○東隆君 私は、農林中金が今短期金融をほとんど専門というような形に追い込まれているのは、かつて国の低利資金が農林中金を通して
農村に流れておったわけであります。従って、車の両輪のような形でもってある程度の効果を上げたのですけれ
ども、しかし今農林漁業金融公庫という形でもって低利の資金が国に握られてしまいました。そんな
関係で農林中金の金融機関としての働きというものはかたわになっているわけであります。そうしてある一定の時期には非常に貯金がふえていく。その反面においては、農家は農林中金はなかなか金を貸さない、こういうような不平も起きてきておる。そういうような形でもって私は非常に金融機関としての機能を喪失しているのじゃないか、そういう点に私は国として
相当調節をしなければならぬ問題があろうと思います。この点は、私が今申し上げたのはそういう理由なんです。
それから、建物共済あるいは生命共済、こういうものによっての積み立てられた金というものは、これは莫大なものになった。これは金利という問題から離れるのですから、
考えようによっては。従って、これの利用という面を少し
考えて、国の今の二分利子補給というものを
考えますと、これは
相当安い資金が
農村に流れていく。同時に、
農村の方ではその共済その他に加入することを、そちらの方に流れることによって、還元することによってそちらの方に多く賛成をする、こんなような形が生まれてくるのじゃないか。これが
ほんとうの相互金融あるいは共済組合の金融に合致したものではないか、こういうように
考えますので、こういう点を十分にお
考えを願いたい、こういうことを申したわけです。
その次に私は、価格の問題で先ほどいろいろ
質問もございましたが、私も実は価格の問題で、需給均衡でもって農産物の価格をきめるというのでありましたが、これは今の市場で、自由市場でもってものがきまるという
考え方から一歩も出ないのでありまして、これでは農家が、品物薄でもって値段が高いから、そこで一年かかって作る、そうするとたくさん市場に供給されるので、今度は安くなる。安くなるから、今度は作らない。作らないから少なくなって、今度は値段が高くなる、こんなようなことを繰り返して、しわ寄せは結局農家に行ってしまうわけです。これでは価格の安定ということにはならぬので、安くきめるということにはなるかもしれませんけれ
ども。そういうような意味で、
政府のお
考えになっている価格の決定のやり方は、それは非常に農家には私は冷酷なやり方であると、こういうふうに
考えるわけです。だから、やはり主要なる農畜産物については生産の補償価格でもって価格をきめる、そうして一定の価格以下になったときには
政府は買い上げるとかその他の
措置を講ずる、こういうようなことを
考えなければ、国が
責任を持ってこの
農業基本法を進めるのだ、こういうことにはならないと思う。自然のままに放置して、そうしてなるがままにと、こんなような形でもって私はやられたのでは、これは何ぼ
政府が
基本法でもって、これは首相が先ほど言われたように、変更はしないのだ、こういうように高姿勢になられても問題にならぬと、こう
考えるわけです。だから、基本計画あるいは主要なものについての生産計画、そうしてできたものについての価格、それからそのできたものを加工してできるだけ加工益を農家に入れる、こういうような一貫した中に、私はやはり
農業協同組合をがっちりと中に入れて自主的な態勢でやれる、こういうようなことをやっていく。そうして
農業協同組合に対して
政府が強力な助長をする。そうして態勢を整えていくという形をとらなければ、自由放任の形で価格決定まで持っていかれるような露骨な自由主義経済のやり方でもって
農業をおやりになると、
農村の中で自由競争が起こって、そうして富んだ農家はできるかもしれませんが、その反面に自立できない農家がたくさんできて、そうしてかえって
政府が予想したところと全然反対の姿が起きてくるのではないか、こういうことを
考えますが、私はこの計画経済から始まって、そうして価格の問題についても生産の補償を原則にする、こういうような形でもって
政府があまり多く金を出さないでもそういうことがやれるという態勢は、私は自主的な
農業協同組合の調節、コントロール、こういうことをおやりになって初めて選択的拡大生産というようなものも私はりっぱなものになるのではないか、こういうように
考えるわけであります。
従って、そういうような点で、わが党の
法案は
農業協同組合を中心にしてやってきておる。そこで、もう少しこの点について
質問をいたしたいのでありますけれ
ども、時間がございません。そこで、先ほど協業ということについて、農林大臣、協業の方は精神的なものがあるので、共同の方には精神的なものがないのだ、こういうようなお
答えがございましたが、しかしこれは実のところ申すと逆じゃないかと思う。私
ども民社党の方の協同というのはコーオペラチブの協同であります。
社会党のは共という字の共同であります。これはコーオペラチブの方の協同には精神的なものがある。あの協業というのは、この前も申し上げましたけれ
ども、マルクスの資本論の第一巻第四編第十章でありますが、高畠素之の翻訳した字で、これを分業に基礎を置いたところの協業、単純な協業、こういうような
言葉で表現した文字であります。その文字をお使いになって、そうしてやられたのは、私は
資本主義経済の中におけるところの合理化を主張されるこの
農業基本法という意味から、私は協業という文字をとられたのは大へんうまい字を用いられたと、こう思うのでありますけれ
ども、これは精神的なものでなくて、物質的なものなんです。かえって精神的なものはコーオペラチブな方が精神的なものである。しかも、協業の中には、先日農林大臣がお
答えになったように、合名会社であるとか合資会社であるとか、あるいは有限会社、こういう会社系統のものもお含みになって、そして協業の促進、助長と、こういう
言葉で表現をされておる。私は加工益を農家に持ってこなければ、
格差の解消はできない、こういうふうに申しましたが、私はそういうような意味においても協同組合の形でやらなければ、私は文字は同じでありますけれ
ども、コーオペレーションという字を翻訳したにすぎないのでありますけれ
ども、どっちも同じでありますけれ
ども、われわれの協同化の促進の協同の方が実は
政府の協業よりもずっと精神的なものを含んでおると、こういうように
考えますので、この点は
一つ十分お
考えを下さいまして、われわれの案を
一つ支持を願いたいと、こういうふうに思うわけであります。
時間が参りましたから、私はこれで終わります。