○
村山参考人 私、
村山でございます。
昭和基地に一年間、いろいろ
所定の
作業に従事して参りましたけれども、はからずも私
昭和基地を開いたときもおりました。中断されるときにもまたその場におりました。まことに感慨無量の感を抱いて
昭和基地をさようならしたわけでございます。
そういうような事情でございまして、われわれいわば暗い
気持で帰ったのではございますが、帰りの船中におきまして、本
委員会で活発な御発言をいただきまして、
昭和基地再開のような気風をわれわれ身近に感じまして、まことに明るい
気持で
東京に帰って参りました次第でございます。さっそく本
委員会議録第七号及び第八号を拝見いたしまして、非常に詳しく御論議願っておりまして、私
たちまことに感謝にたえない次第でございます。
今の御指名によりまして、私
昭和基地の一年及び過去、
昭和基地の
状況を申し上げるよりも、むしろ現在の
昭和基地はどうなっているか、あるいは
外国との
関係はどうなっているか、というようなことを簡単にお話し申し上げまして、御
参考に供したいと思います。
今まで
昭和基地にすでに足かけ七年間の経常を経まして、四度の
越冬隊を置いたわけであります。お手元の
参考資料「クーリエ」の
最後の方に、
日本隊の
状況というのが載っておりますが、
越冬隊だけに関して申しますと、すでに五十名の
越冬人口を数えるに至ったのであります。そのうち一名、福島君が残念なことになくなりましたが、五十名が
越冬経験を経て
日本におります。そのうち五名、ちょうど一割になりますが、これが二度以上
越冬をしております。そういうようなことから考えまして、ただいまの
昭和基地あるいは
越冬ということを考えますと、輸送という問題さえ解決すれば、きわめて平静な、あるいはきわめて有効な
観測作業ができる
場所となり、われわれの
経験、われわれの
南極に対する知識につきましても、十分危険なく
所定の
作業に応じ得るものと確信し、皆様の前に申し上げる次第でございます。
要は、どうやって
昭和基地に取っつくか、これがまず問題でございます。
昭和基地は非常にむずかしい
場所といわれております。たまたま第一次のときに、言うなれば天佑のごとき
状況で入りまして、その後あれが一番悪いときなのか、ああいうチャンスは何度くらい来るものかというようなことも、続けてやらなければわからない事実でございます。今まで過去四回の
越冬においては、なかなか
昭和基地の
状況、いわんや
南極の
状況をはかり知ることができないところでございます。続けてやってこそ初めて今までの
観測結果、われわれの
見通しということもはっきりするものと思っております。
〔
村山参考人、
地図を示す〕
ここに
図面がございますが、左の方、ちょっと字が小さくてはっきりいたしませんが、あそこで扇形で囲んでございますのが、
東緯三十度から
東緯四十五度に至るいわゆる十五度の間の
地域、わが国が
地球観測年に参加するにあたって分担すべき
地域でございます。その
まん中に
昭和基地オングル島がございます。さらに、赤い旗が三本ばかり立っております。これは
ソ連の
基地でございます。黒い旗、これは
ソ連でない、以外の国の
基地でございます。現在、私
たちがおりましたときには、
南極条約参加中の国家のうち
ノルウェー、
ベルギーが落ちまして、十カ国がこれに参加し、非常に協調あるいは友好的な
関係を七年間続けて参ったわけでございます。われわれといたしましては、この同じ
目的のもとに同じ隔絶された
南極大陸という
一つの小社会におきまして、こういう
各国と連携、同じ
目的に進み得たということ、
南極条約というものが生まれた過程及び
南極条約を育てる
一つの行き方としまして、大いにわれわれとして
責任を持ち、また非常に
南極観測の将来について明るい
気持を持っておりましたところ、われわれこれから突如として脱退しなければならないというこを考えますと、われわれなりにこの
条約に対する
責任といいますか、そういうものを感ぜざるを得ないわけでございます。
話はそれましたが、このワク内、われわれに与えられました
地域を四年間にわたって
調査しております。また、外洋におきます
海洋調査その他につきましては、六次にわたって宗谷の運航の往復間に
調査を進めております。中に
点々がございます。これは頂点に短い点、それからチョンチョンがありますが、これは
各国の
大陸横断、いわゆるフッ
クス横断隊あるいは
アメリカの
バード・ステーションの隊、あるいは
ソビエトの
ミールヌイから不
到達地点に行きまして、それから
極点に行くようなルート、こういうようなおもなる大きな
コースを一応示すものでございます。また、縁の
実線が
昭和基地から見えておりますが、あれは過去
日本隊で
大陸に足跡を残しましたその跡でございます。
ごらんになりますれば、
ソビエト、
アメリカ等に比べていささか小さいかもわかりませんが、
しかしなが、われわれ四年にしてあれだけの
地域を歩き得たということは、一に
国民の御後援と御理解のたまものと思って、非常に感謝しておる次第でございます。
まだまだわれわれが与えられている
場所は、この
通り極点に向かって広い氷原として残されているわけであります。この
地域はわれわれに対して
空白であるのみならず、
世界各国全く
空白な
場所であります。われわれがここに旅行をいたしますときに、できる限り
資料を得るべく、
ソ連あるいは米国に大がかりなこの
あたりの
インフォメーションを要求します。みなすぐに、もちろんそういう
インフォメーションは
日本にたよっているのだ、全く見たことがない、
飛行機も飛んだ
経験がない、ぜひよくやってくれというような応援をもらって、われわれはこのわれわれに課せられました
地域を南下し、でき得れば、
最後には
極点までわれわれの手で調べ尽くしたい、こういうような
気持で行ったのでございます。
昭和基地の
状況をさらに詳しく描きましたのがこの
図面でございます。
図面はそう正確ではございませんが、これが
大和山脈、これが
昭和基地でございます。これをプリンスオラフ・
コース、これをプリンスハラルド・
コースと称しておりますが、これは
東緯四十度にありますが、この四十度線に沿ってわれわれは南下をいつも試みております。
ただいままでのところ、われわれ
南極昭和基地における
観測の要点を、次の三つくらいに分けております。
第一は、
昭和基地におきまして
気象を含みますいわゆる
地球物理学の
観測、これはもう各
項目を申し上げるまでもございませんが、あらゆる
項目をやっております。第三次以来、第四次、第五次と、三度にわたりまして、いわゆる
南極で行なうべき
水準の
観測を続けて参りました。特に第五次におきましては、
岡層気象の
観測に重点を置きまして、隊員もそのうち四分の一をさきまして、大いに充実した
観測をやって参りました。またもう
一つ、
昭和基地を見まして、
生物の
調査、これは長年やりたいと思っておりましたが、ようやく第五次におきまして
生物調査をやることができました。ちょうど第六次、われわれの帰る時期に当たりますが、熊凝団長の
海鷹丸の
海洋調査と相待ちまして、
南極の
生物資源あるいは漁場に関します
生物資源につきましても、われわれと相符合しますおもしろい
調査結果が出ております。この
調査結果につきましては、ただいま
至急調査分析中でございまして、必ずやおもしろい結果が出るものと期待しております。
それと別に、今度は
内陣調査ということをかねがね計画しております。これは
西堀隊以来
南極の内陸の
調査、氷の厚さ、
地形調査、
地質調査、あるいは重力の
測定、地磁気の
測定というようなことをやっておりまして、
あとで今言いましたようなことを大体第四次、第一五次の
観測越冬隊でやったわけであります。
この
図面で申しますと、
地域を四つに分けてわれわれは考えております。
まず第一としまして、
海岸線の
地形調査あるいは
地質調査、あるいは
生物も加えまして、
海岸線の
調査が第一の
目的。もう
一つは、これをまっすぐに南にどこまでも下がるということが第二の
地域。第三は、これを
東南方面へ下がる。
東南方面へ下がりますと、ちょうどこの線から
向こうは
オーストラリアの
領域になりますが、
オーストラリアの
領域に入ったところに
地質上あやしげな山があります。そのあやしげな山の所在を確かめるべく
東南方面に進むのが第三の
地域。もう
一つは、
ノルウェーが一九三七年に発見したものでありますが、この
あたりの
山脈、これを調べるのが第四の
地域、というようなふうに
南極昭和基地からの
方向を分けて考えております。
第五次隊としまして残されたものは、この南の
地域、それからこれは
クック岬と申しますが、この
クック岬に至るところ、赤の
実線で書いてありますが、これを第五次
越冬隊ではカバーをしたわけでございます。ただいままでの結果としましては、大体
予定通りとは申しがたく、
燃料あるいは
機械等の
関係で思うようには参りませず、まだまだ赤い矢が入っておりますが、あれはまだ
未知で
調査すべき
場所として残っております。また、これはわれわれは七十五度まで到達いたしましたが、さらにこの先、
極点まで十五度のいわゆる氷の
氷帽が残されているわけであります。
そういったような過去におきます第四度目の
観測結果等は非常にむずかしいものでありますが、これについての、どういうような効能があるのかというお声はいろいろ聞いております。せんだって、私も帰って本を読んでおりましたが、ファラディですか、それが
電磁発電による理論を発見したとき、当時の
総理大臣のディズレーリが、そんなものを発見したってどうなると聞いたところ、ちょうど赤ん坊が生まれたのを見て、これが何の役に立つという答えをしたということがあります。これがわずか百年ばかり前のことであります。
南極の
仕事にいたしましても、ちょうどそれにひとしいような感を抱くわけであります。今までやった
仕事も、これらの積み上げによりましてさらに有効な結果を生むものとわれわれは確信をしております。
ただ、われわれは、この
地図を見ればわずかこの
範図しか歩いておりませんが、それにいたしましても、
南極大陸の特徴というものを幾つかわれわれもっかんでおります。たとえばこの図を
ごらんいただきますと、ちょっとここの右側ですが、
点々とまるい輪が
南極大陸の
中心からずれて、書いてあります。これがいわゆる
オーロラーゾーン、詳しい話は私はわかりませんが、
オーロラのよく見える
地域、いわゆる超高層の
物理学的観測においては最もいい
場所、いわゆる一等地だといわれる
場所、それに乗っております
基地が、よく
ごらんになればわかりますが、
日本と
アメリカの
バードでございますが、この
二つしか乗っておりません。
あとはみんなこれからはずれているわけであります。といいますのは、いわゆる
オーロラといえば一番手つとり弔いことかもわかりませんが、
オーロラが一番よく見える
場所に
昭和基地があるわけであります。その
一つの例でございますが、この夏、私
たちの仲間の前の
鳥居隊長がマクマードに参りまして、そのとき
向こうではいろいろ自慢をして、
オーロラの写真を見せるのだが、われわれの方から見ますと、まるでおかゆのやくざのような
オーロラにすぎない。
日本の
昭和基地の
オーロラはこうだと言ったら、びっくりぎょうてんしていたということであります。それほど
昭和基地の
オーロラの見える
場所は、
観測所としてきわめてよい
場所を占めているわけであります。
また、この
地図では、はっきりいたしませんが、われわれはここを旅行いたしました。そういたしますと、
南極が
東大陸あるいは
川大陸と大きく分けて、
南極は
大陸ではないだろうといういろいろな説が出ております。その一端をわれわれは見たのでありますが、この
大和山脈、それからこちらに
ベルギーが長年やっておりますベルジカという
山脈があります。また、われわれの
昭和誌地の近くにこんな
露岩がたくさんありますが、先ほど申しました
オーストラリアの
基地のところに山がある。そういう意味から申しまして、ここに
一つの
山脈のつながりが明らかにわれわれの見た範囲でも出てくる。しかも、これから南へ下がって高度をはかっていきますと、この
あたりから急に高くなっております。そこで、こうやってけばの生えておりますのは
クレバスを示しておりますが、
クレバス帯がこういうところ−にあります。この
クレバスを越えますと、非常に高い標高、この
あたりになりますと三千メートルをこえます。七十五度に行きますと三千三百メートルの高度を示しております。と申しますのは、こういうような
方向に非常に高い台地、
山脈帯がありまして、いわゆる
東南極大陸の
脊梁山脈にわれわれは取っていている。それを越えてさらに五度くらい南に下がりますと、約四千メートルに近い勾配をおそらく持つであろうところの峠がありまして、それを越えてしまえば
極点に向かってだらだら下がりの氷原なるものというような
推測ができます。今までそういうような
推測はできなかったのでありますが、われわれが七十五度に到達したことから見ましても、
南極大陸の少なくも東の方の
未知の分は相当はっきりわれわれの手で見てきた、こう思っております。
また、
生物につきましては、これは先ほど申しましたようにいろいろありますが、
一つの例で、われわれ、
南極には化物の限界というか、あそこでとれるものは何もないと思っておりましたところ、実は約五種類、二百近い魚をつり上げました。食生活に飢えておりますわれわれは、さっそくこれを焼き魚にしたり、あるいは刺身にして非常に食んで食べたわけです。そういったようなものもできるということ、これは
生物の話と
あまり関係はございませんが、そういうふうになかなか
生物資源も豊富であるということの
一つの例でございます。
昭和基地におきます大体の様子は以上にとどめまして、今
昭和基地はどうなっておるかということを簡単に御報告させていただきます。
昭和基地には、ただいま本
建築、いわゆる
東京から設計して持っていきました家屋が六つございます。そのほかに
向こうで臨時に作りました
観測小屋あるいは
倉庫等のもの、これが約十、十六ほどの
小屋が建っております。われわれ
見通しといたしまして、この
仮設小屋の耐久につきましては別に意にとめませんし、大して持つものとは思っておりませんが、本
建築であります六つの
小屋につきましては、少なくとも五年間はしっかりと、動くこともなく、ゆれることもなく、りっぱにわれわれを迎えてくれるものと確信しております。中にはいろいろな
発電機械あるいは
観測機械、すべて置いてあります。車両も今のところ六両置いてあります。もし
再開のときには、大体いつもの
通りの人力を得るならば、私は、二十時間以内に
発電機を全部動かして、
昭和基地にあかりをともすことができると確信しております。また、四十八時間以内に少なくも三両の車が動き出しまして、
除雪等に活躍し得るものと考えております。また、五日間以内におきまして、
生活環境は、われわれがいたと同じように、水道が
通り、暖房が十分通るという
状態にあります。さらに、その二日後、いわゆる一週間以内には、あそこに残しております
観測機械等を組み立て直しまして、
基地観測の
ルーティーンに入れるものと思っております。そういうようなことをお考えいただきまして、
昭和基地の
状況等は非常にいい
状態であるというふうに御了解願いたいと思います。
また、さらに大きく見まして、
昭和基地と
外国基地との
関係に簡単に触れますと、われわれ二月の八日に
昭和基地を離れたわけでありますが、その前から何度か、
ソ連の
基地がどこかにあるらしいということを仄聞しておりました。また、事実
飛行機も、われわれが
作業をしておる間に、一月の初めでございますが、よく飛んで参りました。どこから来たか、と申しますと、
昭和基地の北東の
方向二百八十キロ
あたりのところから飛んできた、こういうことで、
内容はよくわかりません。しかし、
気象電報その他から申しますと、ずいぶん長い問、一月の初めからずうっと同じところにとまって
気象電報を発信しておる。何か
作業をやっておるに違いないということはわかっておりました。
昭和基地を引き揚げました翌日、すなわち二月の九日、非常な好天に恵まれたために、われわれ東にできるだけ飛んで新しい
ソ連の
基地を見てこようといって、この付近から飛んでいったわけであります。私
たち、ちょうどこの
図面になりますが、こういう
方向へ飛んで参りました。そうしますと、ここに
DC3にひとしい大きな
飛行機が一機、ちょうどセスナと同型の
観測機が三機、これは明らかに目につきます。これは飛行場になっておりまして、その
わきにまるいテントが十張りきれいに並んでおります。その
わきに通信のマストが
一本立っております。この間に茶色く示しましたものが
露岩であります。
あとは全部氷河。こういうところは
クレバス、
雪上車では登りにくい、ちょっと危険な
クレバスが出ておる。ここはずっと平らで、
飛行機が十分着陸できるような平面が見えるわけであります。こちらから北に
海洋に向かうのでありますが、この
あたり海洋の氷は、ことしは非常に悪い氷でございまして、強力な
オビでさえここには取っつけず、四十キロか五十キロと記憶しておりますが、その
あたりまでしか入れません。それから
あとは、
DC3が近所にある大きな
氷板におりまして、そこからそりをつけた
DC3が四往復して物資を持ってきて、今ここにベースを作っておるわけであります。彼らはこれを名づけて
エンダービー・ベースと申しております。これを
エンダービー半島、
エンダービー岬と称しておりますが、それをとって
エンダービー・ベースと呼んでおります。その
位置は、ここに書きましたが、六十七度サウス、四十七度イーストという
地点でありまして、
オーストラリアの
領域とは申せませんが、
地域内にぽつんとできたわけであります。彼らのやっております目標というか、
作業の
内容について聞きますと、これは東経四十五度から五十二度に至る間の
地形、
地質の
調査を
南極の夏にやる。すなわち一月から三月までにやりたい。三月の初めに迎えの
オビが来て、もしも
状況がよくて
建物を運び得たならば、ここに
建物を
二つくらい建てたい、こういうような希望であります。それを約三十名の人がおりまして、その約半分は
飛行機関係、
あとの半分は
学者あるいは設営、そういうような
人割りで、長は
地質学者の某博士でありまして、これで今言った
作業をことしの計画としてやっております。
さて、これは何に使うかということでありますが、われわれの
基地は、ちょうどこの
赤旗二つにはさまれた
昭和基地、日の丸でありますが、
まん中の赤い旗がちょうどこの
位置を示しておるわけであります。彼らは西のラザレフの
基地と東の
ミールヌイの
基地の間を何度か
越冬、中往復するわけです。彼らの
飛行機も直行することはできず、必ず
昭和基地に寄って
燃料を補給していく。その
燃料は、すでに過去において了解を得てわれわれのところにデポし、われわれが預かっておる
燃料でありますが、この
燃料を補給して、それぞれの
基地に到達しなければならない。そういう
場所にあります。そういうようなことから、彼ら自身の
燃料補給所を設けたいというのが第一の
目的であります。また、
海氷の
状況その他から見て大きな
基地はとうていできそうもありませんから、おそらくは沿岸の
地形調査等は若干はやるにいたしましても、
燃料補給基地ということを第一目標としてこの
基地を設けたものとわれわれは
推測しております。従いまして、もしこの
基地ができたからといって、
昭和基地の存在を云々するようなことはおそらくないものと確信し、われわれは先ほど申しましたような
理由によりまして、
昭和基地の
再開が一日も早いことを望んでいる次第であります。
簡単でございましたが、御
説明を終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。(拍手)