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国務大臣(
河野一郎君) ただいま御引用になりました私の四月の中央公論に書きましたものは、その巻頭にも書いておきます
通りに、私は米に関する世間の注意を喚起したい。もう少し
食糧問題について大方の御議論を
一つ願いたい。
現状のままで、ただこの
現状に堕して進んでいくということでは困るのじゃなかろうかという
意味で私の
考えをそこに述べておるということをお断わりしてあるわけであります。従って、私はその当時、
農林大臣になって自分が直接この責任者になろうということは夢にも
考えていなかったことであります。だから、あとから
農林大臣におなりになる人はこういう点を十分お
考えになったらどうだというようなつもりで書いたのでございます。ところが、そこに一貫して
流れる思想は、
皆さん御
承知の
通り農業基本法の
精神を私は書いておるのであります。もちろん
農業基本法ができる前に私はそれを書いたのでございますけれども……。答えがいろいろ一緒になって恐縮でございますが、今回の私の構想を発表いたします際にも、今後の
米価のあり方はどうあるべきかということについてもどういう表現をしたらよろしいかということをいろいろ
考えました。私はなまいきなことを申し上げるようでございますけれども、
生産者に対して低
米価を要求するというような
考えは持っておりません、どこまでも。表現の仕方はいろいろあるでございましょうけれども、
農家がそれで
農家経済を維持できるということが
基本の原則だ。ところが
皆さんも御
承知の
通りに、
食管法に用いてありまする
米価決定の表現と
農業基本法に言うところのものとは違いがあるわけでございます。そこで一番近く院の
意思が発表せられた
農業基本法に言われるところの農産物の
価格、ことに米の
価格は、将来こうあるべきだという表現を私はしたらいいか、それとも現行
食管法にあるところの表現をした方がよろしいか、どっちがよかろうか。いずれにしても政治上のこれは定められたる表現であるというようなことも
考えましたが、まあ現行
食管法の表現をいたしておくことがよかろうというので、その表現を実は用いておるわけであります。しかし、いずれにしても、今申し上げまするように、その中に
流れるところの思想として、将来は下げてそうしてどうするつもりじゃないか、こうするつもりじゃないかということを御疑念のようでございましたが、そういう思想は私の
気持には全然ありませんということを申し上げて御了承を得たいのでございます。なぜか。たとえば今の一万一千五十二円五十銭という値段がきめられました際に、わが国のある農政学者もしくはそういったような評論家の
諸君等は、こういう高い値段をきめたならば
農業基本法の
精神がくずれるじゃないか、他の
方面に米作
農家の
諸君が変われと言ったって変われないじゃないかというような議論もだいぶ強かったのであります。これは
皆さん御
承知の
通り。しかし、私はそういうことはとらないのであります。この
米価が将来の
農家の
経営を再
生産を維持していく上において高い値段じゃない。必要最小限度の値段である。従って、この
米価をさらに上回って所得の増大するような新しい
農業経営をここにわれわれが造成するようにすることが
農業基本法の
精神なんであって、この
米価が
農業基本法の
精神を踏みにじるとか、この実行に支障を与えるというような
考え方は私はとらないということを申しておるのでございます。
考えておるのでございます。そういう
意味で御了承いただきたいと思うのでございます。
それから
やみ値云々ということになりますが、
やみ値は、これは御
承知の
通り、最近は
政府の扱います値段と、今ここに統計をちょっと持っておりませんが、非常にくっついてきております、だんだんに。これは
生産米価を上げたから
やみ値がついてきたのじゃないと私は思います。米の需給が順調になって参ってきておるということが、こういう
状態になってきたと思うのでございまして、しいて申せば
やみの
取り締まりが非常に緩慢になって
やみの米の
流れが、非常に流通がよくなってきたので、そこで米質その他について、米屋さん、
やみ屋さん等の努力もありましょうけれども、だんだんくっついてきておる。これが自由になったならば、今の
やみ値の傾向をさらに円滑にいたしまして、そうして
政府の扱う
米価との間に離れるということはないだろう。離れていく傾向をとるべきものとは私は
考えられませんと申し上げたのでございます。でございますから、特別の酒米が今よりも高く酒屋さんに買われるとか、すし屋さんが特別の米を集めて買ってくるとかいうような、一部の業種によってそういう特殊のものはあるかもしれませんが、
一般の大量の
やみ米の
価格は、そういう傾向はとらないだろう。特に一部で議論されているように、自由米が非常に上がるだろう、そのときはどうするかというような御
意見もございますが、私は
やみ時代の
価格を参考にして勉強してみましても、そういうことはあり得ない。しいて申し上げれば、私は現在の日本の全体の
消費者諸君の生活構造の中に、
米価に対する、米に対するウエートはどういうことになっておるか。それが生活費の中に響く程度の人はあくまでもこの配給米に依存されるだろう。従って、配給米に依存される人がどのくらい数があるだろうということが配給米の必要度を
決定するものであって、それを今でも、現に
全国平均して三割ぐらいの配給辞退があります。この配給辞退をされておられる三割ぐらいの人は、配給米ということを頭の中にそんなに
考えていない。生活費の中に米の占める大きさがそう大して大きく
考えていらっしゃらない人じゃなかろうか。それによって私は違ってくるのじゃなかろうかという実は見方をしておるのでございます。だから自由米の
価格が高ければ高いほどそういう人が減ってくる。減ってくれば自由米の
価格は上に上がっていかれない。これは
やみ米の当時とちっとも違ってないのであって、そんなに暴騰しないだろう、またそんなに下がるということもありません。
次に数量はどのくらい
考えておるか。私はおおむね八千万石、今多うございますけれども、平均して八千万石とれるといたした場合に、四割が自家
消費じゃなかろうか。これは過去の
経緯等から大体専門家の
意見を聞きましてもそういう
数字がおぼろげながら出てくるわけであります。そこで三千万石ないし三千二百万石ぐらいのものが自家
消費されているのじゃなかろうか。残る四千八百万石ないし五千万石ぐらいのものが
農家の手を離れて、それが
消費者の方向に
流れていっておる米じゃなかろうかという、おぼろげながら私は計算をしております。その中で
政府が扱っておりますものが半分の四千万石、そこで
やみ米が一千万石前後のものという計算が出てくるのでございます。ところがこれが今言う
通りに、私の
考えておりますようなことにした場合にどうなるか。私の見当といたしましては、
農家の手を離れたお米の中で、三分の二ぐらいが
政府の扱う米になり、三分の一ぐらいが自由米となって
流れるのじゃなかろうか。つまり四千万石の中で現に配給辞退をしていらっしゃる人
たちは自由米の方にいくのではなかろうか、こういう
気持がするのでございます。それこれいろいろ勘案いたしてみまして、まず三千万石から三千五百万石の間、こういう
数字——三千五百万石を上回るかもしれない
数字が
政府の管理する米になる、これはやる時期にもよりますけれども、おくれて通常
国会でこの法案が通ることになれば、そういうことは完全絶無ということになるでございましょう。こういう
考え方で実行した初年度において出てくるところの
数字が私が今申し上げたように現に
やみ米として流通をいたしております一千万石に加わるものが三百万石から五百万石加わる。そうして一千五百万石くらいが自由米として取引されるだろう。
政府の扱うものが三千万石ないしはその前後だろう、こういう見当をつけておるわけでございます。それが実際の動きとして
一般の
消費者の
諸君の中にも
消費者価格を上げちゃいかぬ、ぜひ自分は配給に依存していきたいという意欲の
国民諸君が、私は
政府の三千万石くらいのものを対象にしておる者がいらっしゃるのではなかろうか。これらの人は、今私が申し上げますように自由米
——やみ米を自由に切りかえたところで、やっぱりそれらの
諸君は
政府の配給米によられる人である。従って配給米の
価格の据え置き、配給米の数量はその程度にあるべきものだとこう
考えて、同時にそれを強く依存しない
諸君のものまで
政府が扱う必要はないんじゃないか。それは非常に強い強権をもって自由な
状態を取り締まっていくということは
考えておらぬ。あまり長くなりますから……。
食料の需給につきましては、私は
最初に申し上げましたように、
現状の八千万石前後のものが
国内で
生産され、そこに麦の二百万トン、千二百万石米に換算したものが輸入され、それに外米がごく一部輸入されることによって現在の
状態が維持されております。これを意欲的に積極的に変えていくということは、これはだれがやったところで
生産者の
方面から変え得べきものでもなければ
消費者ばかりでいけるものでもない。おのずからそこに食生活改善の問題が御
承知の
通りあるわけであります。また景気不景気によっても変わります。ことに私が
考えますことは、戦前の
食糧政策と違いまして、米というものは
食糧の大本でない、そこには申し上げますように外麦の千二、三百万石というものが入っておるわけであります。これが相当に大きなウエートを占めております。つまり、くどくなりますが、
政府が管理いたしております四千万石、一方において、もちろんこれは
政府がやっておりますけれども、配給と別に麦で置きかえまして、外麦だけで千二百万石、内麦も入りますが、
政府が管理いたしておる内麦を入れれば、おそらく一千五百万石ばかり
食糧として自由に
流れております。それに現に
やみ米という一千万石というものが自由に
流れておるということになりますと、現に今でも二千何百万石というものが自由ないしは
やみの格好で
食糧の大きな要因を占めておるということでございますから、簡単に米の
消費がどう、米だけで需給換算をしてどうこうというわけにはいきにくい。とれらが麦が米になりかわることは
——一ころは、どんどん麦がふえていってだんだん米の
消費が減っていった。それが最近は今米の
消費が幾らか持ち直してふえて参りました、そういうようなことでごさいますから
——これもそう簡単に
一つ計画だけでいくことは無理じゃないか。
需要に合わすように
国内で作っていくということは、これは必然的にやらなくちゃならぬことである。今御指摘になりましたように、中央公論にこう書いたじゃないか、そういう
需要とは全然別個の観点から、その前にも書いてあります
通りに、日本だけを
考えてやるのでなしに、東南アジアくるめて
経済上のアジア共栄圏というような
——誤解があるといけませんから、戦争中の
考えではございません
——いわゆる欧州共同体というような
意味においてアジア
経済圏というようなものでも
考える場合には、そういうような事態も
考えなければならぬのじゃなかろうか、全然別の要因から
一つの課題としてうたったのでございまして、今さしあたり
現状の世界情勢におき、
現状のわが国の政治情勢におきましては、これを今申し上げましたように
需要と
供給の
関係、貿易の
関係等を
考えまして、
国内で米の八千万石というものを基盤において
考えなければならぬことは当然じゃないかと
考えておるのであります。