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高津委員 今までの御答弁で、今回の事件のために国際的には
国辱である。
国立博物館が
にせものを買い上げて、数年すると今度はそれを
重要文化財に
指定する。
外国から見て非常に不名誉なことだと思う。私はそう申し上げたのです。それからまた
日本の骨董店から、これは
鎌倉時代のものだといってアメリカ、フランスその他に買って帰って、向こうで科学的に
調査してみると、これは風化現象は見られるが、人工風化であって自然の何百年のそういう風化作用ではないということがわかって、
日本の商業道徳まで傷つけられることになるわけですよ。それからまたむろん
国立博物館で買い上げるのは、租税をそういうふうに
乱費してはいかないのだと思います。私はこれは重大な悪いことだと思います。
もう
一つ、第二に私が伺って、そうして同意をもらったのは、
わが国の
文化財の
権威を傷つけた。今後
重要文化財といっても国宝といっても疑ってみねばならぬ。ある程度の疑いの雲をかぶったことになったと思います。
それから第三には、
文化財保護委員会も信用を落とし、
国家の
重要文化財の
指定ということも非常に
権威をそこなうことになった。
私は三つ言いましたが、それで今度は
河原委員長は一昨日の当文教
委員会において、私が
小山という人は薩摩焼の
研究で大きな問題を起こした人なのだ。もう
一つ修武窯の問題という中国の窯跡の問題で実に大問題を起こした人だ、こう申し上げたら、そのことは
自分は知らないが調べてみる、これは非常に公平な
態度と私はそこのところだけはいいと思って御答弁を聞いたのですが、しかし
小山さんに対して、もっと私は
査問し厳重に調べられなければならぬと思うので、第四の修武窯の問題をここに資料がありますから、それは一番大事な部分ですから、やはり速記にとどめてそれを必ず参考にしてもらいたいと思うんです。「
日本美術工芸」の百五十九号です。四十八ページ、館林唐一郎という評論家が書いたものでありますが、「
小山氏の頭脳的小手先の器用さを以て堂々たる”北宋の修武窯”という
研究発表となったのに対し、たまたま内藤氏の科学者としての忠実さが、
小山氏発表の誤りに痛烈な学術的打棒となり、また久志氏が同じく
小山氏発表に真向うから立ちあがって、その陋劣さを叱正する大打棒を放ったもので、破紋は未曾有の深刻さを加え、陶磁学界の大問題として発展したのである。」これはこの当時問題の大きさをこのように見ておるんです。それから「
小山氏はこれを前人未知の埋もれたる名窯修武窯なりとして、文章に或は講演等により、頗る派手に宣伝し、定窯や南支の焼物を除いた、北宋時代の名器の殆ど全部は、この窯から出たものとした。言い換えるならば、マジック的な空想によって支那第一の名窯を作り上げ、この埋もれたる名窯の
紹介は、
小山氏自らの独壇場であるかの如き印象を一般に植え付けたのである。
小山氏のすばらしい発表文を見た
博物館や出版業者などは、慌てて名器の名を修武窯と改めてしまった程であった。ずっと名前をつけかえてしまったのである。それからもう一点学者がどのように見ているか。同じ館林氏の文章の終わりに五カ条に要約している。「
小山氏は、(1)磁州窯という支那の一大名窯の
一つを抹殺するに等しい提案をなしたこと。(2)磁州無手の名品はいうに及ばず、宋赤絵、宋三彩、均窯、汝窯等の北支の北宋時代の名品は定窯を除いては殆ど凡て修武窯のみの所産とし、支那第一の名窯修武窯なるものを作りあげたこと。(3)このかくれたる名窯修武窯の
紹介者として自らの(
小山氏)ありもしない業績を大々的に宣伝したこと。(4)
小山氏の所網修武窯は、元来カールベック氏の
紹介した焦作窯そのものであるが、その焦作の名に屁理窟をつけて、先ず修武窯と改名し、次ぎにカールベック氏の論文は『読んでも疑問の点多く、修武窯の概念も得られず、これを発表すれば害を後世に残す恐れあり』などと極端な
言葉を用いて、カールベック氏の
報告を葬り去ろうとしたこと。(5)
小山氏の翻訳は、誤解、独断に満ちているばかりでなく、カールベック氏
報告文に虚構の事まで附け加え、カールベック氏の意見は成っていない、と極力攻撃していること。この五点を振りかざして
小山氏は“修武窯創作”に懸命な立廻り演劇を展開したものである。以上の五点は、内藤、久志の両氏によって、或は鋭く、或いは軟らかく、或は明瞭に、或は暗示的に
指摘されたにもかかわらず、
小山氏は一切の答弁を避け、頬被りを押し通しながら、その裏に廻って、妄想の産物たる修武窯の宣伝に汲々如としているのは、更に大打棒を加える必要あるやに思われるのである。」こんなことではもっとも
一つとたたかねば、これはどうしても
日本ではほおかむりして全然黙っておるだけなんです。そうして静まるのを待つばかりなわけです、この人の手は……。そこで
外国の方がやかましくなった。
外国の方ではこういうように書いているのですよ。ボストン
博物館から出しているファー・イースタン・セラミック・ブレッチンの一九五二年十二月号なんですが、カ−ルベックという人が「
小山氏は県の名を取って焦作窯を修武窯と呼ぶ。その理由は“支那の地図にも地名字典にも焦作はないからだ”というが、私の持っている二つの支那の地図に焦作は載っているから
小山氏の理由は理由にならない。元来焦作窯の名は窯の発見者で且つその破片が金になることを村民に始めて知らせたスワロー氏が名付けたもので、ホブソン氏も一九三七年に既にこの名を用い、大典
博物館もこの破片に長い間焦作窯の名をつけているから、これを固執すべきである。」と書いておる。そうしてまたファー・イースタン・セラミック・ブレッチンの編集者はこういうことを言っているのですよ。「焦作窯を(一番近い部落の名をとって)修武窯(非常に離れている県庁
所在地の名をとって)などと呼ぶので混乱が起った。
小山氏が支那の伝統に従って県の名を使って焦作窯を修武窯とすべきだということは地理上一応言訳は立つように見えるが、焦作窯の名はスワロー、ホブソン、カールベックが既に用い、修武窯より十七年も先きから名が確立している」と書き、
小山氏にも一文を求めて、そうしてその雑誌に載せている。それはこの間読んだ謝罪文なんです。
小山さんは
外国に対しては謝罪文を書くが、国内ではまるでほおかむりするというのは、これは大へんなことですよ。これは
小山さんに関する、あの人を裁く場合に逸してはならない第四の重大な点、そういうように私は
考えます。
ここでちょっと
質問に切りかえますが、
河原委員長はこれをどう思いますかね。好ましい
文部技官だと思いますか、やっぱり悪いことをしているなと思いますか。