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鶴我政府委員 ドミニカの現状がこういうふうなことになりまして、その原因はどこにあるのかというお尋ねでありますが、実はこのドミニカの移民が始まりましたのは昭和三十一年でございまして、その前年に、ドミニカのワルヒリ元元帥が非常に親日的な
立場から、ぜひ
日本の移住者をこの国へ入れて、農業
生産があまりないドミニカの農民に対して模範を示すようにしてもらいたいという強い希望から、話は始まったわけでございますけれども、当時三十一年に正式に文書を交換いたしまして、
日本の移住者を受け入れることにしたわけでございます。当時入れるにあたりましても、現地の公使館の方も、この問題につきましてよほど慎重に取り進めないとむずかしい問題が起こるだろうということで、そう一気に進む意図はなかったわけであります。それで当時の国内事情を申し上げますと、当時は、終戦後長い間国内に閉じ込められておったというような
関係もありまして、海外移住の希望者は
相当多かったわけであります。その
関係上ドミニカの方につきましても一応調査したわけでありますが、要するに
最初の予想以上に移住者が出た、その結果
日本人の過剰入植の状態ができたということが
一つの原因ではないかと思います。
もう
一つの原因は、ただいま御指摘がありましたように、事前の調査が不十分ではなかったかということでございますが、この点につきましては農林省の方からも調べておりますが、外務省の方といたしましても、海外協会連合会の支部長をして現地を見させておりますし、その点で調査不十分の責任は外務省にもあるわけであります。
それから当時の農産物の
市場でありますが、当時はドミニカ国といたしましても、米州諸国と善隣友好の
関係が維持されておりまして、要するに
経済関係もノーマルに動いておったわけでありますが、その後、特に昨年ベネズエラ問題をめぐりましてドミニカ国が米州諸国から経済封鎖を食ったわけであります。従って、国内の経済事情も悪くなるし、特に
最初移住者に供与した補給金というものがございまして、大体一家族当たり月に六十米ドル程度の補給金を出して参ったわけでありますが、ドミニカ
政府自身が財政上苦しくなって参りましたことによりまして、その補給金の削減もしくは打ち切りをするような状態になったわけであります。それが移住者が
生産する農産物
価格の低下と相待って、その苦しさがますます激しくなって前面に出てきたわけであります。ネイバ地区の移住者は十九家族がございましたが、このネイバ地区の移住者が集団的に
日本に帰りたいということを再々今年の三月でありますか、現地の
大使館に訴えて参りました。このネイバ地区と、もう一カ所ハラバコア地区というのがありますが、この両地区は営農状態が悪くなり、ダーボンそのほかの地区の移住者は、将来に期待をかけて営農に努めて、あまり動揺しておらないわけでありますが、特に御指摘のありましたネイバ地区の全員、それからハラバコア地区の特に営農のむずかしい家族、大体十六家族程度でありますが、この
人たちにつきましては、国援法によりまして近いうちに
日本に帰還してもらうという手はずをしております。大蔵省の方もそれに合意いたしまして、近いうちにこの点については一応解決すると思われる次第であります。