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安井(吉)
委員 そういう保障はあるのですよ。
行政権限によって
検査が行なわれた、それに対する保障の道は確かに開かれております。しかしながら、だれもしていなのですよ。ということは、結局
税関での
検査の際にそこで妥協が行なわれる。つまりここだけ切れば通してやるというふうな妥協、あるいはまた、さっきこれも私は初めて聞いたのですが、二本きて、こっちの方なら通してやる、こっちはだめだというので、持ってきたうちで一本だけ選択的に通っていくというふうな
やり方、そういうようなことで、明らかに、言論の自由といいますか、そういうようなすべてのものがそこでひっかかってしまっている、こういうような点であります。しかも、現在の
段階では、風俗を害するものといったようなところだけにウエートを置いておられるわけですね。しかし、先ほ
ども、公安を害するといったような規定は現在まで適用した例がないというふうに言われるが、これを今度削るというお気持ちはないということもお聞きしたわけであります。そういうことになれば、この規定があることによって、われわれは、いつの日か、その公安を害するという規定のおかげを受けないとも限らないわけです。だから、われわれは、まずそういうふうな規定の置き方から問題を提起しているわけであります。今ある
関税定率法を是認する
立場から、それを何とかして合憲的なものと
説明しようという御
努力ではなしに、私
どもは、全く自由な
立場から、この再編の自由という大きな法益をどういうふうにして守るか、そのためには今のこの規定は立法技術の上からいって問題があるのではないか、そういう言い方をわれわれはしているわけであります。この
検査手続に対する憲法解釈等の問題の進め方についても、憲法の解釈というものは何か弾力性があるような言い方がいつもされるわけです。だから、たとえば憲法第九条と自衛隊との
関係だとかいったようなことも、憲法の規定なんというものはあってもなくてもいいような、ただ単に現在実定法としてあるやつを何とか解釈上まるめ込んでいく、そのための
一つのよりどころみたいに今なっているような気がするわけです。
というのは、今の
関税定率法のこの規定は、新憲法になってからできた規定じゃないわけです。ずっと昔からあったやつをそのままただ引き継いでいるわけです。文章の言葉の書き方も、かたかなで書いてあったのをひらがなに直しただけです。旧憲法時代にあったやつをすっと引き継いできているわけです。新憲法が言論の自由をきわめてかおり高い規定で前文までくっつけて守ろうとしている気持が、私はこの
一つの立法のあり方の中にかき消えていくような気がするわけでございます。こういうような問題につきましては、憲法学者のいろいろな学説を調べてみますと、本が重いから抜粋して参りましたけれ
ども、たとえば宮澤俊義教授の
法律学全集第四巻「憲法Ⅱ」というやつにも、「
関税定率法は、
税関長に「公安又は風俗を害すべき書籍、図画」などの輸入を禁止する権限を与えたので、これにもとづいて、
税関長は、輸入書籍や、輸入映画の検閲を行っていた。この規定は、検閲を禁止する
日本国憲法第二一条に反するから、
日本国憲法の施行とともに、その効力を失ったものと見るべきである。しかるに、国会は、そうは解せず、一九五四年のその
改正において、この規定を削ることをせず、(中略)現に輸入書籍、輸入図画の検閲を行っている。」と国会の不認識をここで
一つなじられております。「検閲を禁ずる趣旨が
日本国内において発表される言論を、その発表に先立って、審査することを非とするにある以上、この検閲が憲法第二一条の禁示する検閲に該当することは、明白である。」と宮沢さんは言っている。これは宮沢さんのどの本を調べてみても、みんなそういうふうに表現されております。有斐閣全書のやつも、コンメンタールの「
日本国憲法」も、どちらもそういうような書き方をなされております。それから、早稲田の有倉遼吉教授は、これは警察時報の二十四年の六月号に書いておられますけれ
ども、「
行政権の場合、その性格から簡易迅速に
処理されるし、権力背景での強制であること、
行政統制が必然的に事前関与の形となる」こと、この二つの理由をあげて違憲性を
指摘しておられます。そうしてまた、「上映」という「そのことが表現の自由である」とも言っておるし、だから「映倫の自主性にゆだねるべきである」と主張されております。
それから、岩波全書の鵜飼信成教授の本には、「憲法は第二十一条第二項に、通信の秘密の保護と結びつけて、「検閲は、これをしてはならない。」といっているが、第一項の保障する表現の一般的手段についても、検閲が許されないことは、論理的にいっても疑いをいれない。この点で問題になるのは、
関税定率法第十一条の規定で、」――これはもちろん旧法の引用だろうと思いますが、「十一条の規定で、
税関長に「公安又ハ風俗ヲ害スベキ書籍、図画、彫刻其ノ他ノ物品」の輸入を禁示する権限を与えるということは、検閲を許すことになるであろう。
税関長のこの権限は、明治憲法の下においてさえ、すでに問題となったもので」――これは末弘厳太郎教授の「嘘の効用」そのほかに引用されております。「その同じ規定が、
現行憲法の下で、そのまま効力をもっているとはとうてい
考えられない。」と言い切っておりますし、成渓大学の佐藤功教授も「封切前において
行政機関が見るのは、どんな理由をつけようと検閲だ。」第一
外国映画だけで
日本映画を検閲しないのはおかしいじゃないか、こういうふうな言い方をしております。
それから、東大の伊藤正己教授は、この人にはアメリ方法を素材としての「言論、出版の自由」という労作もありますが、最近の雑誌「ジュリスト」の四月一日号に、今度のこの問題を扱って、「
税関検閲と憲法二十一条」という表題で、副題は「
関税定率法二一条の
改正」というようなことで、こういうふうに書いております。「昨今の表現の自由の縮減ムードのなかで、このような検閲制にはっきりした法的評価を下しておくことはとくに必要ではなかろうか。」こういうような問題の出し方をして、「ことを
手続面のみからみるときは、
改正案は、提案者にとって、反対の理由がないと主張されるだろう。しかし問題はこの改善の背後にあるものである。
手続の公正もさることながら、権力的規制の実体が、ことの中核でなければならない。もし実体が憲法に反するものであるときは、規制の形式面である
手続をいかに公正にしても、それを合憲化することができないことはとくまでもない。わたくしは、
改正案に含まれる改善のうらに、映画の
税関検閲そのものの実体の違憲性、あるいは少くとも違憲の疑いを隠蔽する意図がかんぐられてならない。」
これは、私の狭い最近調べた範囲でも、こういったような言い方がされているわけであります。これらの学者の説は、法制局に言わせると、少数学説で、そんなものは意に介する必要はないと言われるかもしれません。しかしながら、これだけ問題が取り上げられているという事実だけは、これは十分にお
考えをいただかなくてはならないと思うわけでありますが、これらの問題について御見解を
一つ伺いたいと思います。