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参考人(
進藤益男君)
進藤でございます。私は、
東京工業大学理工学部に
所属いたします
原子力研究施設の
教授でございます。
原子力工学並びに
化学反応工学を専攻しておるものでございます。御
承知のように、
東京工業大学は、明治の、その前身の
学校時代より、
理工系の
教員の
養成に貢献して参りまして、戦後は他
大学に率先いたしまして新しい
技術教育の思潮を導入いたしました、
一つの大きな伝統を持っております。
教職員は、
大学人としての立場と、自分の
専門家としての経験から、この方面に大きな責任と熱意を持っているわけでございます。私、
進藤も、まあ一介の学者ではございますが、そういう環境に勤務しているものでございます。
教員を含む
技術者が
不足しているということは、これはみな御承認のことでありまして、問題はその対策の
内容でございます。昨年の
科学技術会議の政府に対する答申にありますように、必要量の
確保と
資質の向上を目標にすべきである、そのためには、処遇の改善、
大学の
教員組織、定員の増加、設備、施設の整備充実、そういったことをはかるべきであると、こう考えられるわけでございます。
本案は遺憾ながらこの方向と全く逆になっております。
本案によりますれば、
卒業生の
資質は著しく低下することになり、とうてい新
時代の
工業高校教員としては不適格でございます。かりに卒業したといたしましても、ほとんどおそらく業界に流れることになりまして、
確保できないと思われます、
教員として。で、以下、
東京工業大学学長が
文部省内簡に対しまして答えました私信、並びに
東京工業大学教授会有志六十四名による反対声明、並びに全国九
大学職員組合の共同の声明、そういったものの
趣旨を取り入れまして、私見を申し述べたいと思います。ここに実はその声明文がございますが、これをしかるべく
一つ配っていただきたいと思います。
最近
技術躍進の新
時代を迎えまして、工業
高等学校の
卒業生であるところの技能者に対しましても、従来に比しまして一そう高い水準の
知識と急進する
科学技術をそしゃくするための融通性を持った
能力、そういった
要望が一段と高まって参りました。こういう
要望は今後ますます高まるであろうと考えられます。また民主
社会の形成者としての人間形成ということが、
社会がこのように高度化すればするほど重大なものになって参ったわけでございまして、単なる
技術修得に加うるに、人々にそういうことが伴わなくては、かりに資本主義
社会であれ、
社会主義
社会であれ、経済伸張ということがほんとうに国民全体の福祉に結びつくことができず、やがて外側との競争に打ち破られたり、あるいは一時的なかりに繁栄がきたとしましても、内側から崩壊する、こういうようなことが起こるのではないかと考えられます。このような新
時代の要請にこたえるための技能者を
養成する
教員といたしましては、当然より
専門的な、またより入間的な
資質が要請されることになることは必然でございます。このような
時代にあたりまして、たとえば
戦前の
臨時教員養成所のようなもので
教員を作ろうというような傾向がもし出てきたといたしますと、これはあまりにも
時代錯誤的と言わなければならぬと思います。かりに資本主義的な考え方をとったといたしましても、結局安物買いの銭失いで、一流先進国に追いつくことはおろか、着実に前進する後進国に簡単に追い越されてしまうということは、これはわれわれの経験から明らかなところであります。こういう方向に向かうということは、結局国の方向を誤るということに終局的になるのではないかと、われわれは考えているわけでございます。現在工業
高等学校の
教員は四年制の
大学で
養成されているということになっているのですが、以前より
大学の
工学部や工業
大学の
学部は四年では短か過ぎる、どうしても五年にしたい、こういう議論が起きております。たとえば京都
大学工学部のように実質的にこれを実行している
大学もございます。
技術革新の新
時代を迎えまして、こういう考え方は当然強まって参りました。
教員になるにはさらに
教職に関する
課程や実習が必要でありますので、工業
高等学校の
教員は、四年制の学士では不十分でありまして、修士の学位を持たすべきであるという議論が出てきているわけであります。このような工業
技術教育に対する最近の動きに反しまして、
本案のごとく逆に三年制をとるということにいたしますと、かりに三年間の
教育が十分な
条件で行なわれるといたしましても、新
時代の工業
高等学校の
教員としての
資格を与えることは不可能であると考えます。
多少細部にわたって以下申し述べたいと思います。四年制を三年制にすることにいたしまして、必要な最低の修得
単位数が百二十四
単位から九十四
単位になっております。人文
社会関係の二十四
単位が全部省かれております。しかし、この人文
社会関係の修得ということは、先ほど
勝田教授が言われましたように、人格的に
生徒に接触して、将来の民主
社会の形成者を
養成するという
教員といたしましては、基本的な
条件でございまして、そのほかにこういう
学科は
専門の工学にも結びつき、また
専門以外の面の補導にもきわめて大切なことでございます。これが全く省かれてしまうことになるわけであります。
次に
外国語や、
数学、物理、化学は、現在われわれの
大学で行なっておりますもののおそらく半分以下になってしまうのではないかと考えます。
専門をどの
程度深く学び得るかということは、とのような
基礎自然科学の
学力がどの
程度マスターされているかということに大きく依存しておりますので、
専門学科の学習に大きな支障を来たし、必然的に
専門学力が低下するということも考えられます。また臨教
専門学科の編成は、先ほど杉野目学長が言われましたけれども、われわれといたしましては、
工業高校の
授業科目と対応させるということになっておるような非常に安易な
計画でありまして、
学力低下の傾向を強めておるという批判がわれわれの間に高まっております。最も問題になりますのは、四年制の最終学年に行なわれる約八
単位の卒業研究が省かれておるということでございます。
そもそも最近の工業
技術教育の思潮は、
技術革新の速さに対応して、
教育におきまして、すぐに後退してしまう
現状技術の記述的な詰め込みよりは、
基礎科学や工学
基礎を十分に理解させまして、研究力と独創力をもって未知の領域を開拓できる者を
養成しよう、こういう方向に向かっておるわけでございます。卒業研究は、このような
目的を達成させる重要な手段でございまして、自分の
知識と
能力をあげて、
一つの問題の展開をはかるところの訓練でございまして、
知識がほんとうに自分の身につくようなものとなり、自主的な態度が確立される大切な
課程でございます。
工業高校教員は、卒業後完成された者として、直ちに
生徒に接触いたしまして、これに融通性のある
能力を与えなければならないのでございまして、この
課程は特に重要視しなければならないとわれわれは考えておるわけでございますが、これが全くなくなったわけでございます。結局魂のない、試験のときだけ、すぐに
時代おくれになるような
知識を持った経歴で
教員になる、こういうようなことでございます。
さらに不幸なことには、
本案臨教の専任教官は、新
制大学基準の半分で、
教授、助
教授一人
当たり学生は三十人に及んでおるわけであります。これは
高等学校並みでございます。これではとうてい満足な補導はできるものではございません。さらに外来講師を頼むことによりまして、
学力はますます低下することになります。設備費も非常に悪うございまして、東京工大の場合には、初年度の三講座に対しまして、わずかに六百万円という少額でございます。このような劣悪な
条件で、新
時代の技能者の
教育を受け持つところの
教員を
養成するということは全く不可能ではないかと私は考えておるわけであります。
さて、文部大臣は、
本案臨教の
教員組織や、設備の弱体に対しまして、繰り返し次のように言明しておられます。すなわち臨教は優秀な
大学工学部、工業
大学に付設されるので、その方面から密接な協力、応援が得られること、入ってきた学生の一種の使命感、付置される
大学の教官、専属教官が一体になって、国家
目的に協力する意思があれば、必ず四年制にまさるとも劣らない者を出し得る、こういう御
趣旨でございます。しかしながら、かりに臨教学生が付置
大学から、
大学の学生と全く同じように便宜を受ける、こういうことができたといたしましても、大臣の御主張はおそらく不可能でございます。現在、
大学工学部や工業
大学の学習時間はぎっしり詰まっておりまして、四年を五年にしたいくらいでございます。この
内容を三年間で全部修得するということは物理的に不可能でございます。われわれはもちろん与えられた
条件のもとで最善の努力をいたしたいと存じますが、こういうことは、元来、教官や学生の熱意だけによって解決できることではございません。たとえば卒業研究をする時間のない学生に対しまして、幾らわれわれが努力いたしましても、卒業研究を行なった学生と同
程度の
資質を獲得させるということは全く不可能なことでございます。実際はこの臨教
卒業生は
大学三年以下の
学力におそらくなるのではないかとわれわれは憂えておるわけでございます。しかもこれにしましても、大臣の期待されるように付置
大学からの十分な援助が得られるとしての話でございます。かりにもしそういうような援助を行なわなければならないというようなことが確定いたしますというと、現在現存しておりますところの
大学の
教育と研究の諸
条件は大きく乱されることになりまして、事は臨教だけの問題でなくなって参ります。おそらくどこの
大学でも、臨教は
大学に付置されるが、これはわれわれにはほとんど関係がないのだ。こういうふうにおそらく了解しているのではないでしょうか。大臣の言われるように、十分な援助を
大学が行なわなければならないということが
一般的に広まってくるといたしますと、おそらく
教養学部の
先生をはじめ、助
教授、助手級の方面において驚愕する方が多数出てくるだろうと私は思うわけでございます。東京工大は実際そうなっております、率直に申しまして。東京工大の一例をとってみますというと、本学は昭和十年ごろに比しますというと、学生は約四倍、教官は約二倍、結果といたしまして、教官一人
当たりの学生数は約二倍になっております。建物は、一部戦災を受けておりますので、戦後相当新築されましたが、大体
戦前程度でございます。従って学生一人
当たりの坪数は非常に小さくなっております。学生はこの数年間に、
大学院学生も迎えまして約二倍になっておりますが、設備、建物はこれに伴いませんので、かりに補充いたしましても、常に時間的におくれております。毎年の増員学生は、前年の
不足な設備、教官組織の中に割り込むという形になっております。その
影響は、直ちに
教養関係の教官に表われ、学年の進行に伴いまして
専門の教官に波及して参ります。
文部省の御
計画によりますと、今後約十年の間に、学生は約二倍に増員させるということでございますが、そうすれば、この混乱した状況は、今後長く、毎年続くわけでございます。
ことしのわれわれの
大学では、
学部学生、一年生を五百六十名ばかり入れましたが、
教養の
教育はどうやっておるかと申しますと、四組に分けておりまして、
基礎自然科学においても、一組百四十名で行なっておるという驚くべき
現状でございます。臨教には
教養の専属教官がおらないですから、これを本学から、特に実験を担当する助
教授、助手、
技術員を応援させるということは非常に困難ないろいろな問題をはらんでおります。元来、現在の
大学は、助手や
技術員を得るということが非常にむずかしくなっておりまして、それらの実験指導員は、過重の負担に悩んでいるのが
現状でございます。
専門の方からの援助も同様な問題が起きて参ります。工業
大学の場合は、さらに次のようなことがございます。臨教を
設置する場所は、
大学と遠く離れました田町でございまして、これは場所がございませんので、ますます援助がむずかしくなって参ります。結局、この臨教学生も、ともに
技術革新をになわなければならない学生でございますから、われわれとしてはできるだけの援助を与えるということになるわけでございますが、
大学からの援助を与えようといたしましても、与える
条件が枯渇している。こういうことが偽わらざる
現状でございます。
このような
状態でございますから、ますますもって
卒業生の
資質は低下せざるを得ないことになります。実際に
教育を担当する側の者といたしまして、また
専門の者といたしまして、無責任な面従腹背的な態度をとるならば、これはどうでも言えることでございますが、責任を持ってこれを解決していこう、こう考えていきますならば、とのような劣悪な
条件下ではとうてい新
時代の工高
教員としての
資格を与え得るということはとうてい考えることができないととろでございます。
次に、
本案が
実施され、
卒業生が出たといたしましても、
工業高校教員の
待遇が改善されない限りは、
卒業生はほとんど業界に流れてしまうだろうと考えられます。このことは、この
法案に多少なりとも同情する方でも、例外なく全部の人がほとんど危惧していることでございます。文部大臣は、これに対しまして、
教員養成所には初めから
教員としての使命感を持った者が入るから、卒業後
教員になるだろう、こう申されておりますが、
技術者や
教員に対する
需要と、
学校卒業生との間の関係が、
戦前のごとくあまり隔たりがないというような状況でありますと、大臣の期待もある
程度満たされるかと思いますが、現在の状況は全く異なっております。
文部省自身の御
計画が示されているのでございますが、今後十年間で、
大学卒業
技術者は約十七万人の
不足を生ずるが、そのうち七万人は学生増員で
養成するという御
計画でございますが、この
計画の中にありますように、
大学卒業生は、依然として十万人
不足であって、他の階層の
技術者の
不足と相待ちまして、業界は臨教
卒業生にも当然手を伸ばして参りますでしょうし、
卒業生はほとんど大部分業界に吸収されてしまうであろうと考えられます。これは結局
待遇の問題でございまして、四年制を三年制にしたからといって、根本的に解決するものとはとうてい考えられません。もともと、もしも
教員志望の者ありといたしますと、現在でも
高等学校の
生徒は、
工業教員は
大学において
養成されるのであるということを十分周知しているわけでございますから、
大学に入ってきて巣立つわけでございます。
それでは、初めから
教員になろうとするような志の学生はどのくらいかと申しますと、先ほど
小野さんのお話にもありましたように、たとえば昭和三十四年の例でありますと、
国立大学の
卒業生の中で、工業に関する
教職単位を取った者は約百三十名でございまして、その年度では結局大体百三十名
程度が純粋に
教員を志望する者、こう考えてよろしいんじゃないかと思います。しかもそのとき実際に
教員になりましたのはたった一名でございまして、結局これは
待遇という実際的な理由によるものと、こう考えられるわけでございます。結局
本案が
実施されましても、
教員の
待遇改善が行なわれない限り、
教員を必要とする
程度において
確保するということはむずかしく、
本案は結局何のための
教員養成所であるか、こういう疑問が起こって参るわけでございます。
時間がきて非常に申しわけありませんが、さて、どのようにしてそれでは
工業教員を
養成すべきであるか。これは種々の方面でもうすでに言われていることでありまして、工業
高等学校教員の
待遇の改善ということが先決でありましょう。また多少なりとも研究可能な職場環境の整備ということが必要であります。それらが改善されますれば、現在の優秀な開放
制度の
教員養成制度である
大学からでも相当
教員になると思います。四年制は、最近の
技術の伸張、
技術革新の
時代にあたりまして、これを延ばすことこそすれ、短くすべきではないと考えられます。
教員養成の
大学の充実はもちろん望ましいことでございます。これらの
措置は必然的にこの方面に従来以上多くの国費を回さなければならない、こういうことになるわけでございますが、これは日本が工業立国で繁栄するよりほかに生きる道がないのである、こういうことでございますから、むしろこれは当然なことでありまして、これはまた国民全体の福祉の向上にも合致するものでございます。一流国に比しまして、国民所得に対するこの方面に使用するパーセントをとって参りますと、はるかに低く三分の一
程度となっているわけでございます。ここで決して無理なことではないわけでございます。こういう点から見ますと、敗戦後、国の将来は結局
教育の力に待つよりほかはない、こういう厳粛な決意のもとに
教育の普及、
教員の質の向上がはかられたわけでございます。当時、経済的な再建の見通しがほとんどなかったときにおきまして、なおかつそのような再出発を行なったようなわけでございます。今こそ、当時の、将来を
教育に託した
精神を生かし、立ち直った経済力を用い、抜本的に
教育の諸
条件を整備すべきときではないかとわれわれは考えております。工業
技術教育はその重要な中核をなすものでございます。
最後に、池田総理大臣を初め、現政府の
方々、荒木文部大臣、本
文教委員会委員長及び
委員各位に衷心より訴えたいと思うのでありますが、どうぞ
教育を担当する側の責任を持つところのわれわれの
意見を取り上げていただきたい。閣議における再考慮とか、あるいは急速な改良案とか作られまして再審議していただきたい、こうわれわれは考えます。このようにすることは、政府、国会、
委員会にとって決して不名誉なことではないと思います。かえって政府または
委員会が、科学的に確実な
基礎の上に立った
技術教育というものを本気で考えているんだということを示すものだと思います。もしそうでなければ、われわれは政府や国会に対して逆な判断を抱くというようなこともあり得ることでございます。まあ、失礼なことでございますけれども、われわれから見ますれば、当然根拠にならないようなことを根拠にして事を実行せられるということは国家の損失でございます。何としてもこれは再考を
お願いしたい、こう思うわけでございます。時間を限られておりますので十分なことを申し上げられなかったことは大へん残念でございます。大臣を初め、皆様方に多少言葉の表現の上で失礼なことを申し上げましたかと思いますが、何とぞ御寛容のほど
お願いいたしたいと思います。