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井堀委員 たびたび西独の例をとりますが、私どもは、西独はきわめて巧妙な外交交渉をやって、
アメリカに対してはかなり有利な条件を確保したものだと思う幾つかの事実を承知しておるのであります。しかし、西ドイツがどうであろうと、わが国はやはりわが国の独自の
立場で交渉を行なうべきものでありますから、参考にすることはいいと思いますが、それよりは、むしろ、今問題になっておりまする、ガリオアとエロアの問題を混同して
協定するということは、
国民としては絶対に了解できぬ。ことに、私がここで強調いたしたいと思いまするのは、
日本が降伏した
事情と西ドイツの降伏した
事情とは、大きな線においてはもちろんポツダム宣言の
規定に基づくのでありますけれども、やや
事情が違うと私は思う。ことに、占領下における占領政策というものについてはっきりさせなければならぬ問題が幾つかあると思う。その最も重要な点として、西ドイツと
日本との異なる点は、広島、長崎に原爆を見舞われたということは、国際道義の上からいきましても、国連憲章がその大理想にしておりまする点からいきましても、
アメリカは
日本国に対して重大な道義上の責任を痛感しておると私は思うのであります。これを私どもの方から要求をいたさなくても、
アメリカは
日本に対してたびたびそういう趣旨のことを、外交文書においても、また公式の国際連合の機会においても、反省の事実を誠実に表明いたしておるのは枚挙にいとまないのでございます。こういう
関係からいたしまして、むしろガリオアとエロアを混同して
アメリカが
協定に持ち込んだとするならば、西ドイツに対するように経済復興に対する援助はある意味における投資でありますから、その結果がよければ適当な反対給付を予定するということはあると思うが、しかし、ガリオアに関する限りは、これはこの際私は
政府に
一つ猛打を促す意味でお尋ねをしたいと思うのでありますが、
日本とドイツ国の非常な違いというものは、原爆を使用したということ。従来の第一次世界戦争の
あとにおいて、世界のすべての人々がこの悲劇を繰り返さないためにという強い要請があって、第二次世界戦争が発生してこれをさらに繰り返すことのないようにということを強く世界の人々が念願してきておるのでありまして、その念願を、悲願を国連憲章の中に明文化したことは、今さら強調するまでもないのであります。こういう経緯からいたしまして、
アメリカがもし
日本との間にこの問題を折衝する際に混同して提唱してきたというならば、むしろ
日本はガリオアにこれを併合したものだと理解していくべきではないか。そうすると、ここに道義的には、
アメリカのそういう援助に対して、なるほど原爆に対する相手方の反省の意思表示であったとしても、この好意に対して報いるという
態度を必ずしも私どもは否定するものではありません。もっと高い人道主義的な
立場からいたしまするならば、敵に塩を送るという気持も
日本民族としてはあってもしかるべきだと思うのであります。しかし、そういう意味に
国民が理解することができまするならば、今回の
協定の中において、どうしてもガリオアとエロアというものを分けて、もし分けることが不可能でありますならば、以上言うたように、これはガリオアに併合したものだという
考え方の上に立って
協定が行なわれるべきではないか。そうすれば、従来
政府はたびたびこの
委員会あるいはその他の
委員会で明らかにいたしておりますように、債務と心得るという法律的な用語は私はよく理解することができませんけれども、常識として、そういう好意に対しては好意で応ずるというその精神を前提にして
協定の交渉に当たるべきではなかったか。ところが、今までの御
答弁によりますと、むしろエロアに重点が置かれて交渉したというふうにしか理解できないのであります。この点はまことに遺憾でありますとともに、次にこのことを言えばなおはっきりしたところが
お答えいただけるかと思うのであります。
それは、何といいましても、一本の降伏条件、すなわちポツダム宣言の
内容に言及しなければこの問題に対する回答は私は出てこないと思うのです。ポツダム宣言に対してもしわれわれと
政府が理解を異にするようなことがありましては、大問題でありますが、念のために私はポツダム宣言の中の
規定について
一つ政府の理解の仕方を伺ってみたいと思うのであります。
それは、ポツダム宣言はもちろん
日本民族にとってはきびしいものではありますけれども、やはり、平和主義をかなり強く要請しておりまする一貫したその主張の中で、たとえば第六項、第七、項、第九項、第十一項、これらの中にかなり明確な文言になつ、て表明されております。こういうものを
一つ一つあげてお尋ねする繁雑を避けますが、十分お読みになって御回答願うようにお願いしたいのであります。私は、この中で終始一貫したものがあると思うのであります。それは、
日本の軍国主義者を憎むこと、あるいは軍国主義にくみした勢力に対する懲罰は非常にきびしいものがある。これはむしろ占領軍の実力をもってそういうものを排除し、もしくはその再現を根絶しようという強い
態度は憎々しくうかがえるのでありますけれども、しかし、その反面に、
日本の平和主義を、あるいは平和を愛好する一般の善良な
国民に対しては非常な積極的な要求と協力すらが主張されておるのであります。この意味を正しく理解するならば、ガリオア、エロアの取り扱いについてはおのずから明確になってくるのではないか。すなわち、
日本の敗戦後の実情というものについては、この中でも言っておりまするように、平和主義を育てていくためには新しい民主主義の基礎をつちかわなければならないということを強く言っておるのであります。現に、連合国が一番最初に
日本の民族に呼びかけたのは、人権五原則の中にもよく現われておるのであります。この人権五原則は、ポツダム宣言の精神を受け継いで、司令部が
日本の
政府、
日本の民族に呼びかけた主張であります。この強い要求はかなり具体的なものになっておるのでありまして、言うまでもなく、その当時の連合国は、
日本の民族が長くしいたげられるというようなことは、この思想を育てる上に大きな障害になる、のみならず、
日本の
国民の良心に訴えて軍国主義を根絶しようという
態度からいくならば、当然生活の最低を保障する
措置をとらなければならぬということは、この宣言の中によく出ておるのであります。一体あの当時の、ガリオアはどんなものであったか。今日腹はふくれて、のどもと通れば熱さは忘れるでありましょうけれども、あの当時のことを思い起こしますならば、私ども感謝の念ももちろんでありますけれども、その感謝は私的なものではないはずである。恩を売ったものに恩を返すといったような私的なものではなしに、要するに、世界の民族の求めてやまない世界の恒久平和への理想実現に
日本民族も心から協力しようというのが、私はほんとうの誠意にこたえる
態度ではなかったかと思うのであります。それに対して銭勘定で幾ら幾らのものを幾らに値切ったというようなことは、
日本国のあの当時の実情をこういう形において表明するということは全く誤まったものではないかと私は思うのでありまして、こういう意味におきまして、ポツダム宣言のこの
日本の平和主義を育成しようとする情熱的な
考え方の上から来るガリオア、エロアの扱い方については、むしろ、先ほど来言っているように、ガリオアとして問題を
一つにして扱おうというのなら、目的はそういう点にあったのではないかと思うのであります。
アメリカの世論も、私はそういう方向に発展しておると思うのでありますが、この点に対する
政府の見解は、今までの
質疑応答の中ではどうしてもわれわれは理解することができません。むしろ、逆に、
政府の
態度というものは、何かぜい六根性で、取引するような際に使われる
考え方のようにしかとれぬのであります。この点を私はこの機会に
国民に明らかにする義務があると思うのでありまして、非常にくどいようでありますが、以上、要するに、ポツダム宣言の中に盛り込まれております精神とこの取り扱い方に対する
政府の
態度とは全く相反する
態度のようにしか理解できないのであります。この点について、もう一度、
政府の交渉に臨まれました当時の経過なり
考え方なりというものを伺っておきたいと思います。