たちは死と闘って、やっと命をもってこの国に帰ってきたのです。かかあや子供が栄養不良になる、こういう目に追いやられて一生懸命にがんばって、最後には生けるのみというような姿になって帰ってきたのです。そういう気持にまでなって闘って、そして今そういうようにやろうどもがなまけとったの、遊んどったのと人間を批判するのははなはだしいと考えて、私たちは残念でなりません。
  194. 石田友吉

    石田参考人 ドベルへ地区は、農業経営は農業者であってもできないというので、転住をお願いしたわけでありましたが、現地大使館及び海協連では、やらなければわからぬ、やってだめなときには仕方がないのだというので、私はしようがないから配水になっておるキャナルをせきとめて、しかも自分耕地に水を引き入れて作物を作ったのでありました。しかしそれは両方とも失敗に終わってしまったのです。事実自分はやるだけのことはやってきております。と同時に、ハラバコアに転住しまして、大体播種できる程度までドミニカ政府がブルトーザー及びトラクターでやってくれるというお話だったのでありますが、そのことがやってもらえないので、自分で伐採から最後の播種できる程度までやって、もちろん満作をしてやってきたのでありますが、経済白書にしるした通り、十分な作物ができないという結果で、どうしてもドミニカでは自分たちの初志貫徹ができないということで帰国をお願いしたわけであります。と同時に、私はあくまでも初志貫徹をもって民族の発展に努めたい、同時に日本の名誉にかかわる問題でありますから、現地から大陸にさらに転住をしたいということをお願いしたのでありますが、不幸にしてそれも実現することはできず、ついにこの身をぼろに包んで内地に帰ったのであります。
  195. 久保文雄

    久保参考人 私どもの努力の状態がどうであるかということにつきましては、五月八日、九日にわたりまして上村技師、それから池田海協連支部長、大使館から大林書記官、それに外務本省から飯島事務官、それからもう一人の方が来られました際、その現地調査報告を文書として出されておるわけでありますが、五日に辻原氏が御披露申し上げましたように、この「上村氏の報告書は、」過去の調査報告者、中田技官の「立場も考慮して表現も内輪であるが、池田の経験よりしても、先年視察した、ブラジル、パラグァイ、ボリビア、アルゼンチン諸国の邦人入植地や、青森、宮崎、岩手、山梨等、戦後の開墾、開拓地に比較しても、このネイバ地区入植地程、悪条件が重なっている移住地は他にちょっと見当らないと考えた。飯島事務官も同感であった。我々も口には出さなかったが内心ネイバ地区入植者等が良くここまで頑張ってくれたものだと、この点は率直に認めた」このように書いて下さっているところであります。それから九月十二日の帰国決定の知らせを持って大使と移住局長が来られました際、同行した二宮振興会社社長さんは、涙を流しながら、よくここまでがんばられたものだと言って泣いておられました。このことにつきましては、二宮社長にお聞き願ったら事情は判明すると思います。それからこちらに帰りまして、十二月二十一日に横浜に上陸したのでありますが、二十二日に四名代表に来いというので外務省移住局へ私ども参りました。その際局長の言われるには、責任は感じておるし、気の毒に思う。しかし、なかなか該当する法と予算がないためにこれ以上のことはできない。それで君たちがもしも行政訴訟をするというならやってもいいが、それはむだだ。なぜなれば、私どもを相手にするということはすなわち政府を相手にすることである。政府は、たとい君たちが正しかっても負けないぞ、こうおっしゃられたのであります。これは四名、どこへ行ってもその通り証言いたします。行政訴訟をやるならやってみよ、こういうふうなお話でございました。私ども、食うや食わずでようやく帰国も実現いたしましたが、帰国の決定を持ってこられた際に、君たち責任ではない、政府責任である、厚生省も君たちをあたたかく迎えるために用意をしておる、だから堂々と帰ってこいと言われた口とはまるきり違うわけであります。私ども外務省におきましてそういう話を聞きまして、断腸の思いがしたわけであります。その後におきましても、決算委員会での答弁状態などを聞かしていただきまして、あまりにもひどいと全員怒りにふるえておるわけであります。  私ども現地におきましてやりましたことにつきましては、ドミニカ農務省からの証明もございますし、それから耕作面積と収入、そういうもののこまかな資料もございますから、それで私どもがずぼらであったとかなんとかいうことは、断じて今後二度と言わすことはできないと私ども思うのであります。
  196. 当銀芳次

    ○当銀参考人 私の場合を申しますと、われわれも来てから、海協連の広報課長の方だそうですが、アメリカの記者に、ドミニカの失敗は人選の失敗だ、あいつらはドミニカで仕事もせず昼間から酒を飲んで遊んでいた。市町村の困り者を送り出したのだということを申したそうですが、われわれは憤慨にたえないです。われわれはドミニカヘはるばるこじきみたいに補助金をもらいに行かなくても、内地でりっぱに生活を営めたのです。またそれなりに資産もあったのです。それを処分して、海外発展の夢を見てやっていった者が、そう簡単に帰国してこなければならないということは、とても普通のことでは考えられないことなんです。私たちもほんとうは帰ってきたくはなかったのです。しかし、どうしても帰らなければならないような事態にわれわれが追い込まれて、やむを得ず帰ってきたのであって、われわれが働いていたことについては、これは毎月農務省の出先の管理官が本省報告を送っておりますから、それを見てもらったらわかると思うのです。私もそれを見せてもらいましたが、私たちの場合でも、この人間は畑を最高の状態に管理しているとちゃんと管理官が証明しています。私たち帰国するに際しても、ドミニカ農務省並びに出先機関の管理官の証明書、感謝状をいただいてきておりますから、絶対にわれわれが怠けていたとか、酒を飲んで働かなかったということが、われわれが帰ってこなければならなかった原因ではないということは、いつでも言えることです。
  197. 久保三郎

    久保委員 お話はわかりましたが、今のまじめに最後まで努力したといういろんな資料があるそうでありますから、委員長の手元に届けていただいて、委員長において、控えをとっておいていただきたいと思います。  誤解があるといけませんから、移住局長来ておりますが、これはまた後日聞くことになりますが、結局私が聞きたいのは、先ほど申し上げたような発言内容から考えていることが一つと、さらに移住局長はこういうことを先般この委員会で言っておる。いわゆる「最近の日本人は困るというようなことを言われました。」これは移住局長がアルゼンチンに二十七年から三十年までおられたときの話なんですね。これで続けて言うことには、「しかしながら、そういう古い人たちの考えも押えながら、また南米へ行けば楽だけができるのだという考えとのその中間をとっていく道をとらないと、どうしても日本移住というものの将来は非常に憂うべき状態になるのじゃないか、こういうふうに思っております。」こう言っております。これはあなたら自身の問題ばかりじゃなくて、移住局長、早く言えば、今移住政策の日本におけるところの最高責任者みたいな人の、今後政策を推し進める場合においての一つの方針を示したとわれわれは考えている。そこでお尋ねしたのでありますから、その点も御了解をいただいていることとは思いますが、念のために申し上げます。  それからもう一つお伺いしたいのは、「南米のコロノというのは、」これはやはり高木移住局長答弁でありますが、「いわゆる雇用労務者であって、自分責任でやるのじゃないのであります。ドミニカの国営農場に入った場合には、一定の制限はありますけれども、これは自分責任でやっていくのであります。」そうしますと、これはいわゆるコロノじゃない。ここで移住局長はこういうような意味のことを言おうとしているのです。これはどうですか。久保参考人が先ほど言われたことについてだいぶ違うと思うのでありますが、いかがですか。
  198. 当銀芳次

    ○当銀参考人 私たちは語学の専門家でないから、コロノの詳しい解釈はどの点までかよくわかりませんが、現実にわれわれがドミニカに行って受けた待遇と、それからわれわれが呼ばれる場合に、コロノと呼ばれるわけです。住んでいるところはコロニアでお前たちはコロノ、結局われわれの身分は公式的にはドミニカ国におけるコロノとはっきりなっているのです。その点は議論の余地はないのではないかと思います。
  199. 久保文雄

    久保参考人 それについては、管理官からの文書にコロノという文字が入っておりますし、向こう側はあくまでもコロノとして待遇したわけです。私はそういう文書を持っております。
  200. 森正次

    森参考人 私も語学はあまりわかりません。普通しゃべることしかわかりませんが、ある意味の解釈では、コロノとは落ち人をさすという解釈の方法もあるらしいです。その点一つ勉強してみたいと思うのですが……。
  201. 久保三郎

    久保委員 それじゃ久保参考人ですか、そういう管理官の書類をお持ちだそうでありますから、これまたできましたら委員長の手元に控えをとる都合で出していただきたいと思います。  それから次にお伺いしたいのは、いわゆる帰国しようということでどうにもならぬということになってから今日まで、聞くところによれば、外務省にも外務大臣あてに再三手紙を出した。もちろん現地の出先大使館にも要請をされた、こういうのだが、簡単に今日の帰国が実現されるまでのドミニカにおけるそういう運動というか、要請ですね、それをやった先、それを聞いた人、こういうものをずっとわかるだけ一つ御発表願いたい。
  202. 当銀芳次

    ○当銀参考人 それではハラバコアの場合を簡単に御説明申し上げます。  われわれは、初めは帰国とか南米転住ではなくて、われわれが自営開拓農が募集されながら、こういった取り扱いを受けているといった点や、それから現実に水がなくて困るとか、コロニア内にそういったいろいろ困るなにがあるわけですが、そのほか自分が作ってとった米でも、実際に自分で精米して食べることができないわけです。そうしますと、精米所の許可をもらって税金を払わなければならない。それでその自家保有米の分を認めてくれとか、いろいろなこまかいこともほかにあるのですが、そういったことがあって初め陳情をやったんです。そうしていたところが、三十六年の五月二十三日に外務省から鶴我事官がハラバコアに来られまして、そのとき鶴我事官が申されるには、あなた方の困った事情はよくわかったから、それはよろしい、今後どうしてもらいたいのか、二度と再び外務省にだまされたと言われることのないように、よく考えて、自分たちはこうやってもらいたいということを申し出てくれ。突然そういうふうに言われても、具体的にこれというあれもなかったものですから、だれも進んで発言する者はなかったわけなんです。そうしたときに、たとえば南米転住の線もある、ブラジルあたりにも行けるし、パラグァイ、ボリビアにも行ける、あるいはそのうちアルゼンチンにも行けるようになる、ここに参考資料もあるがどうかというので、南米各地の参考資料も見せていただきました。それからわれわれは、自分たち立場やいろいろ考えまして、われわれも一たん志を立てて全財産を処分して来たのですから、今さら日本に帰っても、家もなければ職もない、金も一銭もない。それにせっかく海外発展の夢を見て来たのだから、できればやはりどこかでもう一度やり直してみたいという気持から、南米転住を希望したわけです。そして外務省にも大使館にも陳情いたしまして、陳情書も出しました。初めは大使館あたりの態度も、転住のお話なら相談に乗る、しかし帰国の話だったら聞きたくありませんよ、帰りたければさっさと自分で金を出して帰ればいいでしょうというような態度だったのです。八分か九分くらいは転住ができるというふうな空気だった。そうしていたところが、今度は急に風向きが変わりまして、転住はだめになった、帰国の窓が開いたからどうするのか、今後も南米転住ができるように交渉は続けているが、相当長引く、それとも日本に帰るかということになりまして、再三確かめてみたんですが、結局南米転住の道は、交渉は続けているというが、具体的には何一つないわけなんです。それで、いつになるかわからないこと、あるいは単に口先のことかもわからないことを信じていつまでもいても、現実に食えないような状態にいるのに、これが半年なり一年ということになったらどういうことになるかわからないというので、われわれもやむを得ず、それではもうこれで帰してくれと言って帰国に踏み切ってきたわけです。
  203. 久保三郎

    久保委員 私の聞きたいのは、内容もさることながら、時間に制限もありますから、いわゆる帰国と皆さんが心にきめて要請した先、あるいは要請に上がって会った人、大使館あるいは海協、いろいろあるでしょう。外務省から鶴我事官とかあるいは事務官、調査官等も行っておられる、最後には局長も行っておられる、大使も行っておる、こういうことでありますから、日にちはいいですが、どういうところへ出したか、書類で出した先、あるいは手紙で出したところ、そういうものを簡単にあて先も含めてお知らせ願いたい。
  204. 石田友吉

    石田参考人 今のお話、ちょっと質問いたします。私ら今「参考資料其の一」として「外務大臣に対し嘆願した写し書」というようなつづりをこしらえてみたんですが、こういった方式でよろしいでしょうか。
  205. 久保三郎

    久保委員 そういうものがありましたら出して下さい。
  206. 石田友吉

    石田参考人 では、今部数があまりないので、あとでお送りいたします。
  207. 久保三郎

    久保委員 それでは今の石田参考人の持っておられる書類が一部お借りできるなら、委員長の手元まで出していただきたいと思います。  それでもう一つお伺いしたいのは、総括して、今までの皆さんのお話では、事前の調査も不十分であり、さらに現地はもっとひどい。それで結局、農業の基本である土地が何と努力してもだめだったということになるわけです。そこで、生活の問題は当然苦労されてきたわけでありますが、先ほど川畑さんからもちょっとお話がございましたが、その間、外務省の出先なり、海協の出先に対して、生活のめんどうであるとか、その他について要請をし、その手配をとってもらったことがどの程度ございますか。
  208. 峯市之助

    峯参考人 私は、最後的に、いよいよ食えないということになりまして、これはいかぬ、このままでは死んでしまうということになりまして、大使館海協連にその援助方を仰いだわけでございます。直接行ったわけでございます。そのときに会った海協連の方、それから大林事務官の話を申し上げます。とにかく食えなくなったから何とかして下さい、百五十ドルほど貸して下さい、そうしてその百五十ドルのうちで何とか植付もし、また食いますから貸してくれと言って、涙をこぼして頼んだわけであります。ところが、海協連の高橋さんという方は、自分のうしろの金庫をたたいて、峯さん、ここに金はありますよ。しかし、この金は自分が出すわけにいかない、大使館に行って話してくれ。しかし、私が金がここにあると言ったことは、大使館に行って言ってくれるなということです。そういうように言われてから大使館に行ったわけでございますが、どうしても私の口からそれは出ませんでした。そのときに、大林書記官に頼んだのでありますが、移民の人に一銭の補助金だってありません。この一言でございました。
  209. 久保三郎

    久保委員 次にお尋ねしたいのは、あなたらの現地における相談相手は海協と大使館、この海協と大使館で主としてあなたの方の相談相手であったと思われる人はだれとだれです。川畑さんも含めて一つ……。
  210. 川畑太一郎

    川畑参考人 川畑の場合におきましては、現地におきまして大使館は非常によくいろいろめんどうを見てくれたと思っております。ただし、見てくれましたけれども、向こうの現地政府に交渉しますが、予算のない関係か、大使館でしてくれる交渉もなかなかスムーズにいかないことが多かった。またそれだけに、大使館側としても非常にしにくかったのではないかと考えております。また、その他におきましても、海協連におきましていろいろ相談しましたが、どういうわけか、海協連の方としましては、東光丸の調査が来たときに、その調査船に乗せてマンサニリョの方まで回ることはなかった。そうして他の人をばその船に乗せたというようなことが原因であったのかしれませんけれども自分としては、漁業のことには関連しないというようなことを耳にしておりました。しかし、そういいながらもどうかしたときには、やはり関連して出てくることがあったりして、非常に不可解なあり方であるというようなことは常に感じられておりました。
  211. 久保三郎

    久保委員 川畑さん、お名前を聞いているのです。海協のどなた、大使館のどなたですか。
  212. 川畑太一郎

    川畑参考人 海協連の支部長横田一太郎氏であります。
  213. 森正次

    森参考人 ネイバの場合ですが、大てい大使館の大林さんがいろいろと相手になって下さいました。また海協連は支部長問わず、高橋さんもお相手になって、いろいろ御相談になって下さいました。  そこでこういう例があることを一つ申し上げますが、食べられぬでどうも困ったから、何とか少し協力してもらいたい、ちょっと金でも恵んでくれぬかと言ったら、ここは保護施設ではない、ポケット・マネーまで君らにやって、君たちを養わなければならぬ責任はない。それはほんとうなんです。そのときに、金はあるんだ、けれどもこういうふうに証文を入れれば金をやると言う。その証文は大林さんがこう書けと言うて書いてくれたものです。それにはこう書いてあります。「本年三月以来帰国方を陳情今日に至りましたが、国費による帰国の実現は困難とのことであり、一方生活は極度に困窮の度を加えて参りますので、この際当国に一時定着営農を決意いたしましたから」と書けば金をやる。これでは、もうわれわれは裸になってしまい、再起のめどもない、もう着る物もない、食う物もないというときに、これを帰したら今までのことがばれるとうるさい、だからこんな金をやって、それならこういうふうに仕向けようという、それとしか私たちにはとられなかったのです。それで、われわれは今一万円、二万円の金をもらうことによってわれわれの意思は曲がるのだ、そうして今までの移住行政そのものがどこかに葬り去られるのだ、こういうものでなくて、将来のなにを見たときには、今の一万円の金はほしいのだけれども、こう書けというのだったら——一時定着できれば永久にできることはわかっているのです。できるところでなかったから、これを書かなくて私たちはその金をもらうことはできなかったのですが、ネコの前にニシンをつるようなしわざをして、私たちが苦しいのを苦しめたということなんでございます。
  214. 久保三郎

    久保委員 それで今の大林さんから書かせられそうになって、書かなかったわけですね。
  215. 森正次

    森参考人 書かなかったですが、様式は書いて下さいました。
  216. 久保三郎

    久保委員 それで金を借りた方はおりますか。
  217. 森正次

    森参考人 ネイバの場合二人おります。
  218. 久保三郎

    久保委員 それはこちらにまだお帰りにならない人ですか。
  219. 森正次

    森参考人 帰っておいでました。それで帰ってきた理由というのは、現地大使館では、これらの人はほんとうに苦しくて、こう言わなければ死んでしまうんで、だから言ったんだろうという了解をしておるそうです。
  220. 久保三郎

    久保委員 それからもう一つお伺いしたいのは、まだ何家族か、たくさん残っておられるわけです。そのうちで帰国を決意されて、待機をされている方もおると思いますが、最終的にやはり残る人も出てくると思うのでありますが、全体を見て——時間がありませんからたとえばネイバ地区だけ指定しましょう。ネイバ地区へ残る方は、皆さんが見て相当これは営農の見通しというか、そういうものがあるのかどうか、土地の条件としてあるのかどうか。
  221. 森正次

    森参考人 ネイバの場合は、高木移住局長を問わず、それらの関係者が五回もおいでて、ここは全部だめだ、一人残らずみな行けということで、地球上からネイバのコロニアというものはなくなったのです。全員引き揚げてきたのです。それで残る者はネイバの場合はおいでませんから……。
  222. 久保三郎

    久保委員 そうしますと、ネイバの場合はない、あとはダハボンその他ございますが、ダハボンにもあとへ残る者がいると思うのですね。ダハボンにもおりますか。
  223. 峯市之助

    峯参考人 おります。
  224. 久保三郎

    久保委員 それではその残る方を皆さんが見て、残る方は大体土地条件等はいいですか。
  225. 峯市之助

    峯参考人 さき申しましたように、私たちの住んでいたダハボン地区は、第一次、一番初めに行かれた日本人の方と、第四次に行ったわれわれと二つのグループがあるのでございます。それが約三メートルの道路を挾んで右側の方が第一次、左側の方が第四次というふうに分かれているのでございます。その右側の第一次の方は、最初入植された関係か知りませんが、マサクレ沿岸の肥沃な土地をもらっているわけです。ここでは無肥料で一夕レア当たり七俵から八俵、肥料を与えれば十二俵、このような好条件でして、残っておられる方は日本に帰るよりここはいいのだという人も若干おられるようであります。
  226. 久保三郎

    久保委員 それではそこへ残っておられる方の生活状態はよろしい、こういうふうにとってよろしゅうございますか。
  227. 峯市之助

    峯参考人 はっきりよその経済までは知りませんが、あまり損もせぬ、もうけもせぬ、何とかしんぼうすれば若干でも残るのではないかという人が四、五人おるのではないかと思いますが……。
  228. 当銀芳次

    ○当銀参考人 ハラバコアの場合を申し上げますと、現在残っておる人も、これから次に二月、三月、四月と帰って参ります。そして先ほど申し上げたように、移住振興会社から金を借りたために帰れない人と、個人的に——現地にアメリカそれからドイツ、それからドミニカ肥料会社があるのです。そこから肥料、農薬を前借りして営農をやっているのですが、それが返せずに、その借金のために帰りたくも帰れないという人が大ぜいおります。そして私は現在どれくらいの数の残留希望者がいるのか正確には知りませんが、まあ残ろうという人は二、三家族ではないかと思っています。
  229. 久保三郎

    久保委員 次にお伺いしたいのは、大体皆さん今日同じような状態にあると思うのでありますが、裸一貫で帰国されたということでありますが、現在政府あるいは国会に向かってそれぞれ請願書も出ているようでありますけれども、あらためてお尋ねしたいのは、政府に対していかなる援護というか、そういう措置を要請しているのか、あらためてお聞きしたいと思います。  それでは川畑さんの場合は漁業関係でちょっと条件が違うかと思うのでありますが、あなたは政府に対して要請する事項はございますか。
  230. 川畑太一郎

    川畑参考人 自分たちの場合におきましては、今まで語りました通り、いろいろな魚がおるということがおらないし、農地を支給されて農地を耕してやることもできないし、そういうような結果に終わって、万やむを得ず帰国しなければいかないような結果に終わったのでありますから、この際私たち漁業者に対しまして、何とぞその意中をおくみ取り下さいまして、出発に際しまして家屋及びそういう資産の売却した補償と、なお行くに際しまして借り入れしました振興会社の借入金及び往復の渡航費というものの打ち切りと補償を何とぞお願いしたいのであります。
  231. 久保三郎

    久保委員 それじゃ農業関係で行かれたあと残りの方がおられるわけでありますが、代表してどなたからでもけっこうでありますから、要請のことがあるならばこの際あらためてお聞きしたい、こういうふうに思います。
  232. 久保文雄

    久保参考人 もしもこの後におきまして、いろいろまた証言とか機会がございましたら、ぜひとも神奈川の人で、私ども向こうから帰国運動を始めております際にいろいろお世話になった人が、外務省それからいろいろな移住関係のところへ参りましてお話しした人がございますので、それでその人から一応その間の役所の状態というようなことについても御参考までに聞いていただける機会が与えられますと、ありがたいと思うのであります。
  233. 久保三郎

    久保委員 その代表を通じて聞いてくれという意味でありますか。そうだとするなら、代表はどこにいるどなたですか。
  234. 久保文雄

    久保参考人 横浜に住んでおります草野光雄という人であります。それで住所は明細に今わかっておりません。
  235. 石田友吉

    石田参考人 では、私はハラバコア地区からの代表として一言申し上げたいと思います。この請願書内容を読みますから、お願いいたします。  居住費、これの内訳、家屋建築費が七十万、宅地購入費七十万、家具一式購入費三十万。私どもは渡航前は住宅並びに付属建物を所有し、りっぱに生計を営んでおりました。物価高の今日、とうてい以前の姿は望むべくもございませんが、右金額の支給方を要望いたします。  次に、再起更生資金としまして二百万。私どもの再起資金として右金額を長期低利にして融資していただきたく要望いたします。  三、精神的、物質的損失に対する補償百万円。移住期間中に受けた精神的、物質的打撃に、四年ないし五年にわたる子弟教育の空白等に対し、最小限の金額の補償を要望いたします。  四、渡航費並びに帰国旅費の国庫負担。ドミニカ移住の失敗は政府責任と考えられますので、私どもとしては右国庫負担を要望いたします。  五、南米再転住希望者の優先的取り扱い。私どものうち南米再移住希望者に対しては特別の資金的援助を要望します。  六、完全就職。就職希望者に対しては、それぞれの実情、希望に応じ全面的に御援助方を要望します。  以上であります。
  236. 森正次

    森参考人 私たちの場合は、要望書でありまして、お願いしたいのは、家屋建築七十万円、生活及び家具一式三十万円としまして、合計百万円、それに今後更生するために必要な資金、これが二百万円、長期で利息をなるべく安くしてくれ、それに物質的損失ですね、これも六十万円。ここにちょっとつけ加えておきますが、私たち移住するときに、坪七百円に売りました土地が、五反歩売りましたが、今帰ってきてみると坪一万円です。そんなことを言えば何千万という金額に上りますが、そんなことは言いません。まずわれわれは生活の基礎を作って、これから食べるという状態にしていただけばいいわけなんでございます。それに学童の再教育費、これは五年間の空白がございまして、小学校一年に入ったものはすでに六年を卒業して新制中学だ。日本へ帰ってくれば十幾つになって小学校二年に入らなければならぬ。日本教育の空白ということでございます。これを取り戻すためにいろいろな諸経費として三十万円、こういうことでございます。
  237. 峯市之助

    峯参考人 ダハボン関係帰国者は、別に会合を持って、請願書または嘆願書などは現在作っておりません。
  238. 久保三郎

    久保委員 それで大体要請の趣はわかりましたが、ついては、帰国されてから国並びに地元県、その他のそういう公的のところから、外務省の話ではささやかながら幾らかやっておるというようなことを聞いておるが、そういうものはどの程度の手当か。たとえば就職の問題、住宅の問題あるいは転業というか、そういう問題に対して、今まで——早い人は去年の十一月、それ以前に帰ってきた人もあるのですが、そういう手当はどうなっておりますか。かいつまんで答えて下さい。
  239. 森正次

    森参考人 私はネイバから帰った者でございますが、上陸しましたときに五千円と一万円、これは皆さんも御承知の通りだと思います。その後は民生委員の方でめんどうを見てやろうということでございますけれども、一万円と五千円もらったが、局長、それだけで一カ月食えますか。局長さんは幾ら金をもらっているか知りませんが、なべ、かま、ふとん一枚買っても一万円。なべ、かま、ふとん一枚でこれがなくなるというわけなんでございます。それであれこれやってきたわけですが、民生委員の方では、書類は受理してあると言いますけれども、まだ現実に金を受け取っておりません。それで一カ月半をとうに過ぎてしまって、今何もない状態でございます。それで早急に何らかの方に特別な措置を講じてもらわぬことには、かりに今民生委員が処置を講じてやるからといっても、それは人間を生かしておく程度なんです。これから再起して自立していこうというときには、それによって再起して自立できるものではございません。現状はそういうことになっておりますから、今後よろしくお願いいたす次第でございます。
  240. 当銀芳次

    ○当銀参考人 ハラバコアから私たちは一月の二十一日に帰りましたが、そのときわれわれの受け入れ条件については、厚生省は十分対策を立ててあるというお話だったのですけれども、現実には、区役所へ参りましても、福祉事務所へ行きましても、あなた方について特別に何も話を聞いていない、特別な扱いはできないといって、それでは生活に困るのならば生活保護の申請をしなさいと言いますが、現実には全然何も受けておりません。そして住む家もなくて、現在妻の実家の狭いところに同居しております。そしてもらったお金は、おとなが一万円、子供が五千円、それにあと港からの帰国旅費と荷物の運賃を千円、こういうようなものをいただいたのですが、荷物一つをとってみても、横浜から私は足立区ですが、荷物の運賃が二千四百円かかっております。政府からもらったのはたった千円です。それから、先ほどもお話が出ましたが、一万円に五千円ぐらいもらいましたが、私たちはほとんどまる裸で帰ってきたので、私たちが現在着ておるものも食いものも、オーバーにしろ何にしろ、ほとんどのものがロスアンゼルスまたはサンフランシスコの在留同胞からいただいたものでございます。それもなかったら、われわれはこの寒空に着るものもなくてふるえていなければならなかったのです。そして現実にふとんからはし、なべ、かまから生活必需物資一切を買わなければならない。一万円に五千円ではどうにも足りるものではない。これじゃ更生しろと言っても、言う方が無理じゃないかと思うわけです。それで、先ほど言ったように、生活保護なんといっても、現実には何の働きもないわけなんです。申請だけはしろ、しかしあなた方を特別にあれする気はないというわけなんです。
  241. 久保三郎

    久保委員 それで、あなたらの相談の窓口は、今日まで外務省であったわけですね。いかがですか。
  242. 峯市之助

    峯参考人 その点外務省だろうと思いますが、よく知りません。
  243. 森正次

    森参考人 私は外務省だと思います。責任のやり取りでありますので、どこがほんとうなのか、私たち移住して犠牲になった者自体もわからないような始末です。一つ責任の追及をして、どこに責任があって、どこがこれをやってくれるという所在を明らかにしてもらいたいです。
  244. 久保三郎

    久保委員 あなた方帰られてから外務省に行ったと思うのでありますが、そのときに、住宅については建設省なり地元の県あるいは市等、そういうものがめんどうを見てあげるとか、あるいは就職については労働省の出先である職業安定所とかそういうところでめんどうを見てやる、こういう話を外務省なりあるいは県の方からされたことがございますか。どなたでもいいです、経験した人があれば……。
  245. 森正次

    森参考人 現在法律のある許す範囲内においては外務省も協力して下さるとは言って下さいまして、喜んでおりますが、まずこういう集団帰国をしたのはわれわれが最初なわけで、これに適用する法律も予算もないというわけで、現在のところ現在のままであります。  それから、就職のあっせんは、地方の公共職業安定所というものがございますが、そこでこれだけでよかったらやってみないか、これだけでもやってみないかということを言って下さいまして、いろいろと検討しております。けれども今当分まだからだも工合が悪いものですから、一カ月、二カ月養生して、それからゆっくり将来を考えて職につきたい、こういうふうに現在思っておるわけであります。
  246. 久保三郎

    久保委員 たとえば住宅の問題でも、住宅のない方がたくさんおられるようでありますが、外務省のお話では、それぞれ心配をしてもらうために、建設省なり県あるいは市、そういうところにという話もしておるようですが、皆さんの中でそういうところに行って住宅の相談をした者があれば、その場合、当該機関が外務省からもそういう話があったからということが話に出たかどうか、経験されたことがありますか。
  247. 石田友吉

    石田参考人 私は横浜の市役所と県庁の地方海外協会に行ってお話ししました。ところが、今は前から家がなくて困っている人が多いので、あなた方に特別ということはできないから、順番を待ってもらうよりしようがないというようなお答えでありました。
  248. 久保三郎

    久保委員 そこでお伺いしたいのでありますが、これはどなたでもけっこうでありますし、一人とは限定しませんが、帰ってこられてみて、簡単にいえばこれは失敗です。原因なり責任はどこにあるかは別として、いずれにしても移住としては失敗です。失敗したから帰ってきた。失敗しなければ帰ってこないのですから……。そこで、失敗した経験にかんがみて、あなた方の経験に照らして、この移住政策のあり方というものはどうあるべきかと考えたことがあれば、その点をお聞かせいただきたいと思います。
  249. 森正次

    森参考人 これは私の考えです。私の場合は、移住者は何を信じて出るかということです。まず旅をするときに案内人——これはうそばかり言っている案内人から聞いておっても、あとからうそやと思う。ほんとうに財産をしまうて外地に行って一生の将来を決するのであるから、信じて行って疑いのないところに移住者を入れてもらいたい、これです。
  250. 久保文雄

    久保参考人 私、意見といたしましては、今までの移住行政のあり方というものは、この前に、上陸早々、港場館におきまして関係各省の人たちを前にして、現在の移住行政のあり方というものは悪質な商業宣伝の模倣である、こういうふうに申し上げたのでありますが、このような状態であってはいけないと思います。と申しますのは、私ども移住するにあたりまして、その将来の運命をそれにかけて渡るのでありまして、そこのところに正確さを犠牲にしてもいいとか、また商業宣伝を手本としてなどというような理念でもって行なわれておるということになれば、移民にとってこの上もない危険なことであると申し上げるのであります。と申しますのは、だれであったところで——これは前に昭和三十五年広島の講堂ビルで高木局長が講演されたことでありまするが、移住させるのは、その移住者日本におけるよりもより大なる繁栄とそのチャンスを与えるのが目的である、こういうふうに言われておるのであります。しかるに、これは表向きの帳簿でありまして、もう一つの帳簿というのは、執務提要に見られるようなこういう言い方で行なわれておるというのが、われわれ今まで経験いたしましたことで今十分実証し得るところでございます。そこで、各個人々々の移民のしあわせというものが基調になった移住行政のあり方でなければ、長続きはしないで、やがてより大きな破局がやってくるのも当然の帰結だと考えるのでございます。それでまず移民のしあわせということをもう少し考えてやっていただきたいとお願いする次第であります。
  251. 峯市之助

    峯参考人 政府は十分に移住地に移民する人の気持になって現地調査し、移民を棄民とせず、明るく営農ができるようにしてもらいたいと思います。それと同時に、申し落としましたが、ドミニカの大林書記官は、移民は国策ではないのだ、これはわしらが宣伝したその宣伝に引っかかってきたのがお前らだという考えであります。ところが、先日の新聞記事では、池田首相の態度でありますが、移民は国策であるから今後も続ける、こういうふうにおっしゃったようにあります。この問題は大きいことでありますので、下部に至るまで徹底した教育をしてほしい、このように思っております。
  252. 久保三郎

    久保委員 大体私がお尋ねしたいことはお述べになったのですが、それで委員長にお願いしたいのですが、いろいろな資料をそれぞれお持ちのようでありますから、限られた時間ではそういうものも拝見できないので、先ほど申し上げたような書類等は一時お借りして、写しを取って配付してほしい、こういうふうに思うわけです。  私の質問は以上で終わります。
  253. 木村公平

    木村(公)委員 大体これでドミニカから今回引き揚げてこられました代表の方々の御体験談を伺うことができましたことは、まことに国政調査の上に大きな価値があるものと喜んでおる次第でございますが、次会においては、ぜひとも政府側の見解並びに昨年までドミニカに在住して引揚者、滞在者のめんどうを見てこられた海協連の支部長であります横田一太郎さん、並びにかつては国会議員でもありましたし、とのドミニカ移住に対して一番初めに口火を切られたといわれる上塚司さん、この御両君にも御出席を願いまして、きょうのお引き揚げの方々の御意見、御体験とそれに対する政府側の御見解なり、かの地において御体験済みであるところの支部長あたりの体験を十分伺い、その上でこのドミニカ移住政策というものがどのような値打があるものであるかということを、当委員会としては独自の見解を持って一つ結論を得たいと思う次第であります。このことは日本移住史において初めてのことであります。このような多数の引揚者が一挙に出たということは、日本移住史にかつて見ない最も重大な問題でございますので、これを契機に、移住政策のあり方について、国民代表である当委員会は徹底的に検討を続けたいと思いますので、今後とも委員長を初め委員諸君の御協力をいただきたいと思う次第であります。
  254. 小川豊明

    ○小川(豊)委員 今木村先生の御提案なすったように、農林省あるいは外務省、同時に移住局、これはけっこうです。賛成します。同時に、こういう移民が行なわれる、またこういう事態になった大きな原因というのは、やはり土地の状況だと思う。そうすると、この調査に当たったのは、今は農林省におらない、どっかへ勤めておられる中田技官という人だが、この人は移住に対して非常に重大な役割を果たしておる。従って、同時にこの人もおいでを願って、その調査の実態というものを聞きたいと思います。
  255. 西村力弥

    ○西村(力)委員 その他にも、政府側と引揚者側の中間に立っていろいろこの仕事をした人もあるだろうと思いますので、その他追加をする必要がある場合には、理事会で追加されることを了承してもらって、やっていきたいと思います。  それから、資料を頼みたいのですが、私たちの手元に募集要項はきておりますけれども、実際に皆様方に見せられた募集要項と相当食い違いがあるように先ほどから聞いておるのです。ことに久保君なんかの発言を聞きますと、美辞麗句を連ねて夢の天国のごとく言っておるということを言っておりました。それで久保君は、県庁側からその資料を見せられたとか、こう言っておったようですが、これは控えがとってあるだろうと思いますので、どこの県庁ですか。それから森君は、海外協会から見せられた、こう言っておったのですが、そういう現実に見せられた募集要項を、一つ委員長、資料として取り寄せていただきたいと思うのです。  それから、海協連の募集の手続といいますか、募集必携、これは一部話がございましたが、これも資料としてぜひ取り寄せてもらいたい。  最後に、一点だけ聞きたいのですが、皆さん方が向こうに行ってずぼらをされたごとく宣伝されて憤慨にたえないと言われたが、渡航の際外務省海協連からついて行かれましたが、そういう方々は、皆さんと心を合わせて、しょっちゅう談笑して行かれたかどうか。それとも超然として行かれたかどうか。あるいは聞きますると、せっかく上陸したのに、手続をする海協連の人々が来てないために、ぼんやりと待合室に何時間と待たされる、こういう例がよくあるといいまするが、そういうようなことは皆さん方の場合はなかったのか。南米あたりで呼び寄せなんかの場合は、よくそういうことがある。一日ほったらかされた、こういう事例までもあるのであります。やはり向こうに行けば、そういう人たちに手続をやってもらわなければ上陸も何もできない。初めて渡った外地でとまどうことがあるということを聞いておるのです。そういう点皆さん方の場合はどうであったか。その点どなたからかお答えを願いたい。
  256. 鈴木仙八

    鈴木委員長 各委員より御発言のありました点は、理事会において細目を決定して参りたいと思います。
  257. 久保三郎

    久保委員 今資料の提出要求がありましたが、実は日本海外移住協会連合会、いわゆる海協連から出している「移住執務提要」というのがあるのですが、これは最近版は違っていると思うのでありますが、三十二年四月に発行したものを一つ提出されるようにお願いしたい。  それから、私の手元にも資料がございますが、一つあるのは、これは移住局の企画課から三十三年の四月に出した「海外移住の知識」がございます。これには各参考人から言われたものとはだいぶ違っていることが書いてあります。ドミニカ移住の始まった最初のころのあれでございますが、ございます。これは各委員お持ちでなければごらんいただきたいと思って、特につけ加えておきます。
  258. 鈴木仙八

    鈴木委員長 本日の審査はこの程度にとどめます。  参考人各位には長い時間にわたり本委員会の審査に御協力をいただきありがたく存じます。委員会を代表し、厚くお礼申し上げます。     —————————————
  259. 鈴木仙八

    鈴木委員長 参考人出頭要求の件についてお諮りをいたします。本日審査を行ないましたドミニカ移住の問題について、継続して関係者に参考人として出頭を求め、意見を聴取いたしたいと存じますが、御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  260. 鈴木仙八

    鈴木委員長 御異議なしと認め、さよう決定いたしました。  なお、参考人の人選及び出頭日時につきましては委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  261. 鈴木仙八

    鈴木委員長 御異議なしと認め、さよう決定いたしました。  この際暫時休憩し、理事会を開きます。    午後四時四十七分休憩      ————◇—————    午後四時五十六分開議
  262. 鈴木仙八

    鈴木委員長 休憩前に引き続いて会議を開きます。  参考人出頭要求の件についてお諮りをいたします。  国有財産の増減及び現況に関する件、特に東京大学検見川総合連動場の問題調査のため、来たる十二日午後一時の本委員会に、関係者を参考人として出頭を求めたいと存じますが、これに御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  263. 鈴木仙八

    鈴木委員長 御異議なしと認め、さよう決定いたしました。  なお、参考人の人選につきましては、委員長に御一任願いたいと存じますが、これに御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  264. 鈴木仙八

    鈴木委員長 御異議なしと認め、さよう決定いたしました。     —————————————
  265. 鈴木仙八

    鈴木委員長 なお、参考人出頭要求の件についてお諮りいたします。  東北開発株式会社の会計に関する件の調査のため、来たる十五日の本委員会に、東北開発株式会社より参考人の出頭を求めたいと存じますが、これに御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  266. 鈴木仙八

    鈴木委員長 御異議なしと認め、さよう決定いたしました。  なお、参考人の人選につきましては、委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  267. 鈴木仙八

    鈴木委員長 御異議なしと認め、さよう決定いたしました。  それでは、本日はこれをもって散会いたします。    午後四時五十八分散会