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西村(関)
分科員 本日この
機会を通じまして、
総理がおいでになりますならば
総理にお尋ねをし、お願いをいたしたいと思っておったのでありますが、おいでになりませんから、
外務大臣にお尋ねをし、お願いをいたしたいと存じます。
そのケースは、川北友弥と申します
日本人が、今なおサンフランシスコ湾頭のアルカツラ島の国立刑務所に終身刑として収容されておる問題でございます。このことは大臣も御存じだと思いますが、一通りこの事件の内容を申し上げて大臣のお考えを承り、またお願いを申し上げたいと思うのであります。
私は一昨年の夏、北米合衆国のキリスト教会から招かれまして、約二カ月
アメリカの各地を旅行いたしましたみぎりに、はからずも川北君のことを聞いて、何とか彼に会って問安をいたしたいと存じまして、旅程の一部をさいてこの島に渡って彼に面会をしたのでございます。そのとき私は直接彼から事情を聞きまして、何とか彼を助け出す方法はないものだろうかと深く心に期するところがございまして、今日まで微力ではございますが、いろいろな手段を講じましてそのために努力をいたして参りました。
川北友弥君は、今から四十年前、一九二一年に
アメリカに移住いたしました今はなき川北弥三郎、ともの長男として生まれたのであります。友弥は一九三九年ロスアンゼルスのハイスクールを終えまして、
日本で大学教育を受けるためにその年に
日本にやって参りまして、父の前からの知り合いであります三木武夫氏の宅に身を寄せまして、書生として働きながら日米学院において
日本語を習い、翌一九四〇年に明治大学の専門部の経済学科に入学をいたしました。その翌年の一九四一年に太平洋
戦争が勃発いたしまして、友弥は敵国外人として扱われ、非常な苦境に立たされましたが、この際
日本人となるか米国人として過ごすか悩みましたあげく、明治大学卒業前の一九四三年に
日本人となり切るということを決意いたしまして、同年の三月八日、父母の本籍地におります叔父の川北弥左衛門の四男として入籍をいたしまして、
アメリカの国籍を放棄したのでございます。その春卒業と同時に、森暁氏が社長をいたしております
日本冶金工業株式会社に入社いたしまして、京都大江山の同会社の工場に働いておりました米英両軍捕虜の通訳と相なったのでございます。
一九四五年に終戦になりまして、その翌年友弥は
戦争のため七年も会わなかった父母や妹たちの待っておりますロスアンゼルスへと飛んで帰りました。このときの帰国の手続はすべて米国人としてなされたのであります。ここに彼の誤りの
一つがありまして、このことが後に彼をとんでもない不幸に陥れるもとになろうとは、少しも考えなかったのであります。
彼は加州大学に入学も許可されまして、新しい生活に非常な希望を抱いて準備をいたしておりましたが、ある日ロスアンゼルスのあるデパートで買いものをいたしておりますときに、そこで偶然京都の捕虜収容所に収容されて労働をしておりました当時のGIたちとばったり出会ったのであります。たちまち彼はそこで彼らから罵倒せられ、なぐりつけられまして、官憲に突き出されてしまったのであります。友弥はロスアンゼルス市の連邦保安官に保護されましたが、そのとき、私は
アメリカ人だと叫んだのであります。それが彼の第二の誤りでございました。
その場で反逆罪、捕虜虐待罪で告発され、ロスの加州刑務所に投獄せられました。裁判の結果、陪審員、全員有罪、絞首刑が宣告せられました。もちろん友弥の父弥三郎氏はほとんどその全財産をなげうってあらゆる努力を払いまして、いろいろな弁護士を頼みまして法廷で争ったのであります。この法廷の記録も私はここに持っておりますが、もと捕虜たちの法廷の証言は、バケツの水を片手で運搬したといってなぐった、たばこを盗んだ、カン詰めを盗んだといってなぐった、こういう申し立てをいたしておるのであります。たといそうようなことがあったといたしましても、当時の状況から上級将校の命令でやったとも思われる。いわば友弥は太平洋
戦争の一人の犠牲者にすぎなかった、こういうことがいえると思うのであります。反逆罪審理のかぎとなりました国籍の認定におきましても、裁判官は二重国籍者といたしましたが、これに対して弁護団は、米国国籍法と
日本国籍法の解釈から、当然
日本人であると主張いたしました。ところがさきにも申し述べました友弥の不用意な入国手続と、とらまえられましたときに、私は
アメリカ人だ、と言ったことが災いいたしまして、最後まで彼の
日本人であるという主張は聞き入れられなかったのであります。この事件に関しまして、後に同じ二世であるマイク・マサオカ氏も新しく弁護をかって出まして、いろいろ努力をしてくれましたが、一九五二年の大審院の判決も第一審を支持するという結果に終わったのであります。父弥三郎氏は、この判決を聞きまして、力を落として病床に伏する身となって、ついにうわごとのように友弥のことを言いながら不帰の客となりました。せめてもの父弥三郎氏にとっての慰めば、このときの判決は有罪四、無罪三というふうに分かれたことでございました。
友弥は、アルカウラ島の国立刑務所に収容せられましてから、このような悲運の中にあってキリスト教の信仰に入りました。朝夕聖書を読み、祈りを常とする生活に導かれて参りました。このような状態に対しまして、
アメリカ合衆国におきましても、減刑運動が起こりまして、特に宗教界から起こりまして、いろいろな形の署名が当局に届けられました。また当時
日本国内におきましても、三木武夫氏が中心になられまして、衆参両院議長や明大の同窓会、その他の郷里の方々等が彼の助命嘆願をいたしまして、努力をせられました結果、アイゼンハワー
大統領は、
日本の対米感情を考慮いたしまして、助命を聞き入れて、その年の秋、一九五四年の秋に、終身刑とすることにサインをいたしました。
一九五五年の三月には、母のともさんが
日本に参りまして、何とかむすこを釈放していただくようにお力添えを願いたいと、当時の
岸総理、藤山
外務大臣に減刑釈放の嘆願をいたしました。そのような東奔西走いたしておりまする間に、そのお母さんは過労のために倒れまして、四月七日に三重県の四日市で世を去りました。友弥のことを頼む頼むと言いながら、この世を去ってしまったのであります。それから三カ月後に妹の夏子さんも
日本に参りまして、各方面に嘆願いたしまして、釈放運動をいたしましたが、目に見えるような効果がなかったようでございます。
私が一昨年の夏、このアルカウラ島の刑務所を訪れましたときに、友弥と約一時間半にわたって防弾ガラスを隔ててマイクロフォンを通じて話し合ったのでございますが、彼は目に涙を浮かべて喜び、もしも私が釈放されるならば、
日本に帰り、
日本人として働きたい、真の日米親善のために役立ちたいということを強く訴えておりました。このアルカウラ島刑務所の所長のワーレン・パウル・マリガン氏も、彼は模範囚で、所内の病人の世話係をやってもらっておる。また懲罰を受けた受刑者の世話もしてもらっている。非常にりっぱな模範囚であると申しておりました。また加州知事のブラウン氏に会いましたときにも、自分の所管事項ではないけれ
ども、私信を
大統領に送って、あらん限りの努力をいたしましょうと約束をしてくれました。私は何とか彼を救い出すことができないものであろうかと考えまして、在米の日系の
人たちともいろいろ相談をいたしまして、帰国後国
会議員の方々にお、願いいたしまして、釈放嘆願の署名を集めることに相なりました。皆様方の多大の御協力を受けまして、昨年の五月の初めごろからこの署名を集めることを起こしまして、ちょうど時あたかも新
安保条約の批准をめぐって物情騒然たるただ中にぶつかりましたが、これを続けまして、衆議院におきましては、清瀬議長を初め自民党の方五十二名、
社会党八十三名、民社党の方四名、無所属一名、計百四十名、参議院におきましては、自民党三十八、
社会党三十五、民社党六、無所属四、緑風会二、計八十五名、合計二百二十五名の方々、並びに
日本における諸教会の指導的な
立場にある人約三百名の全く自主的な御署名をいただきまして、それを一括いたしまして、昨年の七月二十五日にこれを携えて
アメリカ大使館に参りまして、キッド政治
部長に手交いたしまして、
大統領あて伝達を依頼したのであります。それらは民間情報局を通じて
大統領の手元に届けられたのでございますが、その結果は、やはり
大統領の任期期間中二度の減刑は例がないということで、いかんともしがたいという丁重な返書を寄せられたのであります。
私は池田
総理並びに小坂
外務大臣にお願いしたいのでございますが、承れば、大臣は
総理とともに来たる六月に
アメリカ合衆国においでになり、
ケネディ新
大統領に会見をなさって、重要な案件について協議せられる。何とかそういう
機会に、このあわれむべき
戦争の一犠牲者、われわれの同胞の一人であります川北友弥のために、
ケネディ大統領に釈放嘆願の労をとっていただくことができないものでございましょうか。もちろん米国の国法によってさばかれたものでございますから、内政干渉にわたるような言動はわれわれとしても慎まなければならないことは申すまでもございませんが、以上のような事情にあるケースでございますから、新
大統領におきましても何とか特別な計らいがなされるのではないか、かように考えまするので、大臣におかれましては
総理と御相談いただきまして、彼が釈放されるような道が開かれるように、
アメリカの最高首脳部、特に
ケネディ大統領とお話し合いをしていただく、そういう御努力を願えないものであろうか。このように存じまするので、こういう
機会をはいただきまして大臣の御
所見を承り、お願いを申し上げたいと思う次第でございます。このことは、ただに川北友弥君一個の、また彼の安否を気づかっておりまするところの三人の妹たちのためだけではなくて、
日本国と
アメリカ合衆国両国人民の真の友好のためにもこの際とらるべき処置ではないかと考えるからでございます。大臣の御
所見を承りたいと存ずる次第でございます。