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小坂国務大臣 それでは、その後という
お話でありましたけれ
ども、ずっと
最初から申し上げましょう。現在まで判明しております辻議員の消息は大体このようになっております。
三月二十九日に辻議員から参議院の事務局を通じまして東南
アジア諸国の政治、経済及び教育事情視察のためベトナム、カンボジア、タイ、ラオス、ビルマ、香港に渡航するについて公用旅券を発給されたいという申請がございましたので、外務省は同議員の身分にかんがみまして、前例に従って三月三十日付の公用旅券三万三千八百五十三号を発給いたしました。香港以外の渡航先についてはいずれも査証が付与されたのでございます。
辻議員は四月四日に東京を出発されまして、同日サイゴンに着き、このサイゴン滞在中にゴー・ディン・ジェム大統領など
政府要人に会見されました。サイゴンで初めて久保田大使に北ベトナムへ行きたい旨の意図を漏らされたので、久保田大使は極力翻意を促がしたという趣でございます。その
あと四月九日ごろプノンペンに行きまして四月十一日まで同市に滞在の上、さらにバンコックに行っておられます。
四月十四日ごろ同議員はバンコックからタイにございます大使館の伊藤助衛駐在官
——この人はラオス大使館を兼務しております。この人とともにラオスへ参りました。ビエンチャン滞在中同議員はパテト・ラオの占拠する地区を通過して、ハノイに渡り、香港経由帰国する計画をラオスの別府大使に漏らしましたので、別府大使はその無暴なるゆえんを説いて、その計画を思いとどまるように説得に努力しましたけれ
ども、辻議員の聞き入れるところとならなかったのであります。辻議員はかねてからこの計画を実行に移すため種々計画しておられたようでありまして、ビエンチャン市のクンタ寺院の住職に話をつけまして、そうして道案内の僧侶二名を伴って四月十九日ごろ間道を選んでビエンチャンから北上して、寺院から寺院へのリレー式な渡り方で奥地に入っていかれた模様でございます。第三番目の寺院から先の行方については、交戦地区のことでもありますし、確認されておりませんが、四月二十一日午前九時ごろパテト・ラオ地区へ入ったと思われるのでございます。
なお、出発に際して辻議員は髪を短かく切って、僧衣をまとって、青木という
日本人高僧で、仏跡をたずねてラオスに来たというふれ込みでパテト・ラオ地に向かった模様で、携帯品はトランクに黒せびろ一着、若干の金子その他であったとのことでございます。
この後辻議員の消息が絶えたのでございますが、その後
日本国内の新聞雑誌等に種々の憶測記事が散見するようになりましたが、
政府としてもつとに事態を憂慮し、また御家族のこともございますので、自来数回にわたってラオス並びにその周辺国にあるわが方の大使館に同議員の消息の調査を命じて参りましたが、依然として消息は不明のままでございます。
八月二十四日にラオス駐在の別府大使から新事実に関する報告に接しましたが、これによりますと、この大使館はバンビエン、これはビエンチャン北方百十キロの地点でございますが、このバンビエンで辻議員とおぼしき人物に会ったと称する
中国人がポン・フォン、これはビエンチャンから北方七十キロ、そこにおるという旨の聞き込みを得たのでございまして、さっそく大使館員を同地に派遣して調べさせましたところ、同人は同地で
中国料理店を営む者で、米袋買い取りのため四月上旬バンビエンにおもむいたが、戦乱のために帰れなくなり、六月七日まで同地に滞在中辻議員に会ったと称し、かつ同人の申し立てによるその人物は辻議員と人相その他の
状況もよく符合し、辻議員の写真を見せたところ、これは本人に間違いないということを確言した由でございます。なお現地大使館では、この
中国人がバンビエンで辻議員に会ったことはほぼ間違いないとの印象を得た由でございます。
その
中国人によりますれば、辻議員は五月中旬バンビエンに行きまして、同人の寄宿していた同業の
中国料理店に両がえと飲食のために来た際に知り合いまして、六月七日同人がバンビエンを去るまで同地にいたということであります。
辻議員は、シェンクワン、これはプーマ
政府とパテト・ラオ総司令部の所在地でございます、そこへ参りまして、プーマ殿下と会うことを熱望していた趣で、この
中国人を伴って数回にわたってパテト・ラオの前線司令部を訪れた結果、六月初めにようやく許可書を入手した由でございます。
その後の経緯については推測の域を出ないのでございますが、プーマ殿下の方はチューリッヒでの三殿下
会議に出席のため、六月二日ころシェンクワンを出発しておりまするから、辻議員がたといシェンクワンに行っても、プーマ殿下が帰来するまでは同地で待たざるを得なかったものと思われるのであります。
外務省といたしましては、他の方面においても各種の手段を通じて調査を進めてきた次第であります。つまり、辻議員がラオスから北越方面に抜けていかれた場合のことも想定して、
二つの筋を通じて北越側に当たってみた次第でありますが、その結果これら
二つの筋のいずれからも辻議員が北越に入られた形跡はないとの否定的な回答を受け取ったのでございます。
このほか、同地の公館におきましては、辻議員がパテト・ラオ地区に潜入された際に使われた寺院伝いのルートをたどる調査を行ないまして、辻議員の行き先の確認に努めておりました。
その後八月の二十四日に至りまして、前に申し上げた
通り、別府大使からバンビエンにおいて辻議員に会ったと称する一
中国人からの情報を入手しましたので、同議員がおもむかれた公算の多いと思われるシェンクワン地区について情報を入手するよう手配しておりましたところ、某国際機関を通じまして、十月三日付をもって、シェンクワン所在の最高権威筋より得た情報を入手いたしました。
この情報によりますと、シェンクワン所在の最高権威筋は辻議員と直接会見した事実はないが、同権威筋に達した情報によれば、辻議員は六月にバンビエンにいたが、その後のことはわからない、しかし情報によれば、辻議員はシェンクワンに来た後、ハノイを経て
中共に向かったらしいということでございます。
この情報は間接的なものでありますから、辻議員がほんとうにハノイ経由
中共に向かわれたかいなかは断定できませんが、このような線が一応出て参りましたので、外務省の出先機関はもちろん、その他諸種の調査ルートによる捜索を一そう
強化して、この方面における同議員の消息の確認に全力をあげている次第でございます。
しかしながら辻議員御
自身の身辺に危険が及ぶようなことが絶対にないようにする必要がございまするし、また調査を効果的に行なうためにも現に行なっておる調査あるいは今後行なうべき調査の具体的な方法について申し上げることは、これは差し控えることにいたしたいと思いますので、その点は御了解いただきたいと思います。