○
参考人(
伊藤道保君) 法政の
伊藤でございます。ただまいろいろ御
意見がありまして、
現行法を前提とされた上でのこまかい技術的な問題点についてお話があったわけですけれども、私の場合は多少観点を異にしまして、もっと基本的な問題からもう一度この問題を見直してみる必要があるんじゃないかと恐たものですから、こまかい点も触れれば幾らでも触れる必要はあるわけですけれども、一応、
最初に基本的な問題点を五つか六つにしぼって御報告申し上げたいと思います。
私は、実は数年前にフランスの
不動産登記制度がかなり大きな
改正が行なわれまして、——一九五五年に
改正があったんですけれども、——それを、機会があって調べることがございまして、その照会をしたことがあったんです。そのときにフランスの
登記制度について感じた印象から今度の
わが国の
登記制度の
改正を見た場合に、かなり基本的な点で問題があるような気がしたんです。ですから、まずその点を
中心にして、大ざっぱなお話で恐縮ですけれども、
最初は問題点を出してみたいと思います。
で、日本とフランスの場合、
制度を比較するという場合ですね、よく、つまり
物権変動の意思主義の原則を
両方ともとっているという点で、日本とフランスとは共通の——まあ
不動産登記制度の論理的前提は共通であるという点で、しばしば指摘されるんですけれども、そのわりには、つまり
登記制度それ自体が、フランスはどうなっているかということは、今まであまり論じられていなかったですね。これはどういうわけかということは、これはかなり本木的な問題がここにあると思うんですけれども、実は、御
承知のように、民法典全体としてはドイツ民法典をまあ模範にしておきながら、
物権変動の意志主義の原則に関してだけはフランスの
制度を模倣しているというところに、そもそも根本的な問題があって、そのために、
登記制度ばかりではなくて、この財産法の全般的な分野にわたって、かなりむずかしい問題、解釈論上困難な問題が起こっているということは御
承知だと思うんですけれども、
登記制度について言いますならば、やはり同じことが言えるんで、
登記制度そのものの論理的前提である意思主義の原則は、フランスをまねしていながら、
登記制度そのものは、まあどちらかといえばドイツをまねしているということがあったために、従来の
登記法の解釈についていろいろな困難な点がやはり生じている。そのこともありますし、それと同時に、今度はフランスの場合と日本の場合とでは、意思主義の点では同じだけれども、
登記制度の点についてはそういうふうに大へん違うから、あまり比較しても
参考にならないんじゃないかということも、従来あまりフランスの場合が問題にされなかった
一つの理由ではないかと思うんです。で、私も、ですからフランス法を見る場合には、直接日本の
法律にとって
参考になるということはあまり意識しないで、フランス法そのものを純粋に見てきたんですけれども、ところが、その
立場からたまたま今度の
改正の問題を見ますというと、つまり、フランス法で常識的に大前提とされ、あたりまえとされていることが、日本では全然違う。どうしても、そういう点で理解に苦しむという点がずいぶん多いんです。で、この違いが何を
意味しているか。同じ意思主義の原則で、こういう
制度もある、フランスの
制度もあり得るんだ、同時に日本の
制度もあり狩るんだ、どちらも近代的な
登記制度として
両方の建前が成り立ち得るんだということなのか。それとも、日本の
法律とフランス、どちらが合理的であるかということは、こまかいところまで論じなければ一がいには言えないかと思いますけれども、私の受けた印象では、かなり日本の
登記制度の方が
考え方としては古い。さらに
物権意思主義の原則との食い違いというものから、論理的な矛盾も至るところにあるんじゃないか、そういう気がしたわけなんです。で、そういう
意味で、こまかいところまで実は調べて見なければならないわけですけれども、おもな問題と感じたところを五つ六つにしぼって、これから御報告申し上げたいと思います。
第一点は、この
登記制度に対する根本的な
考え方の違いですね。この点が一番基本的な問題なんですけれども、これは、さしあたっての問題というのはこういうところにあるんです。つまり、日本で今度
職権主義という言葉が、
登記制度に説明をする場合に使われるわけですけれども、本来言うならば、この
職権主義などということは、
登記制度には
考えられないことなんじゃないかということなんです。具体的な例から話しますと、こういうことがあるんです。今度
改正されますというと、
登記所に預けている私なら私の
登記簿の
表題部が、私の知らないうちに取りかえられるわけですね。取りかえられて、そして税務署の課税
台帳がそれにくっつけられるわけです。そういうことは、本来、
所有者に断わりなしにはできないはずのものじゃないだろうかということなんです。このことを深刻に
考えますというと、いろいろな疑問点が出てくるのですね。お話を聞くところによりますと、全国で約二億二千万筆個の
表題部のすりかえが行なわれるそうですけれども、これを間違いなく行なわれるかどうかということの保障は、はたしてだれがしてくれるのだろうかということなんです。まあ
登記所の手数の
関係などから、七五%——実務の七五%までは臨時雇なんかの人を雇って、書きかえが行なわれているのだそうですが、もちろんその場合には、読み合わせなんかは何度もされるでしょうし、厳重に検査が行なわれるのでしょうが、しかし、その場合、第一に、この書きかえをやる人は、ほとんど
登記の実務には責任のない臨時雇の人がやるわけですね。で、どういう人が臨時雇になって入ってくるか、わからないので、ここに、悪く勘ぐれば、悪質な地面師のような人が入ってきて、そして変な書きかえをしないということの保証がはたしてあるか。全国で何万人の職員の方がおられるかわかりませんけれども、そういう人の中に、変な人が入ってこないという絶対的な保証はあり得ないのじゃないかということ、これが
一つ。
それからもう
一つは、現行の
登記の
表題部と、それから税務署の課税
台帳の
表示と必ずしも一致していないものもあるわけなんです。この一致していないものを、これはこの課税
台帳はこの部分に当たる、この
登記簿のこの部分に当たるのだろうということで、くっつけるわけですよ。これをだれがくっつけるのか。まあ間違いはないだろうということは、お役所の内部では言われるけれども、このくっつけられるのは
所有者自身の大事な
登記簿なんです。それが本人が知らないうちにくっつけられる、書きかえられるわけなんです。で、こういうことが常識であるように、常識で当たりまえの、大して問題でないと
考えられているところに、そもそも日本の
登記制度に対する一般の人の
考え方の根本的な間違いがあるのじゃないか。これは一般の人から見れば、まだまだ
登記制度というものは、
不動産取引の中にほんとうに滲透しておりませんので、中には、全然、ほとんど
登記もしないで、
不動産の売買をなすということすらあるようなんですけれども、そこに一般の人の意識と、それから
登記制度というもののズレがある。しかし、そのズレをいいことにして、しかし、一方では
登記というのは非常に
法律上大事な、強い効力を持っているものなんですから、そのズレというものを見る場合に、
登記の方が大事なものか、個人の
権利の方が大事なのかということですね。この点をやはり十分
考えた上で、
登記簿の取り扱いというものはしなきゃならないのじゃないだろうかと思うわけです。ですから、たとえば今度この書きかえられるということについて、役所の内部では間違いなくやったということをきっと言われるに違いない。しかし、
権利者の側から見れば、
表題部が変えられたということを聞くと、一度はやはり見に行きたくなるはずじゃないか。で、たとえ間違いがないと幾ら言われても、間違いがないということを最終的に確認するのはだれがするのかというと、これは
権利者自身以外に確認する人はいないはずなんですね。すると、それを確認するためには、どうしても
謄本か何か取らななきゃならい。ですから、私はもしこういうことをやられるならば、二億二千万筆個について、
登記簿の
謄本を作って、
権利者に全部読ますべきである。この
通り書きかえました、間違いがないか、確認して下さい、もし間違いがあれば、早く異議を申し出て下さいということを言うべきじゃないのでしょうか。おそらく全国の六一分の
権利者は、こういうふうに書きかえがなされるということを気がつかないでいるだろうと思うのです。これは気がつかないのは、先ほど申しましたように、
権利者は自分が住んでいる家や、自分の家が建っている
土地ですね、
土地は、自分がそこにいるから自分のものなんだと思っているわけです。
登記簿に書いてあるから、自分のものなんだとか、
登記簿によってどの程度に
法律上保護されているかということは、あまり知らないわけです。その事実を無視して、
登記所の内部の都合だけでこういうことをされるということの
意味ですね、そのことの背後にある
登記制度の
関係、そういうことが一番問題である。
このことをよくわかっていただくために、もう少し例を申しますと、たとえば本来の
登記制度というものは、個人の財産を安全に保管してくれるための国家の機関であるということが前提であるはずです。これは、たとえて言うなら、
銀行の貸し出しロッカーがございますが、ああいうものなので、あれは、動産をおもにあそこに保管するわけですけれども、これにたとえますと、
登記所は
銀行に当たるわけです。で、借りた人は、自分のロッカーのかぎを持っていて、そのロッカーの中には、たとえば貴重な宝石だとか、それから預金通帳とか株券とか
権利書とか、あるいは遺言書まで書いて、入れておられる場合もあり得るわけです。そうして、そのかぎを
銀行に預けているしというようなものだ、こういう例をちょっと思い浮かべていただきたいと思うのです。その場合に、
職権主義というのは、かぎを預かった
銀行の人が、本人に断わりなしにかぎであけてみるようなものじゃないか、そういう気がするのです。そういう
意味で、他人の、個人の私有財産の中で最も価値の多い
不動産というものを預かる国家機関としての
職権主義というようなものは、本来あり得るかということなのです。
職権主義ということでちょっとお断わりしておきたいと思いますのは、
職権主義ということと、
登記管理の書類や実体管理の形式や内容に対する
審査権ということとは、この場合本質的に違うということです。この
審査権というのは、いわばさっきのロッカーの例で言いますならば、こういうことです。私が、ある
銀行のロッカーを借りて、かぎを
銀行に預けてあるとします。自分でロッカーをあけにいきたいけれども、あけにいけない場合に、代理人をよこす。代理人は、私は
伊藤道保の代理人でございます、かぎをいただきたいと言ってきた場合に、
銀行側では、大事なロッカーを預かっておるものとしては、その代理人はほんとうに代理権があるかどうか、代理人本人であるかどうかということを調べなければならない、調べるためには、本人の家まで行くことも場合によっては必要でしょうけれども、電話で本人に問い合わせることも必要でしょう。そうして、その人はほんとうに代理人である、代理権を与えられていることに間違いないということを確かめるまでは、かぎを与えることを拒否することがあるわけです。これは
権利です。これは
登記史のいわゆる
審査権に当たる、大事な金庫番としての機能を十分に果たすための機能であるにすぎない。ところが
職権主義というのは、それとは逆になるわけなので、断わりなしにかぎをあけられるということになるのじゃないか、こういうことが、日本の
登記制度の根本的な
考え方としてあるということそれ自体が、この際、もう一度
考え直してみる必要があるのではないかということなのです。
で、私は、こういうことを感じましたのは、フランスではこういう場合、すべて自由主義精神をとるのです。これは
あとでまたお話ししますけれども、フランスでは一九五五年に大
改正があったのです。そのときに、
改正の
一つの技術的な大きな点として、原簿の保管に、原簿を参照するのに参照しやすい索引カードを作ったわけです。これは原簿には全然
関係ないんです。ただ、原簿の中の要点を索引に作って、ちょうど図書館の図書の索引カードみたいなものを作っただけです。図書そのものには手を触れないわけです。その索引カードを作ることだけでも、やはり自由主義精神で、
権利者の力から、たとえば抵当権の設定とか
所有権と移転とか、あるいはおやじがなくなって相続したとかというときに、
登記の
申請書類が出ますね。そのときに、その件に限って新しくカードを作るわけです。ですから、カードが作られたということだけでも本人に必ずわかるわけです。カードの内容は、もちろんそのときに、抄本か
謄本か取って見られるわけです。そうして、そこでカードの書き方に間違いがあれば、異議の
申請ができるということになっています。従って、非常に不体裁ではありますけれども、カードがほぼ全国的に完備するまでには、少なくとも一世代はかかる。つまり二十五年ないし三十年は少なくともかかる。そうして初めてカードというものが一応そろうということになるわけです。それでいいんじゃないかと思う。本来他人の財産を預かるだけのものであれば、それがほんとうなんじゃないか、そういうふうに思うわけです。そういう常識から見て、日本の場合、
職権主義というのは一体どういうことなんだろうかということが、第一に気になってくる点です。
それから第二の点ですが、これは課税
台帳と
登記簿を一本にするということですね。このことは一体どういう
意味を持つのか。これは、こまかい解釈論の問題がここから出てくるということもありますが、多少抽象的になりますけれども、一応ここでは基本的なものの
考え方ということからまずお話しておきますと、歴史的に見るというと、課税
台帳——つまり国家が
税金を取るための
台帳と、それから個人が自分の財産を保存するための
登記簿というものが分かれてきたというのが、近代の歴史の
方向なんです。迂遠な話になりますけれども、つまり封建時代などでは、
土地の所有、
土地の支配をAさんからBさんに移すということは、純然たる個人的、私的な
関係ではなくて、そのときの政治的な権力者に対する忠誠、服従のための意思
表示というものなしにはこれは行なわれなかった。つまり
土地の支配権の移転ということには、必ず権力者の承諾が要るし、また、そうして服従を誓うことによって、安堵せしめられていたということがあったわけです。ですから、
土地の売買には必ず権力が干渉し、そうしてそのことによって、同時に最も大きな財政収入の根源にもなっていたというのが、近代以前の社会における
不動産取引の
性格だったわけです。その
不動産取引に対する公権力の介入というものを排除して、完全に
不動産取引及びその公示
制度というものを、
公法と
私法との分離の上に立ったところの純粋な
私法の分野に限ったというところに、いわばフランス革命の意義があったわけなので、そういう
意味で言うならば、この
不動産取引から全く政治権力の介入を排除したということが、まさに革命の
中心的成果であると言っても過言でないくらいのものではないかと思うんです。それ以来、徴税
制度というものと、それから個人の私有財産である
不動産の
取引及び保存のための
制度というものとは、はっきり分かれてきた。分かれるのが当然のこととされてきたわけです。で、今度の
改正の場合を見ますというと、これは多分にやはり徴税機構が
登記簿におんぶするというようなところも感じられる。これはそのこと自体、かなり時代錯誤ではないかということを感じると同町に、また必ずしもそうではないが、やはり
登記簿に徴税機構がおんぶすることだって、
公法と
私法と別々に分かれていて、全然お互いに
関係ないということであって、その上でおんぶするというのならばまだわかりますけれども、今度完全に
帳簿が
一つになってしまうわけなんです。そうしますというと、まさに
公法と
私法との混淆になってしまうのじゃないか。ですから、
帳簿を一緒にくっつけるということは、少しも差しつかえないと思うのです。そのこと自体は差しつかえないと思うのですけれども、それによって、本来課税
台帳にだけしか
考えられないところの
職権主義というものが、純然たる
私法の機関である
登記簿に加わってくるということですね、内容が融合してしまうということ、このことが問題ではないかと思うわけであります。おそらくそのことさえなければ、徴税機構が
登記簿におんぶして、国家機関として個人の私有財産を
登記簿で保護してやるから、そのかわりに
税金もかけさせろということになるのは、少しも差しつかえないと思うのですが、それはお互いがはっきり
区別されているということを前提にした上での話ではないかと思うわけであります。それが、課税
台帳が同時に
登記簿の表題になるということであれば、以上言いましたような、そもそも
考え方自体が時代錯誤であるというばかりでなく、第三に、そこからいろいろ談論されておりますように、
表題部の
登記の
私法上の
性格いかんということが問題になってくるわけなんです。こういう無理な結びつけ方をするものですから、本来純粋な
私法的の
性格だけに限っておけば問題ないものを、そこにそんな
公法的の行為が加わってくるというと、その行為の
私法上の効果ということが、純粋の
私法の
立場から見て、説明がつかなくなる。これはいろいろ解釈はされるだろうと思いますけれども、説明つかないのがほんとうで、当然なんじゃないでしょうかという気持がするわけです。こまかい
議論は時間の
関係もありまして省略いたしますけれども、その点が第三の点です。つまり
職権によって
登記されたところの
表題部の効力が、以上言ったようなことから、非常にあいまいになってくるのじゃないかということです。
それから第四点として、今度の
改正の一番
中心の目的は、この
登記事務の簡素化にあると言われているわけです。第四点として
登記事務の簡素化という問題についてですが、フランスの場合を見ますというと、
登記事務はますます複雑化して、分化してきております。フランスの例を少し詳しくお話をしなければなりませんけれども、フランスでは、もともと
登記簿というものは日本は——
登記簿はドイツのまねをしているので、たとえば
所有権が、売買によって甲さんから乙さんに移転したという結果だけが、つまり
物権の移転だけが
表示されているわけですね。これはドイツのシステムなんです。これに対してフランスのシステムは、意思主義の原則を前提とするからには、民事上当然そうなるわけなんですが、
登記の内容というのは、売買契約なら売買契約のその内容を一カ条から全部転写されるわけです。抵当権設定
契約書そのままを転写される。そのまま契約全体が公示されるという方法をとるわけです。これは詳しくお話しする必要もあるのですが、本来、意思主義の、原則を前提とする限り、当然こうでなければならなかったのです。これをやらないで、ここの部分だけはドイツのまねをして、
権利の移転だけを
記載するということをやっているところが、そもそも日本では
両方のいいところをとったというつもりでいて、非常に矛盾したことになっているのです。そういうわけで、フランスでは
登記の原簿の内容は、一カ条一カ条全部契約の内容が写されているわけですが、それでは索引するのに非常に不便なわけです。だから今度この索引簿というのができたのです。索引簿というのは、先ほど申しましたように、図書館の図書の索引簿みたいのもので、三種類のカードができるのです。図書館の図書カードになぞらえて言いまするならば、
一つは著者名による索引薄、それから書名による索引簿、それから問題別による索引簿、この三
通りの索引簿ができている。それじゃそれはどういうふうにして
記載されるかといいますと、先ほど申しましたように、まず
権利変動があった場合に、
登記の
申請がありますね。それを受け付けたときに、それに関する部分だけこの索引簿を作るわけです。そしてその転写の仕事を一カ条一カ条全部原簿に書きます。それから
所有者票、
土地票、
不動産票という三
通りの票があるわけです。それぞれのカードに、この問題については第何冊目の第何ぺージに書いてあるという摘要だけを記入するわけです。この仕事は全部
登記吏員がするわけです。そうすることによって一般市民は大へんに便利を受けるわけです。Aさんという人の財産はどれくらいあるか、それを引けばすぐわかるわけです。あるいは何丁目何番地何号の
土地は、持ち主がだれであるか、抵当権がついておるかどうかということを調べようとすれば、すぐ引ける。非常に索引照合が便利になった。これは大へん市民に対するサービスですね。なぜこういうことをやったかという、もともとフランスでは、
不動産取引というのは、事実上、今までは
登記所の世話にならないで、実際は公証人が最も重要な役割りを果たしておった。事実上、
不動産取引は公証人の目の前で
契約書を取りかわし、現金を払うことによって、
所有権はそのときに移転したという
権利意識が実際当事者の間にあるのです。
登記所というのは、単なる国家がそういうものを作ってくれたから、仕方がないから載っけておこうというものであったのです。それがだんだん、それじゃいかぬからということで、これは経済
取引のそれからその後の発展段階に応じて、公証人の個人的な役割りだけではとうてい円滑に間違いなく行なわれ得ないということになって、もっと
登記所というものをちゃんとせねばいかぬということから、
登記所というものが整備されてきたわけです。そういう背景を持っているわけです。そこで、今まででも、やはり
登記所というものを知らないで、公証人の目の前だけで
取引した。公正証書か私署証書か作って公証役場に
契約書を保存してもらうわけです。それでもって
取引が終ったと思っている人が多いのですが、そういう人を少しでも
登記所の方になじませるために索引簿というものを作ったのです。ですから、これは大へんはサービスなんです。そのためには人員も、そこまでは私は調べてもおらぬのですけれども、相当ふやさなければできないはずなんです。そうなっていくのが、つまり
登記制度の進歩の
方向なんじゃないだろうか。それに対して、
事務の簡素化ということは、目的によって簡素化するということは場合によってはあり得るかもしれませんけれども、今度の場合は、むしろ簡素化といわれるよりも当然すべきことをしないで、手を抜くだけじゃないかという点ですね、そういう気がするのです。いわば会計
帳簿で言うならば、だんだん合評
帳簿が分化して複式簿記とか何とかなったが、大福
帳簿記にしてしまう。そうしてあいまいなところを、工合の悪いところを
職権主義でもってカバーしてしまうというようなことになるのじゃないだろうか。そういう基本的の
性格があるために、こまかいところになると、数限りないわからないところが出てくるのじゃないか。いろいろ
議論されるところが出てくるのじゃないかという気がするわけです。で、私こういうことを言いましても、このためにこういう問題とこういう問題とこういう問題があるという、全部を数え上げているわけじゃないのですけれども、今まで
議論されているところを見ますと、今言ったようなところから、根本的な原因が説明されるのじゃないかという気がするわけです。
以上言ったことは、つまり、
事務の簡素化はむしろ逆である。
登記制度の複雑化の傾向に逆行するということが第四点であります。
それから第五点は、構図ですね、それから課税
台帳と
登記簿との
関係ですね。で、先ほど申しましたように構図、課税
台帳というのは、
登記簿として本米全然別のものであり、そうして税務署が
職権でもって作ってきたものなんです。ところが、今度は、一方では
私法——私的
所有権を保護するための
登記簿の方では、やっぱり表題というものが要るわけです。表題を入れるのは、つまり
権利の客体を特定する必要があるから、特定する必要がある場合、何によって特定するかというと、さしあたって構図と
台帳以外にないわけです。だからこれをやむを得ず借りているわけです。ところが構図や
台帳というのは、御
承知のように非常にあいまいなもので、決して正確なものではない。しかしほかにたよるべきものがないから、構図や
台帳を基礎にして、およそあのあたりの、およそこの広さの、およそ何坪の
土地というふうなことで
登記簿の
表題部に書いてある。それ以上のことは言えないはずなんです。だから、実際は百八十坪である所が百五十坪しか書いてないという場合がしはしばあるわけなんです。それでもいいわけなんです。そのかわりに、
登記簿の
表題部の
表示というのは、ある程度以上
法律的な効力が強められない。つまり構図や
台帳があいまいである限りは、
登記簿に
公信力を与えたり、その
登記が効力要件になったりということはできないということになっている。これはフランスでもやはりそうなんで、フランスでは一八五五年に初めて近代的
登記法が制定された。それから百年目の、今までしばしば
改正されているが、一九五五年に
登記法の大
改正が行われた。百年たっていまだに、初めから論じられておりながら、
登記の効力というものが強くなされないのは、構図や
台帳が不完全なんです。構図や
台帳を完備するのには、御
承知のように大へんな費用なり、手間がかかり、一朝一夕にはできない。だから一歩一歩完成に近づけるためにということで、非常に慎重な
改正の手段をとっている。そういうものですから、そういう点を
考えますというと、構図や
台帳と、それから個人の私的
所有権の限界をきめるための
登記簿の
表題部と、直接くっつけることは危険が多い。あくまで別々のもので、離しておくべきである。離しておくということは、先ほど申しましたように、帳面の上で一ページ目が課税
台帳、二ページ目は
登記簿というふうにしてくっつけておいてもかまわない。
性格が全然違う。これは
公法上のものと
私法上のものは全然違う。
登記簿は、
表題部は別なんだということにして、
区別はすべきだ。
区別をしないというと、課税
台帳がそのままイコール
登記簿の
表題部になるということが、やはり根本的に危険を含んでいる、
考え方が違うんじゃないか、そういうふうに
考えるわけです。従って、技術的な土台の貧弱さ、つまり構図や
台帳があいまいであることの貧弱さを無視して、
登記の効力を強くすることはもちろんできませんし、私的
所有権の保護ということについては、従って慎重に課税
台帳との距離を置くべきだ。だから、不便ではあっても、
登記簿の
表題部を書きかえるときには、課税
台帳と直接結びつけないで、その間に証明書か何かでつなぐということはやむを得ないんじゃないか、そういうふうに思う。これはいまだにフランスではその
通りにやっている。ますます証明書は厳格になってくるばかりなんです。この点は、おそらく
不動産取引専門の業者ならば、こういうことは耐えがたいことになるかもしれませんけれども、しかしこれは
あとでも申しますけれども、
取引の安全ということと、
取引の敏活ということとは一緒にされてはならぬと思うのです。
取引をほんとうに安全にしようと思えば、多少手間がかかっても慎重にすべきである。この点をごちゃまぜにしていられるのじゃないかと思うわけです。これが第五点でございます。
大体おもな点、以上五つあげたわけですが、以上言ったようなことから、また二、三ただいま思いついたごとを補充いたしますと、今度の経団連の方の御要望のこと、主観的な趣旨はよくわかると思うのですけれども、今申しましたような
取引の安全というよりも、むしろ
取引の敏活のために
登記制度の本質にかかわるような問題に触れるべきじゃないんじゃないか。近ごろの
法律制度、司法
制度の傾向として、所有の安全から
取引の安全へということがスローガンみたいにいわれますけれども、しかし、それはまず所有の安全というものが完全に確立された上でのことなんで、私が今まで申しましたことからおわかりになると思いますけれども、
所有者の
権利の安全ということは、日本ではまだまだ不安定です。そういう
現状を無視して、所有の安全から
取引の安全に移るということが近代法の傾向であるというようなことで、実はこれは
取引の安全ではなくて、
取引の敏活にすぎないということが取り違えられておる。これも大へんな間違いじゃないかと思うわけです。ですから、日本の
不動産の持主、頭数からいうならば、持主のおそらく九九・九%までは、人に売るために
土地を興うのじゃない。自分で直接利用したり、その上に住むために
土地を買い、家を建てるわけです。まず、そういう人たちの
権利を完全に保護するために万全の措置をするということをした上で、その上で
取引の安全をはかるべきである。その
取引の安全のために、ある程度やむを得ず所有の安全というものを犠牲にしなければならない。そういうぎりぎりのところで、初めて
取引の安全ということが言えるわけです。ところが現在、おそらく、私は存じませんから、こういうことを断定的には申しませんけれども、経団連の方の御要望の中の実質的な
一つとしては、不動度
取引業者あるいは店頭業者、そういう人たちは、
取引はしょっちゅう日常のことですから、それが一々税務署と
登記所の間を行き来するのは大へんだ。だからそれを省いてほしいという御要望があったと思いますけれども、それは
取引の安全のためではなくて、
取引の敏活のためにすぎない。これは所有の安全を犠牲にしてまでも行なうべきことではないのじゃないか、こういうふうに
考えるわけです。
それからもう
一つ、メートル法への書きかえのためにという理由が、どこかで言われているようですけれども、メートル法の書きかえということも、私は今後の
表題部の書きかえみたいに、一ぺんに全国一せいにやる必要は少しもないのじゃないか。やはり自由
申請主義で、
登記の変更の
申請をやったときに、そのときにその部分だけ坪からメートルに書きかえればいいことなんで、全部の
登記簿がメートルにかわるのは、少なくとも一世代
あと、二十、五年から三十年
あとということであっても少しも差しつかえないのじゃないか。そういう形式的なことを、体裁を一年、二年で急いで整えるよりは、そのことによって
所有者が不安な気持になることの方が、より大きな損失ではないか。民法典を見れば、民法典はかたかな、ひらがな、ごっちゃですから、そういうたぐいのことではないだろうか、そう思うわけです。何もこれはお急ぎになる必要はないのじゃないかという気がするわけです。
従って、結論的に申しますならば、私は日本の
不動産取引における
登記所の役割というものは、まだまだほんとうに大衆になじんでいないので、こういうことは、ちょうど道路交通取締規則の左側通行から右側逆行みたいに、人の知らないうちに、なれないうちに勝手に左から右に変えてしまいますと、普通、人は道を歩くときに無意識に歩いているので、けが人がたくさん出たりする。それに類したことではないか。従って、むしろそういう急いで、机の上だけで
考えて体裁を整えることを急がれるよりは、民衆の
取引慣行がどういうふうに成長しつつあるか。近代的な法典というものは。まだまだ日本の民衆にはなじんでいないということは、御
承知の
通りであります。その中で、日本的な
取引の慣行というものがどういうふうに育ちつつあるか、こういう
意味で、先ほど
堀内さんの方からお話のありました、保証書の利用とかというようなことも注目すべきことかと思いますけれども、そういう
立場から、もっと
取引慣行というものを忠実に調べ、それを育てていく。その土台の上に立って近代化していくということを
考えるべきじゃないか。こういうことで、
登記法を
改正したりする場合のものの
考え方が、役所の窓口の内側からものを見る場合と、窓口の外側からものを見る場合と、感じ方が逆だというのですね。むしろその場合、役所たるものは内側だけからものを見るのじゃなくして、外から
権利者側の
立場に立って見るべきじゃないか、これが今度の
改正の基本的
方向であるべきである。そういう
意味から言いますと、少なくとも今度の
改正は基本的な部分において逆行しておるのではないか。たとえば、まさに課税
台帳そのままを
登記簿そのままの
表題部にするということのために、幾らお金を使うかしれませんが、将来、必ず、分割するためにお金を使わなければならぬことになるのじゃないかという気がするわけです。
大体、以上が私の申し上げたいことの
中心的な点でございます。