○伏見康治君 お呼び出しを受けまして、今おっしゃいました二つの
法案についての
意見を申し上げることになるのでありましょうが、その方面に関しまして、私は特にその
専門家でもございませんし、的確なことを申し上げる柄でないと存じておるわけでございます。しかし、一方、同じ
原子力に関連いたしまして、
原子炉安全の
基準部会の方の仕事をさせていただいておりますので、その方との関連でこの
原子力損害賠償に関しましても一応の関心はございますから、その方の関連から見ましたことを二、三申し上げてみたいと思います。
原子力というものが、もともと
原子爆弾から生まれましたように、ほかの科学的エネルギーのようなものに比べますと、けた違いに非常に大きなエネルギーでございますために、それの扱い方によっては、非常に人類の役に立つ方にも使えますと同時に、使いそこないますと大きなやけどをする、そういう
性格のものであるということは、いまさら申し上げるまでもないことでございます。
原子力の安全をはかり、いかにして人類の幸福のために使いこなしていくかということは、これは決して簡単な問題ではございませんで、科学技術的に十分いろいろな面を研究し、その上に初めて
原子力のほんとうの利用というものが始まるわけでございますので、原戸力の安全を守るためのいろいろな準備といったようなものは、
原子力そのものを国が推進しようとする限りにおきましては、非常に大切な問題になるわけでございます。
原子炉の安全性を守りますためには、
原子炉ばかりではありませんで、それ以外のいろいろなものがあるわけでございますが、話を
原子炉に一応限定して申し上げたいと思うのでございます。
原子炉の安全性といったようなものを考えます際に、
原子炉の正常
運転におきましてもいろいろ
問題点がございましょうが、しかし、十分によく設計された
原子炉でありますれば、その正常
運転ですでに問題が発生するというようなことは、もちろん皆無ではないでございましょうが、一応二次的な問題と考えてよかろうと思います。
原子炉の
事故に伴ういろいろな
損害というものが問題になると思いますが、
原子炉の
事故を考えます場合に、その
事故の大きさというものにはいろいろなものが考えられる。非常に小さな華故から非常に大きな
事故までいろいろなものが考えられるわけでございますが、
原子炉に関連いたしまして、皆様の御関心を特に浴びております点は、非常に大
規模な
事故が起きて、非常に多くの
方々に御迷惑をかけるといったようなことが起こるのではないか、その点で
原子炉に対する
災害、
損害問題というものが特に問題にされているのだろうと思います。小じかけな
事故といったようなものでございますれば、これは何も
原子力に限りませんで、それ以外のいろいろな機械にも付随して起こるものでございまして、
原子力だけが何か特別扱いをされなければならないということにはならないと思うのでございますが、
原子炉の場合には、その潜在的な
損害の中で非常にけたの大きなものがある。そのことが特別視して考えられなければならない
一つの大きな点であろうと思います。
原子炉に起こりますいろいろな
事故といったようなものは、どんな
事故が起こるだろうかということを考えていきますと、それはいろいろ
考え方にもよるおけでございますが、ただ起こるか起こらないかという可能性のほかに、こういうものを考察いたしますときに、私たちは、そういう
事故が起こる確率と申しますか、そういうことの起こりやすさといったようなことについても十分考慮しながら議論を進めていかなければならないわけでございまして、
事故の大きさ、それと、起こる確率というものをいつも並べて考えていく必要があるわけでございます。大きな
事故になりますほど、当然そういう
事故は起こりにくくなるはずでございまして、小さな
事故でございますれば、ある
程度ひんぱんに起こり得るということになるのでございましょうけれ
ども、この
損害賠償の
法律で問題にされておりますような非常に大
規模な
事故というものは、まずめったに起こらないものということが
最大前提になるわけでございます。そういうふうに
原子炉そのものがまず作られていなければならないことは当然なことでございまして、また、実際そういうふうに作るということは、十分可能なわけです。絶対に
原子炉を安全にしてしまうということは、絶対という言葉の
意味にもいろいろ依存いたしますけれ
ども、哲学的な
意味での絶対な安全性というものは、私たちは、神様でない限り不可能なことであろうと思うのであります。そうかと申しまして、絶対には安全でないということは、多くの
方々には、
原子炉というものは非常に危険であるといったような印象を与えてしまうということも、否定できない要素でございます。それで、たとえば
一つの
原子炉を十年なら十年の長い間
運転いたしまして、その間に一回も
事故を起こさない。しかし、同じ
原子炉を十個なら十個作って並べて
運転いたしますというと、それ全部を十年なら十年
運転いたしました結果、その中の
一つがたまたま
事故を起こすというような
程度の、そういう
程度の確率といったようなものが考えられるわけなんでしょうが、その
程度でございますれば、私たちのそれに対処する仕方というものは、ただそういう
事故が起こらないようにするというだけでは話が通じなくなってくるわけでございます。と申しますのは、非常にまれにしか起こらないそういう
事故に対しまして、その
事故が絶対に起こらないようにするということは、
原子炉に対するいろいろな安全装置のしかけというものを非常に大げさなものにいたしまして、実際問題として、
原子炉の利用というものをその面からつまずかせてしまうというようなたぐいのものにするおそれがあるわけでございます。従って、ある
程度の確率の小さな
事故に対しましては、私たちは、それを、確率というものと、それから
事故の大きさというものをかけ合わせたような量で判断すべきものであるというふうに考えられるわけでございます。もし、その
原子炉の
事故というものが、よくしろうとの
方々が御想像なさいますように、
原子爆弾のようなものでございまして、それが爆発いたしましたときには何十万という
方々が一時になくなってしまうというような、そういうたぐいの潜在的な
事故でございますれば、これは確率が実はいかに小さくても、そういう装置というものは許さるべきものではないということになると思うのでありますが、幸いにしてそういうふうな取り返しのつかない
事故というようなものは、現在の
原子炉では全く起こらないと断言してよろしいわけでございます。
原子炉の
事故で相当大きな
災害が起こると申しましても、そういう
意味での
災害ではなくて、非常に広範にわたって
放射能を浴びるという
意味での
災害というものは、いつも問題になるわけであります。直接の爆発効果とか、あるいは焼夷効果といったようなことによって、
原子爆弾と同じような
災害を国民に与えるといったような面は、全然私たちは想像しなくてよろしいわけであります。そういう、非常にまれであって、しかも、それが起こりましたときに起こる
災害というようなものが、ある
程度の人々に
許容量以上の大量の
放射能を浴びせるかもしれない、そういう現象に対しましては、それを絶対に起こらないようにするという技術的な工夫、そういうものは、もちろん絶えずしなければならないわけでございますが、現在考えられる限りの技術の面では、それを最後のところまで絶対起こらないと断言することが不可能なような状態に置かれておりますために、私たちは、そういうことが万一起こったとしても、なおかつ、国民のそういう
被害者の
方々にあとから何らかの
意味において
補償するという、そういう手だてが必要になってくるというように考えるわけであります。つまり、考えられる非常に大きな
事故が起こりましても、そのあとで適切な手段を講ずることによって、実際上の
損害をなくすことができるような、そういう
事故であるならば、その
原子炉は作ってもよろしいというのが根本的な
考え方ではなかろうかと思っております。
原子炉の安全
審査をいたします場合の根本の精神というものは、そういうところにあるわけでございます。非常に極端な想像をいたしますれば、相当大きな
原子炉の
事故によって相当広範囲に
放射能をまき散らすということが考えられるのでございますが、その場合にも、まき散らしたために、たとえば、その強い
放射能を浴びたために即死なさるような方が莫大な数に上るといったような、そういう
事故がほんとうに想定されるものといたしますと、私
どもは、その
原子炉を作るべきものでないと考えるわけなんでありますが、ただその
放射能が降って参りました場合に、たとえばある地域に住んでおられる
方々に一時退避していただくというような方法によって、その方の安全性を守ることができるというような、そういう
程度のものでございますならば、そして、そういうことが先ほど申し上げましたような
意味においてきわめて確率の小さいものであります限りにおきましては、そういう
事故を潜在的に持っているような
原子炉は許されるのではなかろうか、そういうふうに考えております。問題は、そういう
事故が起こりましたときに、あとで、たとえば退避させるといったような、そういう手段によって、要するに、とにかく全然お手上げになってしまうといったようなことのないような範囲内で、物事をいつも考えていきたい、究極の手段というものは、必ず何か手があるのだというところに最後のだめを押して、私たちはものを考えていきたい、こう考えているわけであります。
しかし、そういうことを私たちの頭の中で想定しておりますだけでは、実際そういうことが起こりました場合に適切な措置がとれるかとれないかという第二の問題が当然起こってくるわけでございますが、それは確率の非常に小さなことではございますけれ
ども、関東大震災であるとか、室戸台風であるといったような、そういう
程度の
災害であるかもしれないわけであります。そういうときに適切な手段がとれるように、ふだんからいろいろな
意味で準備されていなければならないと思うわけでありますが、その準備の中の
一つの手段として、こういう
補償保険というような制度をお作り置き下さるということは、
原子炉の安全性の最後のだめ押しをするという
意味において適切なことであろうと思っております。
この
法案それ自身につきまして、私は、
保険の方のことについても、あるいは
法律的な面につきましても、全然しろうとでございますので、特にこまかい点についてどうということを申し上げる資格は全然ないのでございますが、ただ二、三心づきました点を申し上げてみたいと思うのであります。
その
一つは、
放射能による
損害ということが、この
法案の説明にもございますように、いろいろな
意味で特殊な性質を持っている。たとえば、だいぶたちましてから、その方の気がつかなかった、もう忘れてしまったころになってから
放射能障害が起こってくるといった、そういう特別な
性格があるのでございます。そういう何年かたってしまってから
放射能障害に当人が気づかれまして、そこで初めて
損害賠償を請求されるといったようなことは、そういう形でも行なわれないことはないとは思うのでございますけれ
ども、もし、ある限度
放射能を浴びられたということが客観的に証明される場合には、もうそのこと自身をもって
損害を受けたというふうになさるということの方が、いろいろな
意味で話をすっきりさせるのではないかと私は一応考えるわけでございます。このことは、そもそも
原子炉の安全性を守ります上におきまして、一番根本になる
放射線の被爆に関します
最大許容量という概念がございますが、その概念と通ずるものがあると考えるわけであります。
最大許容量といったようなものは、相当場合々々によって実は変わるべきものでございまして、個人的にも差があるでございましょうし、民族的な差があるかもしれませんし、そのほか、いろいろなその方の健康状態とか、そういうことにいろいろ依存しておるべきものであって、一がいには必ずしもきまらないものであろうと思うのであります。しかし、それをきめずにおきますと、一切の話が非常に不安定になってしまいますので、一応
最大許容量といったような概念を設けまして、そこで線を引いて、それ以上は被爆させないようにする、そういう
基準というものを作るわけでございますが、それと同じようなことを、もし
損害という方についても適用するならば、何かこれ以上の
放射能を浴びた場合には、それは
放射能による
損害を受けたものと見なすといったような形に、もしなさいますならば、話がもう少しすっきりするんじゃないかという感じを受けるわけです。その点が
一つ。
それから、もう
一つは、
補償の方の
法律の第五条に「締結の時から当該
補償契約に係る
原子炉の
運転等をやめる時までとする。」ということがあるのでございますが、多くの
原子炉が十分長い間使われまして、そして、もう耐用年数が参りまして、そこで、もう
原子炉が使えなくなるといったような時期がくるだろうと思うのでございます。二十年なら二十年という年月を経て、そういう時期になるだろうと思うのでございます。そこで、おそらく、その
原子炉というものは、それを使わなくなってからどういうふうに始末するかということは、それまでの技術の発展によってどう変わるか、もちろん、今日から予想するということは間違いかと思うのでございますけれ
ども、しかし、
一つの有力な
考え方というものは、その
原子炉はそのままにしてほっておくということではなかろうかと思うのでございます。非常に莫大な
放射能が内蔵されておりますものを、それを始末しようといたしますと、かえっていろいろと困難な問題をみずから作り出すというおそれがないわけではないものでございますから、使い古しの
原子炉というものは、いわば、そっとほっておくのに越したことはないということがしばらくは続くのではないだろうかと思う。もし、そうであるといたしますと、
原子炉が使用済みになりましてからも、相当長い間、その中には、
原子炉が働いておりました場合と同じように、潜在的な大きさの
放射能を依然として持ち続けるわけでございますので、そういうものがどういうふうに安全に保たれていくかということは、やはり相当真剣に考えておかなければならないはずの問題だと思います。この条文の中には、もちろん、そういうものの跡始末まで含めて書いてあるのだろう、
意味はそうであろうとは思うのでございますが、
原子炉の持っている潜在的な危険性といったようなものは、その
原子炉が動いておるときだけではなくして、あとまでも長く尾を引くものであるという点を、もう少し明確になすった方がいいのではなかろうかという感じを受けた次第であります。
それから、これは私が申し上げるべき筋ではないのかもしれないのでありますが、いろいろこういう制度をお作りになります場合に、
国際的な視野というものがいつも大事な問題になるであろうと思うのでございます。
日本独自の
考え方で非常にいい
考え方が出て、それがたとえ
外国と違っておりましても、それで貫き通すということももちろん考えられるわけでありますが、
日本の
原子力に関する
考え方というものは、とにかく後進国でございますので、多くの場合、
外国の
考え方に従うという
考え方の方がいろんな
意味で無難であるということが多いだろうと思います。それから、
国際的にいろいろなことが通念とされてしまった場合に、それと変わった
考え方でもって物事を処置していくということは、いろんな
意味で非常に話がむずかしくなるということがあろうと思います。たとえば
最大許容量といったような概念は、非常に客観的な概念ではございませんので、
日本だけ特別な
最大許容量といったようなものを考え、あるいは概念そのものを変えてしまうといったようなことも考えられなくはないのでございますけれ
ども、
原子力というものは、ことにその安全性の問題は、実は国境を越えて考えていかなければならない場合が今後しばしば起こるだろうと思います。
原子力船がやってくる場合にいたしましても、あるいは出しましたその
放射能の雲が隣の国へ行くといったようなことを考えましても、
国際的視野でいろいろなことを考えていかなければならないだろうと思うのでありますが、こういう
損害補償というものの面におきましても、その
国際的なやりとりというものが相当大事な問題であろうと思うのです。そういたしますと、ここに作られております
法律が、今できつつあるよその国の
法律といったようなものと、どの
程度歩調を合わせていくかというような点を、さらによくお考え下すった方があるいはいいのではなかろうか、そういうような感じを受けるわけでございます。
非常に雑駁でありますが、この
法律をながめまして気づきました点を二、三申し上げたわけでありますけれ
ども、冒頭申し上げましたように、
原子炉の安全性を守るという観点から申しますれば、こういう
損害賠償の
法律を作っていただくということは、それ自身は、ぜひ必要な最後の安全性のだめ押しという
意味において非常に大事な問題でございますので、こういう
性格を持ちました
法律が早く確立されることを心から希望する次第でございます。