○
池田国務大臣 四つのうち、一の石油精製工場を作るというのは、これは三十一、二年ころじゃなかったかと思います。それから、貸してクレジットして、そしてその利子でやったらということは、これは私が総理になる前のできごとでございます。それから、こちらの方で、
池田内閣ができまして、九十六億円を減額してそして一瞬払いということは、
池田内閣になってからいろいろ
交渉したわけです。(
横路委員「
交渉したのですか」と呼ぶ)いや、考えて、そして一時そういうことも大使に言ったと思います。しかし、これはなかなか
向こうは聞かない。それから、年賦がいいんじゃないかということも話してみました。その計算を、六分五厘と、七分と、八分ぐらいでいろいろやってみたわけです。現在価値を出してみました。この点は、
外務省、
大蔵省とも相談いたしまして、減額して一時払いということを大江大使にやらしたわけです。昨年の一月ごろでございました。しかし、なかなか
向こうはそれを聞きません。そして、とにかく九十六億円というものを一ぺんに払ってくれ、こういうわけです。バンコックでの
交渉は、やはり九十六億円を一ぺんに直ちに払え。それから、だんだん、二年ぐらい、こういうことになって、まあやりとりでございますが、
向こうでの
交渉は、減額して一度ということは、減額は絶対に聞かない。そこで、年賦を私は考えたわけでございます。この年賦も、
外務大臣その他と相談いたしまして、これを何年にするかということが問題だったのでございます。今賠償を支払い中ですから、おもなる賠償が済めば自分は楽になる、こういう考えの
もとに、いわゆる初めは十億円ずつ、そして八年目に二十六億、これは財政負担から言っても非常に楽でございます。
向こうが最後に五年までおりて参りました。私は最後に十年までいった。しかし、どうしても前の日の
交渉では合わない。そして、翌日どうしても五年ということを盛んに
向こうの
外務大臣を通じてこちらの随員に話しておりましたが、私は、一歩も譲らぬ、それならこのままで帰るという決意を見せたものですから、翌日には、とにかくまとめましょう、こういうことで、そして、私がメモに、一九六二年十億と書きまして、そして八年目に二十六億と書いた。それで、
向こうは、そうですが、
あとが高くなるのですか、多くなるのですかと言うから、いや、これは今
日本の財政上こういうふうに考えざるを得ないのですと言ったら、
日本の
総理大臣はそういうことまで計算するのですかと言うから、(笑声)もちろん計算しなければ、こういうふうに申し上げました。実を申しますと、十億ずつ七年で払って、八年目に二十六億というのは、いかにも気がひけましたから、八年目を十八億にして、七年目を十八億と、ここまでは譲ってみると言ったところが、いや、そんならもうあなたの原案通りということで、十億ずつで、最後の二十六億になったわけでございます。
だから、四つございましても、私が
池田内閣になって考えましたのは、減額で一時払い、あるいは年賦でなるべく長く、こうやってみますと、やはり、賠償をずっと払っているときには困難期に五十四億を大体十億円ずつ払いましたから、その程度なら、財政負担も大したことはないし、しかも、私がこういう計算をしましたのは、ここでやらないと、とにかく、今、トウモロコシを買うにいたしましても、一億一千六百万ドルで、六千万ドルか七千万ドル、とにかく五千万ドルぐらいのこっちが出超でございます。それで、五年ぐらい前までは、
向こうの方から米を買っておったからよかった。ところが、四年ぐらい前から、もう
日本が倍あるいは三倍ぐらい、こういうことで、もし経済措置なんかとられたら、五千万ドル、六千万ドルの輸出超過がなくなるということになったら、百八十億、二百億の輸出が少なくなるわけです。そうすると、いろいろな点から考えても、まあ十億くらいなら、しかも今後のことを思うとというので、自分はいろいろ計算いたしまして、そうして自分でとにかく、——そのときに
外務大臣が十年くらいまではどうでしょうかといって前に言っておったのです。実を言うと私は十五年ぐらいで乗り出したのですが、
外務大臣は十年ぐらいという気持を持っておったらしい。こうやってきたものですから、それではこれは
外務大臣まで譲ろうというのが経過です。そこで、最後まで十年でがんばった。
向こうは五年でございます。結局、お互いの信頼とあれによりまして、私は、十億、これならば、もう五、六年後からは賠償がぐっと減って参りますから、大体ここでケリをつけた方がよかろう、全体でも、一年の出超分の半分、半分以下でございます。